フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについてのメモ
最初にお断りしておくが、私は「フレディーの墓/インターナショナル」という「作品」が提示していると私が感じ取り、あるいは認識しているものの意義の 大きさについて確信しているし、以下のような文章を書いたからといって、その評価を撤回なり補正なりすることを意図しているのではない。それ以前の三輪さん単独での 逆シミュレーション音楽の企図、その後のNeo都々逸シリーズの展開といった展望の中に位置づけたとき、「フレディーの墓/インターナショナル」の中の 「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブという文章だけが、奇妙に浮き上がってしまい、皮肉なことにパースペクティブを攪乱し、もしかしたら 「作品」を裏切っているかも知れないとさえ思われたその由来を、当該の文章の内部にある飛躍や混乱(と私には少なくとも感じられるもの)、文脈を明らかに するどころか、寧ろ蒙昧化する役割しかしていないような固有名の参照などといった側面を確認することによって突き止めることを目的としているだけである。
Ⅰ.装置による現前:ここでの「装置」とは一体何を指しているのか。一般器官学(というのも、この文章ではスティグレールが参照されているから)の 枠組みを踏まえた上で、ここでは人間の身体もまた「装置」として考えられているのか、それともそれとは区別される機械、第3次過去把持を可能にする 「装置」のことなのか。この部分においては「声」そのものが、そもそも「影」あるいは《痕跡》と喩えられている。現実世界の音響の《随伴性》、《事後性》が 必ず伴っているとされるとしたら、その限りでは区別はなされていないのだろう。つまるところ「装置による現前」というタイトルの正確な定義はなされていないのでは、 という懐疑に読者はいきなり囚われてしまう。現実世界の音響一般について述べられていることが、より特殊な事象固有のそれといつの間にかすり替わる 予兆が既にここで見られるのだ。
そしてそれは「声」と「音響一般」の差異に対する曖昧さ、ひいては「音」と「音楽」の差異に対する曖昧さと通底している筈である。 スティグレールが正当にも指摘して批判している(「技術と時間」第2巻、第4章第3節の末尾、邦訳325~326ページ)ことでもあるが、哲学者は時間性を分析するに あたってメロディーではなく、音をしか分析しない。これはスティグレールが言及しているフッサールだけではなく例えばベルクソンにも言えることで、本来なら音楽学者、 美学者はそれに対して異議申し立てをしそうなものにも関わらず、現実にはそうした哲学者の分析を音楽に援用するといった錯誤がしばしば見られることについては、 別のところでマーラー研究に関連して書き留めたことがあるのだが、ここでは音楽を分析するのではなく創りだす側でそうした挙措が見られるのは甚だ 遺憾なことに感じられる。
ところで、声の一次元性を取り上げているが、情報の次元の数が何に寄与するのかは明確ではない。一次元「だから」装置によってもしばしば可能なのだろうか。 (だとしたらここでの「装置」からは人間の身体は排除されているのだろう。)次元の違いをどのように価値づけるのか、声を何らかの理由で特権視しようとしているのか、 それによって自分たちの試みの価値に何かを付加しようとしているのか、総じて顔と声の対比で何を言わんとしているかは、結局明らかにならないように見える。 後にVI.で記録映像との対比によって音響が特権化される件を除けば、この対比に再び言及されることもないし、次元量に至ってはその後全く言及されない。 読み手は肩透かしを食らわされたような印象を抱くことになる。
ついでに言えば、一次元性という特徴は、「声」ではなく「音」一般に言えるものというのが適当ではないか。これは決して揚げ足取りではない。 先に引用したスティグレールの指摘を俟つまでもなく、寧ろ重要なのは「声」の複雑さが問題なのであって、その複雑さこそ後にフォルマント兄弟が言及する 技術的な困難の由来である筈ではないのか。更に言えば単なる「音」ではない「音楽」の、それと並行して「声」ですらない「うた」の複雑さこそ問題にすべきでは ないのか、という気がしてならない。そして先回りして言えば、単なる事実性の次元ではなく、「作品」というフィクションの地位こそを問題にするのでなければ「録音」 ならぬ「録楽」が提起する問題の射程を汲みつくすことはできないのではないか。
