クセナキスを巡っての11の断章(6)
6.
確率分布。
クセナキスの音楽に「聴く」側面があるとしたら、それは理論にはない(たとえセリー批判に基づく自分の方法論の説明がそのようなやり方をとっていたとしても)。確率分布にはない。その先の直感的な選択にこそある。
クセナキスの分布は、人が聴くことを欲していない。少なくとも前提としない。フェルドマンの音楽の持つ「ゆらぎ」と、それは何と違うことか。多分事後的にフェルドマンの音楽の「法則」を見つけることはできるだろう。だが、それは既に別の面へのprojectionなのだ。
クセナキスの場合には時間外構造が先にある。projectionは実現された音楽の方だ。だとしたら、これはプラトン主義なのか。クセナキスにおける唯名論/実在論の論争は、恐らくそんなに単純ではない。ひとつには、それは具体的な音響として、リアライズされるものだからだ。もうひとつには、それは死すべき存在である、人間の営みだからだ。クセナキスの時間外構造や分布を決める式は、音楽の一部であって、それは別の面とは言えない。勿論、それ「だけ」では音楽たりえないが。
だが、クセナキスの方法論の(主張される)一般性に比べたら―何しろ、それはありとあらゆる音楽を内包できると言われるのだから―クセナキスの実現の方は、そこに「個性」を見出しうるほどに偏っている。勿論クセナキスの方法論は、それがコロンブスの卵のようなものとはいえ、十分に独創的だった(事実、彼以前にそのように音楽を書き、成功した例というのはなかったのだろうから。)だが、その成功は、方法論だけによるのではないだろう。これは数学ではないから、こういう発想でなら、こういう音楽が可能なのです、の「こういう」の部分が常に問題なのだ。
その方法論は、実は「こういう」の部分の質(面白いかどうか)とは別なのだ。それゆえ、彼の方法論の不整合や不徹底を批判しても、彼の試みと、その実現の質を否定することにはならないだろう。不正確さは、それを「理論」として考えれば致命的だろうが、ここではせいぜい発想を跡付けたものくらいに考えるのが適当なのだ。「コロンブスの卵」について何を言っても後出しジャンケンになってしまうだろう。ケチをつける人間は、寧ろ自分のやっていることを振り返るべきなのだ。
それにしても、だとしたら、彼の音楽の「面白さ」を説明するためには、彼の作曲の仕方の発想の理解のほかに、あと何が必要なのだろう。何かが必要なのははっきりしているのだ。それが無ければ、結局は印象批評になってしまう。伝統音楽の分析における「形式」と「内容」の分裂の繰り返しに過ぎない。
(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.8 noteにて公開)