落穂拾い:『人新世の「資本論」』における芸術の価値についてー「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」余録(3)
「他者」を客観的な分析対象とするのではなく、「他者」として迎接し、歓待することとしてまず思い浮かぶのは「他者」との「対話」です。しかもそれは何かの目的を達成する手段としての対話であってはならない。それでは「他者」として迎接し、歓待することにはならないからです。ハイデガーの『存在と時間』においてはDas Mannの頽落態としての「おしゃべり」という劣化した様態が取り上げられますが、「おしゃべり」はとりとめなく、何かを達成する手段ではない替わりに、ここでいう「他者」の迎接・歓待でもありません。寧ろそれはメディアの発達した今日なら、単なる時間つぶしのためにテレビのチャンネルを次々と切り替えてみたり、スマートフォンでSNSを眺めたりといった行為に近いものとして捉えられているのだろうと思います。一方でそうではない、リアルな「他者」との「対話」、何かを目的としない「対話のための対話」こそが人間にとって存在論的に基礎的な様態であることを無視することはできないでしょう。例えば、これは最近そうした認識が一般的になってきたように思いますが、認知症の進行を抑えるのに「おしゃべり」が有効であるのは、ほぼ事実といってよいようです。更にまた、「オープンダイアローグ」と呼ばれるもともとは急性期の統合失調症をメインのターゲットとする療法は、治療を目的としない対話を重視するという点で興味深く思われます。もちろん、どちらの場合でもそれですべてうまくいくわけでもないし、薬によって生理学的に症状を緩和することが有効な場合もあるとは思いますが、これは教育とかでもそうだと思うのですが、何かの目的のためではなく、かえって自己目的化した方が、副作用的に「目的」を達成しやすいというパラドクスは非常に重要だと思いますし、「対話のための対話」というのは、「オープンダイアローグ」の提唱者であるセイックラ/アーンキルの著書のタイトルが『開かれた対話と未来 今この瞬間に他者を思いやる』であることからも示唆されているように、それが「他者」の迎接・歓待であるから「有効」なのだと思います。そして「自己」を維持するために対話を続ける必要があるのだとしたら、それは別の水準で生命維持が論じられるのとほぼ同じ水準で論じられるべきなのではないでしょうか。「オープンダイアローグ」は当初のターゲットである統合失調症のみならず他の症例に対しても実践され成果を収めているようですし、認知症に適用されて成功した事例というのがあるかについては現時点では寡聞にしてわかりませんが、少なくとも「他者との対話」が「自伝的自己」の維持に必要であるという点では共通しているのは、偶然ではなく、やはり「自伝的自己」というものの成り立ちに由来するのでは、という気がしています。
更に興味深いのは、セイックラの「オープンダイアローグ」の変種としてアーンキルが提唱している「未来を思い出す」対話です。私はこれを、私が私なりに「未来完了的」な様態ということで考えてきたこと(例えば、マーラー関連のマガジンにて公開している「マーラーの音楽の「未来完了性」について」および「マーラーの音楽の時間性についてのメモ」をご覧ください。)に関連づけてみたいと考えていますが、ここでの関連では、未来を思い出す」というのは「音楽芸術」の定義でもある点が指摘できるでしょう。まず最初に、そもそも音楽作品を作ること自体が「未来を思い出す」ことに密接に関わります。これはドゥピュイが『ありえないことが現実にあるとき』において未来からの時間の逆流について、ベルクソンを参照しながら述べた点に関わります。更に作られた音楽作品の経験もまた「未来を思い出す」ことに関わります。これら2つは水準が異なり、厳密にきちんと区別すべきでしょうが、なぜ論理的には区別されるべきものに見える2つのレベルのいずれもが「未来を思い出す」に関わるのでしょうか?多分その理由は「音楽」を「作る」ことが、記号論的三分法における作曲・演奏・聴取の区別における最初の相だけに関わるのではなく、その全ての相に関わるから、つまり演奏・聴取の契機がない限り音楽が「作られる」プロセスは完結しないという点と関わると思います。そして当然これは、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」の3つの相にも関わる、というよりそこから導かれることであるとも言えると思います。
一方「対話のための対話」という自己目的性という側面を「音楽芸術」がもともと備えていることは自明に思われます。なので「オープンダイアローグ」と突き合わせることで問われるのは、その側面ではなく、寧ろ対話におけるような多声性が、基本的な個人的で孤立したものである筈の音楽作品の制作における多声性をどう考えるかという点だと思います。勿論、「音楽」を作ることが、記号論的三分法における作曲・演奏・聴取の区別における最初の相だけに関わるのではなく、その全ての相に関わるならば、全体としての創作は個人的で孤立したものではそもそもないことになるわけで、問題はこちらではない。作るにしても聴くにしても、あるいはオーケストラの一員として演奏する際でも、「ひとりで」やるという側面がなくてはならない、そこに個がきちんとあってこそ「対話」が、ポリフォニーが可能になるという点をどう扱うかの方が大事な問題に思えるのです。