II.ロック・スター:ここで「意図」が表明される(あえて私は「明確になる」、とは書かない)。曰く、「音響の《随伴性と事後性》に即した現実世界の再構成」が課題であると。 「つまりそれは」と受け継がれ、「音響の合成のみによって、その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を 創造する試みである」とされる。さらにここで注目されるケース、つまるところフェイクの対象となる事象が、メディア・テクノロジーに媒介されたという意味で「装置による現前」で あることが告げられる。要するにここでの装置は、より個別にメディア・テクノロジーという媒体のことを指示しているらしい。
だとしたら、ここで別の可能性が生じることになる。例えば義太夫節の名人でも、大ピアニストでもいいが、演奏の録音記録が残されているとする。それらが演奏された 現場に立ち会った聴き手は、メディア・テクノロジーの媒体なしに彼らのその日・その場所での演奏に接した筈である。実際の問題としては、そういった意味でなら、 フレディーの「実演」もまた、それが「録音」されたからには必ずや存在した筈なのだ。クラシック音楽の世界でなら更に、いわゆるセッション録音とライブ録音の差異を 指摘することが可能かも知れないし、その差異もまた、ここで問題にされている「再構成」の観点からすれば決して取るに足らないものではないだろう。例えばセッション 録音は言ってみれば初めから「再構成」を目的としているという見方も可能だろう。要するに既にメディア産業の現場において「装置による現前」は当たり前の 風景なのではなかったのか。にも関わらず、このような状況下でフォルマント兄弟は、だがそうした事情よりも、それがメディア・テクノロジーという媒体によって 流布したという点に重きを置いているようだ。そこで彼らは、フレディーの「実演」ではなく、録音されたフレディーの歌声の模倣にターゲットを絞る。つまり最初から メタ・レベルに自らを定位しようとしているらしいのだ。
ここで私は、随伴性なり事後性なりの、I.の末尾で言及された言い方では不十分な意味合い、にも関わらずII.の上記の文章では既に 暗黙裡に含意されている意味合いをあえて無視している。起源は随伴性や事後性から遡及的に構成されるしかないという点に異論を唱えようというのではない。 そうではなくて、後に「録楽」を問題にするのであれば、効果として、戦略的にであれ、寧ろ「実演」とその記録というコントラストこそまずは強調されるべきではないか、 ということが言いたいだけである。
もう一言付言すれば、例えば「ライブ録音」と称して販売される録音記録が、実は幾つかの実演のツギハギであったり、あるいは補正が為されたりする ケースは近年では日常茶飯事である。古い音源に拍手を付け加えた歴史的演奏記録の偽造、演奏者のすり替えといった事例にも事欠かない。 皮肉にもこうした現実の方が、あるいは上述の「セッション録音」が既に常に備えているフィクション的な性格の方が、《随伴性と事後性》に即した 現実世界の再構成を端的に証しているように私には感じられてならない。 もし録音された結果、効果としてのフレディーの歌声の模倣ということであれば、寧ろ録音されたものの複製の容易性、同じものが何度も再生できることにより、 起源の一回性(ここでは聴取におけるそれ)や、そのたびに異なった聴取を行う主体の同一性の方がかえって問いに付されるといった事態の方が余程興味深い。
結局のところ、録音されたフレディーの歌声の模倣にターゲットを絞ることは、「音響の《随伴性と事後性》に即した現実世界の再構成」「音響の合成のみによって、 その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を創造する試み」という観点から見た場合、 どのような価値を持つのだろうか。何故、現実の身体の〈かつて-そこに-あった〉活動の直接の模倣を拒絶するのかは結局のところ説明されることはない。 要するに、殊更に差異を取り出して見せながら、その差異が本質的な意味合いを持つ場面は、どうやら最後に至るまでないようなのである。些か先走って 言えば、後に持ち出される「亡霊」というメタファーにしても、一足飛びに、事後的に遡及される身体、つまりありえたかも知れない「実演」を指し示してしまう。 結局のところ、音響の《随伴性と事後性》をフォルマント兄弟はどの水準の議論だと認識しているのか、それの彼らによる「再構成」が一体どういう射程を持つのか(これが 自明なこととは思えないし、もし自明なら初めからこんな文章は不要なはずだ)が不明瞭であるが故に、ここでの文章は単に彼らがやったことの説明にしかなっておらず、 タイトルにも関わらず、些かもパースペクティブといったものを浮かび上がらせない。
