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フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」で用いられている制約プログラミングについて(6・了)

フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」
2013.2.24 大垣、ソフトピアジャパン:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」総括報告・シンポジウム
2014.2.22 大垣、ソフトピアジャパン: フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)、久保田晃弘、福田貴成、山崎雅史

「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」(新しい時空間における表現研究)
日本学術振興会科学研究費補助金研究・基礎研究(C)研究課題番号23520175


2014.2.22の総括報告における発表用スライドは以下からダウンロードできます。
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」への制約プログラミングの適用

2013.2.23の中間報告での発表用スライド・補足資料は以下からダウンロードできます。
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」(スライド)
フォルマント兄弟の「和音平均化旋律・運指法計画」(補足資料)



6.おわりに

6.1.人間のための、だが人間の自己超越としての「音楽」

音楽だけが、というわけではないが、少なくとも音楽は優れて人間のためのものである。それは三輪さんのように、 コンピュータのようなメディアを獲得して後に、アルゴリズミック・コンポジションという、一旦あたかも 最も人間から離れた地点で音楽を思惟する人が、逆シミュレーション音楽という、もしかしたら今日、音楽が そうでしかありえない地点を、ぎりぎりまで抽象したかたちによって作品を産み出しつづけるその成果によって、 それまでになかったような説得力のある仕方で証されたことである。

そうした地点から、かつての音楽、かつてそう呼ばれ、今なお、人がそれをそう呼ぶことに何の疑問を抱かない 音楽作品とその演奏を振り返ってみたとき、逆に、或る過去の時代の、自分とは異なった歴史的・文化的伝統に 属する人間が作曲し、記譜して残した作品を、別の誰かが演奏するとき、あるいはまた、不幸にして未完成に 終わった作曲を、別の誰かが補うとき、更には同時代にいながら、それゆえに常に遅れてしか応答できないにせよ、 自分のできる仕方(それ自体は「音楽」ではないかも知れない)での応答を試みるとき、 そうした人間の営みによって、音楽が、第一義的にはまず自分自身という人間のためのものでありながら、 そうした自分という或る種の制限、檻の如きものが制限づけているに違いない視界の狭窄、感性の水路の狭窄にも 関わらず、その音楽(だがそれは、正確には「どれ」のことを、「どの範囲」の出来事を指しているのだろうか?)が 人間の限界を超越して、想像することの出来ないような彼方へと(そう、まるで宇宙船にカプセル化されて未知の 知的生命体に向けて送り出されたものであるかのように)、突き抜けていってしまい、私のようなちっぽけな 人間には及びもつかないような存在に感じられることが、しばしば生じる。

勿論、それは常に生じるわけではなく、ごく限られた作品のごく限られた演奏であるのだが、その狭さが私という 個体のフィルターの限界によるものであることはほぼ疑いないことであるのに対し、その強さは私の容量を常に 圧倒的に超えてしまっていることが感じ取れる。 それはまさにカントが「判断力批判」において、あるいはヘーゲルが「美学」において「崇高さ」に割り当てた性質と 極めて類似した何かを備えているようなのだ。そこには「人間」のための音楽が、「人間」を介して、「人間」を 超越していく、と同時に「人間」もまた自己超越していくという逆説を見出すことができるだろう。

6.2.数理の世界と「計算する宇宙」

その一方でもちろん人間は、数理の世界の風景に圧倒されることもできるし、そこにも美を感じ取ることができる。 否、人間達の社会よりも寧ろ、数理の世界の中でより一層自由に動き回ることができるように自分のことを 感じる人間にとって、共感覚者が数字に色を見たりするのとさほど違わないメカニズムによって、 抽象的な空間の起伏を感じ、道なき道を見えない手によって導かれ、次の角を曲がったときに遭遇する 何かを予感し、慄くこともあれば、慰めを感じることすらできる。

