モリス・ラヴェル
いつもそんなに身近に感じているわけでもない。ある時期にその音楽に熱中し、そればかりを聴いていたということもない。にもかかわらず、ふと振り返ってみると随分と長いこと、しかもコンスタントに聴き続けている。しかもその作品のかなりの部分をくまなく聴いていて、その割合たるや数少ないお気に入りの作曲家に比べて勝るとも劣らない。私にとってはラヴェルの音楽はまさにこうした例外的な位置を占めている。 それだけではなく、ラヴェルの人と音楽との関わりに対する関心はますます大きくなっていて、これまで周縁的であり続けてきた存在ではあるのだが、今後は徐々に興味の中心に移ってきそうな気がしている。
ラヴェルは自己を語らない、と言われる。印象主義から新古典主義へといった潮流のような環境からも、壮大な身振り、やりすぎを忌避する本人の気質からも、芸術家であるよりは職人であろうとする作曲上の姿勢からも、ラヴェルの音楽はロマン主義的な作者と作品の関係からはほど遠いのだろう。模倣の、イロニーの、仮面の大家、完璧主義と引き換えの人工臭といった評価もまた、その作品と人との関係に存在する屈折を告げている。 にも関わらず、そうした身振りもひっくるめて、ラヴェルの音楽には作曲家の姿がはっきりと刻印されているのだと私には感じられる。自意識にまつわる逆説をラヴェルのケースは鮮やかに示しているのだ。
そしてまたラヴェルについては、なんと多くの証言が残されていることか。音楽学者ならば主観的なバイアスを気にするのかもしれないが、後世の人間の無遠慮で無礼ですらある詮索をよそに、ラヴェルに直接接した人たちそれぞれの主観のフィルターを通して捉えられた ラヴェルの姿はくっきりとした印象を残す。概説的な評伝を読んだ後でそうした一次資料に遡った人は、ある意味では逆説的ともいえるような意外感に満ちた経験をすることになる。そして私見では、その印象はその音楽と些かも齟齬をきたしているようには見えない。
私がその作品に見出すのは、自分の感情を押し売りしない節度、仕事に対する誠実さ、モラルに対する厳格さ、親しい人間に対する信頼、「大人」の世界に対する懐疑と怒り、そして運命に対する深い悲しみ。ある意味では芸術家のイメージには相応しからぬ、ごく普通の、等身大の人間だ。確かにちょっとエキセントリックなところはあるけれど、人によっては「小市民的」と呼ぶかもしれないような常識人。 それでは夜のガスパールにおけるような怪奇趣味はどうなるのかといえば、若い時期に或る種の極端さに惹かれることは、別に大芸術家でなくても起きることだし、心の奥底にある衝動というのは、芸術家の偉大さを担保するわけではない。ダンディスム、あるいはおもちゃや紛い物への嗜好もまた、そこにあたかも彼の芸術の謎を解く決定的な鍵を見出したかのように取り立てるのは、滑稽にみえる。 要するにラヴェルの人と音楽には或る種の低徊趣味があって、何か新奇なもの、偉大なもの、時代に先駆けたものを探そうとする人間の期待をはぐらかすかのようなのだ。
だからラヴェルは学者にとっては扱いにくい対象だろう。彼を研究対象として扱い、彼を利用して何か気の利いたことを言うのは難しい。発展と進歩を暗黙のうちに前提としている音楽史の中では彼は厄介者で、せいぜい(もしかしたら揶揄を込めて)有名ではあるが、二流の価値しかない作曲家ということで済まされてしまう。彼を取り巻く環境が興味深いものであったが故に、その時代の空気を描き出す作業は、人によっては興味をそそられるものであるのだろうが、そうした群像の中で、彼をひきたたせようとすれば、その些かエキセントリックな言動や趣味にでも言及するしかない。そしてそうした言動や趣味自体が時代に影響されたものであるゆえ、時代を描こうとすれば、彼は欠かせぬ味付けになるのだろう。時代の証人、「趣味」の体現者、というわけだ。そして勿論、彼を「楽聖」として扱い、その生涯を偉大な芸術家の伝説として飾り立てることはひどく場違いなことに違いない。
彼の作曲職人としての技術は例外的なものだった。多くの作曲家が、演奏家がラヴェルの秘密を、それぞれなりに、かつまた実践的な仕方で見出している。そしてまた、彼の音楽は疑いようのないポピュラリティを獲得していて、一言あるような「通」を自認する人間や、専門家を自称する人間なら顔をしかめるような聴き方をも含めて、いわゆるクラシック音楽の境界を超えて、多くの聴き手がラヴェルの音楽を聴くことに歓びを見出している。 私もまた、ラヴェルに関しては、そうしたフランス音楽に造詣の深い「通」の聴き方からは遠く、その音楽に対して距離をおいて、どちらかといえば斜に構えた接し方をしてきたし、それは今後もあまり変わることはないだろう。それでいてラヴェルの音楽が私を捉えて離さない、そのありようも変わることがないように感じている。例えば晴朗で均整のとれた、古典的な清澄さをもった「クープランの墓」や「ソナチネ」にこめられた深い悲しみは、私にとってかけがえのないもの、あるときにふとそこに立ち戻らざるをえないような貴重なものなのだ。
