見出し画像

近松作品を観て(2003.11)

大阪の文楽劇場で近松作品を集中して上演、しかも「大経師」と「鑓の権三」が出る とのこと、見逃したら次に観れるのがいつになるかわかったものではないので、 大阪まで観に出かけた。演ずる立場から、あるいは興行を行う立場からすれば 別の見方はあるとは思うが、何年かに一度しか観れない近松の姦通物は、 出不精の私を動かすだけの力を持っているということになりそうだ。

というわけで、「大経師」と「鑓の権三」以外はついで程度の認識しかなかった のだが、私が観た11/22夜・11/23昼では、「嫗山姥」が印象に残った。 嶋大夫さん・清介さんの床は特に廓噺の面白さが抜群。簑助さんの人形には最近違和感を感じることの方が多かったのだが、今回の八重桐については現実離れした、ガブに変わる という性格の役柄ということもあって違和感を説得力が上回った。相方紋寿さんの煙草屋 源七との息もあって、見応えのある舞台だったと思う。一方で「鬼界が島」 「笠物狂」はいずれも人形が動いているのを眺めているだけのような感じに なってしまい、残念ながら楽しめなかった。「鬼界が島」は緊張感に乏しく、 また物語を展開させていく各場面それぞれの統一感と場面間の対比のいずれも 感じ取れなかったように思える。「笠物狂」は、そこだけの単独上演というのも あると思うが、おさん、おしゅん、お夏の三人の気持ちが伝わってこない もどかしさを感じた。遠路はるばる観に行って、しかも間に「鑓の権三」を 挟んでの番組ということで、いずれの印象もこちらのコンディションが原因 だとは思うが。

さて肝心の「大経師」と「鑓の権三」。いずれも作品の面白さを感じることは できたが、突き抜けた感銘を受けるということはなかったというのが正直な ところだ。理由を考えてみると、それぞれ、全体を通してみた場合に決定的に 気になることがあったのがその理由のように思える。私の場合、原作に通じている わけでもないし、そんなに注意深い聴き手でもないし、寧ろせっかく出かけたの だからがっかりするのはごめんだと思って観ているので、別に何かが「間違っている」と いうような次元の話ではそもそもないのだが、それでもそれぞれについて違和感を 拭えなかったのである。

「鑓の権三重帷子」は、「浜の宮馬場」「市之進留守宅」までは楽しめた。「浜の宮馬場」は 登場人物の性格を提示し、その後の話の前提をなす状況を明らかにするという点で 巧妙で、感心してしまった。人形ではまず、玉英さんのお雪が印象的で、そのために 物語の奥行きを感じることができたように思える。玉女さんの権三は、お雪に対する 曖昧な態度が不決断な性格にあるのか、それとも秘められた意図ゆえのものなのかが 一見してよくわからないのが面白く感じられた。最終的には野心ゆえに破滅するのだが、 それは到底計画的なものではなく、選び取ることができない人間が、その場の勢いで 選んだらひどい目にあってしまった、というふうに感じられたのだ。勿論、こうした 性格は、武芸に秀で、茶の湯の道にも優れているというのとは無関係であるが故に 両立しえるので、そうした造形の非定型性に寧ろリアリティを感じた程である。

また「市之進留守宅」でのおさゐの描写も明確で、ひどく自己中心的でありながら、 それに自分では気付いていないということが強く印象付けられる。津駒大夫さん・ 寛治さんの床、文雀さんの人形は素晴らしく、人形の動きに体温を感じるような 生々しさがあるように感じられた。一方で、景清のパロディの部分などの面白さも 抜群で、玉佳さん紋吉さんの人形も良かったと思う。こういう細部が生き生きと しているのは観ている側にとってはとても大切で、場面間の対比が生まれて物語の 展開が寧ろ把握しやすくなるように感じられた。

違和感は「数奇屋」にあった。数奇屋でのおさゐの言動には不可解さが付き纏う。 「数奇屋」の冒頭の様子から不自然で、まるで自分の悋気を咎め、罪の意識に怯えて いるような印象を受けた。そしてその頂点は、実際には起きていない姦通が 「状況証拠的に」成立したと気付いたあとのおさゐの言動にある。今措かれている 状況の原因を自分のこれまでの判断と行動に求め、権三に謝るのだ。それでいて、 その後の権三への言葉には、例の身勝手さがにじみ出ているようにも感じられ、 逃げる段になっても、三人の子の寝顔を見たいと言い出す。