III.人声の合成:ここでも末尾で「「装置よる現前」の作品化」がフォルマント兄弟の挑戦であるといった書き方が為されるが、この言い方は控えめに言っても 極めて曖昧な言い方に思われる。強いて言うならば「作品化」という言葉に篭められたニュアンスを汲むべきなのだろうが、ここでの「装置よる現前」は、素直に読めば フォルマント合成に基づきつつ、職人芸的な直観と試行錯誤によって実現されるものを指示しているように読めてしまう。これはI.やII.においてフォルマント兄弟が 行っている事象の差異化を考えればあまりに肌理の粗い言い方に思えてならない。少なくとも3つの「装置」が区別されるべきで、それぞれにおいて「現前」の 様態もまた異なるわけであり、従って、「「装置よる現前」の作品化」という言い方は何重にも飛躍のある表現なのだ。無論、ここでは戦略的に そういう言い方をすることによって、そうした「装置」間の差異が実は「ない」のだということを示そうとしているだという解釈だって可能かも知れないが、 それが意図されているとも思えないし、もし仮にそれが主張なのであれば、それが決して自明なことではない以上、しかも件の差異を自ら持ち出した以上は、 はっきりとそう書くべきではないか。
結局ここで書かれているのは、(それが録音されたものであるかどうかといった差異は一旦どうでもいいことになって)「ある実在した人間」の歌声のシミュレーションの 技術的な困難さ、しかも彼らにとっての困難さに過ぎない。しかもその困難さが一体どのようなパースペクティブを開くのかはこれまた杳として知れないといった具合である。 極めてレトリカルに書かれてはいるが、ここはいわゆる「新規性」を主張しているだけなのだろうか。実際にはそこに職人技的な側面が、直感的なパラメータ選択と 試行錯誤があることは、技術のある部分における共通の特徴かも知れないのだ。例えば人工知能分野における自然言語処理や大規模で制約の多い スケジューリング問題の解決などにおいてもそうした側面は存在することは間違いない。勿論、そうしたパラメータ調整自体の自動化の試みも為されているし、 一例を挙げればコンピュータ将棋のプログラムの近年のドラスティックな性能向上には自動学習理論が寄与しているといった事例もある。問題は、フォルマント兄弟が ここで述べているそうした技術の現場での状況が、この文章において意図されているはずのパースペクティブとしてどのようなものを与えるものであるかが ちっとも見えてこないことにある。このテーマもまたこの場限りでその後展開されることはなく、彼ら自身の「技術」の境位を規定しているはずの地平も 少なくともこの文章の中では些かも明らかにならない。
IV.インターナショナル:この節ではスティグレールという固有名の参照が印象的である。そしてその参照に続く文章が途端にスティグレールの言い回しの ミメーシスといった様相を呈するのもまた印象的である。だがしかし、そこでの参照の含意は結局のところ明らかにされない。しかも「単一のユートピア世界というエロス」と いう言い回しには、控えめに言っても飛躍というか、ニュアンスの重畳が存在するだろう。まずもってスティグレールが指摘している事態は、「インターナショナル」という 個別の歌とは独立の、より一般的な事態であるし、スティグレールがポップスについて分析した文脈で彼が導き出す展望(勿論、彼の方はそれを明確な パースペクティブの中で行っている)に対するフォルマント兄弟の試みの定位が為されることがないようだ。後段のミメティックな文章で表明されている「記憶」の問題は、 確かにスティグレールの主要な問題系の一つだが、ここで言われていることはスティグレールなど参照せずにも充分に言いうるものにしか見えない。
そもそも「インターナショナル」が「技術の普遍性によって統合された単一のユートピア世界というエロスを人々に与え」たという言明の妥当性は少なくとも無条件で投げ出して 首肯されることが期待されるほど自明なこととは私には思えない。スティグレールという固有名に拘泥すれば、「インターナショナル」が歌われた文脈においても何らかの 「技術」が寄与していたことは疑い得ないが、それをプロパガンダに用いられたメディアに限定し、あたかもそれに還元されるかの単純化には大きな抵抗を感じずにはいられない。 それを措くとしても、「インターナショナル」という歌が全世界的に流通したことと、フレディーの声がメディア・テクノロジーに媒介されて 流布したことを単純に同一視することが可能かどうかは決して自明ではないだろうし、勿論そこに或る種の共通性、類比を認める立場もあろうが、些事に拘泥すれば、 例えばラジオという媒体とレコードという媒体の共通性と差異もあるだろうし、西側・東側といった政治的・社会的な体制の差異と共通性を見極める作業も必要であろう。 要するに、フレディーにインターナショナルを歌わせるという組み合わせ自体を文章のこの箇所で主題視しないとしても、それぞれについて今回の試みの射程がこの文章によって 闡明されたとは到底思えない。要するにここでもまたパースペクティブのようなものは些かも見えてこず、読み手は嘆息せざるを得ないのだ。