その一方で、その人間と音楽との関係に対する興味もまた、尽きることはない。 ジャンケレヴィッチが鮮やかに、このうえもない的確さで描き出した様々な主題系は、その華麗な修辞に埋もれさせてしまうにはもったいない問題を含んでいる。(個人的に興味深いのは、音楽と本質的に関わったもう一人の哲学者、アドルノとジャンケレヴィッチがほぼ一度きり交差するのが、まさにラヴェルを介してであることだ。一般には無調の哲学者アドルノがラヴェルに言及することの方が意外に思われるかも知れない。だが、非本来性の哲学者にとっては、イロニーと仮面、意識のパラドクスを体現するようなラヴェルの姿勢は寧ろ親和的と言ってもいいだろう。しかし私見では実はそれ以上に、身近に接した弟子のロザンタールが見事に言い当てた、ラヴェルの音楽に滲み出た「優しさ」こそが、アドルノの心を捉えたのではないかという気がしてならない。言われるところのマンダリン的文化保守主義の姿勢に由来するアドルノのペシミズムがラヴェルに同調者を見出した、というのは些か一面的な捉え方であるように思われる。)
21世紀の今日の人間は、1964年の「楽興の時」に収められたこのラヴェル論の初出が1930年の「アンブルッフ」第12巻第4/5号であることに留意して読むべきであろう。つまりこれはラヴェルの生前に書かれた文章なのだ。ボレロは書かれていたが、双子のような(これは似ているという意味ではない) 2曲のピアノ協奏曲はまだ書かれていない。ラヴェルが病のために頭にある音楽を書き留められなくなるまでには、わずかだが時間が残されている、そんな時期に書かれたことを考えて読むべきなのだ。アドルノの方は、ラヴェルが晩年の沈黙に入るのを追うように、1933年のナチスの政権掌握の翌年、ロンドンに亡命する。
シェーンベルクの音楽を研究し、高く評価していたラヴェルその人がシェーンベルクの一派の論客の書いたこの文章を知っていたかどうか、私は知らない。アドルノは30年後に再びこの文章を論集に編むにあたって加筆をしたとの記述があるが、それがどの部分であるかは―初出誌との比較をすればわかることなのだろうが、私にはそれができないので―これまた詳らかでない。またとりわけ、この末尾の一節を、すでにeiner anderen Ordnung der Dingeにあって読み返したアドルノが、自身どのような思いに捉われたであろうかもまた知る由もない。 だが、更に40年以上の歳月が経過した極東の異邦でこの文章を読み、ラヴェルの音楽に耳を澄ませる人間は、それぞれがこのアドルノの言葉を自分に向けられたものとして反芻することになる。
ラヴェルにおけるジャンケレヴィッチの視点の再検討はいずれにせよ必要だろうし、その際には、アドルノの視点をあわせて考える必要があるだろう。仮面についても然り、子供についてもまた然りだと思われる。 ラヴェルの音楽が幼児性への退行の音楽だというのは、あまりに単純化した見方で、作品の多様性を全く扱い得ない。それは寧ろ、大人の、痛みの音楽なのだ。ロマン主義的とはいえなくても実存的ではあるし、鋭さにも欠けていない。だからここでもまた観相学が必要なのだ。語られた素材ではなく、語り方に。クープランの墓、ソナチネ、2つのピアノ協奏曲、 2つのワルツ、そしてマダガスカルとマラルメ、、、
意識のあわられについて語りうる音楽は限定される。だが、ラヴェルの音楽はまさに意識のあらわれの音楽なのだ。高度な推論者の要件は満たしているが、記述という点では屈折や韜晦が大きいから、よく言われるように、その内容について直接語ることは難しいのだろう。だが、例えば死についての意識が、基底の響きとしてラヴェルの音楽に存在するのはほぼ確実なことのように思われる。あるときには一見、素材として扱っている身振りの影に、あるいはレティサンスによって、あるときにはもっとはっきりと素直に(クープランの墓)。そして、最後にはより直截な仕方で(ラ・ヴァルスから、左手のための協奏曲へ。) ラヴェルの音楽もまた、意識の音楽として捉えることができる。