ところで、ロラン・バルトの『明るい部屋』を取り上げ、「写真のノエマ」たる「それは-かつて-あった」を手掛かりに「声」についての考察を試みた文章として、フォルマント兄弟による『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』に触れないわけにはいかないでしょう。今でも公開している当時の記事で、私はその文章に対する当惑と懐疑を綴ったが故に、未だに私個人にとっては或る種身構えてしまう面がありますが、10年越しに改めて接して確認できたことは、私の当時の疑念について今ならもう少し平明に語れるだろうと思う一方で、そこで気になっていた点が勘違いだったり、おかしかったりしたわけではなく、現時点でも基本的には訂正や撤回の必要性は感じないというのが一つ。(一方で、別のところで何度か述べているように、「逆シミュレーション音楽」については、はっきりと、以前の私には理解の至らなかった部分があったと明確に認めることに躊躇いを感じません。そして、現時点での私の理解は、この文章でこれまで言及してきた内容に反映されているばかりか、そのコアを成しているとさえ思います。)その一方で当時もやもやしていた「死者なき亡霊」の位置づけ(もう一つ言えば、こちらは三輪さんのタームである「あの世」の位置づけ)については、その後の三輪さんと佐近田さんの活動によって、特に近作『五芒星』三部作の実践によって私にはようやく明確なパースペクティブの中で捉えられるようになったと感じます。勿論、厳密を期するということになれば、今回の『五芒星』三部作の間の差異を通して「死者なき亡霊」という概念を、それに見合った肌理の細かさを備えた精緻なものにして行く作業をすべきなのかも知れませんが、それはここではなく別にやるべき大きな課題であり後日を期したく思います。同じことは「あの世」についても言えて、上で触れた「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」における「あの世」と「この世」に限って言うならば、「システム内存在」たる「私」には「この世」と「あの世」しかないと一旦はいうべきであるにも関わらず、そのいずれでもない「あの世」(というのも、それは「この世」ではない限りにおいて、やはり「あの世」の一種という他ないし、かつてはこちらこそが「あの世」と呼ばれていた筈だから)、「死者なき亡霊」ならぬ「死者=亡霊」の領分が存在することが示唆されているように思われ、12年前のもやもやが間違っていたわけではなかったことが明らかになりつつあるように思います。
「…6つのパースペクティブ」では「死者なき亡霊」に関して、「ナイーブな存在論を破砕する」「特異な存在のあり方をあえて「亡霊的」」と呼んでいるけれど、本当に「亡霊的」なのは、メディアが生み出す「あの世」に棲む「死者なき亡霊」などではありません。勿論、存在論はメディアが生み出す「あの世」に棲む「死者なき亡霊」を扱えない程にナイーブなのかも知れませんが、それは話の本筋ではありません。なのに「…6つのパースペクティブ」では「死者なき亡霊」のみが語られ、その「ナイーブな存在論を破砕するこれほど特異な存在のあり方」が強調されるものだから、戸惑ってしまったということです。敢えて言えば、本当に「存在論的」に救出が必要なのは「死者」そのものじゃないのか?ということです。もちろん、メディア論としてはメディアが生み出す「死者なき亡霊」を指摘するのは正しいし、それを議論するのも正しいし、それがメディア論の文脈で評価されるのも正当だし、何よりそれは決して軽視すべき相手ではないというのは承知の上で、三輪さんは、常に・既に、それとは異なるものの方に価値をおいているということが既に明らかであると私には映っていたのが、戸惑いの理由だったということになるでしょうか。
別の種類の「死者=亡霊」が、寧ろ「この世」のすぐ隣の領域にいる。それは寧ろ、かつては寧ろ身近であったに違いないのに、メディアが生み出した「死者なき亡霊」の跳梁跋扈のせいで寧ろ忘れ去られつつあるもので、それこそがかつても今も「芸術」がそれを目がけている対象なのだということです。もう一つ言うと、この「死者なき亡霊」と「死者=亡霊」の区別は、「私」の側の家畜化(これは近年、人間の文化的進化についての文脈で言われている意味合いを込めて捉えるべきで、それは単純な批判の対象ではなく、寧ろ人間が今日のようになるための構造的な条件であった点を軽視してはなりませんが)とそれに対する「対話」とポリフォニーとを可能にする条件としての「個」との差異と構造的に対応するのだと思います。
