備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業(1)
かつて私は、その年齢相応の仕方ではあったが「老い」について幾つかの対象を媒介にして考えたことがあった。それは生物学的・生理的な老いそのものではなく、アドルノとは別の仕方によって「後期様式」とは別の選択肢に辿り着くというような認識の様態を巡ってであった。
それらの起点はと言えば、或る日自分に訪れた「折り返し点」の感覚ではなかったか?この折り返し点という感覚は、様々な「老い」についてのドキュメントのアンソロジーでもあるボーヴォワールの『老い』の中でしばしば現れるから、その時にそう思って以下にも書き付けた通り(そしてその時には、ダンテの「神曲」の冒頭が思い浮かんだのだったが)、それは普遍的な感覚なのだろう。そしてその時には気づかなかったけれど、つまるところこれは「老い」についての自己認識だったのだろう。ボーヴォワールの『老い』の第五章は「老いの発見の受容―身体の経験ー」と題されているが、そこには、ルウ・アンドレアス=サロメが病気のあとで髪の毛がたくさん脱けたのをきっかけに、「それまで自分に「年齢がない」と感じていたのだが、そのとき彼女は自分が「梯子の悪い側」(下り坂)に差しかかかったのを認めたと告白している。」(ボーヴォワール『老い』(上), 人文書院, 1972, 下巻, p.338)というくだりがある。ボーヴォワールはこのケースを急激な変化が老いの自覚を促すケースとして挙げているのだが、私の場合には、病などの急激な変化がきっかけという訳ではなく、寧ろ、同じ章の冒頭のボーヴォワール自身の回想である「早くも四〇歳のとき、鏡の前に立ちつくして、「私は四〇歳なのだ」と自分に向かってつぶやいたとき、私はとうてい信じられなかった。」(同書下巻, p.333)というのに寧ろ近いのだろう。だがしかし、そもそも私の老いの自覚は身体の経験に根差したものではなかったのだ。したがってそれよりも寧ろ、同じ『老い』の中にボーヴォワールが参照するダンテの『饗宴』における老いについての考察―「彼(ダンテ:引用者注)は人生の道を、大地から天に昇って頂点に達し、そこからふたたび加下降する弧に比較している。天頂の位置は三十五歳である。それから人間はゆっくりと衰えてゆく。四十五歳から七〇歳までが、老年の時期である。」(同書上巻, p.264)を確認した時(かつての「折り返し点」に事後的に気づいた私は『饗宴』の方は知らなかった訳だが)、それが自分のその時の認識の在り方に即したものであったことに驚き、更にその時の私が他ならぬダンテの『神曲』の冒頭を思い浮かべたことの方にもまた、今頃になって驚いたのであった。
『狭き門』のアリサにおける「老い」。アリサとジェロームの関係における「老い」。相転移の向こう側。不可逆性(「もうページはめくられてしまった」)。不連続性。その移行のプロセスに注目すること。事後的に気づくのか?「老い」はアリサの側にあって、ジェロームにはない。だが、最後の場面における「年を経た=齢をとった」ジェロームにはないか?ジュリエットにはないか?
