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「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」シンポジウム「機械と音楽」(2)「20世紀の音楽における機械の可能性」に参加して

シンポジウム「機械と音楽」(2)「20世紀の音楽における機械の可能性」
パネリスト:近藤譲、高橋雄造、三輪眞弘、呉姫淑、長木誠司(司会)
三輪眞弘「思考する機械と古代の竪琴のための逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」(世界初演):西陽子(箜篌)
2007年12月2日東京大学駒場キャンパス18号館ホール

東京大学駒場博物館で開催されていた「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」の関連企画として最終日の 12月2日に行われたシンポジウムを聴いたので、その感想をまとめておく。なお、シンポジウムは前日に行われた 「音楽文化史における機械の役割」に続くものだったようだ(ただしパネリスト・司会は別)が、前日は都合が付かず、 2日目の「20世紀の音楽における機械の可能性」のみの参加となった。後述の通り、このシンポジウムはかなり議論が 発散してしまった印象があって、辛うじてリッチズ/三輪による「思考する機械」Thinking Machineがアトラクターの 役割を果たしていたように感じられた。長木さんがクロージングで、「機械」の定義をせずに議論をしたが、にも関わらず 「機械」=リッチズの機械という前提が存在したこと、それゆえその前提の上でのみ成立する議論があったことを 指摘された。それは全くその通りだと思うが、一方で、そうした前提に乗らない部分は議論の中で有効に機能して いたようには思えない。それが可能であったかどうかは知る由もないし、恐らくは困難が伴っただろうが、 もしかしたら、明示的に「機械」=リッチズの機械という前提で、各パネリストのスピーチをした方が良かったのではと さえ思える。実際、議論としては1日目の方が興味深いものがあったようだ。

なおシンポジウムの題名について、「21世紀になってどうして"20世紀の音楽"なんだ」と意図を測りかねていると、 開会の際に、司会の長木さんから、要するに「直し忘れ」で、意図的に20世紀に限定する主旨ではないとの説明があった。 前日のものは題名からして歴史的なパースペクティヴが前提となっているのに対し、この日のものは語の本来的な意味での コンテンポラリーを扱うのでなければ、「可能性」というのは素直に考えている限りはおかしなことになるし、三輪さんや 近藤さんといった作曲家をパネリストに呼ぶ意味もない。私も当然、それを期待していたので、とりあえずはほっとした。

1.

パンフレットや駒場博物館のWebページでは言及がなかったのだが、三輪眞弘さんの新作の初演がシンポジウムの 冒頭に行われ、三輪さんが最初のパネリストとして作品の紹介をするところから討議が始まることになった。 この作品についてこの文章で扱うのが必ずしも適当とは思わないが、幾つかの意味で「試演」としての性格を持っていた ようなので、ここで触れることにしたい。

「思考する機械」Thinking Machineは最初にも触れたリッチズ/三輪によるいわゆる自動演奏機械。同じキャンパス内とはいえ、 会場からは些か離れた駒場博物館に展示されているため、録音された「思考する機械」Thinking Machineが生成する音を 聴きながら、西さんが箜篌を演奏するという形態が採られた。公案番号十七というのは、(少なくとも理論上は)決定性の 動作をおこなうオートマトンである「思考する機械」の初期条件を十進数表記したもの。 また、タイトルの「逆コンピュータ音楽」は、こちらは「逆シミュレーション音楽」の直し忘れではなく、従来のコンピュータ音楽に 対するコンセプトとして、今回新たに用いたものとのことである。「逆シミュレーション音楽」の定義を踏まえれば、意味の方は 明らかだろうが、ここで注意すべきは、そのコンセプトの成立の要件には、人間が不可欠なものとして介在していることだと思う。 要するに、「思考する機械」Thinking Machineだけでは「逆コンピュータ音楽」は成立しないのである。

長木さんは「ライヴ・エレクトロニクス」と紹介されていたが、勿論、これが本来「ライヴ・エレクトロニクス」作品として 制作されたものではないのは明らかで、状況が許せば、実物の「思考する機械」と西さんが同じ場所で演奏をすべきものと思われた。 録音された音に付き纏う、別の時間・空間の気配、とりわけ不可避的に一緒に収録されている背景のノイズが箜篌の 非常に繊細な音色と並立するのは或る種異様とも言える感じで、これも意図されたものとは思えない。 音量という点では実物の「思考する機械」も結構大きな音がするのだろうが、人間が知覚する音量は測定値とは 正確には一致しないのだろう。私には、箜篌の古楽器らしいひっそりとした音色や残響が、録音されたベルの豊か過ぎる倍音と 不釣合いな感じが拭えなかった。伺うところによれば、箜篌は大変調律が難しい楽器と聞く。この場合「思考する機械」Thinking Machineの ピッチは固定だから、それに伴う調弦の困難があったようだ。もっとも私のような耳の悪い人間には、ベルの倍音のせいもあって ずれているのかどうかの正確な判断がきちんとできなかったのだけれど。