序に言えば、「インターナショナル」とフレディーの組み合わせ自体は、フォルマント兄弟自体の来歴を知るものにとっては別段突飛なものとも思えないだろう。 それらにあえて言及しないのは、或る種の抑圧によるレティサンスなのか、それとも戦略的な意図によるものなのかと勘ぐってしまう人間が居ても不思議ではない。 否、文脈を欠くならば些か突飛なこの組み合わせは、フォルマント兄弟を知る者にすれば、否応なく、フォルマント兄弟固有の来歴、構想力の地平に思い至らざるを 得ないのではあるまいか。フォルマント兄弟の作品表の中で、「インターナショナル」は決して初出ではないし、ロックというジャンルも決して突飛ではない。 勿論、それをそうしたものとして証言する必要はないし、プレゼンテーションの戦略として、そうした事情をあえて隠蔽し、私の主観ではかなり頼りないものにしか 見えないメディアの絆によってフレディーとインターナショナルを結びつけることも、それ自体を問題視するようなことではないだろうが、それらを代補するパースペクティブが あるようにも見えないのはプレゼンテーションとしても奇妙に感じられる。
V.死者なき亡霊:ここでは更にフレディーがインターナショナルを「日本語で」歌うことが指摘され、そうした事態を「死者なき亡霊」と呼ぶことを書き手は 主張する。そしてこの文章全体でも中心をなすこの節では、「死者なき亡霊」のうちすでに説明が済んでいる「亡霊」はおいて、「死者なき」の如何にしての方が説明される。 ところがここで引用されるのはロラン・バルトが「写真」というメディアについて述べた事柄なのだ。バルトの写真論そのものは巷間に流布しているし、スティグレールの読者であれば、 「技術と時間」の第2巻第1章においてバルトの写真論が取り上げられているのは知っているだろうから、それらを地平としてこの文章を読む、それらをパースペクティブとして 作品を受け止めることが要求されているということなのかも知れない。(もっとも「技術と時間」自体への参照はされていない。それは第2巻がその時点で未訳であったことに 基づくフォルマント兄弟の配慮によるものなのだろうか。)
だが、写真や映画で成立したことのどこまでが、まずもって「音響」において有効なのか、冒頭でも問題になったが、「音響」と「音楽」の差異はそんなに簡単に乗り越えられる ものなのか、そうした差異に対するフォルマント兄弟の認識については些かも明らかにされない。フォルマント兄弟がいとも軽やかに成し遂げる飛躍が有効であるかどうかについては 予断を許さない事柄ではないのか。勿論、声についてもまた類比が成立すると推測すること自体、困難を伴うようなことではないし、結果として文章から読み取れる主張に 大きな異論があるわけではないとしても、である。
そしてまた、この文章が書かれた時点を考慮すれば(文章の最後に日付は明記されている)、「音楽」が「ダウンロード可能なデジタル・コンテンツ」であるという主張も 別段違和感はない。だがしかし、ここでメディアが問題になっているのなら、ダウンロード可能なデジタル・コンテンツ「だけ」を想定したかのような言い方は誤解を招き易い。 ここでも主張の結論に異論があるというわけではない。しかもここではダウンロード可能なデジタル・コンテンツだけを想定したケースというのは、主たる主張を導く対比の 部分を為している(つまり「…という以上に」という節の中の文章に含まれる)ことは明らかなものの、そのスコープの限定が主たる主張まで及んでいるか(つまり、件の節内の 「…としての「音楽」においては」という部分と、主節における「装置よる現前とは」の部分の関係がどうなっているのか)は文章の上では自明とは言えない。言いうるのは主たる主張に 「メディア・テクノロジーが生み出す「痕跡の効果」」というくだりがある以上、「装置による現前」における「装置」については、少なくともI.やII.で告げられた「装置」が 念頭にあることは明らかだろうということであるが、参照元となる箇所での「装置」の定義の曖昧さについて既に触れたような状況であるとすれば、後続する「現前しているかに見えて すでに痕跡であり、確かに過去の痕跡であるかに見えてすでに効果でしかない」という条件を充たす状況が、「フレディーの墓/インターナショナル」が提示するそれのみに固有の ものなのか、もしかしたら、それはより一般的に(もしかしたらある条件化では常に)成立するようなものなのか、疑問に思う人がいても不思議はない。
