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断片I 120年後の透谷

透谷の立っていた位置から1世紀後の人間は、一体どれだけ移動したというのか?

日本人の心性は、儒教的・仏教的なものに如何に深く根付き、だけれども 日本独特の神道的なものと(それ自体、極めて日本的な仕方で) 混淆していることか、西欧的な権利や義務の概念からの隔たりが如何に大きく、 あるいはまた、キリスト教的な一神教的、直線的な時間性から如何に遠いか。 しかもそうした日本人的な心性は、例えば東日本大震災のような状況において 端的なかたちで表れる。それは単純に西洋に対する東洋というわけでも ないのだろう。

透谷が自分の立っている場所を充分に意識しつつ、一方で先行する 江戸時代以来の粋や侠を語り、近松を、西行を、芭蕉を語る一方で、 ファウストを、マンフレッドを、ハムレットを語った地点から、 1世紀後の日本人はどれだけ異なるというのか?否、寧ろ「漫罵」で 透谷が喝破したとおり、革命はなく、移動のみがあるのだとして、 それでは一体、どれだけ移動したというのか? 平和運動というのは、透谷がその先蹤として活動したときと比べて どれだけ成熟したといえるのか?

「一夕観」の晩年の透谷の地点は、単純な東洋回帰ではないし、 「内部生命論」、「他界に対する観念」、「各人心宮内の秘宮」や 「万物の声と詩人」は、評者の解釈が分かれるように、キリスト教的であり、 東洋思想的でもあるけれど、そのいずれでもない、独自の汎神論的な立場を示し、 「世の成り行き」に対する「内面」の関係の把握もまた、単なる 「自我」の独立だけではなく、「自我」と(「他界も含めた」)「世界」の存在論的な 連関に対する認識をも欠いていない。

寧ろ彼は、改めて自分の立っている位置を自己がその一部である世界に 対して、自己がその上に立脚している意識とそれを支える構造に対して 自分の立ち位置を確認したかに見える。

そして彼の「詩人」観は、人間との関係、宇宙との関係における 芸術の意味の把握において、本質的なものであり、少なくとも 「人間」が今のようなものであり続ける、技術的特異点のこちら側の 相領域における基本的な構造の把握たり得ているのではないか。 芸術が人生に相渉る謂に関する把握もまた、例えば東日本大震災以降の 芸術のあり方への問題意識を持って顧みたとき、彼もまた芸術の外部に 身を置く経験を持ち、芸術を相対視する視線を持ちつつ、もしかしたら 寧ろ故にこそ、芸術の自律性を主張して止まなかったことは、 今日においても通用する、時代の制約を超えたものであるように 思われる。


透谷の文章の日本語は、21世紀の日本語に対して異質なものだ。 透谷自身にとって文章を書くときに自然であったのは、 漢文読み下しに和語が混淆したような文語体であったようだが、 透谷の活動時期である明治20年代は言文一致、口語体の成立期、 歴史的仮名遣いに対するいわゆる「発音主義」への移行期にあたる。

一方では翻訳語の定着の問題もある。透谷が英語を習得し、 通訳や翻訳を行い、教鞭をとった普連土女学校や明治女学校では 英文学を講じたというとき、今日のように英文法が研究され、 辞書が編まれ、膨大な文学研究と翻訳の蓄積があって、 多くは漢語由来の翻訳語が日常的な日本語の語彙の中で 定着した後のイメージで捉えてはならない。 エマーソン論等で指摘される透谷の翻訳の過度の自在さも、 頼るべき蓄積のない中で原書に立ち向かって未知の思想に 取り組まざるを得なかった状況を考慮すべきだし、 透谷の言葉として最も有名なものの一つである、 「厭世詩家と女性」の冒頭の文、「恋愛は人生の秘鑰なり」にしてからが、 そもそも「恋愛」という語も、英語のLoveという語の翻訳として恋愛の概念も、 それ以前にはなかったことに留意しなくてはならない。