勿論おさゐは混乱しているのだと考えることもできるだろうし、そもそも 既に「市之進留守宅」での言動からして「無意識的には」姦通は準備されていた のだから、不自然ではない、と考えることもできるかも知れない。けれども 無意識的にそうであるのと、それを意識して罪の意識に怯えるのとは別では なかろうか?一方では伴之丞の恋慕に対しては「主ある私」に対する恋慕を咎める くせに、自分が子供をだしに婚約者のいる権三に対して嫉妬するのは構わないという 身勝手さが「市之進留守宅」のおさゐの在り様ではなかったのか。

どうやら、この違和感は故無いことではないようで、観終えた後でこうした 違和感を話したある人から、実は「数奇屋」の「反省の弁」は原作には存在しない ということをお伺いした。してみると、「数奇屋」の冒頭からすでに罪の意識に 怯えているかの印象も、改変に対する一貫性を与えるための綱大夫さんの解釈あっての ものだったのだろうかとも思う。「主ある私」に対する恋慕を咎められた伴之丞の 通路である樽が、おさゐ権三の唯一の通路となるという、近松ならではの演出 (しかもこの樽は、「市之進留守宅」で権三が自分の出世がかかった依頼をする ために持参した銘酒の樽、「縁の橋渡し」の樽と響きあい、渡るかささぎは 予告どおり「身も紅に染むる」冥途への通路になるのだ。)もあって観ていて非常に 面白いのだが、残念なことにおさゐの心の動きがぶれて感じられたためか、 そうした趣向の方が寧ろ強く印象に残るような感じになってしまった。

「鑓の権三」を観て感じるのは、そのわかりやすさだ。人物の造形は勿論、 定型的であるわけではない。近松ならではの複雑さと奥行きに事欠かない リアリティはあるのだが、その設定は非常に明確でわかりやすく提示されている。 省略があるとはいえ、物語の展開もはっきりしている。 そして、妻敵討も盆踊りを背景に行われ、サービス精神旺盛というべきか、 観ていて楽しめる作品に仕上がっているように感じられた。 残念だったのは、道行と忠太兵衛内が省略されたことで、そのため市之進と 岩木甚平の性格付けが話の上では不明確になってしまっていたと思う。 実際には、勘十郎さん、紋臣さんの人形が素晴らしく、状況が説明されずとも 両人の心情は充分に伝わってきたと感じられたが。

というわけで、「鑓の権三」のわかりやすさというのは際立っているように思われる。 同じように武家の世界で起きるものの、鼓の師匠という如何にも 中間的な身分の人間を巻き込む「堀川波の鼓」は、こんなにわかりやすくはない ように思える。それゆえ観ていて楽しいのだが、その一方で、近松の作品の 特徴であるある種の不気味さのようなものには欠けるような気がする。
勿論、真昼の馬場から始まり、夕暮れから夜闇への推移はあるのだが、にも 関わらず、数奇屋ですら奇妙に明るい感じが拭えなかった。それが上述の 違和感を感じた故なのか、もともとそういう作品であるのかはまだよくわからないのだが。


一方の「大経師昔暦」は、まず「大経師内」の緊密さが圧倒的だ。松香大夫さん、喜一朗さんに よる中から、引き込まれてしまう。冒頭の明白な源氏物語への言及、近松お得意の コミカルな「海士」の謡の引用などが織りなす空間を、物語が進行するのは実に見応え、 聴き応えがある。咲大夫さん、清治さんが引き継いで奥に入ってからも緊迫感が 素晴らしい。この物語が成立するために不可欠な「取り違い」については、不自然さを 指摘されることもあるようだが、実際の舞台の説得力はそうした不自然さを感じさせない 素晴らしいものだった。「大経師内」の段切れは、その「取り違い」におさん茂兵衛が 気付く詞で終わる異例のものだが、燕三さんの作曲も素晴らしく、二人の叫びとともに 画面が静止して幕が下りるようなその効果は圧倒的だったと思う。

けれども、個人的には「梅龍内」以降には、非常に強い違和感を覚えた。その理由を 考えてみると、実は違和感の由来は幾つかあって、一つは実は正当な、もしかしたら 作者によって意図されたかもしれないものなのだが、残念ながら、違和感はそれに 尽くされるものではないよう思われる。

「梅龍内」は何といっても床が素晴らしい。ここは姦通物としては異例で、まるで 心中物の一場面のような情が通い合う場面ということになっているし、実際、道順の 「なんにも言ふな、さらば」の詞を頂点とする別れの場面は、ほとんど感動的であった といって良い。「ほとんど」というのは、実際に感動する気持ちの隅に、強固な 違和感が残っていたからである。その違和感は「この話は本当に今私が感動したような 話なのか」という疑問に尽きる。住大夫さんの素晴らしい語りに圧倒される一方で、 言葉は悪いが、何か話がすりかえられてしまったような居心地の悪さを感じたので ある。