結局、「疑いもなく確かに現前しているかに見えてすでに痕跡である」というのは、ここでフォルマント兄弟が試みた「「装置よる現前」の作品化」、つまり 「音響の合成のみによって、その音響の〈かつて-そこに-あった〉起源を出現させること」「声という《痕跡》を生み出したであろう「主体の身体」を 創造する試み」に限定された事象なのだろうか。例えばもう一度、フレディーが歌った声、実演を録音した場合には、最早録音された声は痕跡ではないのか。 要するに、実現した作品が指し示す問題の在り処はひとまず置くとして、この文章における《痕跡》の位置づけには、哲学的な観点からすれば 看過できない曖昧さ、多義性があるように窺えるのである。彼らは自分達の道行きが含む微妙な、だが恐らくは瑣末ではない差異に、この文章では あまりに無頓着に見えてならない。実現されたものが実際には備えている際立って屈折した情況が、ここでは暴力的に単純化されているように思え、 思わずそこに意図的な隠蔽があるとさえ疑いたくなるほどなのだ。パースペクティブと称して極めて曖昧に参照されている固有名のそれぞれが備える 固有の地平は、一体ここではどのように調停されるのかと途方に暮れざるを得ない。
勿論、ここには固有の地平、フォルマント兄弟独自の主張が存在するのだろうから、そうした微細な差異の指摘、分析の結果に基づく 概念の補正が為されるのであればそれ自体全く問題はないし、それどころか非常に興味深いものだと思うのだが、厄介なことにこの文章はバルトを、 スティグレールを、デリダを引用指定してしまっているのであれば、例えばスティグレールが「技術と時間」で行った分析とフォルマント兄弟の見解がどの点で一致し、 どの点で袂を分かつかを明記しなければ、引用の意図と意義に深刻で致命的な問題が生じることになる。 フォルマント兄弟が、単なる権威付け、ソーカルが批判するような虚仮脅しとしてそうした固有名を参照するとは思えないが、実際にはそうした固有名と 自分達の距離について明確な記述が為されているようには到底読めないというのが率直な印象である。
「ナイーブな存在論を粉砕する」といった刺激的な言辞は、だが一体、どのような存在論に向けて発せられているのか、「亡霊的」と 呼ばれるのが適当な事象の定義は正確に、例えばスティグレールの場合にはどうであって、フォルマント兄弟のそれと同じなのか、異なるとすればどう 異なるのかは些かも自明ではないにも関わらず、フォルマント兄弟はここでそうした距離の同定をすることなく引用のみを行っているのは非常に遺憾に感じられる。 フォルマント兄弟は、「現代のデジタル・テクノロジーが可能にしたこの亡霊的な痕跡の効果」について言及するが、引用されている側の文脈では、 痕跡の効果は別段、現代のデジタル・テクノロジーでなければ可能なものとはなっていない筈であり(勿論、現代のデジタル・テクノロジーの特殊性は別の ところにあると主張されているのだ)、控えめにいってもそこに飛躍なりすり替えがあるといった印象は免れない。
更には「未来の私達の社会全体を取り巻く」といった予言、託宣がなされるに至っては、あまりの飛躍に生理的な拒絶反応を催す人が居たとしても 不思議はない。例えばスティグレールが「象徴の貧困」で述べた内容すら、ポレミカルな戦略による些かの単純化を感じずには居られないが、ここで留保もなく、 「「死者なき亡霊」は、〈かつて-そこに-あった〉過去から〈いま-ここに-ある〉われわれに触れにやって来ている」といった言い回しが用いられるのを目の当たりにすると、 どこまでがレトリックで、どこまでが実質的な作品の射程の記述なのかの判断に苦しむことになる。いったいここで言われる〈われわれ〉とは誰なのか、 〈いま-ここに-いる〉ということが、ここで述べられている文脈においてはどのような時間性の了解に基づいて述べられているのかは決して自明なことではない のではなかろうか。
あるいは私の頭が悪いだけなのかも知れないが、次の章の末尾に及んで声の現前性自体が問いに付されているようなのであってみれば、その一方で 〈いま-ここに-いる〉ということについて、フォルマント兄弟が一体どのように考えているかを説明せずにいるのはあまりに読み手に対する要求が大き過ぎるように感じられる。 そう、率直に言って、フォルマント兄弟がどのような理論的な枠組みで、参照されている固有名で指示される理論をどのように組み替えて自説を述べているのか、 私にはよくわからないのである。是非、補説を請いたいところである。
