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フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」で用いられている制約プログラミングについて(5)

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」
2013.2.24 大垣、ソフトピアジャパン:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」総括報告・シンポジウム
2014.2.22 大垣、ソフトピアジャパン: フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、久保田晃弘、福田貴成、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」(新しい時空間における表現研究)
日本学術振興会科学研究費補助金研究・基礎研究(C)研究課題番号23520175


2014.2.22の総括報告における発表用スライドは以下からダウンロードできます。
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」への制約プログラミングの適用

2013.2.23の中間報告での発表用スライド・補足資料は以下からダウンロードできます。
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」(スライド)
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」(補足資料)



5.関連する諸領域の概観

本稿においては制約プログラミングを「和音平均化アルゴリズム」による微分音程旋律の運指をコンピュータによって 決定する手法の基盤として用いた事例を紹介した。だが制約プログラミングを包含する制約充足のパラダイムは コンピュータ音楽に対してプログラミングの手法を提供するに留まらない。

以下では制約プログラミング、あるいはより一般に制約充足のパラダイムが関連する他の領域のうち、フォルマント兄弟や三輪さんの活動に 対する関連を持つと思われるものを幾つか指摘することで、非常にラフではあるが議論のための見取り図を提示することとする。

(A)デイヴィッド・K・ルイスの「根元的解釈」

例えば、分析哲学の領域において 可能世界意味論の形而上学的解釈の非常に強い版である様相実在論=多重世界説を唱えたデイヴィッド・K・ルイスは、 一方で「根元的解釈」を制約充足問題と特徴づけ、志向性の帰属は物理的事実といくつかの帰属原理という制約に対する最適解問題である としている。制約充足のアプローチを認識論的な場面に適用するならば、世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を 候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、物理的事実を条件づけている制約を充足するように 変数の値を確定していくプロセスをモデルとして提示していると考えることができる。ルイスはまた、「反事実的条件法」 (Devid K. Lewis, "Counterfactuals", 1973, 邦訳:吉満昭弘訳, 勁草書房, 2007)に見られるように、 ヴァーチャリティに関する理論的枠組みとして、可能世界の集合、および集合の集合を割り当てる圏域体系を用いている。

なお様相実在論における可能世界という形而上学的な道具立てと、例えば量子論の多重世界とは区別されるべきであり、 両者は混同されるべきではない。前者においては現実世界と因果的に全く独立しており、現実世界で 成立しているヒューム的スーパーヴィニエンスは現実世界とその近傍の類似性をもつ可能世界に関する局所的で偶然的な原理 に過ぎず、物理法則が成り立たないような可能世界があっても構わない。だが寧ろそれゆえに、「音楽芸術」のような、人間の想像力が 及ぶ限りのヴァーチャリティに深く関わるものを扱おうとしたときに参照可能な理論的枠組みとしては有効であろう。他方、理論物理学に おいても物理法則がどこまで普遍的なものであるかに関する議論があり、別段、別の世界を持ち出さずとも、この世界の始まりには、 現在成り立っていた物理法則が成立していなかったという理論が提唱されていることにも留意しておくべきだろう。

(B)ジャン=ピエール・デュピュイの「賢明な破局論」

ルイスの反実仮想性に関する議論を導きに、過去から未来へと推移する「歴史の時間」に対して、「投企の時間」の形而上学の可能性を 示し、因果的な連鎖の推移する時間に対する逆流として、可能態としての破局の予測を位置づけるジャン=ピエール・デュピュイの試み がある。彼は従来確率論やゲーム理論の枠組みで構築されてきたリスクの理論を補強することによって原子力発電所の事故などのリスクに 対する倫理的思慮の基盤として援用することを目指す「賢明な破局論」を構想している。(Jean-Pierre Dupuy, "Quand l'impossible est certain : pour un catastrophisme éclairé", 2002, 邦訳「ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて」, 桑田光平・本田貴久訳, 筑摩書房, 2012)

(C)フッサール現象学の可能世界意味論による解釈(ヒンティッカ)

可能世界意味論は、例えばヒンティッカによって為されたフッサール現象学の志向性理論の可能世界意味論による解釈( 「志向性と内包性」(Jaakko Hintikka, "Intentionality and Intensionality", 1975)を参照せよ)などを通じて、 現象学的な枠組みとの関連付けを試みることが可能である。 特にヒンティッカがフッサール現象学における志向性を内包性の観点から捉え、概念が志向的であるのは、それがさまざまな 可能的な事態ないし出来事を同時に考慮することを含むとして可能世界意味論による志向性の論理学の構築を試みている点、 とりわけその中では、対象の「超越」が我々の信念と両立可能な可能世界の多様性、 すなわちその対象が要素となっている可能世界の多様性の無尽蔵さと関連づけられている点は注目されて良い。更に言えば、 ヒンティッカが上掲論文中で芸術的創造に関する節を設け、芸術的創造行為をもその対象としていること、しかも芸術的 創造を従来の「目的論的」な解釈の反例としてあげ、志向性概念の目的論的説明を代替するものとして可能世界意味論を 提示している点は、ここでの文脈において重要な意味を持つ。

