クセナキスを巡っての11の断章(5)
5.
引用。
クセナキスの音楽においては、他者の引用はありえない。「引用」はその音楽の水準で利用可能な手法ではない。方法論が拒絶するのだ。同型・同相はあっても、それは自作の引用ではない。偶々(確率的に?)同じ結果が得られた、というべきであって、過去の作品の持つ「文脈」を埋め込むということは生じない。ただし、方法論上の公理主義的姿勢が薄れた晩年に、例外はある。クセナキスにおける引用とは何なのか。違う方法論によって書かれた、例えばより伝統的な西欧音楽における引用と、それはどう違うのか?
恐らく、それが「引用」と感じられる、というのは、一体何によってなのか、というのを考える時に、クセナキス晩年の引用を題材にするのは興味深い。別の「組織」の侵入?併置?おそらくそれだけでは不十分だ。そういう原理に基づく音楽が可能だから。だとしたら、それはその「組織」が旧作であったから、偶々「引用」と呼ばれるのか?その旧作を知らない人間にとってはどうなのか?それが「異質」のものであるというのはどういうことなのか?例えばマーラーやショスタコーヴィチでは起き勝ちなことだが、知っている人間にとっては恐らく容易なことなので、すぐに引用を指摘したがる。だが、引用の機能の方はちっとも明らかにならない。それでは後期ヴェーベルンには引用はないのか?
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.5 noteにて公開)