VI.録楽:ここにいたって「装置」というのが、写真、映画、メディアアートといったテクノロジーにより生まれた「新しい芸術」の表現手段であることが 明確に述べられる。その上で「音楽」における「録音された音楽」の無視が指摘されるのである。その後に、一見したところ唐突に続くアウシュビッツのガス室や 広島の原爆の「音」についての言及についてはひとまず措くとして、「録音された音楽」に相当するものは、印刷された絵画(いわゆる「模写」は別の問題を 提起するだろうからここでは別に考える、それは「編曲」行為をどう考えるかと類比的に扱われるべきだから、ここでのフォルマント兄弟の問題圏と 別でないどころか、寧ろこちらこそ主題として議論されるべきかも知れないのだが、まずは置いておかざるを得ない)、写真撮影された(従って、 ある射影からの視に限定された像としての)彫刻etc.との類比が適当であって、写真・映画との直接の類比には飛躍が伴うのではないか、あるいはまた、 仮に写真の対応物を求めるとすれば、ミュージック・コンクレートが素材とするような具体音、サウンド・スケープがそれではないかといった素朴な疑問に応える必要が まずあるのは確かなことだろう。
例えば写真が「かつて-そこに-あった」過去を示しているとしたら、録楽と呼ばれるものは、第一義的には「かつて-そこに-あった」過去の「演奏」の事実をまずは 示しているのであるし、写真とて、意図的なポーズ、構図に基づいて撮られたとすれば、それは音楽がそうであるような「作品」であり、「作品性」が高まればそれだけ、 「かつて-そこに-あった」といった性格は希薄になる。その一方で音楽作品はもともと録音を経ずとも「作品」として存在しえるわけだから、 録音が告げるのは、あくまでも演奏が「かつて-そこに-あった」ことで、例えば1939年のウィーンにおけるワルター指揮のマーラーの第9交響曲、 同じ年にアムステルダムのコンセルトヘボウで録られたシューリヒト指揮のマーラーの「大地の歌」の記録には、「かつて-そこに-あった」演奏会の 雰囲気を伝えるといった側面もまた否定し難く残っているし、演奏された作品が何であるかとは必ずしも必然的に結びついているのではない、 歴史的な記録としての価値があることは疑い得ない。
もちろん上述のような粗雑な議論で、音楽作品とメディアの関係が尽くせるとは思えないし、 そもそも音楽作品は、個別の作品毎に、その作品が位置づけられる文脈における技術との関係抜きに定義することが可能とは思えない。 演奏が録音され、複製されることで、演奏がどのように変容するか、それを前提としていない音楽作品の受容がどのように変容するかは、それ自体 分析を要する問題であろうし、録音・複製の技術が既に地平を形成している環境における音楽作品が如何なるものであるかは、また別の問題である。 だから私は「録楽」を問題として取り上げることの意義自体は些かも否定的に捉えておらず、寧ろ、それを積極的に受け止めるべきだという立場を とっているのであり、ここで問題視しているのは、この文章がそれを些かも開示していないようにしか見えないにも関わらず、パースペクティブを名のっていることに 対することに限定されるのである。
従って、アウシュビッツや原爆の記録の残酷さを口実に、音響を特権化して「録楽」というジャンルの不在を説明するのは不当なことにしか思えない。 「なぜなら…耐え難いものだからだ」という理由の説明は、さほど説得的なものに思えないし、音に対する贔屓の贔屓倒しの感じを抱く人が居たとしても 不思議はない。「録音された音楽」一般を表すことばもないが、それは例えば印刷された絵画を表すことばがないのと同じであって、絵画や彫刻についてレプリカの 意識があるのと、演奏会の録音記録についての意識があるのがほぼ対応するのではないかという感じは免れない。それを言い出せば、例えば版画のような もともとレプリカしかないとも言えるような形態や、音楽であればテープ音楽のように、「生」の定義が揺らぐようなケースや、ライブ・エレクトロクスのような、 デリダ=スティグレール風に言えば、従来存在した差延を最小化するような形態についての検討は欠かせないであろう。
