「スポーツ劇」を観て
2016年3月11日 KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ
KAAT×地点「スポーツ劇」
制作:KAAT神奈川芸術劇場・地点
原作:エルフリーデ・イェリネク
演出・構成:三浦基
音楽監督:三輪眞弘
(合唱隊:朝日山裕子・礒崎祥吾・宇澤とも子・大畑和樹・大道朋奈・後藤天・鈴木修平・相馬陽一郎・田嶋奈々子・野澤美希・圜羽山圜・村田結・柳内佑介・米津知実)
劇団「地点」の「スポーツ劇」の横浜公演に立ち会った感想を以下にまとめておく。
まず、普段足を運ぶ演劇といえば専ら能と狂言ということになっている私が この公演に足を運んだのは、三輪さんが音楽監督という立場で参加しているからに他ならない 事を前提として明記しておくべきだろう。従ってこの上演の音楽以外の側面については、 原則として、音楽について感想の述べるために必要となる範囲でのみ言及することにする。 この上演における演劇と音楽の関係自体、非常にユニークなものだが、それを専ら 三輪さんの文脈で眺めたらどのようなものであったかについてのドキュメントとして 捉えていただければと思う。先回りして言っておけば、上演の質は舞台、合唱隊ともども 非常に高いものであり、しかもその程度は、そうした質の高さがあって初めて実現可能になる、 メディアの自己批判(この点については以下で具体的に述べることになろう)を 可能にするに足るものであった。
なお、言うまでもないことだが、劇団「地点」と三輪さんの共同作業はこれが始めてではなく、 やはり同じイェリネクの原作による「光のない。」があり、これは大変に素晴らしい上演で あったようだが、残念ながらこれは私は観ることができなかった。従って、恐らくは興味深い ものであろう前回との比較は、それが可能な人に委ねるほか無く、以下の感想では専ら この作品の上演に一度きり立ち会った感想に限定せざるを得ない。
単刀直入に感想を述べれば、三輪さん独自の「逆シミュレーション音楽」が寧ろ「スポーツ劇」の方を 自己の解釈としているかの如くで、圧巻であったということに尽きる。「スポーツ劇」だけ 拝見した限り、これよりうまく行っているというのは考えにくい程の成功と感じられた。 いきなりこういう書き方もどうかと思うが、正直に言って、「恐れ入りました」という思いに囚われた 程であって、結果だけ見せられればこれはほとんど完璧といって良い、全く自然で、隙のない、恰も このようになることが当然であったかの如くにさえ感じられるような関係が、演劇と音楽との間に 成立していることに圧倒されてしまったのである。
「光のない。」は東日本大震災と、それにより引き起こされた原子力発電所の事故に対する 証言・最早不可能にしか感じられない極限における応答としてのLux aeternaを作曲、初演していた 三輪さんの当時の文脈に合致していたのに対し、ここでは表面的には、東京での開催が予定されている オリンピックが文脈となっているのであろうし、そうした側面は、ある作品をまさに「今、ここ」で取り上げる 契機として決して軽んじるべきではなかろうが、私見ではここでの音楽の在り方は、狭義のスポーツに 留まらず、演劇や音楽そのものも含めた舞台芸術をもその批判の射程に含んでいるように思われたのである。
勿論それは、音楽が舞台を圧倒していたということではなくて、それが非常に高度なレベルで拮抗して いたからこその印象であろう。音楽の側から見れば、これは劇伴などでは全くないし、さりとて オペラから能、人形浄瑠璃、歌舞伎やらに至る音楽劇でもない。「合唱隊」と名付けられていても 音楽はギリシア悲劇におけるように、あるいは能楽における地謡や囃子のように舞台上の出来事を注釈したりは しない。そういう意味では、恰も舞台上の出来事とは直接は無関係な、音響的な背景を為すように 演じられる。