違和感は、「奥丹波隠れ家」にもあった。まずは梅龍がお玉の首をもって現われる 場面を中心としたやりとりがそうなのだが、それよりも何よりも、おさん茂兵衛が 捉えられ、罪人と極まって連行されるところで終幕となり、その後の道行と、 最後の粟田口刑場の場が省略されることへの違和感が大きかった。

違和感のうち、最後のものの理由の一部はただちに思い当たる性質のものである。

簡単に言えば、最初に粟田口が仄めかされているのに、どうして途中で終わるのか ということなのだが、勿論、罪人として連行されて終わるのだから、そのまま処刑 されるので良ければ、途中で終わっても同じことであると言えるのだが、私の観た時の 感覚では、おさん茂兵衛は処刑されてはならず、女三の宮が出家したように、 いわば「無期懲役」の状況になるのが自然であるように感じられたのだ。

実際、原作を知る人に聴けば、一見救いのないこの話の結末では、僧により処刑に 対する異議申し立てが行われ、助かったともそうでないとも書かれていないが、 新年を寿ぐ詞で終わるとのこと。どのような解釈が妥当とされているのか知らないが、 個人的には、処刑は行われず出家した、という結末(これは勿論、実説とは異なった ものだ)が、この物語には相応しいと感じられたので、至極納得がいった。

観終えた後、しばらく複数の違和感をそれぞれ検討しているうちに思い当たったのは、 以下のようなことである。勿論、素人の勝手な想像なので、恐らく、見当外れな ものであろうとは思うが、観劇の記録ということで書きとどめておきたい。

この作品と「鑓の権三」「堀川波の鼓」は姦通物ということで一まとめに分類される ことが多いようだが、私見では、この作品は「鑓の権三」「堀川波の鼓」とははっきり と異なる特徴を持っている。

何よりはっきりしているのは、些か特殊ではあってもこの作品の舞台は武家ではなく、 商家であることだ。おさんはおさゐやお種と違って、武士の妻ではない。従って この作品には処刑場の場面はあっても、妻敵討ちは存在しないのだ。

商家が舞台であることは、もう一つの非常に決定的な相違に関係する。それは、 物語の展開の原動力が、経済的なもの、つまりおさんの両親の経済的な破綻に あることに関係しているように思われる。これは、武家を舞台にした作品には ない特徴で、寧ろ心中物に近い感触を作品にもたらしているように感じられる。

勿論、武士がいないわけではない。梅龍がそうだが、梅龍は浪人して太平記の 講釈で糊口をしのぐ有様だ。それだけでなく、この梅龍の困窮が、(隠しては いるものの実際には血縁の)お玉が大経師の家に奉公している原因になっている ことに留意する必要があるように思える。それだけでなく、太平記講釈師の 彼の言動は、騎士道小説を読みすぎたドン=キホーテさながら、徹底的に 戯画的であって、太平記を世界として持つ時代物の浄瑠璃でなら絶大な力を発揮する 身代わりの首(そうした犠牲をお玉に強いたのは、梅龍の論理だ)も、 江戸時代の役人となった武士に対しては逆効果で、この物語で唯一、 疚しいところのない、潔白な人物であるお玉「のみ」が、意味無く死ななくては ならないのだ。果ては手代を「良き敵」と称して切腹の道連れにしようと 試みる始末。もっとも実際には梅龍も後ろ暗いことがある点では良い勝負なので、 皮肉なことに確かに釣り合い的には丁度良いかもしれないのだが。

つまり、「奥丹波隠れ家」の梅龍のエピソードの持つ違和感は、 それが時代物のパロディとして、梅龍に象徴される時代物的な論理が戯画化 されていることに由来するものであったようなのである。

そして、そうした梅龍の立場は「梅龍内」でも感じ取られなくてはならないのだ。 梅龍と手代助右衛門は「奥丹波隠れ家」同様、「梅龍内」でも「良き敵」なので あって、お玉は手代助右衛門のみを告発し決して梅龍を告発することはしない にも関わらず、梅龍側に手代助右衛門以上の理があるわけでもなさそうだ。 好対照なのは、梅龍の論理が現実には無力なのに対し手代助右衛門は現実には 卑劣なまでに狡猾に立ち回ることによって登場人物の運命に対して隠微な影響力を 行使するという点くらいか。

