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「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」についてのメモ

第93回情報処理学会音楽情報科学研究会 招待講演
「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」
2011年12月11日首都大学東京日野キャンパス

アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性という題名は、アルゴリズミック・コンポジションが 「神に見放されない」ための方法としての可能性ではあっても、それだけでは不十分であるという事態を 告げているのではないか。逆シミュレーション音楽は、単なるアルゴリズミック・コンポジションが、 神話の代補たりえない点を補い、そのことによって神話的な象徴が最早不可能であることを 告げているのではないか。講演中で言及されている通り、任意のアルゴリズムを恣意的に選択し、 パラメータを替えるだけでは不充分なのだ。神話の構造が群論でモデル化できたとして、抽象化の 結果であるその具体的で個別的なモデルそのものは何も意味しない。一見したところ、音楽外にさえ 見える「由来」が求められる理由はそこにある。それはデリダ的な意味合いにおける「パレルゴン」なのだ。

逆シミュレーション音楽では由来は「命名」によって仮構される。それは構造上、常に「…という夢を見た」という 括弧の中に入れられてしまう。括弧入れによって、由来は自らを否定し、神話の復活の不可能性を宣言する。 だが、まさにそうすることによって、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが逆説的に可能になるかのようだ。 否、それも常にそうであることの保証ではありえない。しかし、機械と人間が不可分に一つのシステムの構成要素で ある現在、かつての「人間」のための音楽とは別のものでなければ、3.11のような出来事に対峙することは できないだろう。「崇高」に対峙することはできないだろう。「神に見放されない」でいることはできないだろう。

継承されてきた伝統芸能が今なお力を喪っていない事実を確認した上で、例えば、過去の宗教や神話を 渉猟して組み合わせた自然中心主義の哲学の構築が今更のように求められているわけではない。 神話の再発明など哲学者の頭の中での思弁に過ぎない。別の方法はきっと可能だと言い切られは するものの、具体的な方法が一つとして提示されるわけではないし、別の方法の選択によって生じる帰結に ついて、具体的な影響を蒙る他者の各々に対して生じる筈である責任を引き受けた発言とも 思えない。具体的な方法を考えて実行するのも他人なら、責任も具体的な方法の立案者・実施責任者に 帰属するということなのだろうかと怪しむ人がいても不思議はない。その思弁は、現実を構成し、 規定するシステムと、それを支え、時に暴走させもするテクノロジーに対しての具体的な感覚をまるで 欠いているようにしか感じられないし(再び、それは専門外、担当外だから、専門家、担当者に丸投げということだろうか? だが、それは三輪さんが「中部電力芸術宣言」において異を唱えた態度そのものであることを思い起こそう)、 そもそもが、今つきつけられている事象によって惹き起こされている「崇高」についての把握に関してもまた、 決定的なギャップを感じずにはいられない。

そうした哲学が必要なのは、まずもってその必要性を唱導する哲学者自身であるということはないのだろうか。 そうした姿勢自体に対して、哲学の外部こそが寧ろ問題になっていることに対して頬かむりを決め込んでいると 感じる人がいても私は不思議には思わない。そしてそうした挙措は寧ろ、端的に最早神話の神が不在であること、 それが復活することがないということを告げているとさえ言えるだろう。そうした挙措に対して感じるのは、 人間は結局のところ主観の経験の側からしか出発できず、感覚の檻から逃れることができないのだという 実例を見ているかのような感覚である。


カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては 「美と崇高」が対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、ふさわしい表現がないことの 感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることができると述べる(「判断力批判」第23節)。 この最後の部分でカントは間違っているというのは簡単だ。だが「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが 端的に不可能ではないとしたら、どのようにして可能になるのか。カントの崇高について、ヘーゲルは「美学講義」の 「崇高の象徴論」において批判的に展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは表現に相応しい 対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが 主観の側からしか崇高を見ていないことだが、カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しているから これはある意味で立場の問題だし、ヘーゲルの立場がそもそも可能なのかと問うこともできるだろう。 いずれにせよ、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことは無限と有限の間に架橋することに他ならず、 カントもヘーゲルも主観の側からはそれは「不可能」だという点では一致しているように見える。