約7分間、西さんは楽譜なしで規則に従って「思考する機械」Thinking Machineの発する音を条件として、自分の弾く音を演算して 演奏する。更には、リハーサルのための時間の制約で、西さんが充分な準備をする時間的な猶予が無かったとのこと。 私としては、今のところ映像記録によってだけでだが、「蝉の法」の素晴らしい演奏を聴いている西さんの実演に 接することができただけでも得難い経験だったが、願わくば、充分な準備の下、オリジナルの意図どおりの、 「思考する機械」Thinking Machineと西さんとの文字通りの合奏を聴いてみたいと思った。

別のところで私は「思考する機械」Thinking Machineに博物館で接した時の違和感を書いたが、実は、西さんと 「本当に」合奏しているのを思い浮かべたとき不思議なことにその違和感が(すべてではなくても、かなり)消えてしまうことに、 些か驚いた。「思考する機械」Thinking Machineもまた、まさに箜篌がそうであるように古代の楽器であるような印象を持ったのである。 どちらかといえば繊細で、ひっそりとした「思考する機械」Thinking Machineの佇まいも、箜篌には相応しいように思える。 リッチズがもともとそれを狙ってこのようなデザインにしたとは思えないので、これは組み合わせの妙というか、 カバーストーリーこそないけれど、組み合わせが「架空の伝承」を呼び出しているようにも感じられる。

逆に言えば、「思考する機械」Thinking Machineに私が感じた違和感というのは、そういう性質のものなのだ、ということだろう。 私は高度なテクノロジーを連想しつつ「思考する機械」Thinking Machineに接した。しかし、博物館に「展示された」それは音をたてる、 無益な、なにものにも奉仕しない仕掛けに過ぎず、そこには「音楽」が欠けていると思われたのだ。だが、文脈が変われば、 それは紛れもない自動演奏機械なのだ。ただし、それは今日の私の、というよりは、別の時代に住む他の誰かの宇宙なり世界なりの 認識様態が反映したものなのだ。亀の背中に乗った古代インドの宇宙観を己のものとすることはできないが、そこにそうした見方をした人間を感じ取ることは 可能だろう。してみると、私が「思考する機械」Thinking Machineに見ているものは実は変わっていなくて、あちらでは苛立ちの原因であったものが、 こちらでは逆転し、寧ろ機械の不在と、それを代補する録音を再生する再生装置という「テクノロジー」の側に苛立ちを感じたということだと思う。

2.

シンポジウムではパネリストが順番にキー・スピーチを行っていく。三輪さんは上述の作品の紹介のみの簡単なもの。 呉姫淑さんはNam June Paik のテレヴィジョンを使った作品とDonoung Leeのサウンド・インスタレーションの紹介、 高橋雄造さんはいわゆるストリートオルガンにまつわる音楽社会学のような内容、近藤譲さんは制作(ポイエーシス)の立場から、 機械のための作曲と機械による作曲のそれぞれについてと、それに関連して「思考する機械」Thinking Machineの感想を述べられた。 特に呉姫淑さんのスピーチは入念に準備され、映像による作品の一部の紹介もある長大なもので、更に同時通訳つきで あったこともあって、結局パネリスト全員のキー・スピーチだけで2時間近くを要した。パネリスト間での討論というのは全く行われず、 10分の休憩を挟んで、予定では残り40分というところで主として会場からの質問に基づく討議が行われ、(これは 予想通りだったが)予定より30分超過して終了となった。

キー・スピーチの内容からして機械とは何か、音楽とは何かという基本的な設定に関してすら極めて多様で広範な スペクトルを持っており、議論が収束することが望むべくも無いことは最初から予測できたし、実際に司会の長木さんも その点についてははっきりと指摘されていた。こうなると、聴き手としても自分の関心に応じて聴くよりほかないし、それゆえ キー・スピーチやディスカッションの内容を逐一紹介しても仕方ないだろう。それでも、特にディスカッションは会場の最後列に移動して ひたすらその内容をメモしたこともあり、あくまで自分が関心をもって聴いた部分が中心だが、比較的詳細にその内容の 記録が残っているので、その中から、特に印象に残った部分について書き留めておくことにしたい。

とりわけ印象的だったは、最初にも書いたが、近藤さんのスピーチといい、その後の会場からの質問といい、 リッチズ/三輪による「思考する機械」Thinking Machineをどう捉えるかが繰り返し議論されたことだ。この点は自分の 関心の方向とも一致しているので、基本的にこの点を中心にまとめようと思う。