それは何等かの心理的・情緒的な反応を表現するのでも全くなく、強いて言えば、 「スポーツ劇」の上演全体が「逆シミュレーション音楽」おける「由来」であるといった状況が仕組まれている と考えるのが妥当のように思われる。もっともそれは、狭義の「逆シミュレーション音楽」に属するという よりは、「愛の賛歌」、「算命楽」、「59049年カウンター」、「みんなが好きな給食のおまんじゅう」、 「火の鎌鼬」といった三輪さんの一連の、所謂「シアターピース」としての性格を備えた作品系列の一つと して位置づけた方がしっくりいきそうな気もする。違いはと云えば、それらの作品においてはシアトリカルな 側面もまた、音楽を生成するアルゴリズムの制御下にあるか、そうではなくても云わば随伴的な位置づけと なっているのに対し、ここでは一見したところ音楽とは無関係に進行している点にある。
その結果として、劇伴などからイメージされる通念に対して、ここでの機能的布置には明確な逆転が 起きており、結果として「逆シミュレーション音楽」が、「つまり」「音楽」が或る意味で 「スポーツ」でありうること、更には劇の上演自体もまた或る種の「スポーツ」でありうること、 いずれもが特定の目的のために高度に訓練され、組織された身体により可能になるアクロバットであることが、 示されているように感じられる。そしてそれはこの上演の質が高ければ高い程、強く感じずにはいられない。 舞台に設えられた芝生のフィールドを模した斜面を上り下りしつつ、過剰に感じられる程の言葉の氾濫を鮮やかに こなしていく役者の方々も、舞台の両脇の2階のバルコニー部分で2時間近くに渉って、 規則に基づく音楽の演奏を繰り広げた「合唱隊」の方々も、丁度スポーツがそうであるように、 この上演に向けて周到な準備を行い、観客の前でその成果を 披露するのであり、スポーツのみならず、自身も含めた「見世物」一般、古代ローマにおける 「パンと見世物」のそれ、フランス革命期の「理性の祭典」、ファシズムや社会主義国家における スポーツ、マス・ゲーム、歌と踊りのアンサンブルといったものの持つ危険性を浮かび上がらせているのだ。 三輪さんのこれまでの活動を俯瞰し、「逆シミュレーション音楽」の来歴を確認すれば、人は直ちに 「ほとんどファシズムに見られるような制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの 概念を持ち出してきた」という「ゴールデンニカ」の講評の中の一節を思い浮かべることになるだろう。
このような書き方をすると、その成功がコンセプチュアルな次元のものであるというように 受け取られるかも知れない。勿論、結果として相対的な印象として行き着くのは、 コンセプチュアルな次元での一見したところ奇跡のようなコンフィギュレーションの「正しさ」の 感じなのだが、実際にはそれは一つ一つが閃きに満ちた夥しい技術的な細部の集積に支えられたものなのだ。 残念ながらそれらが有機的に連関して、全体としての「正しさ」の印象を生み出している様相を 描き出すのは私の能くするところではないけれど、せめてそれの不完全な代補として、 一際印象に残った幾つかの細部を如何に記録しておくことにする。
イェリネクの原作を知った上で上演に接した人は、まずごく表面的なレベルで、この上演が 必ずしも原作に忠実なものではないことに直ちに気づくであろう。例えば衣装についての 原作の指示は以下の通りである。(以下、引用は総て「現代詩手帖2016年3月号」所収の津崎正行訳による。)
かならず守らなければならないのは、次のことだけである。 ギリシア劇のコロスは、数人で登場するときでも、 また誰が登場するにせよ、(…)スポーツの服装をしなければならない。 (…)
私がコロスに望むのは、次のことである。 コロスのリーダーは(…)ピアスでスポーツチャンネルとつながっていて、 あらゆる注目すべきスポーツイベントや最新の結果について、 彼(彼女)の判断で、観客に知らせること。(…)