その後主張される、「二つの《身体=身体》を〈いま-ここ〉へと持ち来たらすことにこと」が何故「われわれの《現在=現前》を亡霊化」することになるのか、 〈それは-かつて-あった〉によって過去の事実そのものを創造するテクノロジーで、われわれの《歴史=物語》をも亡霊化」することが如何にして可能なのかは、 それに対する説明の欠如にも関わらず、依然として不明であると言わざるを得ないであろう。上記のような言辞は参照元となった文脈で用いられた 用語法の不適切な外挿ではないのか、より素朴に、ここでは「亡霊化」という言葉の用法に看過できない混乱・曖昧さが見られるのでは、というより根本的な疑念はおくとしても、 フォルマント兄弟の文章表現の晦渋さは、単なる韜晦趣味と受け止められかねない危険を孕んでいるように感じられてならない。
《声-現前》が、冒すべからざるものとして人類(とは一体「誰」のことなのだろうか?)が「今までテクノロジーの亡霊化作用が及ぶことに 最後まで抵抗して来たもの」であるという見解を読むに至っては、その文章全体が、何かの「痕跡」たろうとするのではなく、 何らかの「効果」を狙った修辞ではないのかという疑念を禁じることが困難なレベルに達している。寧ろそうした言辞自体が却って《声-現前》の 特権性という神話を仮構しているということはないのだろうか。冒頭の二次元映像の視覚(控えめに言ってもこれはかなり乱暴な視点で、例えば D.マーの業績を全く蔑ろにする発言としか思えない)と一次元の音響の対比を思い起こしたとき、それをデリダの「声と現象」への参照で 正当化するかの挙措は全くもって不可解というほかない。そうした挙措はデリダがエクリチュールに託した狙いを歪めるものだし、デリダにおける「代補」、 スティグレールにおける「補綴」といった概念の文脈を逸脱するものであることは否定しがたいとすれば、その逸脱についての言及なしの 断定は、そうした逸脱を文脈によっては積極的に評価するものにすら疑念を催させるものであるのではないか。
そしてまた、デリダに由来するらしい《声-現前》(だが、デリダがどのような戦略的意図をもって、フッサールに対してかのごとき読解を試みたのか、 その背景をもう一度確認し、更にここでの議論にそれを無作為に接木することの妥当性は吟味すべきだろう)に関してフォルマント兄弟が、現前の形而上学が 支配したといわれもするヨーロッパですらなく、何と「人類」全体に対して提示する嫌疑と異議申し立ての隣で、「声」と「うた」の差異はどうなったのか、ここで議論されているのは 「音楽」なのか、「音響」なのかといった素朴な疑問が再び頭を擡げてくる。「録楽」というからには、ここでは「声」そのものではなく、「うた」が問題ではないのか。一方で、 人間とは何かが今や問いに付されているのだとしたら、(冒頭ではそうであったのにも関わらず、あるいは随所でそれが同一視されているにも関わらず、ここに至って)「声」であり 「音響」でないのは何故なのか。少なくともこの文章においてフォルマント兄弟は、自らの営為を、その価値にみあった正確さと厳密さをもって記述することに失敗しているのではないか。 控えめに言って、少なくとも私のような不注意な読者が彼らの意図を見誤る程度に彼らのパースペクティブの提示は曖昧で、省略に満ちているのは確実なことに思えるのである。
結局のところ、パースペクティブと題されているにも関わらず、「フレディーの墓/インターナショナル」におけるフォルマント兄弟の試みの射程と、それによって開かれる展望、 賦活される問題圏を彼ら自身の文章は些かも明らかにしない。もしかしたらこの文章自体が、フォルマント兄弟の兄である三輪眞弘の作品、とりわけ逆シミュレーション音楽に おいては必須の要件とされるカバー・ストーリーの如きものなのではないかと想定するならば理解できないわけではないが、この場合、状況はそれとは些か異なるだろう。 「という夢を見た」という決定的な括弧入れを欠いたまま提示されたこの文章が「フレディーの墓/インターナショナル」という作品の一部である在り方は、 カバーストーリーとは異なるものである、と通常は受け止められるだろう。だとしたら意図的な韜晦なのだろうか。この文章もまた、「フレディーの墓/インターナショナル」が 広義ではそうであるような、フェイクなのだろうか。あるいはこれまた、彼らのいうところの「物語=歴史の亡霊化」の早速の、自己言及的な実践というわけか。
実は既に私は一度、以下のように書き付けたことがある。