結果として、漢語における一般的でない倒置やネオロジスム、 英語や和語のルビの多用が見られるかと思えば、 翻訳せずにカタカナでそのまま英単語を記述するケースもあるし、 変体仮名と平仮名の混用やその後廃れてしまった白ゴマ点の利用、 何種類かのオドリ字の使用、誤用なのか意図的なのかの判断が しばしば困難な特殊な漢語表記も見られ、透谷の文章は用字や用語の上で、 或る種のカオスのような様相を呈する。

更には印刷出版物に関しては、明治20年代の印刷技術や 出版のプロセスへの考慮も必要になる。 つまり、透谷自身に加えて植字工や校閲者の恣意 (間違いと意図的な修正の両方を含めて)の存在や、 印刷所が保有している活字字母の事情が絡み合って、 透谷のテキストの校訂をはなはだ困難なものにしているらしい。

だが透谷の文体の基層という視点に限定した場合、やはり エマーソンの紹介を初めとする英文学や海外の思想の紹介活動と 英語教師としての活動の関係、伝道師、説教者としての透谷、 外国人牧師の通訳者としての透谷の活動と著述・翻訳活動の 影響を考慮すべきだろう。 講義録や説教の記録が残っているわけではないから、 それらと残されたテキストとの関係を実証的に確認することは 困難かも知れないが、一体誰に宛てて語り、 書いたかという位相を問題にする限りにおいて、 両者を独立のものとすることには根拠が見いだせず、 寧ろ透谷の中では連続していたと考える方が自然であろう。 藤村が「春」に書き付けた、「ハムレット」を演ずる透谷の 姿は鮮烈な印象を残すが、会合の席上で「蓬莱曲」を 朗読したことも記録に残っており、舞台にかけることとは別に、 執筆するにとどまらず、「上演」という行為に透谷自身が 関与していることには、透谷の活動の「行為遂行性」の点から見て、 留意されていい。

そうした事情が考慮されず、いきなり透谷の文章に接する 21世紀の口語日本語の利用者にとって、漢文の素養に基づく 透谷の文章のスタイルは、如何にも時代がかった、 大袈裟で自己陶酔的なものと見做されかねない。 実際には透谷の文章の様式やリズムは、 かなり個人的な癖の強いもので、その調子の高さは、 一般的な美文調からの隔たりによって産み出されたものであり、 美的な規範からの逸脱の大きさ故に文学史のような枠組みでは失敗例として、 そうではなくても継承されることのなかった孤立した例として 扱われることが多いようだ。

だが私個人について言えば、透谷の文章を読むとき、その律動と音調に、 かつてこの世に存在した一人の人間の精神を非常に身近に感じる。 まるで自分の中に転移したかのように、自分の中に他者のリズムを 引き込むことが、透谷の文章の場合に起きるのである。


非常な速筆で、その短い活動期間を考えれば驚異的な分量であるとはいえ、 20代の半ばで縊死した透谷が遺したテキストは、勝本新一郎編の岩波書店版の 全集で僅かに3巻に過ぎない。しかも岩波版全集には、いわゆる主要作品として 分類されるであろう詩、評論のみならず、小説や翻訳、初期の未発表の草稿、 書簡、日記の抜粋、周囲の人間が記録した語録の類まで収められ、 加えて編者による詳細な注や解説が付されているという徹底振りである。 近年では更に岩波版全集の成果を出発点にして、草稿や初出時の稿態との比較といった 文献学的な批判がなされ、テキスト成立当時の文壇・論壇・民権運動やキリスト教布教や 平和運動の動向といった背景の中への正確な位置づけが試みられ、透谷が読んで影響を 受けた可能性がある文献が、洋の東西を問わず渉猟され、あるいはまた様々な方法による 作品内在的な読解があまたの研究者によって繰り返し試みられている。

そうした営みは、透谷に出会ってから数十年の歳月を かけて行われることもしばしばであり、 大学等の研究機関にあって膨大な時間をかけた文献調査や フィールド調査をし、断簡零墨の類に至るまで渉猟し尽くして透谷と対峙し続け、 夥しい量の研究論文、何冊にもなる著作を刊行するような研究者がいる一方で、 市井にあって同人誌のような媒体を通じて蓄積した成果をモノグラフに まとめる研究者もいて、その成果を受け取るものは、その背後で費やされた 時間の重みと処理された情報の量を感じずにはいられない。しかもそうした研究が、絶えずそれまでの研究史を回顧し、俯瞰しつつ、その時々の「現在」において 透谷を読み直そうという歴史的な意識をもって為されてきているのである。