アリサはもう、後には引き返さない。迷いはあるし、絶ち難い心の動きはあるけれど、 それらを寧ろ利用して反発力を得るかのように、パスカルを捨て、ピアノの練習を捨て、遂には家を出てしまうに至る。「私は年老いたのだ。」という 第8章のアリサの決定的なことばの重みは、一見するとそのように読めるにも関わらず、そしてその時のジェロームがまさにそう誤解してしまったように、 その場を取り繕ったことばであるわけではない。この言葉は、誰よりもアリサ自身にとって、ありのままの風景、展望であったろう。 彼女は相転移の向こう側の領域にいるのだ。だからジェロームの見ているのは、文字通り「幻」なのである。
裏返せば、アリサは初めから相転移の「向こう側」に居たわけではない。「私は年老いたのだ。」という言葉を文字通りに受け止めるとどうなるか。 まず年老いる、とは以前のようではない、以前とは変わってしまった、相転移が生じて、 以前とは別の相に既にいるのだ、ということに他ならない。アリサの日記は、その異なる相から響いてくるのだ。アリサはある一線を越えてしまった。ヴァルザーの描く、 ブレンターノが入っていったというあの門が思い浮かぶ。(それはカトリックへの帰依に関するものだったから、寧ろ10年後の「田園交響楽」のジェルトリュードに こそ相応しかったのかも知れないが。)
勿論、アリサもまた、正統的なキリスト教の教義からすれば、逸脱した恣意的な理解に陥っているのだろう。 ジッドはニーチェをプロテスタンティズムの極限点と見做していたらしいが、ニーチェの歩みをアリサの歩みと類比的に見る見方(山内義雄が紹介している)は 必ずしも的外れではないと感じられる。極限点は、向こう側なのだ。ただしそこでは何も許されない。「狭き門」はそれ自身閉ざされる。二人で通れないのではない。 門は常に、その人のものだ(ここからカフカの「掟の門前」に、そして「審判」に補助線を引くことができるだろう)。門をアリサは自ら閉ざした、という人がいても 不思議はない。
ヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門、その向こう側には沈黙が広がる、相転移の地点のほんの手前についての思考、それは「掟の門前」(カフカ)や「狭き門」(アリサの「老い」)とどう関わるのか?門の通過。クリプトへの下降。ランプ。扉。待機。仮面をつけた一人の男。カトリック…
老いと断念・断筆。
デュパルクの断筆。
デュパルクのことを考えていて、ふとアルヴォ・ペルトが修道僧に会った時のエピソードを想い出した。ペルトは祈りのために音楽を書いていると言ったのに対し、修道僧は、祈りのことばはもう用意されているから新たに何も付け加えることはない、と言ったらしい。だがペルトは作品を書くことを止めなかった。私はその話を読んだときにペルトの態度の方を不可解に感じたのだった。そう、デュパルクの態度の方が遥かに一貫していないだろうか?もっとも、あえてそうしたエピソードを明かしたからにはペルトは多分答えを持っているのだろうが。だが、私思うに件の修道僧はそのペルトの答えを決して認めないだろう。もう一つ。ジッドの「狭き門」で、アリサがパスカルを批判する件がある。数学者をやめたことを惜しむどころか、「パンセ」を遺したことすら問いに付されうる、というわけだ。「私は年をとってしまった」というアリサのジェロームへの言葉の意味は、要するに相転移の臨界のこちら側に来てしまった、という意味なのではないか。「ルサルカ」を破棄したデュパルクと同じ側にいる、ということなのではないか。)
後に何も残さないこと。シベリウスの沈黙。密かに為されたアウト・ダ・フェ。
シベリウスは主観を(もっと言えばそれ自体啓蒙の産物たる「人間」を)超えたところにノモスのあることを確信していたに違いない(もう一度、ヘルシンキでのマーラーとの有名な対話を思い起こせばよい)が、しかしそのノモスを己の音楽の素材とは考えることができなかった。そのノモスに忠実であろうとするあまりに、曲を組み立てる恣意、手癖のように入り込む己の主観の働きに苛立つようになったのではないだろうか?