(D)プロセス形而上学(ホワイトヘッド)における「生成の自己超越」

世界を構成する変数が未確定で可能な全ての状態を候補として保持している状況(状態が重ね合わさった状況)から出発して、 物理的事実を条件づけている制約を充足するように変数の値を確定していくプロセスは、ホワイトヘッドのプロセス形而上学に おいては「生成の自己超越」のプロセスに相当するから、ホワイトヘッドのプロセス形而上学における抱握(Prehension)の理論を 制約充足のプロセスとして読み直す可能性が示唆されるだろう。

遠藤弘は「ホワイトヘッドにおける<有機体と場>」(2000)において、 ホワイトヘッドの形而上学と場の量子論の関係を論じており、波動関数による存在確率の波の収縮を生起が自己を 超越するときに起きるものとしているが、多重世界説については、それが観測問題に関わる限りにおいて、一つの観察者たる 主体が多くのホワイトヘッドにおける「半影」を思い描くものと捉えるとすれば、「半影」(penumbra)の部分を次の生起がどれだけ 取り入れるかによるとしている。ここで「半影」とは与件の周辺につきまとう実現されなかった「永遠的客体」(Eternal Object)のことであり、 過去の生起と潜勢態とがコントラストをなして、次の感受のための誘因(lure)として機能するものである。フッサール現象学的な 意味合いでの対象の超越はわれわれの信念と両立可能な可能世界の多様性、すなわちその対象が要素となっている可能世界の 多様性の無尽蔵さであるが、これは与件の周辺につきまとう実現されなかった永遠的客体である「半影」に対応している。

ホワイトヘッドのプロセス形而上学の枠組みは極めて一般的なものであり、その図式は非常にミクロな事象を扱ったものである 点には留意すべき(従って「自己超越」という言葉を、人間化して理解するのは一旦は留保すべき)であるが、その一方で、 人間のような、高度な意識を持つ結合体(nexus)におけるマクロな事象の水準との連続性もまた存在する。自己組織化過程に おける上位の階層での新しい法則性の創発があるとはいえ、自己再帰的なアナロジーが成立する部分もまたあるのである。 (ここで量子論やエントロピーの保存則に関する「観測」についての議論が、意識的存在者である人間による観測から、「機械」による測定を 経由して、ミクロレベルでの観測の対応物に辿り着いていることを想起されたい。)そしてその限りにおいて、そうしたマクロな秩序の、 しかも歴史的・偶然的な産物に過ぎない「人間」であるわれわれの経験は、自己超越により可能世界の集合を制限することはできる (というか、制限してしまう)が、他方で超越的対象のそうした「半影」を取り込んでしまう程度に応じて、主体の思い描く像は 多重世界とならざるを得ないのである。

一方、主体が複数あったときに、その主体の歴史的経路(historical routes)を積分すると、その値は各主体に 分散してしまうという意味でのモナド論的とでもいうべき存在論的水準での多重世界というのを考えることもできる。 そして、デイヴィッド・K・ルイスの様相実在論との関わりではこちらの方が一層興味深い(例えば可能世界の因果的独立性を、 同時に存在する主体の相対論的な意味での因果的独立性から導くことができる)。だがこの点を主題的に扱うのは 本論の射程を離れることになるので、ここでは示唆に留めざるを得ない。

(E)量子論における「多重世界説」

そしてまた、上のような議論を踏まえてみると、量子における複数の状態の重ね合わせによって多重世界=「半影」が 成り立っており、観測とは周囲の環境が量子系の情報を得ることで量子の波動性を破壊するプロセスに他ならず、 量子論的な重ね合わせの状態から古典的な確定した状態へと自己超越するプロセスであると記述できる。 であれば、まさに2.7.において言及したセス・ロイドの著作に出てくる量子コンピューティングと、制約プログラミングの モデルとの間に感じ取れたアナロジーも見かけほど突飛なものではなく、寧ろ従来のコンピュータではなく、 量子コンピュータこそが制約充足パラダイムがより十全なかたちで実現できる基盤であると考えることも可能なように思われる。

(2014.2.2初稿, 2.9, 11改訂, 2.11公開, 2.14, 2.19加筆・修正, 2025.1.24 noteにて公開)

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