魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(8)
8.
翻訳の問題。第一の手帖の2日目の記述、2月27日のところでは、J’en profite pour continuer ce récit que je commençai hier.とある。 hierとは何時か?1日目には年こそぼかされているものの、2月10日と明記されて始まっている。ちなみに、この部分は普及版でも全集版・プレイアード版 でも同じようだ。解釈は幾つか考えられるだろう。一つは勿論、ジッドが、あえてこの過誤を残したというものだ。二つ目には、同じく意識的にジッドは ここでhierと書きつけたのだが、その理由は、書き手である牧師の、日記内の時間においては、2月27日の前日とは前に日記を書いた日付、2月10日 なのだから、これは過誤ではなく、牧師の時間意識、ないし、日記という媒体固有の時間の積極的な記述なのだとする見方があるだろう。 3つ目は(これは考えにくいことだが)ジッドが気付かなかったという可能性。
この日付の過誤については、草稿においては、第一の手帖の最初の日付が12月25日(クリスマスを意識したことは明らかだろう)であり、 次が12月27日であったことがわかっているようだ。ジッドは日付を修正したにも関わらず、文章内の参照の整合性については不注意であったかに見える。 勿論、草稿の形態と出版形態の違いがわかり、不整合が日付の修正によるものであることがわかったとしても、上記の理由についての解釈は どれも依然として有効なことに注意しよう。結局、ではなぜジッドは日付をいじることにしたのか、不整合の責は牧師が負うべきなのか、 ジッドが負うべきなのかも依然として論理的には決定できない。
興味深いのが日本語訳の対応で、昨日と素直に訳しているものがあるかと思えば、「先日」と訳しているものもある。先日と訳してしまえば、 一つ目が正解だとしたら、過誤をあえて痕跡として残したジッドの意図に反することになる可能性もある。神西訳、白井訳、新庄訳が「先日」、 堀口訳は更に「先頃」、中村訳はプレイアード版に拠るが「先日」である。プレイアード版に拠る入沢訳は「きのう」としている。川口訳、今日出海訳は「昨日」である。
勿論、この部分単独であれば、hier=「先日」という訳語の選択の方が自然かも知れない。だが原文では、以下に示す様に、ほんの一文前に既にhierが 出てきていて、しかもこちらは、文字通りの「昨日」としか訳しようがないのだ。この流れでもう一度hierが出てくるのであれば、普通に読めば、今度もまた 「昨日」であると思うのが普通だろう。そればかりではなく、2月27日の文章の最初のパラグラフには、夥しい時間表現が出てきており、問題の最後の一文を 除けば、「昨日」「昨晩」を指しているのは明らかなのだ。
ここでの時間表現をどう訳しているかを以下に整理しておくことにしよう。
原文:cette nuit / ce matin / Hier / hier
中村訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先日」
若林訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「昨日」
白井訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先日」
手塚訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先日」
入沢訳:「ゆうべ」「今朝」「昨日」「きのう」
堀口訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先頃」
堀・神西訳:「昨夜(ゆうべ)」「今朝」「昨日」「先日」
神西訳:「昨夜(ゆうべ)」「今朝(けさ)」「昨日」「先日」
新庄訳旧訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先日」
新庄訳新訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「先日」
川口訳旧訳:「今朝」「今朝」「昨日」「昨日」
川口訳新訳:「今朝」「今朝」「昨日」「昨日」
今訳:「夜来」「今朝」「昨日」「昨日」
井上訳:「昨夜」「今朝」「昨日」「昨日」