キー・スピーチでは、もともとの私の関心が、創作者の側から見た機械の可能性にあったこともあり、近藤さんのお話が 興味深かった。呉姫淑さんの紹介は、それ自体は興味深いものだったと思うが、私にしてみればどちらも音楽よりは 美術作品に近く、しかも「機械」そのもののメカニズムより、テクノロジー批判といった側面が中心的であったこともあり、 ここでは詳述しない。高橋雄造さんは電気工学者、いわゆる「電気屋」ということで、どのようなお話が聴けるか楽しみだったのだが、 どちらかといえば、音楽に関する「非専門家」の立場の代弁といったニュアンスの発言が多く、興味深い部分も多々あったが 些か拍子抜け。討議の終わり間際、人工知能における思考の定義が話題になったとき、人工知能の領域では 今やGOFAIと呼ばれて久しい、明らかに少数派と思われる見方を是認されたのは、電気工学者としては自然な 反応かも知れないし、あの発散しきった議論の場では適切な粒度の発言だったのかも知れないが、私としては かなり強い抵抗感を感じた。

近藤さんのキー・スピーチは極めて理路整然としたもので、まず最初にご自分の立場を、「機械」と「音楽」の関係のうち 「音楽」の側の多様性に注目し、「音楽」の制作(ポイエーシス)の現場にいる人間として、音楽機械によって「音楽」の側を 見直すというように規定され、その場合の問題設定は、(1)機械のために作曲すること、(2)機械によって作曲すること、の 2つであることを述べられ、それぞれについて論じられた。

(1)機械のために作曲することに関しては、テクノロジーの側面からの素材・媒体の拡大という側面は認めながらも、 結局のところ、通常の楽器と共通の水準で捉えうる媒体の違いに帰着するものと考えておられ、興味はないとのことだった。
興味深いのは(2)機械による作曲の方とのことで、コンピュータによる作曲が可能であることは自明であるとされ、その上で 自動作曲の長い伝統、作曲家の仕事を奪うといった市場の問題や音楽産業での重要性に言及された。その際、言語との 比較をされ、セマンティック・フリーな音楽はシンタクスのみ扱えば良いから、言葉にくらべて自動化は容易であると述べられた。

そしてとりわけ興味深いこととして、上述のような背景により作曲の完全自動化が可能であるという前提にたった場合、コミュニケーションの 可能性という美学的問題が出てくることを指摘された。即ち、作曲者がある「内容」を音楽を媒体として聴き手に送信するという 意図を持って作品を創る、といった前提にたった場合に、「意図」を持たない機械が作曲を行うことで「内容」の伝達とは何か、ということが 問題になってくる。これに対する答えは、音楽におけるコミュニケーションというのは、上述の前提のようなものではなく、聴き手が 音楽からどのような内容を読み出すかは作曲者の意図とは無関係で、従ってそこでは内容の伝達といったようなことは起きていないこと、 実はそれは機械による自動作曲の場合だけでなく、人間の作曲の場合でも同じで、内容の決定というのは不透明なものでしかありえない ということを述べられた。

近藤さんの著作や色々な雑誌に発表された文章を読まれている方にとっては、ここまでの発言はある意味では予想できたもので、従来よりの主張を 整理されて、わかりやすく述べられたものであるとお感じのことと思う。私の印象も概ねそうで、細部では異論がないことはないけれど、 全体としては抵抗感なく受け入れられるお話だった。寧ろこの日ならではのコメントは、それに続く「思考する機械」Thinking Machineへの 印象の方だったと私には思われた。それを私なりにまとめると以下のようになる。

現在では「再生」された音楽を聴くということが中心になっている点を前提に考えれば、音楽とはまずは音響現象であり、聴覚的な オブジェと見做すことができ、実際その前提で商品化して流通したりもしている。一方、それに対して音楽における視覚的側面や 演奏の身体性を重視し、それに加えて更に作曲のフェーズもあわせた全体を音楽とする立場もある。そして近藤さんによれば、 「思考する機械」Thinking Machineは、後者のような一連の音楽行為の総体としての音楽の表現になっている。 そこでは機械が自分で作曲し、演奏しているのを、視覚的・聴覚的に経験でき、そこに音楽行為のすべてが集約されていると 考えられるからである。そして音楽行為の表現になっているという意味合いで、それは一種のメタ・ミュージック、「音楽」についての「音楽」であり、 その様相は、パースやモリスの記号論における意味でのイコン、「音楽のイコン」であると見做せる。