想像力、あるいはカントにおいては構想力と訳されることもある 能力によって、多様な選択肢の中から新しいタイプの出来事を出現する(抽象的な意味での)空間をデザインすること、 ある物語を選択して現実化することではなく、仮説的なものも含めた物理学的、化学的、生物学的、 社会学的過程を支える数学的構造とそのダイナミズムが直接展開できるような場を設定し、そこにおいて無数の物語が 生成しうるような仮想的な場を用意することが作曲であるとするならば、それは制約プログラミングのパラダイムによる 問題解決とのアナロジーが成立するプロセスであるという感覚から私は逃れることができない。そのアナロジーを支えるのは、 そうした人間の営みそのものが、複雑な世界を創ることのできる「計算する宇宙」の一部であるという事実に根ざしており、 そしてそれらの作製のプロセスを捉えるフレームとしての制約充足のパラダイムなのではないか。

6.3.アルゴリズミック・コンポジションと制約プログラミングとの並行性

そうした展望を踏まえた上で言えば、「和声平均化アルゴリズム」による運指の自動計算という問題に対する 技術的な解決手段としても勿論制約プログラミングは有効だが、それ以上に、音楽と制約プログラミングを用いた 問題解決に、より本質的な並行性があることを感じずにはいられない。

制約プログラミングに基づいて自動計算された運指に従い人間が演奏をすることと、アルゴリズミック・ コンポジションによる作品を人間が演奏することとの間には、 前者が人間の身体の構造上の生じる条件を制約として、それを充足する運指を計算しているのに対し、後者は 「逆シミュレーション音楽」が鮮やかに証しているように、「計算する宇宙」の数理的な秩序に対して「由来」を 与えることにより、誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙(ただしその宇宙は 「計算する宇宙」そのものである)を想起させるための儀式たることを目指しているという差異を 捨象すれば、形式的な水準での違いはないと言って良い。(そして制約プログラミングによる問題解決の 他の場面での適用、要員配置計画、設備利用計画etc.との違いもない。)

勿論、その差異にこそ「音楽」の意義が賭けられているのであるが、「音楽」もまた「人間」の尺度から 自由ではないことを無視してはならない。それは「計算する宇宙」の数理的秩序の、人間の尺度における 反映であり、「計算する宇宙」そのものの一部である「人間」という領域における自己再帰的な実現なのである。

制約プログラミングによる問題解決をしていて強く感じるのは、問題解決のための現実を抽象化して作成されたモデル自体は モデル化の出発点であった現実からの意味づけを離れてしまえば単なる数理的な構造に過ぎず、だからそれは他の問題を 解く事にも利用しうるものであり、モデルが何を意味するかは、それを利用する人間の側が付与するものに過ぎない、 ということである。

その一方で、計算というプロセスは、それがこの宇宙で生起する限り、完全に抽象的なものではない。計算もまた、 物理的プロセスに他ならず、シミュレーションは或る意味で、シミュレートされる対象である現実と類似した構造を備えた、 並行した、別のもう一つの現実である。裏返せば、対象となっている現実もまた、シミュレーションと並行した 計算であると見做すことができるだろう。当然のことであるが、チャールズ・ベネットが言うように、 そもそも計算機もまた物理法則に従わざるを得ないし、計算の原則は人間が勝手に選べるわけではないのである。 (ちなみにドイチュが量子コンピュータを発想したのは、この発言をきっかけであり、またドイチュは量子論の多重世界説に 関心を持っていたとのことだ。)

このように考えたとき、制約充足による問題の解決とアルゴリズミック・コンポジションによる作曲という行為の間の並行性は 一層明確なものとなる。両者はともに、デュピュイの言う「投企の時間」性を備えたものである。それらはいずれも人間の 「自己超越」と関わっているのであり、それは論理学的な意味で偶然的な、ある歴史的文脈の産物に過ぎない「人間」概念 自体の(自己)更新にさえ関わりうるのである。

