「平成21年喜多流素謡・仕舞の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成21年8月25日)
仕舞「柏崎」道行
シテ・香川靖嗣
地謡・狩野了一・金子敬一郎・粟谷充雄・粟谷浩之
「柏崎」は能を一度拝見したけれど、全体としては話が整理されていない 感じで、やや印象が散漫な中、今回取り上げられた道行きの部分だけは その場所が自分にとって馴染みのあるという個人的な理由もあって鮮明に 記憶していたのだが、今回のお仕舞は風景と心象のリアリティにおいて それを更に超えた力を備えたものに感じられた。木島、浅野、井上といった 地名が詠み込まれた謡が進む中、香川さんの舞はお仕舞であるにも関わらず、 その人となりや心持ち、自分でも制御できない心の深い部分からの 衝動によって善光寺へと歩む心の状態で会場を充たしてしまう。それは やはりある種の宗教的な感情に違いなく、この心の動きこそが善光寺で 彼女を待ち受ける劇的な再会を無意識の裡に予感しているに違いない。 そして見所はその道行きを外から眺めるのではなく、彼女が見て感じる風景をともに 経験するのだ。千曲川に沿って善光寺に向かう途中、浅野に差し掛かったところで 雪が舞い始めるところで、思わず私は落涙しそうになった。柏崎の物語が どのような実話に基づくものか詳らかにしないが、時代も違えば状況も 違うけれども、私もまた雪の降りしきる北信の地の空気を、その地を 囲む山々を知っていて、その風景を媒介にそうした過去の記憶と己とが 出会って、その心に触れ、同化する。そうした化学反応のような自分の 心の変化をまざまざと経験することができた。このお仕舞でやっと私は 我に返った思いがしたのである。
(2009.8.25 執筆,公開, 2024.11.22 noteにて公開)