擬古典的なたたずまいや技術的な完全主義も単なる「見かけ」ではないが、ラヴェルの音楽にはそれだけでは収まらないものがある。しかもそれは、晩年になってよりはっきりとしてきたとはいえ、ずっとあったのだ。だから著名な研究家の口から、晩年になってロマン主義に到達した時に、心因的なものによって創作が堰き止められてしまった、というような言葉を聞けば、その不可解さに驚きを禁じえない。並外れた感性と趣味に関する正しい感覚に基づき、さらに綿密な調査と緻密な論理によって構築された立派な研究の蓄積に裏打ちされた一流の先生の発言だから、私の見方が間違っているに違いないのだが。
「隣人」であったZoghebとのこの痛ましい対話は、Jean Echenozの小説(Minuit, 2006)にも変形を受けた上で組み込まれている(p.119)。だが、そこではZoghebはラヴェルの問いに答えないことになっている。Echenozの小説も悪くはないが、個人的にはJourdan-Morhangeの回想に収められた Zoghebのこの回想の方が印象に残っている。「ラヴェルと私たち」は翻訳も丁寧なもので、著者の気持ちの流れのようなものを汲み取った訳文になっていると感じられる。ラヴェルの人を知るには欠かせないと感じられるだけに、現在入手が困難なのが残念である。
まずもって、晩年ラヴェルの創作を不可能にした病ははっきりと器質的なものであって(それだけに一層、晩年の彼の姿は実に痛ましい)、彼が書けなくなった理由をそれ以外のところに求めることは、よほどの空想の裡でない限りはできないだろう。彼の頭の中にあった音楽を知る術はないけれど、彼はそれを書き止めたくて仕方なかったに違いない。一体それがどういう道筋で心因的なものによる創作の放棄になるのか、私には理解できない。勿論、はっきりとした徴候が現れる以前から恐らくはゆっくりと進行していったであろう病の経過が、どこかで作風の変化に繋がっていた、という見方を否定することはできないだろう。だが、これは心因的なものによる創作の堰き止めとは別の話である。結局、心因的なものによって、創作自体が堰き止められる理由がどこにあるのか、やはり私にはわからないのだ。否、晩年のラヴェルがそうした主張を聴いたら、一体どういう気持ちになったかを思えば、やりきれない気持ちにすらなってくる。そうした断定が「学問研究」の結果だというのなら、私個人としては、沈黙を選んだほうが良いかとさえ思えるほどである。
この悲痛なやりとりはJourdan-Morhangeの回想の導入をなす第1章の末尾におかれている。彼女は、このラヴェルの言葉を、その時に彼女が見た ラヴェルの表情―彼女以外には知るものがいない―を、是が非でも伝えたかったのだと思う。 自分自身、病のためにキャリアを中断しなければならなかったJourdan-Morhangeにとって、晩年のラヴェルの苦しみは勿論、他人事ではなかっただろう。特に最後の一文の重みを感ぜずにはいられない。 勿論、こうした一次資料に記された「主観的な」コメントに異を唱え、ラヴェルの場合には心因的なものによって創作自体が堰き止められたのだ、と主張されてしまっても、―私には、何を根拠にそんなことが言えるのか、全く理解できないのだが―原理的に反証不可能な事柄である以上、完全に反駁することはできないだろう。だが―腹は立つから、あえてこうして書いているのだが―机の叩き合いなどしても仕方ない。そうした主張が学問なり評論なりとしては意義あるものだとしても、そんなものは単なるラヴェルの「ファン」である私には結局不要なものなのだ。
ジャンケレヴィッチの周囲をうろうろし続け、レトリックにレトリックを重ねて深遠そうな表現を振り回して見せたり、海外の研究者の言葉を引きながら、批評に批評を重ねたり、もってまわったような言い回しで気の利いたことを言って見せ、自分の「趣味」の押し売りをやって通ぶって見せるよりは、そうした主題系を現代的な文脈で展開していく方が余程興味深い。一つだけ例を挙げれば三輪眞弘のような作曲家がラヴェルを素材として引用することが持つ意味合いを考えることは、そうした主題系の現代的な捉えなおしをするための格好の手がかりであるように思える。
(2006.7.22, 2007.1.13, 6.13, 23加筆修正,2024.6.23 noteにて公開)
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