これは実に興味深い発言であり、また、「思考する機械」Thinking Machineを通して、三輪さんの音楽のある側面を明確にしたものと 感じられた。実際、言い方の違いはあるけれど、音楽行為の全体を見直す姿勢は「逆シミュレーション音楽」などに明らかだし、 音楽とは何かを音楽を通じて問い直すスタンスは、メタ音楽的とも言える。そうした姿勢が「思考する機械」Thinking Machineにも はっきりと読み取れるということで、これは卓見だと感じた。論理的にも実に明快で、しかも前段の、機械のための/による作曲の議論とも 整合しているように思われる。自分の「思考する機械」Thinking Machineに対する見方の甘さのようなものを痛感する一方で、 ご自分は専ら人間のための音楽を、ご自分でお書きになる近藤さんが、「思考する機械」Thinking Machineのようなアプローチに このような高い評価をされる、その見識の高さに感嘆してしまった。このシンポジウムではこれ以外にも「思考する機械」Thinking Machineに 関する質問、コメントは幾つか出されたし、質問の中には共感できる切り口のものもあったけれど、この近藤さんの「感想」を超えるものは 一つとして無かったと思う。良く知られているように、近藤さんご自身も際立って意識的に音楽について吟味され、それと並行して 非常に実験的な音楽を作り続けておられる。私は幸い、川島素晴さんの企画による素晴らしい実演に接する機会があったが、 その経験からも、上述の近藤さんの感想は納得の行くものだった。

3.

だが、その一方で個人的な疑問や割り切れなさが、近藤さんの発言で一つ残らず解消したかと言われれば、若干の留保がついて しまうのも確かである。それらは皆、どちらかというとディティールの技術論のようなレヴェルの話であり、巨視的には反論になりえないが、 それでも幾つか疑問は浮かぶ。

例えば、機械のための/による作曲の2分法。前者について、テクノロジーの側面からの素材・媒体の拡大という側面に留意される 発言があったが、私の印象では、寧ろそうした側面がエスカレートした結果、2分法そのものを危うくし、破壊しかねないということは ないだろうか、という感じが拭い難い。三輪さんの音楽は、まさにそうしたテクノロジーの猛威の只中の「現場」からの発信ではないかと いうように思えるのである。私は音楽家ではないが、その一方で、ここでの機械の最も極端なもの、つまりコンピュータと関わって 生きている。一般にはコンピュータとの接し方は強いて言えば(1)に類比される立場になるのだろうが、そもそも「人工知能」というのは (1)をやっているうちに(2)に足を突っ込んでしまったといった性質のものなのではなかったか。コンピュータというのは、そうした区別を 曖昧にしてしまうような類の機械なのだ。しかも「人工知能」とそれ以外の技術との間には、そんなに明確な境界が存在している わけではない。勿論、最先端の研究者の研究なら純粋な(2)というのもあるのかも知れないが、私のような平凡な実用システムに 関わるエンジニアは(1)と(2)を行ったり来たりしているというのが寧ろ偽らざる実感なのである。もっとも、分野が違う人間のこうした 安易な類比は、これはこれで乱暴で粗雑な単純化を含むもので、慎重であるべきだとは思うのだが。

それは例えば、「思考する機械」Thinking Machineにまつわる、いわゆるエンジニアリングの側面をどう考えるかにも影響するように 思える。討論で「機械的な演奏」という言い回しが問題になったときに、近藤さんが「思考する機械」Thinking Machineも 正確に動いているわけではない点を論拠に、それに対してコメントされたときに私はそれを感じずにはいられなかった。勿論、誤差というのは 程度の問題はあれ無くすことはできないし、それをゆらぎとして肯定的に捉える視点があっても良いとは思うが、 「思考する機械」Thinking Machineについては、私はそれには抵抗を感じるのだ。 同じアルゴリズムを人間がやって間違えるのについてなら、それで構わないのだが、、、勿論、近藤さんが まさに直前に言われた内容の通り、作者の意図にはお構いなく、そのように「思考する機械」Thinking Machineを 捉えることができるというのは全く構わないのだが、作者の側にすれば、それは正確にバグなく動くべきなのであって、 それは例えば、演奏が一定の精度で行われるべきだ、という議論の水準に近く、そもそも「機械的な演奏」というメタファーが 問題になるような、解釈のレベルの問題とは少し違うように思えてならないのである。それは人間が作り、人間が演奏する場合には 議論の「前提」のはずなのだが、機械になると捉え方が違ってきてしまうようなのが気になる。逆にそこに「機械=正確」という イメージが逆さ映しになっているような印象が拭い難いのである。

恐らくはそれと関係することだが、「思考する機械」Thinking Machineをメタ・ミュージック、「音楽のイコン」と捉える見方もまた、 私の「思考する機械」Thinking Machineに対する違和感をうまく説明してくれない。それはお前の違和感の方が間違いだと 言われてしまえばそれまでなのだが、私の言い分は、恐らく以下の様なものだろう。

リッチズの(あえて三輪さんの名前をここでは省く)「思考する機械」Thinking Machineは、確かに「音楽のイコン」かも知れない。 そして私はまさに、そうした性質に苛立ったのだと、ふと思い当たったのである。
それはテクロノジーの持つ、上述のようなインパクトを、暴力を持っていない。せいぜいが思弁のレベルでのイコンでしかない。 いわば「たかだか」メタに「過ぎない」のだ。三輪さんがまさに「機械のための/による作曲」の両面にずっと取り組まれ、 自動作曲の現実と限界を現場の感覚として知っておられることを思えば、リッチズの機械に対する命名は、 メタファーであるか、志向的スタンスを狙ったものと考えなければ、その間のギャップは埋め難いように思われる。