コロスのリーダーに選ばれるのは(…)即興に長けた者であること。 その人物が舞台裏に行き、演技を中断しつつ、新しい結果を告げると、 コロスはそれを受けて、声をそろえて復唱する。 それも、まさにそのことによって筋が中断されるように行うこと。
演劇ではシェイクスピアのような古典も含めて寧ろ「当たり前」で、その点では特に最近、 音楽よりも演出が全面に出る傾向にあるオペラもそうなのかも知れないが、この上演では、 少なくともこのイェリネクの指示に関していえば、それは全く守られていない。 例えば初演の際のアイナー・シュレーフの演出においては、コロスがかけ声をあげながら 四十分間に渡ってマスゲームを繰り返したとのことだが、こちらはイェリネクのコンセプトの 具現化と言うことができるだろう。それに対し、ここでは寧ろ原作の指示を逆転させるかのように、 合唱隊がではなく、舞台上の役者がスポーツウェアを身に纏い、スポーツシューズを履き、 コロスは黒づくめの衣装で舞台の両脇の2階のバルコニー部分に立ち、2時間近くに渉って、 舞台の上の出来事とは全く独立に、独自の演算規則に基く音楽の演奏を繰り広げたのである。 衣装に関して言えば、三輪さん自身は、当初体操服(ユニフォーム)を提案したものの、 演出の三浦さんと相談の上で、衣装を担当されたコレットさんが決定したものとのこと。
同様に、舞台についての作者の以下の提案もまた、その通りには採用されない。
舞台そのものについては、それを横切るようにして、二つの領域に分断してもよいかも知れない。 (…)それは、二つのファンの集団がすぐにつかみ合いの喧嘩を始めてしまわないように、 たがいに、分けるためのフェンスである。(…)
実際の舞台では、舞台の最前面を覆うようにバレーボールのそれのようなネットが張られ、 ネットとネットの奥の芝生のフィールドを模した斜面には、舞台上の演技と同期して、 一定のタイミングで舞台が暗転し、轟音が響き渡る時に、合唱隊の演奏のもととなる 計算プロセスが投影されるのである。(私は初めのうち、合唱隊の行う演算がある状態に到達した タイミングで、それがトリガーとなって舞台がリセットされるような錯覚を抱いたが、 しばらく繰り返しを経験するうちに必ずしも同期しているわけではないらしいことに気づいた。 実際には舞台に映し出される画面は、暗示的なもので、作曲の際に使っていたモニター画面を 事前に録画したものを表示しているだけでありそのタイミングでの合唱隊の状態とは 同期しているのではなかったようだ。)
ちなみに、原作では様々な情報を平板化・均質化し、人々の団結を妨げるメディアとして テレビが取り上げられているのだが、この上演では舞台上にモニターが登場することはなく、 上述の斜面がスクリーンの役割を果たすのだが、結果として、舞台上で起きる出来事を、 恰もテレビを見るかのように受身で眺める(ことを強いられる)のは観客であって、 役者がスポーツウェアをまとって反復横跳びをするのを、スポーツ観戦でもするように 眺める(ことを強いられる)というように、捻りが加えられていたように見受けられた。 (ただし、それが結果としてどのように機能し、それが演出の狙いを実現したもので あるかは私には判断できなかった。問題提起、挑発としては疑いなく機能していたと思うが、 現実の状況が持っているであろう含意の錯綜を汲みつくすことの困難さを寧ろ 感じさせられたというのが正直な印象である。)
「スポーツ劇」というタイトルにも関わらず、イェリネクの原作の「詞」を追う限りでは、スポーツの暴力も メディアの暴力も重層的なモチーフの一つに過ぎず、寧ろ「光のない。」においてソフォクレスの サチュロス劇断片が素材として用いられていたのに呼応するように、ここでは「エレクトラ」が 参照され、父の最期を看取る際の母娘の葛藤が、作者の分身とでもいうべき「声」によって 語られていくのが、いわば「主声部」であるように感じられた。ただし、それがスポーツウェアを 纏った役者によって語られることに結果的になった点を措くとしても、キリスト教的なモティーフの 挑発的な取り扱いが重ね合わせられる部分など、宗教的・文化的伝統が異なり、抑圧的に機能するイデオロギーが 全く異なる日本での上演では消化不良になっても仕方ないような原作の側面は、それが原作の骨格を為して いることもあって、あえて割愛されることなく遺されていて、このあたりの演出上の処理の困難さを感じたりもした。