「芸術は感覚を越えたものを感覚に媒介する行為」という言い方はだから、幾つかの点で今の私には 気持ちの悪いものに感じられる。まず「媒介」がそもそも不可能かも知れない、つまり芸術がそもそも不可能かも 知れないというニュアンスが、これだけだと落ちてしまう。しかも、ここでは方向はヘーゲル的に、客観の側からと読めるのに、 「行為」という恰も主観的な方向からの運動であるかのような言い方になっている(またしても、「誰」の問題だ。ここでは 表面上には出現すらしない、あの「われわれ」とは誰かという問いをここでも再びしなければならないのか?)。だが 結局のところ人間は、生物である限り感覚的なものや情動から離れることはできないし、それを否定したところで無くせない以上、 それをカント的な「理念」と呼ぶにせよ、知覚の受容の来歴の痕跡が産み出す内的な幻想と呼ぼうと、「人間」(やはり括弧つき とは言いながら、けれどもこれは必ずしもかつての「人間」ではないだろう)である限り、主観の檻から完全に逃れることは できないのではないか。

カントが「崇高」は自然における対象そのものの表現としては正しくないとさえ言っていることに注意しよう。 彼にとって「崇高」は理性の理念なのだから、ある意味では当然であるが、そうした論理的一貫性や無矛盾性が 問題なのではなく、「崇高」を構想力/想像力に関わるもの、しかも構想力/想像力がそこで挫折する躓きの石 として捉え、それが感覚的な限りでの自然ではなく、非感覚的な「無限なもの」に向かっているという点、 最早そこから先では美的なものではなく、倫理的なものが問題になる限界点において「崇高」を捉えているという点が重要なのだ。

だが、だとしたら、上記の芸術の定義は、結局のところ「美」の圏内に自閉しており、「崇高」が「美」を、もしかしたら 「芸術」を越えるかも知れないという部分は、都合良く端折られているように私には思えてならない。そして、そうした 定式からは三輪さんの活動への補助線を引くことは酷く困難であるように感じられてならない。


その一方で、超越を否定し、内在の優位を主張する立場は、その内在の、そう語る己にとっての超越性を都合良く無視しているに 過ぎない。俯瞰できる己の立ち位置を都合良く忘れているに過ぎない。理念を手前、始点に位置づけ、内部に、無限小に 持っていくのはパースペクティブを転倒させただけで、それならば例えば、その中で視点を変えた記述を重ね合わせることができる ホワイトヘッド的な枠組み(彼はそれを物理学の理論に相当する仮説のごときものとして提示してさえいるのだ)の方が、 システム内での理念の位置を正しく位置づけることができている。その手前は消去され、語りえないという点でそれは「超越的」である他ないし、 内部とはいえ、それは中に穿たれた外部の如きものなのだから、やはり「超越的」である他ない。例えば内側への超越があっては 何故いけないのか?ドゥルーズのように肯定性をスローガンのように断定的に主張することがそれ自体、 転倒したルサンチマン、自身が忌諱しているはずの振る舞いそのものであるということはないのか?そこでは他者は可能的なものに過ぎず、 自己の成立の条件として「しか」見做されない。個別的な、出会われるべき他者は予め排除されているかのようだ。 そして個体化の裏面としての死もまた。存在しかつ非存在である潜在性の空間では、存在でも非存在でもない「幽霊」が出現することはできないだろう。

経験的な水準においてすら、たとえば人間の感覚を超えた極微のスケールを扱う量子論以降の 理論物理学の描像に、そしてそれが宇宙論的な極大のスケールと繋がっている事態を、「崇高さ」を、「超越的」なものを 感じてはならないのか。それは単なる思い違い、錯覚だというのか。分野を限定して、原子力災害への関わりが深い核物理学の 扱うスケールにしても、人間の寿命を遥かに超えた半減期と、人間が見ることのできない極微のスケールでの反応の両方が 存在しているのだが、そうしたことに対して「崇高」さを感じてはいけないのだろうか。