生物学的・文化的にインプリメントされてしまっている半ば自動的なメカニズムの方は変えられないのに対して、人間はテクノロジーの力によって「現実」の方を組み替えて、自分を騙すことができるようになってしまったのに、しばしばそれに気づかないどころか、気づいていたとして、寧ろ進んで騙されすらすること、だけれども背後に、恰ももはや存在しないかのようにさえ言われもする不可視の辺土が厳然として開けていること、そしてそれはかつて「芸術」がそこから発した領域であって、それらはもともと亡霊的なのに、更にもう一度亡霊化されて、でも人間が消え去るまでは、実はそれに常に憑依されているのだということを、これまた恰も無かったことの如く思いなしてはならない。端的に言えば、「亡霊」に2種類あること、2種類を同じように「亡霊」と呼ぶこと自体は正当で間違いではないけれど、にも関わらず、両者の違いに対して意識的であることこそが問題であるということを見過ごしてはならない。「死者なき亡霊」を生じさせ、剰え「死者なき亡霊」だけが存在して、それ以外に「あの世」はないという閉域に人を閉じ込めてしまうテクノロジーの支配を逃れることなどできないし、その限りで『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』の指摘は正当であるにも関わらず、それがそのまま「死者=亡霊」の忘却を寧ろ助長しかねないことへの苛立ちが、かつての私の批判の根底にあったのだと思います。これもまた最早昔話ですが、ICCで「フォルマント兄弟のお化け屋敷」というプレゼンテーションがあって、私はそれに対してもかなりネガティブな発言をしたのでしたが、思えばそこでの私の「拒絶」はあのプレゼンテーションが、それ自体は間違っていないとしても、寧ろ2つの亡霊を混同することを助長しているように感じられたのが原因だったのだと今になって思います。もし、メディアの生み出す亡霊に「ほんものの」(という言い方を敢えてします)亡霊を回収して、その「他者」としての力を無害化してしまったら、まさにメディアの思う壺、ということになる。何しろ文字通り「死者なき亡霊」こそはディズニーランドに代表される「ファンタズマゴリー」の主役達に他ならないのです。生物学的にハードコードされた器官だってメディアの一種でその間に区別はないというのは理論的には正しいのでしょうが、そういう言い方をすることは、この場合には本当は擁護したいものを抹殺しようとする側に加担することになるのを感じて、反発したのだと思います。それは歓待すべき「他者」たる「死者=亡霊」の「厄払い」とならざるをえず、そこでは「他者」の歓待も、「対話」も不可能になってしまいます。「ファンタズマゴリー」はしっかりと使用価値と交換価値の回路に回収され、管理と支配の道具となっている現実の最中で、そこからの脱出の可能性を自ら閉ざしてしまうことになります。結果として「デジタル・ミュージック」におけるパースペクティブは、図らずも「音楽藝術」の終焉だけを指示していることになってしまうのです。そこには形而上学の終焉、近代の終焉、歴史の終焉としてのポストモダン的状況について蔓延った、論理の誤った適用による単純化に起因する誤解と同型の構造が見出せるように思います。一見したところ「出口なし」に見えてしまうというわけです。
だからといってテクノロジーの力から目を背け、それを拒絶することのみが可能な戦略ではないことを、三輪さんのその後の活動は身をもって示してきたのではないかと私には感じられます。かつて「逆シミュレーション音楽」がゴールデン・ニカ賞を受賞した時の審査員講評で、審査員の中から「三輪の方法は、ほとんどファシズムに見られるような 制御を設けて自律性を否定し、全く廃れたポストヒューマンの概念を持ち出してきた」という意見が出たと述べられていたことが思い起こされますが、「逆シミュレーション音楽」は、一見そう見えたとしても、コンピュータに人間が支配され、管理されるディストピアの戯画などではありません。(そうであるならばそれは、「…という夢を見た」という枠組みでの多様性の装いの元で単に「ファンタズマゴリー」を一つ追加するだけに終始するに過ぎないことになるでしょう。)そうではなくて、それはその定義によって「音楽藝術」の成立条件を構成論的な仕方で厳密に記述するとともに、実践によって、テクノロジーの力から目を背けることなく、その只中で、それが覆い隠そうとしている「他者」を如何にして歓待し、「対話」を行うことができるのかの可能性をシミュレートしているものなのだと私には思えるのです。それは『「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ』で参照されているスティグレールの議論を引き継いで、シンギュラリティ(技術的特異点)を見据えつつ、「宇宙技芸」の再発明のための隘路を行こうとするユク・ホイの試みに比することができるような壮挙なのだと私は考えています。更に付け加えれば、「死者なき亡霊」と「死者=亡霊」との区別に関して、前者が「清潔な」と三輪さんによって形容されている点を踏まえて、藤原辰史先生の『分解の哲学』に架橋することも可能でしょう。「ファンタズマゴリー」の主人公たる「死者なき亡霊」とは異なって、「死者=亡霊」はまさに「腐敗」し「分解」される存在に関わるのであって、この差異に注目することはそれ自体ラディカルな批判力を有するものと感じられます。勿論、ここでは極めて断片的な仕方で、幾つかのキーワードを辿るような仕方でその輪郭を辿ったに過ぎず、そのことをきちんと論じることをこの場で果たすことは到底できないことですが、既に述べた通り、三輪さんの実践する「音楽藝術」と「人文学」とが、芸術の姿を借りた「ファンタズマゴリー」の支配によって浸蝕され、感情までが支配され、制御され、搾取される危険に対して尚も批判力を有するものであることを示すことが、mathesis singularisとしての「三輪学」の役割である限り、少しでもその役割を果たすべく、後日を期してこの追記を終わりたく思います。
(2022.9.18,10.8,10.16の三輪さん宛メールの内容に基づき再構成。2023.2.24,26追記. 2025.1.1 noteにて公開)