あるいはまた、狭義の研究に留まらず、透谷を素材とした小説や映画のような 二次的な作品も幾つか産み出されているし、彼が遺した作品のうち量的に 最大のものである「蓬莱曲」が劇詩の形態を備えていることから、 本人が序にて「戯曲の体を為すと雖も敢て舞台に曲げられんとの 野思あるにあらず」と述べているにも関わらず、果敢な上演の試みも一再ならず為されている。

今年2014年の「現在」に限定しても、偶々北村透谷の没後120年にあたるのを記念して、 透谷の生地である小田原市の南町にある小田原文学館において8月21日~9月23日の 会期で特別展が催されていて、透谷の生涯を辿るとともに、 没後から当の企画展に至るまでの一世紀以上に渉る受容の歴史が回顧されている。

一世紀以上に渉る時代の推移の中で透谷を取り上げる視点の多様性は、 それ自体、透谷について何事かを告げているように思われる。 その一部を思いつくままに、ごく表面的で単純化した見立てによって取り上げただけでも、 自然主義につながる自我解放の先駆者(島崎藤村)、近代的自我の確立者(安住誠悦)、 観念的色彩の強い浪漫主義的文学者(阪本越郎他の日本浪漫派)、 キリスト教的の影響による生命観の確立者(笹渕友一)、「政治から文学へ」の 転向の先駆け(小田切秀雄)、遅れてきた自由民権活動家(色川大吉)、 西欧的な価値観に抵抗するナショナリストとしての側面(「国民」「平民」の重視)に 注目することによる「観念的」透谷像を補正する試み(平岡敏夫)、 明治20年の「奈落」の体験の重視(桶谷秀昭)、キリスト教経験を契機とした 「他界」との対峙の重視(新保祐司)といった具合に透谷像は多様な相貌を示していて、受容のされ方に応じ、透谷自身が短い生涯の中で示したそれらの 相貌のうちのどれを重視して、その背後にある本質を見出すのかが変わるようだ。


透谷は「先駆者」であったけれど、後継者がいなかったといった主張がなされることもある。

例えば柄谷行人は近年の講演で、1960年代における最初に近代文学の内面性をもった 文学者としての評価、更に透谷を、「明治10年代半ばに、自由民権運動が後退し、 自由党左派による爆弾闘争が始まった時点で、そこから脱落した人」、 「現実の政治的世界に対して、文学的想像力によって対抗しようとした」人、 「「想世界」によって現実世界に対抗しようとした」人として捉え、 1960年代に主流であったらしい小田切秀雄に代表される透谷観を認めた上で、 そうした透谷を近代文学の起源と見做すことについては反対し、 「日本の近代文学は透谷的な転倒の上に成立したのではない、 それは国木田独歩のような転倒によって成立した」という、 自身の『日本近代文学の起源』での立場を確認している。

「独歩的転倒」が「大事なもの」、つまり「自由民権的なもの」を忘れ、 「どうでもいいもの」、「重要でないもの」の中に意義を見出すと言う 近代文学的な認識論的風景を規定する対し、「透谷的転倒」は「忘れ去られた可能性」として、幽霊的な仕方で評価されることになる。だがここでの対比は、 民友社的な「硬文学」の「軟文学」の対比と前者の称揚と同一視されてはならないだろう。 透谷は一方では硯友社一派を批判し、逍遥的な没理想と人情や風俗の 「写実」に対して「想世界」「他界の観念」を通じた理念の追及を掲げたが、 他方では透谷がその実用主義的文学観を批判した蘇峰や愛山からは、 まさに「想世界」「他界の観念」の重視の姿勢を芸術至上主義的として批判されることになるのだが、 「文学的想像力」による現実世界への対抗というのは、そうした 透谷が、いわば両面作戦の中で辿ろうとした隘路に他ならず、 もちろん政治的な認識という 水準では、色川大吉が指摘するように、大阪事件を契機とした民権運動からの 離脱を政治的視点から理論的に根拠づけるだけの視野を欠き、当時の民権運動の 限界を心情的な葛藤の水準を超えて把握することが遂に出来なかった点に 透谷の限界があったのかも知れないが、それでもなお、透谷の活動の総体 (つまり狭義の文学の範囲内のものも、そこを逸脱するものも含めて)は、 透谷の死後半年を経ずして始まる日清戦争以降明確になっていく 帝国主義に対する闘争に他ならなかったからだ。