必要なのは「理念」に対して見せかけの換骨奪胎を施して、それを手前にある「問題」として未規定性やら多様体やらとして規定(だが、 どんな?せめてそれは、規定たりうるような厳密性を備えた、比喩的なイマージュをスローガン的に撒き散らす以上の「肯定的」な「理論」 たりえているだろうか?その水準にすら達していない、単なるナンセンスではないだろうか?)してみせることでは全くない。 それが発生の理論であるならば、「構造」と「生成」の対立を難じても仕方なく、 寧ろある構造から新たな構造が生成していく過程の具体的な様相の複雑さを適切な語彙をもって記述し、「境界」の構造の複雑さを記述するための モデルを提示することの筈である。異なる概念のありうべからざる混同も、脈絡なく撒き散らされる唐突な断定も、「~でもなく、~でもない」式の 否定神学的な言辞も、既存の道具を使いこなす能力の欠如、道具を発明するための能力の欠如を告げているようにしか見えない。 数学的な道具立てをせいぜいが曖昧極まりないイマージュとしてしか扱えないのは、能力と、それこそ「想像力」の欠如の問題でしかない。 具体的な記述の改善、洗練に向けての努力をそっちのけに、実は不適切な語彙で不正確に、曖昧にしか語りえないという事態に由来する 言説のわかりにくさが持て囃されれば、そこに「知の欺瞞」が生じるのは避け難い。

そして潜在性からの創発を持て余した挙句、機械における組合せの連鎖のイマージュに、あるいは結晶や地層といった無機的なイマージュに 逃げ込むのは、人工知能や人工生命をはじめとするテクノロジーの現場の感覚、あるいは非線形の数理や非平衡系おける対称性の破れを 扱う現場の感覚にまるで逆行しているとしか感じられず、理論を構築する場としてのそうした哲学の無力、それを唱導する哲学者の 「想像力」の欠如と無責任を端的に示しているようにしか見えない。 (例えば解析の容易性から研究が進んでいる微分可能系、連続系に対し、漸化式、離散系の挙動を研究することは興味深いだろうが、 それならそれで、事後的に(後出しジャンケンであることを承知で)「俯瞰」してみれば、ドゥルーズの持ち出した微分概念は、メタファーとしてさえ 相当に的外れだったということになるのだろう。そもそもカオスやフラクタルなどについて言えば、離散か連続か以前に微分不可能性がキーと なっている側面すらあるのだから。そしてそれがメタファー以上のものであるとするならば一層問題は深刻で、スローガンに示された企図に 対する理論上の実質的な貢献が一体何だったのか、訝しく感じる人がいても不思議はない。百歩譲ってメタファーとしてであれ、 選択は妥当だったのだろうか?そしてこれらが本当に企図されたものと本質的に関係するのだろうか?世上顕揚される新しさは 一体どこにあるのか?意図が含む価値は置くとして、具体的な理論の詳細については全く見当はずれの着眼であり、「理解するのではなく、 利用せよ」というプラグマティスムの掛け声とは裏腹に、そもそも利用したくてもできないような代物ではないのか?創造としての哲学を取り戻すという 掛け声とは裏腹に、己の実践においては、そもそもその企図は全く別の枠組みでなくては達成できない類のものではなかったのか? 例えば寧ろ、新しい数学的な道具が必要だったというようなことはないか?)

そうした挙句の果ては、辛うじて実質的でありえたかも知れない理論的な枠組みを放棄し、かつては批判的な道具と いう目的が限定された手段であったかも知れないものが何時の間にか基礎付けの部品になりかわるという単純化による自閉でしかない。 差異を称揚する一方で、文脈もお構いなしに哲学上の 様々な概念を接続を断定的に行い、それぞれの分野の現場では峻別される概念の定義上の区別や正確さへの拘りに対する 配慮もなく短絡させるといったような、まるで現場の人間を侮辱するかのような振る舞いはどのようにして正当化されるのか。 「想像力」の機能たる縮減の効果であるらしい「横断」が一方的になされたとき、それが一体何をもたらすのか、 差異の「肯定」の結果するところは差異そのものの縮減ということにはならないのか、結果を見る限り極めて 疑わしいと言わざるを得ない。

そうであれば今一度、超越の拒否は単に他者性に対する感覚の欠如を告げているに過ぎない。必要なのは超越が生じる限界の 構造を出来るだけ具体的に、的確に記述するための語彙(勿論、数式、反応式、図式を含む)であり、不適切な語彙を積み重ね、 独りよがりなイマージュを気儘に撒き散らしても、それは彼の能力の限界を示し、彼の主観の檻を浮かび上がらせるだけで、 哲学者自身が抱える蒙昧さから逃れることはできない。結局、そうした言説は多分に政治的と呼ぶほかないアジテーションにしかならず、 そうした人間自身が知的遊戯、ゲームと化した言説空間を歎き、哲学を擁護するのは、もう一度、己の背中を見ることの困難さを 証言する事態にしか見えない。