寧ろ日本の文脈への読み替えという点で最も印象的であったのは、それまで演算規則に従って行なわれていた 合唱隊の演奏が、途中、明らかに「君が代」に変容した点であろう。勿論これは状態遷移の計算結果の一部で あろう筈はないが、その埋め込みは慎重に行われており、あたかも別の変奏プロセスが組み込まれているかの 印象を覚えるほどであった。実際三輪さんには、オーストリア皇帝賛歌にも転用された旋律を主題とする変奏曲を 第2楽章に持つハイドンの弦楽四重奏曲に基づく弦楽四重奏曲「皇帝」という作品があって、そこでは三輪さんが 実装した、あるアルゴリズムに基づくコンピュータプログラムが自動生成した変奏により、オーストリア皇帝賛歌が 最期には「君が代」に変容してしまうのだ。
上記の例もそうだが、私のような三輪さんの側からこの上演に接している人間にとっては、三輪さんのこれまでの 活動を参照することによって、イェリネクの作品を「今、ここの」パースペクティブの中に移し入れることに 成功していると感じられた点は数多くあった。その中で一見したところその成否がわかりにくく、だがもしかしたら 最も深い部分を探り当てているかもしれないと感じたものとして、合唱隊のが厳密に定められた規則に従って ドレミパイプを演奏しつつ囁く言葉の中に、「言葉の影」以来の「アレルヤ」の系列に連なるものが含まれていた点がある。 (上演中には、それがドイツ語であること、「血(Blut)」という言葉が含まれていること以上のことははっきりと確認できず、 そこから勝手にナチスのイデオロギーを連想してみる位が関の山であったのだが、後で三輪さんに伺ったところに よれば、囁かれていたのはシュトラウスの『エレクトラ』の、(従ってイェリネクの同郷人であるホフマンスタールの) 書いたリブレットの台詞の一部の引用であるとのこと。)付け加えて言えば、こちらは流石に偶然であろうが、 舞台の側のボディー・ビルディングのモチーフすら、寧ろ「言葉の影」の問題系へと 折り返すことによって、原作者が意図していなかったような連関を見出す可能性が暗示されていたように感じた。
スポーツウェアを着ているのに、舞台の上は父親殺しの主題系の方が支配的であったように感じられたこと自体は、 単に原作がそのように書かれているからに過ぎないかも知れないが、あまりの饒舌な言葉の氾濫の中で、 客席で「傍観」するがままの人間の耳に遺り、心に突き刺さるのは、混沌の中から、もしかしたらその混沌故に 却って文脈のようなものと剥ぎ取られて剥き出しとなった叫び、公的な歴史では抹消され、自分が生きた痕跡すら残らない、 大多数の死者たちの「どうして、私たちが全部、有名になるというわけにはいかないのでしょうか。」 という叫びであり、それと鏡像を為すかのような、作者=エレクトラの「もしもある人が死んだならば、 その人はもう帰ってこない」という叫びではなかろうか。イェリネクが仕組む様々な挑発、告発は、行き着くところ そうした「人間」の条件、限界に由来するのではないか。
だがその一方で、この2つのテーマを一つの作品に溶かし込んだイェリネクの狙いを、もしかしたら作者の意図を超えて 敷衍しつつ、自分達の課題として捉えなおそうとしたときには、これまでの「人間」概念が無自覚に前提としてきた 人間を取り巻く条件、例えば「死に向かう存在」、例えば「利己的な遺伝子の運搬体」といった個体としての 有限性のような前提条件を括弧に容れ、ポストヒューマン的な視点からの肉体や生命概念の見直しといったような文脈を こちらで補って読み取る必要があるのかも知れないようにも感じられたのである。そしてそうした感覚の由来を考えると、 これもまた、寧ろ三輪さんの主題系、更にはフォルマント兄弟の主題系において良く理解できる事柄であることに気づかされるのである。 結果として、三輪さん独自の「逆シミュレーション音楽」が寧ろ「スポーツ劇」の方を自己の解釈としているかのように感じられる ということなのだろう。
