NEO都々逸シリーズ「せんだいドドンパ節」初演の感想
フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康):NEO都々逸シリーズ「せんだいドドンパ節」(世界初演)
MIDIキーボード:岡野勇仁
2010年8月28日サントリーホール・ブルーローズ(小ホール)
前日の管弦楽のガラ・コンサートに続いて、この日は室内楽のコンサート、全体は15:00からの第1部と 17:00からの第2部の2部構成で、総計20人の作曲家の20作品を10作品ずつ演奏していくというもの。 フォルマント兄弟の新作初演が含まれる第2部の開始にあわせてホールに着くと、昨日のコンサートよりも 寧ろ盛況の様子。だが考えてみれば、単純に作品数だけ演奏者と作曲者がいて、それぞれに聴き手が いるわけだから、現代音楽全般なり、芥川作曲賞そのものに関心がある一定の層以外の潜在的な聴き手は この日の方が多いというのは自然に想定できる。
今日は入場時に夏田さんの作品の演奏中止を告げるチラシが配られる。予想されたとおり、「事情により」としか 書かれておらず、理由についての説明はない。この点については既に前日のコンサートの感想で書いたので繰り返さない。 ちなみに三輪さんは、演奏前のセッティングには参加されたが、終演後の拍手に応えたのは佐近田さんのみだった。 昨日に続いてのこの行動には明確なメッセージがあるのははっきりしていると思われるから、 それを目撃した証人として、そうした事実をここではきちんと記録しておくことにしたい。
一方で細かい話だが、よりによってこのチラシの夏田さんの名前の表記が間違っていることに気付いてしまい、 またしても複雑な気分になる。プログラム冊子本体の方にも表記ミスがあったようで、訂正の紙が挟まれている。 こちらも昨日はなかったから、夏田さんの作品の演奏中止の件ともども、いずれも誰かが指摘したのだろうか。 だが、チラシに更に含まれる誤字を訂正する機会はないだろう。受け取る側も嫌なものだが、用意した側も、 用意する作業自体楽しかろう筈がない上に、更にミスがあったとわかればさぞ嫌な気分になることだろう。
だが、演奏が始まってしまえば、そうしたことは少なくとも背景に引いてしまう。演奏者はどの楽器をとっても当代きっての名手揃いで、 作品の出来以前に演奏の素晴らしさが客席を圧倒してしまうのだ。アコーディオンのような通常クラシックでは用いられない楽器もそうだが、 現代音楽はいわゆる邦楽器のための作品を含んでいて、それゆえサントリー・ホールのような場所でも、現代音楽の場合に限っては邦楽器の演奏が行われるというのは 改めて考えてみると奇妙な現象ではある。純邦楽におけるような和服正装での演奏は、足袋が靴履きと 相容れないから、床の上に更に床を仮設する(市民ホールなどで能舞台を仮設するのと同じことだ)か、畳でも敷くしかあるまいが、 現実には椅子に座るなり、立つなりしての演奏で、しかも洋服でという場合も多いから、この点が問題になることはあまりないようだ。
その一方で、アコースティック楽器に混じって電子機器が登場するのも現代音楽ではそんなに珍しいことではない。もっとも もともとは伝統的な楽器を演奏するために設計されたホールだから、電子楽器に対する配慮が事前に為されている訳ではなさそうで、 恐らく準備等には色々な困難がつきまとうことだろうが。更にはシアター・ピースのようなパフォーミング・アートに近接するとどうだろう、 サウンド・インスタレーションとなると最早コンサート・ホールでは無理ということになるだろうかと考えていくと、逆にサントリーホールのような コンサートホールで実行可能な現代音楽というのが浮かび上がってくるように思われる。勿論、それは制約には違いないが、 それにどう対峙するかは様々だろうし、作品の出来・不出来はまた更に別の話だろう。だがそれでもやはり、私はそこに軽い倒錯の ようなものを感じずにはいられない。こういう言い方は事態を暴力的に単純化しすぎていることは承知しているが、コンサートホールの 側がホールの存在証明のために作品を求めているというような展望の方が状況を見渡せているのではという気にもなってくる。 現代音楽の作曲賞というのをホールが主催するのも、そうしてみればずっとすっきりするのではなかろうか。管弦楽を前提とせざるを 得ない大ホールに比べ、小ホールは遥かに融通が利く空間で、芥川作曲賞そのものは管弦楽作品を対象としているにも関わらず、 それを記念するためのガラコンサートが既に、小ホールでのそれの方が網羅的でかつ多彩というのは皮肉な事態だということになるの だろうが、より広く考えればコンサートホールは現代音楽によって維持されているわけではないのだから、この点を言あげするのは かえって近視眼的な視界狭窄なのだろう。結局のところ浮かび上がるのは、そうした何重もの捩れの上に成り立っている現代音楽という 領域の特殊性の方なのだ。
なぜ上記のようなことを書くかといえば、それは勿論、この日に初演されたフォルマント兄弟の作品が、そうした狭義での現代音楽から はみ出ていく指向をはっきり備えた作品であり、どことなく場にそぐわないような違和感を孕みつつの初演になったように感じられたからである。 楽器はMIDIキーボード(メガフォンつき)とラジカセでアコースティクス楽器はなし、奏者は作品が成立する本来の場を反映した ティーシャツを着て演奏をするという点もそうだし、奏者は厳密に言えば楽器を演奏するのではなく、MIDIキーボードを「弾く」ことにより、 リアルタイム音声合成による歌唱(のようなもの)を行う点やら、真の演奏主体は(有名なヴォーカロイドのパロディであろう)「高音キン」という アニメーション・キャラクター(実際にはこちらは「未だ」動画ではないから正確さを欠く言い方になるが)であって、 だから仮想のキャラクターであって、奏者はまるで文楽人形の黒子のような役回りである筈だという点もそうである。