例えば「崇高さ」について、原子力災害を津波や地震のような自然災害の延長線上で論じてしまっていいのだろうか。 一方では、感覚的なものを超えたものでありながら、(再びカントを参照しつつ述べれば) それは直接的には数学的でも力学的でもない。放射線は目に見えず、そもそも直接的には感覚できないのだ。 だが、その影響は身体に刻印され、一定の量を超えれば、時を隔てて致命的な影響を及ぼすかも知れないから、 そうしたかたちでの人間の制御を離れてしまった力の露呈の(測定機器などの道具を介した)認識に、 あるいはその露呈の可能性の認識に対し、「崇高」を見出すことはできるかも知れない。もちろん直接的な 情動には結びついていないが、測定機器が数値に対して強い情動が惹き起こされるような回路が二次的に 構成されるということはあるだろう。他方でそれは、紛れもなく人間を含むシステムの内部で起きているという 意味で「自然」ではなく、人災なのだ。

だがそれを言えば、津波や地震の災害の方も、それらを単純に「自然」に帰属させ、人間の力が及ばない 威力に「崇高」を見出だすという点に終始して事足れりという訳にはいかないというのが、現代の状況ではないのか。 災害の予知、警報システム、避難場所の選定や避難手順の策定といった点においては、それらは原子力災害と 異なるところはない。そして感覚的なものの方はと言えば、テクノロジーに支えられたメディアによって、津波の映像が、 それを直接経験した訳ではない人間にも突きつけられ、制御できない情動的な反応を惹き起こしかねない。

だとしたら、そもそも津波や地震に「崇高」を見出すのは既にカントの時代に行われているが、原子力災害は そうではないという対比自体、上述のような状況の下においては不充分ではないのか。しかもまた、 それでいてなぜ原子力災害に限って、人間中心主義の乗り越えという「物語」が繰り返されるのか。(ところでそれもまた 「頑張る物語」ではないのだろうか。) 寧ろ津波や地震の方が制御が困難であって、原子力災害の方は狭義での「技術的な」問題として対処できるからこそ、 「物語」を持ち出せるという倒錯がそこには潜んではいないだろうか。一見したところとは逆に、テクノロジーの介在なしには 知覚することも操作することができない原子力の方が、否定して代替の可能性を求めるにせよ、近視眼的な否定を 戒め、それを受容する可能性を探るにせよ、現在の人間にとっては把握しやすいものであると思いなしていると いうことはないのか。(とはいえ、ここでもまた、別の方法をはいくらでもあると言われるだけで、具体的にどういう方法がありえるかの 提示は何一つとしてされない。「頑張らない」方法を探すべきだという発言も、現場でぎりぎりのところで異様な現実に 対処するべく「頑張らざるをえない」立場におかれ、実際に自分の持分を果たすべく頑張っている人間が置かれている 状況を目の当たりにすれば、虚しくしか響かない。) 人間中心主義の乗り越えが「有用」であると見做されるのは、むしろ原子力災害の方であって、津波や地震の方が 人間にとって把握しがたいものであり続けると見做されているからということはないのか。ここでもまた、現実を構成し、 規定するシステムとそれを支え、時に暴走させもするテクノロジーに対しての具体的な感覚をまるで欠いているようにしか 感じられないし(それは専門外、担当外だから、専門家、担当者に丸投げということだろうか?だが、それこそ三輪さんが 「中部電力芸術宣言」において異を唱えた態度そのものではないか?)、そもそもが、 今つきつけられている事象によって惹き起こされている「崇高」についての把握に関してもまた、 決定的なギャップを感じずにはいられない。


三輪さんは感覚のレベルに留まる音楽を拒絶すると同時に、実践のレベルで「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことの 困難も意識している。そしてその困難は、芸術一般のそれでもあり、同時に、現在おかれている上記のような状況に 直面したときのそれでもあるだろう。癒しの断念も、レクイエムが書けないという発言もそうした背景の中で聴き取るべきなのだ。

