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クセナキスを巡っての11の断章(8)
8.
主観性。
外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。
そのように思われるのは、何によるのか?統一性、素材の節約の度合い。コヒーレンスのようなもの?世界のあらわれの度合い?主観の受動性?
外在的な秩序を尊重するのは、シベリウスもヴェーベルンも武満も同じ。そしてクセナキスもある意味では同じだ。異なるのは、その秩序の「暴力性」「他性」の度合いだ。ヴェーベルンの音楽は、主観の非暴力とともに、客観の側もそうであろうとしているようだ。クセナキスの場合は、明確に「他性」を帯び、場合によっては敵対的な存在として客観が現れる。
クセナキスの音楽は、西欧的な「啓蒙」の枠組みでは収めきれないものを持っている。一方でそれはギリシアの伝統に倣って合理的で、とことん主観がコントロールしようとする意志に充ちているにもかかわらず、どことなく、主観の至上性に対する懐疑がある。
否、明確に、主体の有限性、不完全を意識しているのだ。その点が稀有なのだ。人間を超えた知性の立場からの批判という視座を持つ作曲家はクセナキス以外にはいない。
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.XX noteにて公開)