化石や考古学的発見の偽造・捏造の例は多いし、美術史や音楽史を紐解けば、悪意のないものも、あるものも含めてパスティッシュや 贋作の記録を辿ることもできよう。それでは「死者なき幽霊」による歴史の捏造というのは、そうした胡散臭い事例と一体どう違うのか。もうお気づきのことと思うが、 これは逆シミュレーション音楽における「由来」や架空のカルトと構造的には非常に類似している。だとしたら、私のような事例における失敗も含め、全ては計算済みで、 批判的機能を強調するためにわざと「インターナショナル」を選び、テクノロジーによる記憶の捏造を「演出」したと捉えるべきなのだろうか。それは例えば しばしばおきる「歴史的録音」の偽造への警鐘なのだろうか。要するに、これは非常に手の込んだものではあるが最終的には芝居であって、しかもその機能は 啓蒙的かつ教育的なものであることが意図されているのだろうか。これはいわば「ソーカル事件」の「録楽」版(ただしこちらはあらかじめ「由来」によって種明かしは されているのだが)を狙っているのだろうか。
だが上記の文章は、ここで私が問題にしているものと同一の対象に向けられているのではない。ここで私が問題にしているのは「フレディーの墓/インターナショナル」そのもの、 その全体ではなくて、その一部を(だがどのようにして?)構成していると覚しき、「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブと題されたこの文章だけなのだ。 私の能力、私のこれまでの来歴(デリダ、バルト、スティグレール、更にはここではとりわけ、デリダとスティグレールがしばしば参照する、フッサールの現象学や ハイデッガー、レヴィナスあるいはカントについての読解の訓練の経験を含めて)によっては色々な点で理解が及ばない、謎めいたテキストを 問題にしているのだ。勿論、自分の知識の欠如、読解力、理解力の不足に由来する部分もあるのかも知れないとは思う。だが、上で些事拘泥を厭わず取り上げた 内容は、寧ろ文章そのものに内在する問題なのである。だとしたらやはり、この文章自体も「フェイク」なのだろうか。 否、ソーカルがでっちあげ、権威あるとされたある専門誌の査読体制の不備をまんまとすり抜けることに成功したあのテキスト同様のことを意図していたとは思えないし、この文章の存在にも関わらず、 Ars Electronicaの審査メンバーが、「フレディーの墓/インターナショナル」が提起する問題の重要さを認識したからこその入賞であることを私は疑わない。
ソーカル事件において問題視されたのは、人文系分野における数学やら物理学的な用語・数式の濫用であったが、ここでは哲学が濫用されているということは ないのか。「フレディーの墓/インターナショナル」そのものはこの文章で朧げに(としか私には感じられない)表明されている「意図」の射程を大きく超えた意欲的な 試みであると思われるし、この文章で示唆されているよりもずっと繊細でずっと微妙な事態を開示していると思われるだけに、この文章を受け止める際の 居心地の悪さは著しいものになってしまう。私の感じたままを率直に述べれば、作品はごく控えめにいっても、あまりに韜晦的な飛躍と気儘な参照に満ちたこの文章を、 この文章に示された意図の論理の破綻、首尾一貫の欠如、曖昧さを、デリダやスティグレールの少なくとも文章そのものの内在的な論理構成においては本質的とは 到底思えない参照を凌駕している。だからこの「作品」の全体の価値を私は些かも疑わない一方で、些かもパースペクティヴを開示しないこの「デジタル・ミュージック」における 6つのパースペクティブという文章に対する違和と苛立ち、不快感を押えることはできそうにない。
私には、本質的な混乱がここにはあるように思われる。彼らがデリダ、バルト、スティグレールといった固有名の下にミメティックに展開するメタファーは(丁度、注における 文献参照が漠然とした書籍名の指示に留まり、具体性を全く欠いているのと呼応するように)その定義が曖昧で、場所により水準が異なり、一貫しないように見受けられる。 それが意図されたものであれ、そうでないにせよ、やはり寧ろソーカルが俎上にあげたような事象に近接しているといった印象に抗うことは極めて難しい。 私見では、「フレディーの墓/インターナショナル」で起きている事態はもっと明確な仕方で記述可能だし、参照される固有名との距離もきちんと測定し、 その結果を記載することが可能な筈である。Ars Electronicaがこの文章に対してどのような 評価をしているのか詳らかにしないが、この文章が受賞した作品に含まれることが、フォルマント兄弟の作品と、Ars Electronicaの審査の両方の価値を疑問に付すような ことがないことを願わずにはいられない。まさにそれゆえここに、ささやかながらも疑念を表することにした次第である。
(2010.9.26初稿, 27, 28加筆修正, 2024.6.28 noteにて公開)