(ここで透谷の「平和運動」との関わりの問題が 残っていることを注記しておくべきだろう。 それは「政治から文学へ」と転向した後の透谷が関与した社会的活動であり、 透谷はかつての民権運動の場合とは異なって、劇的な形ではないにせよ、平和 運動からも距離をおくようになるのだが、民権運動が崩壊していったように、 平和運動の方もまた日清戦争へと向かう世相の中でその後急速に後退していく、 その過程が、透谷の姿勢にどのように影響したかは議論あるところだろう。 「民権運動」の場合と異なって、「平和運動」後の透谷には殆ど 時間が残されていなかったが、「我が事終われり」という透谷の断念と どこかでそれは繋がっている可能性は否定できないだろう。)

柄谷はここから、1890年代と現代の類似性を指摘し、 中上健次と村上春樹の対比を透谷と独歩に重ね合せ、 中上の文学を「新自由主義」という名の帝国主義に対する闘争と規定していくのだが、 そこからデリダの亡霊論を垣間見ることができるだろうし、 冒頭で「ハムレット」における亡霊を取り上げた「マルクスの亡霊たち」を 通して透谷を眺めることも決して突飛なことではないことになろう。 ベンヤミンの歴史哲学テーゼXの「政治家たちのかたくなな進歩信仰と、 いわゆる「大衆的基盤」へのかれらの信頼と、そして最後に、 コントロールのきかぬ機構のなかに奴隷的にはまりこむかれらの ありかたとは同じことがらの三つの面だった」という認識と、 それと相関する歴史主義への懐疑を透谷の懐疑と付き合わせることもできるだろう。


一方、透谷を重要視しない立場からすれば、時代に翻弄され続け、 僅かに25歳で自ら命を絶った未熟な青年の、不安定で移ろいやすく整合性を欠いた 一貫性の無い思考の遍歴など、一世紀の隔たりを超えて対峙する価値など無いという見方もあるようだ。 実際、文学者としての透谷が遺した作品にバランスの悪さを見てとり、 先駆者としての意義は認めても、文学としての完成度に 疑問を呈する日夏耿之介に代表される立場もあるし、彼の信仰がキリスト教の 教義からしばしば逸脱する側面があることを指摘したり、晩年の文章に表明された 世界観にキリスト教からの離反を見出すことも困難ではない。 フェミニズム的視点からの批判も含め、西欧的な他界の観念や恋愛観を伝統的な 日本の価値観と対比させる一方、粋を論じ、武士道的な義理や忠孝に対する親近感を 隠すことがなかったことや、男性の視点からしか女性を捉えることができなかった点に、 西欧受容の中途半端さや恋愛観の限界を見てとったり、色川大吉が指摘するように、 大阪事件を契機とした民権運動からの離脱を政治的視点から理論的に 根拠づけるだけの視野を欠き、当時の民権運動の限界を心情的な葛藤の水準を 超えて把握することが遂に出来なかった点に限界を見出すことも可能だろう。

だが、率直に言えば、私はそうした批判について、そのそれぞれの正当性について 否定するつもりがない一方で、そうした批判が透谷との対話を妨げることにはならないと感じている。

