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ショスタコーヴィチを巡っての15の断章(12)

12.

確立された権威、文化財としての音楽?作品が作られた状況や環境とは切り離して 残された作品と向き合う姿勢?だが、必ずしもそうでもない。なぜなら、ショスタコーヴィチの音楽に 関して言えば、その音楽に刻印された状況とそれに対する主体の反応の刻印が、 その音楽に惹きつけられる原因となっているからだ。勿論、こうした見方は、 音楽家なら持ちえたであろう制作の現場の視点を取りえない。だが、ショスタコーヴィチの 音楽を聴くのは、それと結びついた自分の経験を反芻するためではない。 きしみ、奇妙に歪んではいるけれど、時折はくつろいだ表情も見せるその音楽は、 私にとっては他者であり、そこからある種の姿勢であるとか、態度であるとかを 感じ取り、それに自分を同調させたりずらしたりしながら、何かを受け取っているのは 確かなのだ。

音楽の表現するものは、言葉の側から見れば本質的に曖昧だ。 一方で、音楽の表現するものを言葉が正確に言い当てることはできない。 音楽は容易にある体験、ある情態、ある雰囲気を探り当てる。 だから、人はしばしば音楽よりも音楽を聴いた時に我が身に起きた事を書いてしまう。 それが本当にその音楽でなくては不可能であったのかどうかを検証することは難しい。

悲しみを、怒りを、感情や気分を読み取るというとき、実際に悲しんでいるのか。 だが確かに悲しみの構え、枠のようなものは構成される。 悲しみが表現されている、というのはどういうことか? 志向的対象は明らかでない。悲しみを引き起こす原因は不定のまま。 悲しみの志向的な構えはある。が充実されるべき対象はない。 ある意味では逆向きの流れ、「型から入る」―文脈に応じて対象が見つかるかも知れない。 ある旋律を聴いてしかじかの感情や気分になる、というのは、タブララサではなくて、文化的伝統の枠組みの中で起きている。 幾分かは生理的基盤を持つが、概ね文化的なもの。 幾分かは記号なのだ。慣習的なコード。共有されている場が存在する。例えばショスタコーヴィチと私の間にそれは実在する。 それの如何にして、の部分はある種の模倣に基づいている。 喚起される感情と、表現されているとされる感情、ここでは専ら前者が問題。 形式や構造の把握―完全に知的なもの。だが、期待―充足のような図式がある。 期待―充足は行為に関わる構えのこと クオリアは機能主義的に考えると、随伴的なものと言っても良い。 運動感覚、時間意識も結局そこで生じる構えのある側面に過ぎない。 感情や気分、情動の側面を抑制すると浮かび上がる。 要するに構えのどの側面を強調するかの問題。

背景を知ることによって音楽的イベントとそれにより生じる構えについて、ある解釈を することができ、それは作者の側で意図されたり、あるいは実際に生じていたものの モデルとなりうる。だがそれは副次的で二次的な構成に過ぎない。

悲しみの原因が(対象が)認知主体の側にあれば、悲しみの枠を用意する音楽が 本当の悲しみを惹き起こすかもしれない。 だがこのとき悲しみの原因は曲ではない、曲は対象ではない。 表現された怒りは怒りの指向のみが結晶して残っていて、対象は落ちている。 音楽とは空虚な志向、感情の抜け殻なのだ。

或る種のスタンス、呼吸やリズム、反応様式に同調すること。それを思想と呼ぶのは適切ではない。もっと身体的で具体的なもの。 記号としての感情ではなく、情態や気分の反映を聴き取ること。 あるいは、これもひねくれた快楽なのかも知れない。だが、それは無くてもいいものではない。 社会的な機能という観点ではなく、個人が、ちっぽけな意識が生き延びるために必要な糧。 もしかしたら、そうした切実さが、創作の極においてもあったのではないか、だからこそ、それを欲する聴き手にとって、 他に代え難い価値を持つのではないか?

ショスタコーヴィチについてなら、私は自分がその音楽をどのように捉えているか、なぜその音楽が自分にとって重要なのかを説明することができる。 それどころか、積極的にそれを説明することに対する衝動が自分の中に存在していることがわかっている。そしてその音楽には確固たる風景がある。 (そうでない音楽を聴きつづけることは私にはできないようだ。)しばしば極端な不安定ささえ示す拡大された和声法はその風景に陰影を落とさずにはいないが、 その陰影はそれ自体、ある意味では「見慣れた」ものとさえ言えるかも知れない。一方で、例えばそれ以前の音楽は勿論のこと、 低回趣味で小市民的な意識が色濃く刻印されたブラームスの音楽でさえ、その風景に素直に共感するのは今日に生きる私にとって最早難しいように 感じられるのだ。歪で病的とさえ言われるマーラーや後期のショスタコーヴィチの音楽の風景の方が、ずっと身近で違和感のないものに感じられてならないのである。

遠い異郷の過去の音楽ではあるが、そうした音楽の持つ、ちょっと歪んだ風景こそが丁度良い、違和感のないものに感じられるのかも知れない。 そして、ショスタコーヴィチの室内楽作品の場合には、そこに常に解くべき謎がある訳ではないし、追求すべき何かの契機が垣間見える訳でもない。 歌曲におけるように、歌詞の選択によって明確なプロテストや反逆が告げられているわけでもない。交響曲においては時折そうであるように、 一過性の感情に支配された錯覚を現実と取り違える愚を犯すこともない。丁度信頼できる冷静な相談相手のように、 私にとってそうした音楽は、現実の受容の或る仕方をさりげなく示してくれているかのようなのである。

(2006.4--2008.10 / 2008.11.7/8/9, 2009.8.15, 11.15, 2024.12.17 noteにて公開)

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