それでは、道順はどうなのか?気をつけないといけないのは、娘を鳥にも劣る、 犬猫並だと批判する道順自身は、すでに多重債務者で、おまけに詐欺という犯罪に 手を染めており、道義的にも経済的にもとっくに破綻しているという点だろう。 道順が家を抵当に入れて借りた額は三十貫。これは5000万近い大金だが、更に無断で 同じ家を抵当に八貫、つまり1000万を優に超える金額を借りている。2回目を無断で やっている時点ですでに立派な詐欺行為で、しかも借金の利息が払えずに詐欺が 露見するのが嫌で、またもや借金をしようとしたのが、そもそもの発端なのだから。

勿論、道順には自分の借金がきっかけで娘が破滅したという意識はあるかも知れない。 けれども、色々と理屈をつけて一貫の金を娘に拾わせて「なんにも言ふな、さらば」 と去っていく道順が示す情を私は信じることができないのだ。実際の問題として、 娘に持たせた一貫は、その場の道順にとっては既に意味のあるお金ではないではないか。 残りの一貫、自分の面目のために娘に頼み込んで手に入れようとした一貫がなくては、 黒谷の和尚からの一貫だけでは、結局家を抵当に借りた借金の利息を払うことは出来ず、 もはや期限が過ぎて家は差し押さえられ、結局、和尚に返すつもりのお金だったのだから。

梅龍内の違和感の由来は今や明らかである。道義的・経済的に破綻している道順の 言動に、個人的についていくことができなかったのである。後悔ともとれることばも あるが、別に詫びるわけでもなく、聞きようによっては白々しささえ感じられる。 そこだけ取り出せばまるで駆け落ちする子供に情をかける心中物の親のようではないか、 というわけである。勿論、お金が背景なのは別にめずらしいことではないし、 梅龍内が親子の情愛を描いたものであること自体を否定しようとは思わないが、 それでもこうした状況の異常さを馴らしてしまう見方には抵抗を感じる。金額の多寡や 経済的な状況に拘るのは、そうした細部の具体性こそが重要と考えるからで、近松は 決して無頓着に設定しているのではないと思う。(そうしたもう一つの重要な例は 梅川・忠兵衛における身請けの金額で、それもあって私はこの話を梅川がヒロインの 話とする見方に一定の留保をせざるを得ないと感じている。)

更に言えば、この場の最後に磔になったおさん茂兵衛の影法師とお玉の首の影が 浮かび上がるシーンも、登場人物がそのように語るように実際に三人が助からない という予兆であると、観客にも告げているわけではないと思える。ここ場面に 限れば明らかにそのように見て取っているのは疚しさのある道順夫妻なのである。

原作では、道順夫妻は省略されてしまった「奥丹波隠れ家」に続く粟田口刑場の場面で、 もう一度、娘の命乞いをするために現われ、一貫を貸した和尚の煽動で娘が救われることに なるのだが、今回の上演はそこを省略しているからこの愁嘆場で退場するわけである。

それゆえ、お玉の物語としては、時代物の戯画化であったのに照応するように、 おさんの物語としては、心中物のパロディのように感じられたのである。本人たち には心中する気は無く(茂兵衛はむしろ義務感からついていくだけで、それゆえ 追っ手が迫れば怯えきってしまうし、おさんはもはや頼るものは現実には茂兵衛 しかいないところで、突然以春のことを思い浮かべる。)、情をかける親は、 道義的には娘を批判する権利なぞ全くない破綻者なのだから、パロディ以外のものには なりようがない。

実際、近松が用いる照明法は、この作品に関しては他の姦通物、心中物とは異なる ベクトルを持っている。事件は闇の裡で起き、梅龍内も闇の中で進むが、奥丹波では 晴れ上がりこそしないが、雪の反射で仄明るい中で話は展開するし、省略された粟田口は 白昼の出来事であって、闇へと暗転する他の作品と対照的だ。

更にトポスの移動の点から言っても、京都の中心から岡崎、丹波までは落ちていくのに 道行は(たとえ刑場へ曳かれていくにしても)京都への帰還であって、やはり常とは 異なる印象がある。

それが近松の意図であるのかどうかはわからないが、やはり全体としての印象は 他の作品と比べて一ひねりあると感じさせるものになっているように感じられるのだ。

というわけで、作品としては非常に面白いものであることがわかったが、その面白さは エンターテイメント的なわかりやすさを備えた「鑓の権三」とは全く逆に、ある種の 割り切れなさ、わからなさに結びついていて、一度観ただけでは正直なところよく わからないというのが感想である。残念ながら、再演はしばらく期待できないとは 思うが、もう一度、できれば省略された部分を復活させた形で見てみたいように 思える。

(2003.11.29 公開, 2025.1.XX noteにて公開)

いいなと思ったら応援しよう!