透谷の研究は、透谷がまずもって文学者であったという認識の下、 まずもって文学研究者によって行われてきており、それは21世紀の今日に おいても変わらないだろうが、そのことが、近代文学自体の確立に与った 透谷を読む作業を、文学という領域の確定が既成のものとして為された後、 いわば事後的な仕方で、文学の枠内において行うという傾向を促したことは 否めないし、そのことがもたらす遠近法的転倒についての柄谷行人の指摘を 無視することはできないだろう。一方で自由民権運動史の発掘作業において 透谷の関与のあり方を定位するという、 主として太平洋戦争敗戦後になされた試みは、透谷を狭義の文学の閾の外に 出して捉えることを可能にしたが、今度は「政治から文学へ」という 図式がそこに収まらない契機を捉えることを困難にした嫌いがなくはない。 キリスト教との関係から透谷の思想を捉えようとする試みは、 同じことを伝統的な中国思想を始めとする東洋思想との関係から捉えようと する試みと同様、準拠枠の側から測れる限りの透谷像を浮かび上がらせることに終始し、 本来素材に過ぎないものによって、そこから透谷が築き上げた成果の 独自性を測るという倒錯は避け難く、透谷の創造性を測ることを 困難にしている面があるだろう。

透谷が表面的な動揺や矛盾を超えて追求したものは、 ある意味では表面的な時代の制約を超えたものであり、 文学や政治の特定の潮流や思想史の系統への帰属といった 枠組みに収まりきらないものがあるように私には思われる。 彼が天才的という他ない直観で捕らえ、垣間見たものは、 一世紀の後に自分が手探りで捜し求めているものと 同型のものであるように感じられるのだ。 それゆえ私はそれが厳密な学問的な手続に反することを承知の上で、 透谷の思想を当時の文脈から、ある意味では暴力的な仕方で引き離して、 そのことの正当性の論証抜きに、私自身の展望と重ね合わせてみたい。

それは例えば、今、ここに透谷を立たせて見たらどうなるのか? というナンセンスに近い仮定に基づくシミュレーションの試みであると言っても良い。 だが、私の裡なる透谷に応答しようとすれば、その帰趨はともかくとして、 一旦はそのような準備作業をしてみる他なさそうなのである。 その後になって初めて応答の仕方を学ぶことができ、 今、目前にしている先人達の形作った森の中に己れの樹を 植えることが可能になるのだろう。だが、その前に私は、 私の裡なる透谷、明治文学史の地平、明治精神史の地平の外で、 全く異なる風景の中にいる彼の姿を、まずは捉えなくてはならない。

この試みを正当化しようとするならば、透谷がその中で生き、 見ていた抽象的な空間の風景との動的な変化の力学も含めた構造的な同型性があれば、 その形成の原因の時代や環境の個別性や細部における偶然的な出来事を捨象して しまえるという点にその根拠を求めることになるであろう。例えば最初は 「誤って法を破り」(「楚囚之詩」)と規定され、だが間もなく「罪なくして」と 訂正されることなる(「我牢獄」)牢獄に囚われているという意識の様態の把握や、 瞬間の冥契たるインスピレーション(「内部生命論」)の経験に由来するであろう 「各人心宮内の秘宮」の2つの部屋を持つ構造の発見といった、 透谷が捉えた「心」の風景に対して感じられる強い既視感は、 学術的な研究においては重要な、その原因が何であるかに ついての実証的な議論を色褪せさせてしまう。少なくとも私にとっては、 表面的な時代様式の違いを超え、個別の直接的な原因の違いを 超えて伝わるものが透谷に存在することは確かなことなのだ。

そしてそれが準備作業であるという了解の下であるならば、 例えば桶谷秀明の「君は透谷のように生きたいか」「透谷において何を生きるか」と いう問いかけや、北川透による自己のそれとの絶えざる突合せによる透谷の 「書く行為」や「創造性」のあり方に寄り添おうとする試み、 あるいは吉増剛造によって為された、透谷の経験をあたかも追体験するかのような、 そしてその記録がそのまま透谷のそれに対峙しうる創造であるような探究を 自分の作業の拠り所とし、さらには新保祐司の、現在において透谷を捉える視点の、 狭義の文学研究を超えた拡大の呼びかけを恃みとすることが許されはしまいか、 しかもその発言において神保が想定している、桶谷の言う「精神史」の範囲について、 今日の情報科学や生命論、メディア論といった領域を追加して拡張することができないかと思っているのである。

(2014/7/14 13:42公開, 2024.6.28 noteにて公開)

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