そして他方でアルゴリズムとコンポジションの結びつきを「あり得ない」と感じつつ、でもそこに可能性を見出しているのは、 それが一見不可能にさえ見える「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことを可能にするかに見える方法の一部(繰り返すが それだけでは不十分なのだし、三輪さんはそれにも気付いていて、だから「逆シミュレーション音楽」に辿り着いたのだ)を なすからなのだろう。あるいはまた、「芸術は役に立たない」という規定もまた、一面においては一般的な意味における 有用性の水準での発言であり、「感覚を越えたものを感覚に媒介する」効用の可能性を否定しているわけではない一方で、 「感覚を越えたものを感覚に媒介する」ことが「芸術」には不可能な限界的な状況があり、そして敢えて逆説的な言い方をすれば、 「芸術」が有用であるとしたらそれは「芸術」が役に立たなくなるようなそうした瞬間において、まさに役に立たないということに よってそうなのだ、ということでもあるだろう。


だとしたら、墓は誰のためのものであったのか。「フレディーの墓」は正しく「命名」されたと言えるのだろうか。だが「クープランの墓」 だって、そう名付けられたものの、戦没した友人の「墓」ではなかったか。「フレディーの墓」は誰の墓なのか?共産主義運動に 殉じた者への?共産主義運動を僭称した恐怖政治の犠牲者への?これは自動音声合成による機械の歌唱による追悼の 不可能性を反語的に示しているのか。「逆シミュレーション音楽」が、音楽として成立するために 「由来」を必要とし、更に人間による「演奏」を必要としている点を逆光の効果のように浮かび上がらせているのか。
「フレディーの墓」においても、フォルマント兄弟による「演奏」という契機が必須であるはずなのに、「お化け屋敷」では自動演奏が 行われていた。人間の演奏の映像という幽霊と、実在する機械によるライヴの自動演奏。人間による追悼の不可能性を 証言するかのような。喪の不可能性、レクイエムを書くことの不可能性を告げるかのような。「永遠の光…」のあの前半部分、 「音楽」の不可能性の否定的な表現であるかのようであっても、だが、そこではCD Playerに合わせることしかできなくても、 指揮者がいて、演奏者がいた。あるいはその他の大勢の演奏を禁じられた演奏者がいた。そのようにして、そして後半では 「逆シミュレーション音楽」のように、ただしここではプログラムの実行結果であるアルゴリズムの描く軌道を「演奏」することによって、 「音楽」は成立し、「レクイエム」が演奏されたのではなかったか。今、ここではそのようにしかあり得ないような異形の姿であったとしても。
「フレディーの墓」には超越性が欠如している。喪に服する人間の、己もまた今よりのち 死すべきものであるという有限性の認識が、そしてその結果として「崇高」なものの認識が欠けているようにしか思えない。そして、それがないところに 死者の眼差しはあるのだろうか。ここでは無限なものと有限なものの、媒介不可能なものの不可能な出会いは、不可能なものとして、 仮象としてすら存在しない。幽霊的なあり方自体がここでは禁じられているのだ。死者の眼差しもまた。そして勿論、そうした状況の証言、 象徴的な表現としてであれば、「フレディーの墓」は成功しているといえるのかもしれない。まさに「墓」たることに失敗することによって。
あなたを追悼する人間は最早いない。自動音声合成による歌唱を反復する機械があなたの「追悼」を行うだろう。(あなたがそれを 「追悼」と認めるかどうかはわからないが。)電力が続く限りは。電力の続く限りにおいて「永遠の光」は途絶えないだろう(あるいは「永遠」という言葉は、 ここでは何らかのカント的な意味合いでの理念などではなく、このように定義されているのだろう)。 そもそも人間とは生物学的に耐用年数が定められた、極めて不具合の多い機械の一種の名称ではなかったろうか。 だとしたらここには「芸術」は存在しない。「感覚を越えたものを感覚に媒介する」それも、死者のための、死すべきものという 自己認識をもった生者のためのそれも。そもそもそこには生者がいないのだから。あなたは予め幽霊的な 存在なのだ。だからそれはあなたの墓ではない。あたなの墓はもうないのだ。あなたは幽霊でしかありえない。


