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クセナキスを巡っての11の断章(4)

4.

人間のための音楽。

クセナキスが人間の演奏者のために書いた演奏不能な楽譜。それは寧ろかつてのプレイヤーズ・ピアノ、今ならMIDIでのプログラミングにこそ相応しいのではないか。演奏者に課する苦行。不完全にしか実現できない非人間的な秩序のミメーシス。コンピュータが奏者になれば、正確な演奏が、「楽譜どおり」の演奏がようやく可能になる。

そしてここに大きなパラドクスがある。楽譜は音の客観的な秩序の発生手順の処方を記載したものではない。楽譜は人間の演奏者へのコミュニケーションツールだったはずであり、記譜法のディティールに、そうした伝達の伝統が介在していた。一見不合理な記法が或る意図の伝達である、ということだってありえたのだ。

ところがクセナキスの音には間合いも呼吸もないのではなかったか。勿論それは、楽器という媒体は意識しているし(例えばヘルマの集合論的な操作はピアノの鍵盤で鳴らすことができる音の集合に対して行われる)、プレイヤーズ・ピアノのための或る種の作品と異なって、もともと人間の身体性を全く無視したものではない。

だがそれは人間の身体に合わせて調整することが許容されるような音達なのだろうか。その音は、同じ記譜法で書かれていても、今度こそ、記譜された通りに弾かれるべきなのではないか。MIDIプログラミングによる演奏は、或る種の極限を示している。人間には到達できない極限を。ここにクセナキスの音楽のパラドクスが集約された感がある。クセナキスの音楽は、本質的にそうした極限を示しつつ、だが、それが「音楽」である以上、その極限を不在のものとして拒絶するようなものなのだろうか。

では聴く私はどうなる。それは聴き手を極限においては必要としていないのか。だが、そうした極限はまた、恐らく不在のものとして封印されているのではなかろうか。MIDIプログラミングによる演奏は興味深いが、それは或る種の実験に過ぎない。それは「音楽」ではないのだろう。そしてクセナキスの「音楽」は「音楽」の境界を彷徨う。そしてそれは人間の限界でもある。

(2005.4--2007.6, 2007.6.13未定稿のまま公開, 7.7改稿、2008.10.7, 10, 2009.2.28加筆, 2024.12.15 加筆・編集, 2025.1.2 noteにて公開)

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