であってみれば、ここから更に進もうとすれば、この上演に先立って書かれた三輪さんの文章「コンピュータ語による詩作と朗読」を 上演の経験と突き合わせて見るといった作業が必要となるのだろうが、それを今ここですることは到底叶わない。 それゆえここでは一旦、感想を書き留めておくに止め、三輪さんの論考については後日を期して、稿を改めて 取り上げることとせざるを得ない。
最後にもう一度巨視的な、コンセプチュアルな側面に立ち返って、その奇跡的とさえ感じられる 適切さ、正しさの印象は、僥倖によるものなのかと考えてみる。結論から言えば、それは 偶然に生じたのでは決してないように思われる。私がここでアナロジーとして思い浮かべるのは 現代数学におけるラングランズ・プログラムのことである。専門分化の進んだ数学において、 一見したところ懸け離れている領域間(例えば数論と調和解析、幾何学の間)のみならず、 量子物理学のような数学の外部との間さえ、隠された、だが強固な連関があることが 明らかになりつつあるのだが、そこではある領域でわからない事柄を、別の領域を使って解くことが できるのである。「逆シミュレーション音楽」が、音楽というものの在り方を、 根源的という意味合いにおいて「ラディカル」に問い直すものであるものであるならば、 それはまた、一見すると別の領域のある事象との間に存在するけれど、様々な表面的な装いに覆われて 隠れてしまっている、構造的で必然的な連関を浮かび上がらせるための強力なデヴァイスであり、 同様に、「逆シミュレーション音楽」を通じて他の領域で未知の事柄を明らかにすることが できるのではなかろうか。
勿論、ラングランズ・プログラムの下での探求が、それ自体はどこを辿れば良いかすら 明らかではない未踏の領域を手探りで踏破する、現代最高の数学的知性によってのみ 可能な試みであるのと同様、ここでの探求も、膨大な技術的細部における 試行錯誤を必要とする、道無き道を踏破する困難極まりない試みに違いなく、 結果として得られるものは事後的には必然の連関であったとしても、 それを探求する過程の方は、一定のコストをかければ確実に収益が得られる 類の営みではありえないだろう。少なからず偶然の働きによる幸運に恵まれることなしには 踏破は不可能でさえあるかも知れないのだが、その一方で、そうした幸運が、 見返りがないかも知れない絶えざる探求なしに訪れることはないのではなかろうか。
そのように考えれば、この「スポーツ劇」の 上演の成功は、一期一会のチャンスを捉えたものであると同時に、これまでの三輪さんの 四半世紀を超える探求がもたらした成果でもあるのは当然のことなのだろう。 私自身はまだ、三輪さんの活動を同時代人としてフォローするようになってやっと 10年余りの年月を経たに過ぎないけれど、この上演を頂点の一つして含む 三輪さんの近年の達成の数々(それは「傑作の森」と呼ぶに相応しい)は、 恥ずかしながらその都度の時点での自分の判断が見通しが利かないものであり、幾度かは、当否について寧ろ懐疑的でさえあったことを認めつつ、今、ここで 振り返ってみれば、そうした自分の予断を大きく超えて、或る種必然の帰結であるかのような感覚を拭えないのだ。 そうした稀有な達成に同時代に生きて立ち会うことができる僥倖に感謝しつつ、 ここにまた一つ、未踏の高峰の踏破が達成されたことを心から祝して、この拙い感想の結びとしたい。
(2016.3.27~6.10, 6.14指摘を受け、舞台装置の記述につき訂正。ご指摘に感謝します。7.11加筆修正, 2024.10.10 noteにて公開)