「判断と記憶があれば思考だ」というのは原理的には正しいかも知れないが、これは今日においては、最大限好意的に 考えて、例えばチャーマーズがサーモスタットに意識があるかについて論じたような、あるいはホワイトヘッド的な連続主義の ような、寧ろかなり大胆な形而上学的前提に立った議論でのみ有効なもののはずだ。
そうでなければ定義上知的なマシンを作るのは簡単だということになる。人工知能の課題などないことになるし、昨今の 人工知能研究の行き詰まりなど存在しないことになる。そもそも人工知能研究の発端に、チューリング・テストのような 発想があったことを忘れるべきではないだろう。勿論チューリング・テストのみで知性を定義するのにも様々な問題があることは 指摘されている。だが、別に研究の流行を追うわけではないが、初期のAIの極端に論理主義的な前提は今や GOFAIと呼ばれることすらあるのである。

それはもしかしたら、リッチズの機械を取り巻くさまざまな制度の問題とも関連するのかも知れない。勿論、その制度こそが 「思考する機械」Thinking Machineを産み出したのだということを忘れてはなるまいが、「音楽のイコン」とて、会期が終われば 恐らくは倉庫にしまいこまれ、次にどこかで展示されるのを待つことになる。音を発することなく倉庫に保管されたそれは イコンとしては機能し得ない。あるいは壊れてしまうかも知れない。ところで、こうした制度的な側面もまた、三輪さんの活動の 主要な関心の一つだった筈である。さしあたってそれはロマン主義の時代に確立し、現在でも商業主義的な洗練を経て、 機能し続けているコンサートという制度の批判だったかも知れないが、だからといって、別の制度に乗り移ってそれが解決できる というものでは無い筈なのだ。近藤さんの音楽がそうであるように、リッチズの機械もまた、そうした制度については、あえて 超然としたスタンスをとっているように思われ、「音楽のイコン」というのはそうした前提において成立する見方なのでは、という気が したのである。

4.

以下、ディスカッションで会場から出た「思考する機械」Thinking Machineや三輪さんの作曲についての発言を簡単に振り返り、 感想を書いておこうと思う。なお、会場では発言者の名前を言うことが義務付けられていたが、以下では原則として省略することとする。 内容と、その発言の背景だけを問題にしたいからである。なお、ディスカッションでは「思考する機械」Thinking Machineだけが話題になった わけではないが、それらについてはここでは扱わない。勿論、全く無関係ではないとは思うが、ここではあえて範囲を限定して記述したい。

(1)「思考する機械」Thinking Machineのどこに「思考」が宿っているか、という質問。これはThinkingを三輪さんの意味で用いる時には 明らかで、三輪さんの回答も、当然のこととして「ボールと機械の状態を変える機構にある」ということになる。けれども以下の発言でもわかるように、 会場にはThinkingを三輪さんの意味で考えることに抵抗がある人も居たし、三輪さんの意図自体が文字通りに(納得されなくても)理解されていたとは 言い難いようだったので、この発言は寧ろ好ましく感じられた。実際、ここは本来「急所」であると言っても良いのだ。意識のアポリアで良く引かれる 思考実験には、このタイプの議論は少なくない。そこではニューラル・ネットワークをある別の媒体(コンピュータ・プログラムや単純なルールに従った 人間の集団の挙動など)に置き換えることによって何が起きるか、意識というのがニューロンという媒体と不可分のものか、 それとも同一のメカニズムを持っていれば充分なのかが問題にされるのだ。この質問者はドイツ人だったけれど、三輪さんの意図のある部分を よく掴んでおられたように感じられたし、以下に紹介する発言の全体を通じて、Golden Nicaの審査のコメントと通じるものを感じ、私としては心強く感じられた。

(2)「思考する機械」Thinking Machineとやはり今回、博物館に展示されたNomadische Harmonieとの関係。質問者は(1)と同じ。 これはまさに私が抱いた疑問でもある。(なお、Nomadische Harmonieについても「思考する機械」Thinking Machine同様、 それに触れた感想を別にまとめたので、興味がある方は参照していただければ幸いである。)
三輪さんの回答は、Nomadische Harmonieのメカニズムを簡単に紹介し、その発想が「思考する機械」Thinking Machineの先駆であると 考えられるというもの。質問者の意図としてはNomadische Harmonieに感じ取れるorganicなものは「思考する機械」Thinking Machineでは どうなったのか、というニュアンスもあったように思えたのだが、その点はその後直接論じられなかった。牽強付会かもしれないが、 彼のいうorganicなものは、私の感じた「身体性」と近い印象ではないかと思う。それだけに、この点にその後の議論のフォーカスが当たらなかった のは私としては残念だった。