シベリウスの沈黙は、ある種の完璧主義、強すぎる自己批判のなせる業だと考えられているようだし、第8交響曲に対するプレッシャーや戦乱、はたまた国家から終身年金が保証されたことによる経済的安定に至るまで、外面的な理由は様々に考えられているようで、それぞれその通りなのかもしれないが、晩年の音楽を聴くと外面的な理由以前に、音楽自体のうちに沈黙に至る方向性があるように感じられてならないのだ。
それ故、第6交響曲、第7交響曲、そしてタピオラという3作品については、沈黙ではなく、撤回でもなく、作品が公表され、遺されたことを感謝すべきなのであろう。それらはある種の臨界の音楽、一歩間違えれば作品のかわりに沈黙が残されただけかも知れないような相転移の領域の音楽なのだと思う。シベリウスの歩みが止まるのが作品番号にして100を超える作品を産み出した後であって、その途上や、その出発点でなかったことは色々な意味で幸いなことだったのではなかろうか。それがペルトの言う、「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」を迎えたという一例なのかどうかはわからない。そもそもシベリウスの音楽は、狭義では宗教的なものではない。典礼的な意味合いでの祈祷の音楽ではない。だが私には、その音楽の辿った沈黙への道筋、森の中へ消えていく足跡の方が、ペルトが選び取った貧しさ(ティンティナブリ)による祈りの形をした音楽の産出(それは本当に無名性を目指しているだろうか?)よりも、ペルトが会ったというあの修道僧の言葉に忠実ではなかったかと思えるのだ。
これらはその時期の私なりの「老い」についての思考であった。それは実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということを自覚せざるを得なくなったのである。(老いの経験と老いの意識の区別については、シュッツ『社会的世界の意味構成』の第2章 自己自身の持続のおける有意味的な体験の構成 を参照のこと。邦訳:佐藤嘉一訳, 木鐸社, 1982, p.63参照。なおシュッツについては後程、更に触れることになるだろう。)
かつては寧ろ、相転移の向こう側の沈黙の方にフォーカスしていたので、恐らくはその手間に位置づけられる「後期様式」についての思考との両方を「老い」を媒介とした一つのパースペクティブの下で捉えるという発想を持つことはなかったのだが、今やそれにこそ取り組むべきなのだと感じている。そのことはパスカルに関して数学者をやめたことを惜しむのか、「沈黙」の替わりに『パンセ』を遺したことすら問いに付すのかとの間の二者択一を意味しない。寧ろ相転移の向こう側でなお、何が可能なのかが問われているのかも知れない。更に言えば「老い」の意識は暦年に基づく年齢とも生理的な年齢とも関わりなく、寧ろ病とか身体的な衰えや、そうしたことに媒介された死への意識とともに主体に到来するものなのだろうが、さりとて暦年に基づく年齢や生理的な年齢に伴う老化自体を無視することなど出来はすまい。
マーラーの音楽における「老い」について考えるということは、従って二重の課題を抱え込むことになる。一方では作品そのものの中に「後期様式」なるものの特徴を探り当てなくてはならないだろう。確かに「老い」を感じさせる音楽というのはあり得るだろうし、マーラーの作品の中にそれを見出すことは寧ろ容易なことにさえ感じられる。だが世上、それは「老い」そのものとしてではなく、寧ろ「死」とか「別れ」とかと関連づけられて語られてきたものではなかったか?そもそも一体「老い」を感じさせる「音楽」というのは、それが伝記的事実についての知識の後付けの投影でないとしたら、一体どのような構造を備えたものなのか?他方では、「自伝的」作曲家と言われることがあるマーラーにおいては一見したところ自明なこと、他の作曲家に比べれば遥かに見て取りやすいものと一般には了解されているであろう作品と作者との関わりの問い直しにつながるだろう。その作品における「発展」を認め(これもまた自明のことにさえ思われる)、「後期様式」の存在を認めたとして、それがマーラー自身の「老い」、あるいは「老いの意識」とどのように関わるというのだろうか?そもそも私がかつて拘っていた「相転移の向こう側」は、だが他ならぬマーラーの生涯という個別のケースについては当て嵌まらないのではないか?という問いにまず答える必要があるだろう。その上で、マーラーの「老いの意識」がマーラー固有の「晩年様式」にどのように反映されているか、マーラーの後期作品は「老いの意識の音楽」たりうるのか?それは「老いの時間の感じのシミュレータ」たりうるのかが問われていることになろう。今のところそれは予感めいたものに過ぎないが、こうした一連の問いは、例えば「第8交響曲」と「大地の歌」や第9交響曲の間に広がるかに見える深淵についての問い直しにつながっていくだろうし、更には第9交響曲と未完に終わった第10交響曲との間に指摘されることがある断絶、或いは第10交響曲の位置づけそのものについての問い直しにつながっていくだろう。一体、マーラーの作品においてそもそも「老い」は存在するのか?存在するとしたら「老い」は何時から始まっているのか?マーラーの作品系列における亀裂・断絶に見えるものは、「老い」に纏わるこの節で取り上げたような相転移と同じものなのか、異なるものなのか?具体的などの作品の何処の部分にマーラーの音楽における「老い」を見出すことができるのか?
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.15改稿, 2024.12.8 加筆してnoteにて公開)