もっともコンサートホールにおいては主人公は間違いなく奏者の岡野さんであり、終演後の大きな拍手もその多くは岡野さんの「演奏」に対して であったというのが真相だろう。実際、岡野さんの演奏は例えばコブシのリアライズなどにおいては実現されたものとしても見事な効果を 挙げていたし、実際には「演奏至難」の理由は別であるにせよ、いわゆる奏者の超絶技巧を眺めるという、ソロのコンサートであれば 伝統的なクラシック音楽のそれでもつきまとうことは疑いのない側面がここでは一際くっきりと浮かび上がったのは間違いのないことだろう。 そういった意味においては、この作品をわざわざクラシックのコンサートホールで演奏することにも一定の意義はあったのかも知れない。 いわゆる「シリアスな」現代音楽の中で明らかに異彩を放っているそれは、だからといって拒絶反応に逢う訳でもなく、これもクラシックの コンサートではありえない、だが伝統芸能なら「大向こう」というのが存在して、ごくありふれた光景、考え方によっては「上演」の一部 とすら考えられる仮想キャラクターに対する「掛け声」も含めて、寧ろ笑いを誘い、場を和ませるような効果を生み出していた。 要するに幾つか次元での「越境」という点では、それをごく自然に実現していて、その結果、周辺の「現代音楽」との鋭いコントラストが 生じていたのは疑いない。
だが、本来の文脈に立ち返って実際に達成されたものが何であったかを考えると、今回の演奏には率直に言って疑問を呈さざるを 得ない。実は夏田さんの作品の演奏中止を告げるチラシとともに、「せんだいドドンパ節」演奏のシナリオに相当する内容が表面に記載され、 裏面に作者の文章が記載されたチラシも一緒に配られたのだったが、(シナリオが字幕表示されるよりはましとはいっても)聴き手の関心は 音声合成のなりゆき、しかもどの程度それらしく聞こえるかといったレベルに集中してしまうことは避け得ない。要するに「音楽」は二の次に なっていたのではないかという感じがしてならないのである。一方でその音声合成のレベルは、サビのような一部の箇所を除けば、 今度はシナリオを見ながらでなければ到底判別しえないような不明瞭なもので、歌詞が聴き取れない歌唱というのはこれはこれで クラシックでは別段珍しいものではないし、実は一般的な場合でも歌詞などきちんと聞き取ってはいないのだという意地悪な見方はおくとして、 ここでの目的が或る種の認知実験などではないのであれば、そこで達成されたものの質については大きな不満を感じずにはいられなかった。 それが「前人未踏」であることの価値は認めた上で、だけれども「音楽」はどこに行ってしまったのか、という感覚を拭い去ることが出来ないのである。 もともとフォルマント兄弟は狭義での「音楽」を追求しているのではない、という見方もありえるだろうし、実際これまでの試みでもそうした傾向は 窺えるのだが、それでもなお、用意された仕掛けと実現されたものの間の乖離に、ユーモアなりアイロニーなりを感じてよしとするのでは済まされない ものを感じずにはいられなかった。黒子であるはずの岡野さんの「パフォーマンス」ではなく、「高音キンのパフォーマンス」としては、 最後の「おしまい」の一言が一番「うけた」のを、「パフォーマンスとしての成功」と見ることに異論を挟むつもりはないが、それとて 恐らくは、チラシを見ていなかった多くの人についてはあっけにとられている中、岡野さんがラジカセを持って退場することによって ようやく「終わり」を察したというのが実際ではなかろうか。
だが私の感じた疑問の多くは、恐らくは技術的に解決可能な問題なのではないかという気がする。例えば仮想キャラクターを用意するならば、 奏者は黒子にしてしまって、別のものを聴き手には見せる可能性があるように思えるし、そうでなければ寧ろ仮想キャラクターは余計ではないか。 それがコンサートホールという場の制約のせいでいわば不完全にしか実現できなかったのかもしれないが、前回のNEO都々逸六編のときには パフォーマンスとしても成功していたのに比べると、今回の演奏は些か消化不良の感じを拭えない。いずれにしても私が感じたのは、 今回の試み自体が持つ射程の広さ、シリアスさにおいて他の作品に比べて優ることはあっても劣ることは決してない作品に篭められた意図の 深さは明らかなことなのであって、だから当日のパフォーマンスにおいてはその真価が未だ充分には発揮されていないのでは、ということであった。 勿論、それにはコンサートホールとは異なる場なり制度なりが必要なのだということであれば、それはそれで構わない。一例をあげれば、ここで 問いに付されている「演奏する人格」の問題は、「作曲の主体」の問題ともども、例えば最近復活した「新しい時代」の「布教放送」の ような一層ラディカルなかたちで問題にされているし、更に言えば今回の試みと逆シミュレーション音楽における幾つかの(架空の)伝統芸能の 仮構との関係はどうなっているのかについても確認が必要だろう。作品の演奏そのものではなく、三輪さんのとった行動も、他ならぬ「言葉の影、 またはアレルヤ」の作者のとった行動として受け止める必要を感じる。残念ながらすぐには時間がとれそうにないが、今回のコンサートは こうした問題を考えていく上での重要なマイルストーンであるように思われてならない。
(2010.8.29初稿, 9.2加筆修正, 2024.6.27 noteにて公開)
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