(3)「思考する機械」Thinking MachineのThinkingをリッチズの定義、即ち「鑑賞者に考えさせる機械」、聴く、見るだけでなく機構について 考えさせる機械と捉えることに賛同する意見。これは「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」全体の企画者であるゴチェフスキさんのもの。 それによって、鑑賞者に別のコミュニケーションが成立しうることを述べ、さらに、小さな子供の反応、それに対する親の応答など、実際に 展示会場で見られた鑑賞者側のコミュニケーションの成立を評価する意見である。
これに対する三輪さんのコメントは、(予想されたことだが)「そうとも言える」というもの。

確かに、インタラクティヴ・アートには、作品と鑑賞者ではなく、 その場にいる鑑賞者間のインタラクションに狙いを定めたものがあるそうで、そういう意味では、これは実は典型的な反応なのかも知れない。 別にそうした見方を否定するつもりはないが、三輪さんの意図とは異なるもので、それでは「思考する機械」Thinking Machineはリッチズの 単独作品でいいことになる。(まあ実際、会場に置かれたFAQの作りといい、展示の仕方にはそういう感じもかなりあったのだが。)
またこれに関連して、このタイトルが共同制作委嘱の際に殆ど即興のように決められたというエピソードを披露なさっていたが、仮にそれ自体は事実だとしても、 だからといって「思考する機械」Thinking Machineという命名がその場の思いつきであるということにはならない筈である。 率直に言って、それが「機械と音楽」にまつわる共同制作の企画者の発言だと思うと、首を捻ってしまうが― 実際、上掲の質問やコメントをしたドイツ人のように、三輪さんのスタンスに「機械と音楽」の関係についてのラディカリズムを感じる人間はいるのだし―、 結局、ゴチェフスキさんは端的に「マーチン・リッチズ展」をやりたかっただけなのだと考えて納得するしかなさそうだ。

なお、この発言に関しては、近藤さんがThinkingを三輪さんの意味で捉えることを支持する発言をされた。その場の議論の流れを 改めて顧みるに、この発言に私は率直に言って深い安堵の念と、近藤さんはやっぱりきちんとわかってらっしゃる、という 感嘆の念を抱いたのを思い起こす。勿論、そうでなければ「機械による作曲」という側面が落ちてしまうのだから、それまでの近藤さんの 発言を考えれば当然なのだが、ご自分の制作(ポイエーシス)の現場では直接取り組まれているわけではないことを考えれば、 この発言自体に驚かれた方がいたとしても不思議ではないかも知れない。人それぞれの展望は異なり、この場では人工知能研究など 少なくとも話題の中心ではないのだろうから、近藤さんが人工知能研究に言及され、三輪さんの意図を支持されたのは、 私にとっては非常に印象的だった。仮に三輪さんが同じ事をおっしゃっても、それはご自分の意図の解説としてとられてしまった だろう。私個人にすれば三輪さんご自身が解説されれば更に良かったようにも思えるが、パネル・ディスカッションという場に 作用するダイナミクスを考えれば、この発言の持つ力は大きかったと感じられる。

だが、その一方で、その直後に続く議論の展開は、今度は私にとっては些か期待はずれのものだった。すでに述べたように、 それが「人工知能」におけるような定義に基づくものだというコメントは、それ自体間違ったものなくても、そこで固定化されて しまえば、今度は些か単純化されすぎていると私には感じられたのである。それを電気工学者の高橋さんが首肯し、更には「理系的」と いう言葉で置き換えられてしまうに至っては何をかいわんやである。

それにも関わらず、このシンポジウムの文脈では、それが適切な発言だったということもまた確かなことだ。もしかしたら、近藤さんも 高橋さんも、そうした前提にたった「聴き手へのサービス」の精神に基づく発言を、あえてされたのかも知れない。あるいはそうでなかったとしても、 仕方ない側面があることも認識している。同じ人工知能研究に携わっていても、例えば工学者と言語学者が共同研究をすることの困難、 あるいは音声認識の研究者と自然言語処理の研究者が共同研究をやることの困難を思えば、同じ「理系」でも分野が異なれば、 問題の所在についての展望が異なるのは仕方ないことなのである。

このようなシンポジウムの場では、まずはThinkingを三輪さんの意味で、 即ち、文字通りに「機械が思考する」というように受け止めることが可能であることを確認することが重要なのだ、と言われれば、それは 確かにその通りで、私の違和感はあくまでも個人的な文脈に依存するものだというのは認めざるを得ない。「そんなに文句があるなら 会場で発言したら良かったのだ。今頃になって文句を言うな」と言われてしまいそうだが、既に予定時間を大幅に超過している状況で、 私のような「部外者」が自分の関心領域に強く拘束された発言をして、時間を消費することは躊躇われたのである。ましてや名前を所属を 名乗らなければ発言はできない。それが匿名での無責任な発言への予防線で、学会などでのコンヴェンションであることは知っているが、 どっちみちこの文脈での私のロールに限れば所属などない。要するに「部外者」として、予め匿名性を刻印されているのだ。「傍聴者」は おとなしく聴いていれば良いのである。