常には芸術とは縁遠く、 産業応用の場面において用いられる制約プログラミングさえ、それを用いた各種計画の自動作成の開発においては、 人間の計画立案者の感性に寄り添うことがしばしば求められる。しかし現実には、完全に人間の計画立案者の代替と なることはない。その差異には人間の犯すミスをすることがないという実用上のメリットの側面もあるが、 研究目的であればともかく、実務上開発されるシステムでは人間の臨機応援さには所詮は及ばないという側面もある。 しかし、特に興味深いのは、そのいずれでもなく、完全に制約充足解でありながら、人間には思いつかないような 解を機械が求めることがしばしば起こるという点である。人間の感性に寄り添いつつ、人間の計画作成プロセスを 一旦機械に置き換える作業の過程において、人間のやっていること(計画作成の対象となる作業と計画作成作業自体の両方)を、 暗黙の裡に排除して「やっていないこと」をも含めて、程度の差はあれ浮かび上がらせてしまうことになり、その結果が (機械が作成した計画に従って計画対象となる業務が遂行されるという意味と、開発において獲られた知見に基づいて対象となる業務の プロセスを改善するという意味の両方において)現実のプロセスにフィードバックされるという事態が起きるのである。 一般には産業応用のプロセスでは目的論的な発想が強く求められ、制約プログラミングを用いて開発されるシミュレータ、 スケジューラは道具としての性格を持つものと規定されてしまいがちだが、実際のプロセスを振り返ってみると、 それは必ずしも目標の設定と達成といった図式に収まりきらない側面を持っており、しかも逸脱する部分こそが 本質的な寄与を為すこともしばしば起きるのである。

そしてこうしたことは、ヒンティッカの述べる通り、「芸術的創造活動」においてはより一層本質的な側面となる。 実際、「MIDIアコーディオンによる合成音声の発話及び歌唱の研究」という、題材それ自体は工学的でもありうる可能性を 持ちながら、あえて美学的なアプローチを試みたフォルマント兄弟の今回のプロジェクトでも並行的な事態が生じているのを、 協力していく過程で私は間近に経験することができたので、これについては節を改めて証言をしておきたい。

6.4.兄弟式MIDIアコーディオンはヒューマン・インタフェースなのか?

それは事後的に見れば、冒頭に述べた「兄弟式日本語ボタン音素変換標準規格」の「国際化」規格の成立プロセスのでのことであった。 実は「国際化」も、少なくとも当初はそれ自体が目的ではなかったと記憶しているし、結果においてもそれは単なる「国際化」には 留まらなかった。 その背景についてはフォルマント兄弟自身から説明があることと思われるので詳細は割愛するが、当初の五十音表に沿った、 或る意味ではわかりやすく、操作上も1モーラ1ボタンで済ますことができるインタフェースから出発して、 1モーラにつき2つのボタンを必要とするという演奏技術上の困難さと引き換えに、子音単独の発声や中間母音の発声を 可能とすることで、結果的に日本語の歌詞をピッチつきで「歌う」ためのインタフェースから逸脱し、寧ろ人間が生物学的に 備えており、発声・歌唱に用いている器官の代補をする補綴器官を、生得的な器官を操るのとは全く異なった仕方で操る ためのインタフェースとでも呼べるものが獲得されたのである。つまり「国際化」規格は、同じ「MIDIアコーディオンによる 合成音声の発話及び歌唱のインタフェース」でありながら、その内実や射程において全く異なるものであり、 MIDIアコーディオンの存在自体を道具としての「楽器」から、或る種の「器官」の延長へと変えてしまったと言いうるように 思われる。従って私見では明らかに、兄弟式MIDIアコーディオンは単なるヒューマン・インタフェースではないのである。

それはもともとは、最初のインタフェースにおける、常にモーラ単位で音声を合成することに起因する 「不自然さ」(子音から母音へのわたりが制御できないなど)などの技術上の問題の解決の選択肢の一つであった。 だが、或る種の精度向上が意図されていたのだとしても、規格化され、平均化された歌唱を目指すというよりは、 「自然さ」を背後で支えている「音楽」における規格化しがたい部分を捉えようとするフォルマント兄弟の一貫した 志向に拠るものであり、「和音平均化アルゴリズム」が微細な音程のゆらぎを実現するための手段として考案されたのと 軌を一にするものであることに注意すべきだろう。

