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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(13)
13
– Imagines-tu cela, Jérôme : le meilleur !
この一見したところ単純な語りを日本語にするのがどんなに大変なことかは、訳者達の工夫を見てみれば明らかである。imaginerというフランス語の動詞を 現在形で使って質問するとき、それは語っているその瞬間の行為についてたずねているのではないことは明らかだろう。「想像するか?」とそのままにするのは 日本語として不自然だからといって「想像している」を使ってしまうと、同時性における継続を含意してしまって、不自然ではないかと思うのだが、それでは 代替案はといえば、「想像したことがある」といういわゆる経験の有無を尋ねるような表現になるようだ。山内訳を筆頭に、「たことがある」派が多くを占めるが、 さりとてそれは「過去の」経験の有無の質問ではないのだ。 そうしたニュアンスを嫌ってか、「ている」で訳している翻訳も幾つかあるが、これは学者、研究者の 訳としては「正確」(というより「保守的」というべき)かも知れないが、私見では明らかに文脈にそぐわない。この文脈では、まるで今、それを考えているのかを 問うているようにしか思えない。あるいはここしばらくずっとそのことを考え続けているのかを聞いているようにしか思えない。なぜそれではいけないかといえば、 この直前の部分でアリサは、 Tu te souviens de ce verset de l’Écriture, qui nous inquiétait et que nous craignions de ne pas bien comprendre : « Ils n’ont pas obtenu ce qui leur avait été promis, Dieu nous ayant réservés pour quelque chose de meilleur… » というように、過去のことを思い起こしているからで、ここからいきなり、今それを想像しているかと急に聞くのは、まるで後だしジャンケンのようなものだからだ。
実際には、またしても中村訳を目にしてびっくりして、慌てて山内訳を再度確認し(私の頭の中には基本的に山内訳のニュアンスで記憶されているから)、 それから原文にあたったというのが順序なのだが、逆にこの状況で日本語で言うならどうするかを考えれば、寧ろ「想像することができるか」という訳語が 適切であるという人がいてもおかしくないだろう。(Dorothy Bussy の英訳は、まさに Can you imagine it, Jerome ? - Some better thing ! としていて、 そうした見解を支持しているようだ。) かつて意味がよくわからないと二人で言っていた章句の解釈について、改めてアリサはジェロームに、 今ならわかるのかと聞いているのである。その後、あなたはその章句の意味を考えてみたか?という問いは自然だろうし、今ならあなたには想像できるか? というのも自然だが、今考えているかという質問はありえないだろう。先蹤としての山内訳の見事さと、作家とは思えない中村訳の文章上の想像力の欠如に驚きを禁じ得ない。
「たことがある」
山内訳:「勝りたるもの!ジェローム、あなたはそれを考えてみたことがおありになる?」
新庄訳:「ジェローム、それを、その《勝りたるもの》を考えてみたことがあって?」
川口訳:「ジェローム、あなたはその『勝りたるもの』を考えて見たことがあって?」
淀野訳:「ジェローム、あなたはその《勝りたるもの》を考えてみたことがある!」
若林訳:「勝りたるもの!それを思いうかべたことがおあり、ジェローム」
村上訳:「ジェローム、あなたはあの『よりすぐれたもの』を想像してみたことがある?」
「ている」
中村訳:「ジェローム、考えているの?その「勝りたるもの」のことを!」
白井訳:「ジェローム、あなたはそれを考えているの?その<勝りたるもの>のことを!」
菅野訳:「ジェローム、あなたはそれを考えていらっしゃるかしら?その『勝りたるもの』のことを!」
小佐井訳:「ジェローム、そのことを考えているの?その”より良きもの”のことを!」
「る」
須藤・松崎訳:「ジェローム、あなたはあのことを考えるかしら《勝りたるもの》もののことを!」