それでも、割り切れなさが残るのは仕方ない。Thinkingを三輪さんの意味で考えることを認めたとき、それと同時にリッチズの機械の 振る舞いをThinkingと呼ぶことがどんなことであるかについての私見は、既に上に書いたので繰り返さないが、そうしたスタンスと「機械による作曲」の 方向を追求することの間には、20年前ならいざ知らず、少なくとも今日の時点では大きな懸隔があると私には思えてならない。 別に皮肉を言いたいわけではないが、文字通り、「20世紀の音楽における機械の可能性」だったら別に構わなかったかも知れない。 だが実際には、既に21世紀になっているのである。字義通りにコンテンポラリーを問題にし、テクノロジーを問題にするなら、 その違いは決して瑣末なものではないのだ。

(4)韓国ではコンピュータが用いられることが多く、メカニズムそのものに注目がいくことはないのに対し、「思考する機械」Thinking Machineは メカニズムを中心にしていて新鮮だった、というコメントは、想像がつくようにパネリストの一人である呉さんのもの。このコメントは、会場から 出されたポピュラー音楽などに典型的な「作曲者の不在」に関する問題提起への反応の一部であり、その文脈で「思考する機械」Thinking Machineに ついてのコメントが述べられたのである。それによれば、「思考する機械」Thinking Machineにおいては演奏行為も作曲行為も不在だとは思わない。 自動楽器のデザインに作曲者の意図は含まれるのであって、どのようなコンセプトで作曲を行うかという点を重視する観点にたった場合でも、 「思考する機械」Thinking Machineの意図は明らかであり、positiveに捉えているとのことだった。

このコメントは、「思考する機械」Thinking Machineを トータルの音楽行為の提示と見做す点で近藤さんの感想に近いと考えられる。作曲者の意図という点についても、ここでは音響現象の「内容」の 次元で捉えられているのではないから、これまた近藤さんの見解とは必ずしも対立しない。けれども、それでも意図の伝達の問題は依然として 残るには違いない。否、普通はこうしたレヴェルでの「意図」の方が遙かに掴み難いと思われているのではないか。そうした「意図」を評価するのは 結局、時代は変わっても、呉さんをはじめとするパネリストの方々や、質疑応答での質問者の方々を含めた、この会場の大部分を占めていたと 想像される、アドルノの言うところの「聴取のエキスパート」に限られるのではないか。呉さんはアドルノを研究されているようだったし、 このコメントは寧ろそれを出発点として議論をしていくのに適した性質のものと感じられたので、「部外者」の私としては、これが質疑応答の中で 述べられて、それきりになってしまったのは些か勿体無い感じがした。

(5)三輪さんを作曲者も含めた人の主体性を本気で消してしまおうとする唯一の作曲家として捉えているというコメントがまず為され、その上で 一方で作品には紛れもない個性が見られ、様式が存在することが指摘される。近藤さんの「音楽はセマンティック・フリーである」という議論を 踏まえつつ、個性や様式の感受が「思い込み」なのか、それとも作曲者の主体性の確保の意図が三輪さんの側にあるのかという質問がなされた。 これは日本人の音楽学者の先生の発言で、最初のコメントはニュアンス的に、それを肯定的に評価するものであったと私は受け止めた。
この質問のうち、近藤さんの提起した問題図式に関わる部分を三輪さんのケースに適用する、という点については興味深いものがあるし、 それはこうした場での議論よりも、寧ろ時間をかけた検証が相応しいテーマであると思うが、それよりも何よりもコメントの最初の部分に対して、 私は思わずあっけにとられてしまった。

もちろん、それは例えば「思考する機械」Thinking Machineの或る種の論理的な帰結である、という主張も成り立つかも知れないし、 「逆シミュレーション音楽」に対するGolden Nica講評の否定的な意見にあるようなファシズムへの懸念と裏腹の関係にあるのかも知れない。 さらには、これまた21世紀ではなく、すでに過去になった20世紀にさんざん持て囃された、かの「主体の死」を論じるような思潮との関係が あるのかも知れない。それらは、ここで私の如き人間が論じることは到底できないほど広大な射程を持つ問題に違いなく、 私がここでそれについて主題的に論じることができることなどない。それはそれこそ、このようなシンポジウムで専門家であるパネリストを 中心とした研究者の方々が論じるに相応しい話題なのだろうと思うが、時間の制約もあり、また恐らくは質問のスタンスが 最後は三輪さんの活動にフォーカスしたものであったせいもあって、この点について主題的に論じられることが無かったのは残念だと思う。