そしてそれは意図せずして、「歌」と叫びや囁き、唸りや喘ぎといった感情表現との連続性を浮かび上がらせることになり、 「歌」における「言語」に先立つ領域を照らすものとなった。しかもここでは生得的な固有の器官ではなく、本質的に 固有性を持ち得ない、「誰のものでもない」声が身体性や人格・個性といったものと不可分のものであると見做されるであろう 「表現」を行っているのである。私にはこうした「事実」を述べるのが精一杯で、到底そのポテンシャルを汲みつくすことなど できないが、別のところでも述べたように、この試みが単なる補綴性すら超えて「ありえたかも知れない未聞の種族の 音楽を仮構すること」へと通じ、その射程は美学的な側面に留まらず、倫理的・存在論的な次元にまで及ぶであろう点と、 こうした展望がまさに自動音声合成による歌唱を追及する試みの中でこそ可能になった点は強調しておきたい。

そのことは、一見現実から 遊離した無力な存在に見做される「音楽」が、しかもその中でも一見したところ人間的な感情から最も遠いところにあるかに 見えるアルゴリズミック・コンポジションによる「逆シミュレーション音楽」や自動音声合成による歌唱を追及する試みが、 まさに最も人間的と見做されるであろう「音楽」を、あえて「機械」を経由させることによって、「音楽」自体に留まらず、 「音楽」を含めた現実に対する批判的なポテンシャルを獲ていることを確認させることであった。 そうした迂回路を経たシミュレーションによって生じるヴァーチャリティから、危機的な状況にある現実に対抗し、 現実を変化させるリアルな力を汲み取っているのである。更に、そうした作業を可能にするのと同じ「想像力=構想力」が 危機的な状況における倫理的思慮の基盤であることがフォルマント兄弟の活動や三輪さんの活動から強く示唆されるのである。

6.5.むすびにかえて

安易なアナロジーは欺瞞的な結果をしばしばもたらすが故に慎重であるべきだろうが、セス・ロイドのように 宇宙を情報処理機械と見做す発想に基づくならば、制約充足のパラダイムの持つ展望は非常に大きなものがあるように思われる。 そしてそうした枠組みの中で改めて人間について考え直すことこそ、メディアに取り囲まれ、浸食されてかつての 定義から異なったものへと変容しつつある今日の人間、あるいは三輪さんが「感情礼賛」において「夢に見た」ような、 あるいはレイ・カーツワイルのような技術的特異点論者が特異点の後に予見するポスト・ヒューマンの世界(Ray Kurzweil, "The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology", 2005, 邦訳:「ポスト・ヒューマン誕生: コンピューターが人類の知性を超えるとき」, 井上健監訳他, NHK出版, 2007)を意識した上で、現在における「人間」と音楽との 関係を問い直すことに挑んでいるフォルマント兄弟や三輪さんの試みに応答することであると私は考える。

以上のようなことから、より広く、フォルマント兄弟や三輪さんが取り組むべき 課題と捉えておられる事象を記述するためのフレームとして、あるいはフォルマント兄弟や三輪さんの活動も含めて、 音楽に纏わる過程の全体を眺める際のフレームとして、更には制約プログラミングによる問題解決という行為自体をも アナロジカルに捉えるためのフレームとして、制約充足のパラダイムの適用可能性を探っていくことは意義のあること ではないかと思われるのである。

[謝辞]

本研究への協力の機会を作っていただくのみならず、モデルの構築・改善にあたっての助言、検証にあたっての 実データの提供や結果の検証や音声化などを通して支援して下さったフォルマント兄弟に感謝します。

(2014.2.2初稿, 2.9, 11改訂, 2.11公開, 2.14, 2.19加筆・修正, 2025.1.25 noteにて公開)

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