「逆シミュレーション音楽」は、アルゴリズミック・コンポジションの不可能性を告げ、同時にアルゴリズミック・コンポジションをその一部とした 音楽の可能性を告げているように思われる。それは神話的思考が最早不可能であるという認識の下、無限なものの肯定的な象徴表現が 最早不可能であるという認識の下、人工物に取り囲まれ、人工物とともに生きる他ないという状況の認識の下で「神に見放されない」ための 「方法」、可能な「奉納」の仕方なのだ。それを「芸術」と呼ぶかどうか、「音楽」と呼ぶかどうかは恐らくは人それぞれだろう。 人は未だかつて「芸術」と呼ばれたもの、かつて「音楽」と呼ばれたものをそう呼び続ける習慣の裡に生きている。そして恐らくそこにしか「美」はなく、 (逆説的だが)「聖なるもの」もないのだろう。

だがそもそも、「芸術」は神的なものへの導きなどではない。そして神的なものに関わるのは、「神から見放されない」という点に関わるのは、 「芸術」によって到達し、だが「芸術」が「芸術」でなくなる瞬間、美的な側面が無効になる瞬間においてでしかない。美的なものは 生物である限り、感覚的なものであれ、理念的なものであれ、それらが惹き起こす情動から離れることはできない人間という生物個体の ホメオスタシスの維持機構の産物であるという来歴のいわば遺物なのだ。神的なものは、単に到来する。到来は、他なるものの到来、 自分を超越したものの到来であり、神と人とが分離されたものである限りにおいて、倫理的なものでしかない。そこでは享受ではなく、 美も、聖なるものもなく、歓待が求められる。構想力はそこで決定的に挫折する。だがそうした構想力の挫折の瞬間を標し付けるものが 「崇高」ではなかったか。「崇高」は、いわば主観の側からの最期の展望なのだ。

「芸術」は「奉納」として自己を否定しつつ、その場を用意するが、(思えば当然のことだが)神の到来を保証するものではない。 個別に生じた結果(それは作品そのものかも知れないし、その作品の演奏かも知れないし、その作品の享受かも知れない)は単なる行き止まり、 崩壊に終わることもあるだろうし、或る種の閉塞と排除、自己疎外に終始するリスクを否定することはできない。そしてそうした隘路を潜り抜けた としても、それを可能にした構想力/想像力は挫折を運命づけられている。

とはいえ、「場」を用意するのは、潜在的なものを、仮想的であれ実現するのは、「芸術」というよりは「技芸」の、「音楽」というよりはより広く、 「制作」(ポイエーシス)によってでしかない。それは新しいタイプの出来事が出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、 ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた物理学的、化学的、生物学的、社会学的過程を支える 数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が生成しうるような仮想的な場を 用意することなのだ。そこで生じるのは既存の存在の分類からすれば、或る種の畸形と見做されるかも知れないもの、 だが寧ろ生物学的な比喩を導入して「異型発生」と呼ぶのが相応しい出来事なのだ。構想力/想像力は自分の把握できないものを 産み出すために行使されるのであり、そのようにしてしか窒息状態にある現実からの恢復の可能性はないのだろう。

三輪さんの制作の軌跡は、おしなべてそうした「場」を用意することに存しており、そしてそれは今、ここで、そうでしかありえないかたちで達成されている。 その営みは、美を、芸術を絶対視せず、制作行為そのものを通じて、現実を構成し、規定するシステムとそれを支え、時に暴走させもするテクノロジーに 対しての具体的な感覚を喪わず、かつまた、死者の眼差しを意識するだけでなく、己もまた今よりのち死すべきものであるという認識にたったものなのである。 それは癒しを断念し、レクイエムなんか書けないと言いながら、受け止めたものに限りなく忠実であるが故に異形のものである他ない作品 (それは最早人間「だけ」のものでないが、それが「音楽」である以上、 人間や動物たち、あるいはより広く生物のものであり続けているし、それゆえ人間のもの「でも」あり続けているのだし、そこには或る種の癒しを、 冷徹な現実認識や気付きとともに見出すことすら可能である)を創りあげた作曲家のそれである。 「アルゴリズミック・コンポジションの(不)可能性」は、そうした達成に裏付けられたものなのだ。

(2012.1.8/9初稿, 1.22/23/24修正・加筆, 2024.7.10 noteにて公開)

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