だが、いずれにしても、三輪さんのとりわけ近年の活動を拝見する限り、私見では「作曲者も含めた人の主体性を本気で消してしまおう」などと 三輪さんが「本気で」考えているとはどうしても考えられないのである。作品からの個性の読み取りの問題とは異なって、こちらは どのみち狭義での音楽の外の議論なのだから、例えば三輪さんがなぜ「架空の伝承」を設定するのか、「奉納」という言葉や 「修行」という言葉に何故三輪さんが拘るのか、あるいはそもそも何故三輪さんが作曲をするのかについて想像力を働かせれば、 理屈の上の結論はどうであれ、そこには(控えめに言っても、少なくともポイエーシスの、即ち「造る」)主体が残るように思われるのだ。

確かに、そこで言われる主体の「主体性」は、何か「新しい」「異なった」ものかも知れないが、だとしたら今度は 「主体性」の定義をせずに「主体性の消去」を論じることに無理があるということになるだろう。もしかしたら質問者はレトリカルな意味合いで、あえて挑発的な 言い回しの質問をされたのかとも思うが、三輪さんの回答は勿論、「作曲する主体の消去はしていない」であった。あくまで 「ロマン主義的な音楽観の消去」を意図しているのであって、もし「主体」という言葉を使うのであれば、「ロマン主義的な音楽観における 主体性」とすべきなのだろう。だがいずれにしても、その場合には、天才の神話や霊感による創造といったイメージにおける作者の神話の解体が 問題なのであって、作曲行為の主体の水準の話とは区別されるべきである。

「機械による作曲」の極限に「主体性の消去」のような発想が存在するという指摘そのものの方は正しいし、そうした認識は実は三輪さんもお持ちだろうと 想像するし、恐らく、今回の共同制作のモチヴェーション、そして「思考する機械」Thinking Machineという命名に、そしたヴィジョンが 影響しているのではないかとも思う。だが、実際の三輪さんの活動をトータルで見れば、それがそちらの方向を目指しているのでないことは 明らかであると私には思われる。否、「逆シミュレーション音楽」の定義を見れば、そこでははっきりと「作者」の存在が前提とされているではないか。 勿論、そうした三輪さんの方向性に異を唱えるということになれば話は全く別で、それならば成立しうると思うのだが。

(6)「思考する機械」Thinking Machineについての感想、その課題についての意見。(1)(2)の質問者のドイツ人によるもの。人間と機械の力の対立という メディア論的な視点から捉え、それを機械化された時代である今日の課題であると見做す。その上でそうした課題を考える上で、 音楽の立場の独自性を、それが思考・計算・アルゴリズムといったものとの交差点になりうる点に見出すコメントであった。

これは、シンポジウムのいわば結びとして述べられたもので、多少はそうしたコンテキストを差し引いて考えるべきかも知れないが、 私としては、シンポジウムの結びで、(別にそうする必要はないはずなのに)あえて「思考する機械」Thinking Machineへの関連付けに こだわった点が印象的に感じられた。私見では、細部には色々と疑問はあるけれど、少なくとも「思考する機械」Thinking Machineが、 まさに今日的な問題意識の産物であるという点は、全くその通りだと思う。

なお、この文章の冒頭に記述した、議論の前提としての機械に定義に関する長木さんのコメントは、この「まとめ」に対する反応でもあったのだが、 勿論、その「まとめ」が「機械と音楽」の関係の広がりのうちの一面に過ぎず、もっと別の捉え方があることを否定するわけではないものの、 これも最初にも書いたとおり、寧ろ「思考する機械」Thinking Machineを巡る議論に絞っても充分なくらい、その上に色々な意見が交錯する、 まさに「交差点」に「思考する機械」Thinking Machineがなりえていたように感じられたのである。

5.

最後の長木さんの説明によれば「Musica ex Machina ―機械じかけの音楽」全体の参加者はのべ7,000人とのこと。10月20日から6週間の博物館での展示、 コンサート2つとシンポジウム2つが公開の催しだったが、参加者数が多いのか少ないのかは私にはわからない。ちなみに2日目のシンポジウムの参加者は、 スタッフやパネリスト含め50名程度だったと思う。しかも、ほとんどの方が何らかの形でテーマに専門的に関わっておられるようで、私のような純粋な 「お客さん」はほとんどいなかったのではないか。だが、私のような「部外者」にとっても、この催しは非常に刺激に満ちたものだった。何しろ、3回会場を訪れ、 その都度の感想をこうして文章にまとめるだけのものを受け取ったのだ。改めてこうした企画に対して、受益者の一人として敬意と賛意、 そして謝意を表したいと思う。

なお、この文章の性質上、主題的に論じることができなかった「思考する機械」Thinking Machineについてはもう一度、 今回のシンポジウムに参加して改めて考え直したことに基づき、上で触れることができなかった論点も加え、 自分の問題意識に引き付けた上で、改めて感想をまとめようと思っている。

(2007.12.8初稿, 12.9,10,11,12加筆修正, 2009.6.16誤字訂正, 2024.6.23 noteにて公開)

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