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ショスタコーヴィチを巡っての15の断章(15・了)
15.
ショスタコーヴィチの姿勢は、やはり強者の、天才の論理ではないか?と問うてみる事は可能だ。 彼には武器があったし、自分の作品が己を越えて生きのびることを確信できた。 限られた生に「目的」を見出しえた。 けれども生が有限である、という認識に対して、残された生が意味あるものだ、といいうる人間が何人いるだろうか? (そう信じ込む人間はあるいはいるかも知れない。自分がひとかどの者と思い込めるデリカシーの欠如した厚かましい人間はたくさんいるから。) 己れに対して謙虚でありながら、そうあれる人間がどれだけいるのか? 「詩人の死」をショスタコーヴィチが語るのは、パラドクスだ。それ自体がイロニーだ。
永遠に回帰するもの、より大きな秩序としての大地もある(cf. ヘルダリンの後期断片)、そうした秩序に対する絶望?
利己的な遺伝子に対する認識と、それへの反逆?
実際にはショスタコーヴィチの晩年は病との闘いだったようだ。要するに今日的には要介護者だったようだから。 その中で音楽を書き、更に続けるつもりでいたことは驚異的ですらある。断筆などということはない。 本当に、死の間際まで書きつづけていたのだ。
芸術を求めているのか、モラルを求めているのか? これを二者択一にすることは難しい。 ちなみに芸術の方は、学問なり知識なりに置き換えても良い。 もっともこれは、例えばキリスト教文化圏と仏教的な文化の圏とではことなるだろう。 一方が他方に比べて優位ということはない、というのは多分、半分は間違いだ。 文化も進化論的な視点から見れば生存競争をしている。
だが、個人的には多分、モラルのない芸術や知識は受け入れることができない。 ならば逆は?美的な観点から、あるいは知的な観点からは全く凡庸だが、モラルの観点から見たら非の打ち所の無いもの。 それを受け入れることはできるだろうが、我が物とすることには多分抵抗がある。 だが、それが実際には両立しえないとしたらどうなのか?
結局、個人的な問題を言えば、なぜ私は音楽を聴くのか、音楽を聴くことで何を得ているのか、ということになるだろう。そしてそれが何故音楽でなくてはならないのか。 端的に言えば、私は生きる姿勢のようなものをそこに求めている。 出来上がった作品も、その姿勢の中に含まれるから、作品はどうでもいい、というようには考えない。作品は抜け殻に過ぎない、という考え方もあるだろうし、作品と演奏の間の問題が 「向こう側の事情として」あるのも理解しているが、私は、作品を作り上げること、をその生き方の姿勢の不可欠の要素として考えている。 もし、倫理的な振る舞いだけを考えれば、偉大と呼ばれる音楽家ですら、極めて不徹底な存在になるだろう。欠点のない聖者を求めているのではない。だが、それでも作品だけで 作者はどうでもいい、とは考えない。 作品は作者の主観の表現であるといったたぐいのロマン主義的な発想に作品が基づくか(少なくとも作者の主観的意図として)どうかによらず、やはり作品と作者を切り離して考えたくはない。 それはやはり生き物の行動とその結果に違いなく、そういう視点を放棄することは考えたくない。 行為だけで結果はどうでもいいわけでもなく、結果がよければ意図はどうでもいいわけでもない。
そしてできればその音楽は音楽自体が、私の感じ方や考え方、生きる姿勢にアフェクトをもって欲しいのだ。そういう意味では、ロマン主義的な音楽は、私の場合という個別のケースでは 少なくとも結果的に、優位にある。そのように感受が組織されてしまっているという結果論であっても、仕方ない。少なくとも、実験的な音楽は、ショスタコーヴィチの音楽が与えてくれるものと 等価なものを与えてくれない(し、それはないものねだりなのである。そのかわり別のものを与えてくれる。)そして、私にはショスタコーヴィチの音楽のようなタイプの音楽が必要なのだ。
意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。 だが、意識の「何を」解けばよい。 音楽は無力。だが、信仰もまた。 それは「私」しか救えない。 音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。 作ること、演じることは、役に立つ。 だが、聴取は他人には働きかけない。 それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。 信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。 だが、二人称の問題に対しては無力だ。 無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。 委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度がなくても、存在するし、意識することができる。 意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。 二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。 ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで扱わなくてはならない。
(2006.4--2008.10 / 2008.11.7/8/9, 2009.8.15, 11.15, 2024.12.30 noteにて公開)