義経千本桜を観る(2003.9)
2003年9月公演は義経千本桜。昼の部を初日に、夜の部を中日前日に観た。
昼の部は初日のせいか、まだ整理されていない感じが強く、あまり楽しめなかった。 特に渡海屋は、公演後半を観た人の評判は良いようなので、なおさら残念に思う。 夜の部はうってかわって、非常に楽しめた。まずは鮨屋。切り場前半の住大夫さんが 素晴らしい。緩急もよく、メリハリもついて、実にわかりやすく感動的だった。 特に維盛の描写が素晴らしく、第一の頂点である若葉内侍との再会の場面は感動的 だった。それだけに、その後のお里のクドキの部分の説得力が大きくなる。勘十郎さんの お里は大変大きく、はっきりとした遣い方で、この役に合っていると感じた。 切場の後半は、簑助さんの権太が素晴らしい。これまで素浄瑠璃で聴いてきて、 この切場、前半は素晴らしいが、後半はあまり説得力を感じないできたが、 今回は簑助さんの人形に説得された感じだった。(やはり、話自体には納得でき なかったが。)
道行初音旅は、何と言っても寛治さんの三味線が素晴らしい。まだ幕の落ちる前から 三味線の音が風景を描き出しているのだ。紋寿さんの静御前、文吾さんの狐忠信とも こうした道行のうまさは際立っていて、観ていてじわじわと良い気持ちになる。 扇の扱いなどの細かいところもきちんと決まり、観終えて晴れ晴れとした気持ちに なった。こういう気分になったのは久しぶりで、やはりとてもよいものだと思った。
全体としての印象は、しかしながらあまり強くない。これは一つには、私にとって 平家物語は、まず原作に親しんでいる上に、能を見慣れているせいもあって、 浄瑠璃のことばを聴くときに、ついつい、典拠となる平家物語や義経記の物語や 能を意識してしまうという事情があると思う。どうしてもパロディーという聴き方に なってしまい、それはそれで面白みはあるが、そうした感興が先にたって、 浄瑠璃の物語の持つ実質に素直に入っていけない気がしたのだ。例えば、 舞台の出来に関わらず、渡海屋の件は私にとっては、あまり面白みがあるもの ではない。寧ろ、原作とは関係がない、鮨屋の物語の方が素直に入っていける。
もう一つ感じたのが、全体として、劇画的で、漫画を見ているような気がしたのが、 今回印象的だった。特に義経・弁慶が登場する件に、その印象が強い。住大夫さんの 床があったので鮨屋はそうでもなかったが、しかし、人形だけ見たらどうだったか。 全体として、私が文楽を観て感動するときには感じる、物語の枠を突き抜けた リアリティーを感じることができなかったのは、もともと、この物語自体がそうした ものとは違ったものを目指しているからなのだろうか。確かに、伏見稲荷での 人物描写は何か戯画化されている印象は強いし、河連館も御伽噺のようではある。 楽しめるという点では申し分ないし、作品の性格上、こうした行き方が正しいのかも しれないが、何となく違和感が残ったというのが正直なところだ。
これは 無いものねだりかも知れないのだが、この浄瑠璃の通奏低音は、今や運に見放されて、 かつての知盛や教経と同じように追い詰められていく義経の没落であり、 戦の天才でありながら政治的にはあまりにナイーブであったために、 追い詰められていくものの、かつて八島で継信が死んだときに端的に示されたように、 将としての器と人間的な魅力を持ち、それゆえ今なお、忠信も、静も、弁慶もまた行動を共にしようとする 義経の人間の大きさが、敵味方を問わず、様々な人間の行動を規定する要のような ものであって欲しいのだ。勿論、能にも義経を子方にするなどする遠近法は存在するが、 それは、能の、断面を切り取ってみせるという省略法的な作劇法が要請しているわけで、 それ自体のオリジナルな物語の空間を持つ浄瑠璃では、やはり、そうした重心としての 義経のイメージを求めてしまうのある。そうでないと、例えば知盛の行動も、 静の行動も説得力を帯びてこないように思えるのだ。知盛の行動は、単なる敗者の 勝者への復讐という単純なものではありえないし、静の行動にも、義経の運命に対する 予感が伴っているのだ。勿論、吉野の桜も、単に華やいでいるわけではなく、 それはやはり翳を帯びたものであり、それゆえに一層の華やぎが必要なのではない だろうか?もっとも、こうした見方は浄瑠璃にも、文楽の上演の慣習にも疎い人間の 我儘に過ぎないのだろうとは思うが。
(2003.9 公開, 2024.12.18 noteにて公開)