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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(9)

9.

「狭き門」でも明らかな誤訳としか思えない箇所にすでに何度か行き当たっている中村真一郎訳だが、「田園交響楽」でも残念ながらそうした例を 見出すことができる。2月27日の日記の et je compris que les plus lourds et les plus désagréables soins m’échappaient.を「そして私は、最も重い、 最も不愉快な面倒を、自分が逃げていることもわかっていた。」と訳しているが、これは明らかにおかしい。たとえば神西清訳では「こうして、一番辛い一番 いやな面倒を、自分でせずに済んだことを思い知った。」いわゆるボイスの変換は自然な日本語とするには必要だろうが、中村訳で起きているのは、 逃げるものと逃げられるものの入れ替えであり、許容できない。文字通りには私が逃げるのではなく、面倒が逃げて行った、それは妻がやってくれたからであって、 何も面倒事から逃げる意図が初めから書き手にあったわけではない。そもそも前段では手伝おうとしたと言っているのだから、その上で一番面倒なことは 逃げていたというのだとすると、牧師の心のありようというものが全く異なってしまうことになる。実際には牧師は最初から知能犯的に、簡単なことだけ 手伝って見せて、一番面倒な部分は妻任せにしようという明確な意図をもって自覚的に行動したわけではない。それは、この悲劇を招来した牧師の 基本的な性格とそもそも相容れないのではないか?牧師の欺瞞というのはもっと微妙なものなのだし、アメリーの態度も、そうしたある意味では 質の悪い牧師の態度に対する反感に基づくものではないのか?(実は、そうした苛立ちは、ジェルトリュードもまた牧師に対して抱くことになる。 それは第二の手帖の結末を待つまでもなく、第一の手帖にも既に物語られていることなのだ。)また、後に触れる、第二の手帖5月3日の部分で、 フィヒテの講演題名の仏訳の引用と思しき「至福の生活に到る方法」というのが、原文ではイタリックになっているにも関わらず、そうした原文の 組み方に対応するようなことが全くなされていない。また、これは直接に訳者に責任を帰することができるかどうかについては慎重であるべきだろうが、 世界文学ライブラリー版に挟み込まれている、作品のあらすじと登場人物をまとめた栞では、舞台なフランスの片田舎にされてしまっている。 こうした細部の積み重ねは決して瑣末な問題ではないはずだ。自分も作家である訳者がこうした点に対して無頓着なのは理解しがたい。

だが、「田園交響楽」に限定すれば、堀口大学訳はもっと疑問が大きい。堀口大学はわざわざ序文で、翻訳の困難と、その翻訳を経由しての理解の困難について語り、 「これまで天国の書として読まれていたこの救いのない地獄の書を、自分の順番に訳そうと思い決めた。」と決意の程を語っている。別段、堀口訳に拠らずとも、 例えば神西訳でも十分に「地獄の書」であることは理解できるはずで、それは翻訳の問題というよりは、問題の在り処や意識の構造を把握する力能の問題なのだという点を おけば、翻訳についての彼の主張は別段間違っているわけではなかろう。だが、具体的な実践を見ると、解釈を云々する以前に勇み足ではないかと思われる箇所に ぶつかることになる。

例えば、中村訳で問題にした2月27日の日記の et je compris que les plus lourds et les plus désagréables soins m’échappaient.だが、「わしはその時はっきり悟った、 一番厄介な、一番厭な世話は、しようとしてもわしには出来ないのだと。」としている。「しようとしても」というニュアンスがどこから出てくるのか、これはこれで行き過ぎ ではないか。既に挙げた全体の末尾の文章の比較表現の訳し方についても同じで、何故、同等比較にいわば「緩和」してしまったのか、それが「地獄の書」という 解釈とどう整合するのか、私には理解できない。


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