「大地の歌」への参照2件(ジャンケレヴィッチ『死』、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』)
些か意外に思われるマーラーへの参照を2つ。
(1)常にはマーラーが、否定されるためだけに参照される、ヴラディミル・ジャンケレヴィッチの著作において、管見では唯一ネガティブでない参照が『死』(邦訳:みすず書房、仲澤紀雄訳、1978)の第2部「死の瞬間における死」の第3章「逆行できないもの」の9.「訣別。そして短い出会いについて」に確認できる。邦訳では352ページ。
いつものジャンケレヴィッチの調子で、どこから引用を始めたものか、どこで終りにしたものか、決め難いが、ジャンケレヴィッチでは程度の差はあれ馴染みの固有名に交じって、ここで参照されるのは、文脈からいって他ではありえない『大地の歌』である。唐詩を素材としたNachdichtungであることを意識してかどうか、詩人の名前は参照されない。あろうことか、参照されている音楽作品の中で、私が唯一知っているのが『大地の歌』であることも付記しておくことにする。
それにしても何故、ここで一度きりの参照なのかについての詮索は今は控えて、事実のみを記しておくことにするが、一言だけ言えば、それはこの作品が、そうした例外的な出来事、つまり「死」を扱っているからなのは間違いない。「ただ…のみが、絶対的に開かれた…」という言い方が、ジャンケレヴィッチのレトリックの中で例外的なトーンを帯びているように。(「夜の音楽」におけるシューマンの役割を思い浮かべること。そう、シューマン。そしてロマン主義。マーラーが、カフカと同様、ドゥルーズ=ガタリ風には「マイナー文学」ならぬ「マイナー音楽」として規定されうること、、、ジャンケレヴィッチの些か極端なドイツ嫌いにあって、マーラーは格好の標的なのだが、実は彼は「三重の意味で故郷がない」のであって、そうした人間の「大地」がここでは問題になっている、、、)
(2)専らシューマンへの参照ばかりが言及されるドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』(邦訳:河出書房新社、宇野邦一他訳)の第11章.1939年―リトルネロについての中で、ロマン主義と大地についての文章のさなかで、突如として『大地の歌』が参照される。文庫版の邦訳では中巻の377ページの末尾から。
そして続けて突然、話は第3交響曲に切り替わる(けれども、―ここではこれもまた、論証抜きで記しておくだけにせざるを得ないのだが―、勿論それは結局のところ、6楽章形式を持つ2つのマーラーの作品に存在する連絡通路、まさに地下茎の如き連関の存在を証しているのだ。そして第3交響曲に因んで述べられた「世界を構築する」ことが、『大地の歌』においてはどうなのかを語ろうとしたとき、そうすることで第3交響曲で言われた「世界」がどのようなものであるのかが明らかになるだろう)。
それからベルクが参照され、ワグナーが参照され、と、一見したところマーラーへの言及は一瞬のものであったかに見えて、実はそうではない。しばらくすると再び(中巻の380ページ)、
ここで注が付けられる。そこで本文はここまでとして、注を見てみよう。同じく中巻の436ページ。実は上記の本文は『大地の歌』を念頭に書かれていたのである。
シューマン、そしてヘルダリン。ドイツ・ロマン主義について言えば、もう一度、マーラーが「マイナー音楽」であり、「三重の意味で故郷がない」ことを思い起こし、そこから逆にシューマンへ、ヘルダリンへと折り返さなくてはならないのだろう。
だがここでは一旦、参照への目配せに止めざるを得ない。
(2018.7.1 執筆・公開, 2024.8.29 noteにて公開)