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『人形たちのための五芒星』初演にネットワーク越しに立ち会う

IAMAS 2021
マルガサリ 特別公演
『人形たちのための五芒星』
2021年2月23日(火・祝)16:00- 16:30
IAMASよりライブ配信

作曲:三輪眞弘
映像:前田真二郎
音響:牛山泰良
ARプログラミング:伏田昌弘
協力:西本昂生・石田駿太
「またりさま人形」(2003) 制作:小笠原則彰

マルガサリ(ガムラン・アンサンブル):大井卓也・谷口かんな・中川真・西真奈美・西村彰洋・森山みどり・柳野伽耶)
ほんまなほ(スリン、ルバブ)
林暢彦(悪魔:ARカメラ)

主催:タイムベースドメディア・プロジェクト


新型コロナウィルス感染症の感染拡大から早くも一年が経過した。二度目の緊急事態宣言は一か月の延長を余儀なくされ、依然として専門家の慎重論がある中で、IAMASの所在する岐阜県を含む関西・中京圏については2月末で解除されるものの、首都圏一都三県については感染収束のペースが鈍化しており、3月7日の解除については予断を許さない状況にある。そんな中、IAMAS2021の企画の一環として、新作「人形たちのための五芒星」の初演が行われ、その様子がライブ配信されるのに接することができたので、その視聴の記録を以下に残しておきたい。これはいつものことではあるが、新作のもつ意義、この上演の持つ射程を余すところなく明らかにすることは、私の手に余ることであり、ここでの私の役割は、上演がどのようなものであったかの証言者としてのそれに過ぎないことを事前にお断りしておきたい。


 「人形たちのための五芒星」は、昨年9月に、これもまた無観客でライブ配信されたサラマンカ・ホールでの『三輪眞弘祭』で初演された「鶏たちのための五芒星」の姉妹作として作曲者自身によって位置づけられている。実際、五角形の辺と対角線を規則に従って移動するパフォーマーの動きに従って、ガムラン・アンサンブルが演奏を行うという基本的な構造を共有しているが、このように共通の「母型」(マトリクス)に基づいて幾つかの作品がネットワークを構成するというのは、これまでもあったのだが、今回の新作の大きな特徴は、パフォーマーの移動が現実の空間で行われるわけではないという点にある。作者自身の作品解説の言葉をそのまま引用すれば、「前作のパフォーマーたちは非物質化された記号(3D オブジェクト)に替わり、その移動の様子は AR(拡張現実)カメラを通してでしか見ることができない」。この状況は『三輪眞弘祭』において上演された作品では、藤井貞和の詩に基づく、筝と風鈴のための『もんじゅはかたる』の奏者のそれに相当する。『もんじゅはかたる』では奏者はゴーグルを装着して、ゴーグルが映し出すAR内の楽譜に従って演奏を行うのだが、今回の「人形たちのための五芒星」では、ガムラン奏者はARゴーグルを装着するのではなく、譜面台のように楽器の手前に置かれたディスプレイに映し出される映像を見ながら演奏する。演奏はIAMASが所在するビルの高層階の一室で行われたようだが、現実のその部屋では、床に描かれた五芒星の中央に一体の「またりさま人形」が置かれ、それを取り囲むようにしてガムラン奏者が座るものの、パフォーマーはおらず、パフォーマンスが行われることはない。五芒星の頂点にはスピーカーが置かれて、そこからは、パフォーマーが演奏している「筈の」カラーパイプの音響が出てくるのみである。 ちなみに「鶏たちのための五芒星」では、カラーパイプの演奏は、パフォーマーが五芒星の頂点にいる時だけ行われ、移動中は行われなかったが、それに正確に対応して、「人形たちのための五芒星」においても、その時点でその頂点にいる筈のパフォーマーが持っている筈のカラーパイプの演奏の音響がスピーカーから出て来るようになっていたようだ。(実際には、ネットワーク越しにライブ配信を視聴する私には、各スピーカーから出て来る音響の空間的な定位が識別できたわけではないので、これは恐らくそうであったろうという推測に基づき、事後的に確認して判明した事実なのだが。)

 とは言うものの、それでは譜面台替わりに置かれたディスプレイの中では、パフォーマーが移動しているのが見えるのかといえば、そうではない。再び作者の言葉を引用すれば「非物質化された記号(3D オブジェクト)」、具体的には、六色に色分けされた四面体・立方体・球体が、五芒星の描かれた床の上に浮遊しており、規則に従って対角線や辺に沿って移動するのが見えるだけである。それは「逆シミュレーション音楽」の定義に沿って言えば、「規則による生成」によって生み出される計算結果の「解釈」についてのシミュレーションに他ならない。実際、そのようなシミュレーションは作品の創作の過程で、都度行われているであろう。実演においては発生されることが想定され、それに対する対処まで規定されている解釈者の犯す誤りはシミュレーションでは発生しないのだが、重要なのは、それがシミュレーションであると視聴する人間が思いなした途端に、そこでは誤りが起きようがないという信憑が成立してしまうということだ。実際には可能性の上では、「非物質化された記号(3D オブジェクト)」の動きは、更に別の場所で実際に行われている、リアルな解釈者による解釈のリアルタイム再生であるかも知れず、もしそうなら「非物質化された記号(3D オブジェクト)」は間違った動きをする可能性もある筈なのだ。その一方で、これはここでのみならず「鶏たちのための五芒星」でもそうであったのだが、ガムランの演奏はパフォーマーの動きを楽譜に見立てて行われるわけで、そこにも解釈があり、そこで誤謬が生じる可能性があるという点、つまり解釈行為が二重化されているという点が、この新作においては、一方をARの中に括弧入れすることにより浮かび上がるような仕組みになっていると言うこともできるだろう。そしてこれまでの作品を改めて俯瞰したみた時、このことに関連した素朴な疑問の存在に気付かされる。それは「なぜガムラン奏者が「傍観者」なのか」という疑問である。「音楽」にとって音響的実現が必須の条件であるとしたら―そして一般にはそのことに疑いが持たれることは無いだろうが―、ガムラン奏者こそが演奏の主体である筈なのに、何故殊更に「傍観者」という規定を受けるのか。最初にこの新作に接した時にも、その疑問は直ちに頭をもたげたのだったが、上演に立ち会った後、印象を反芻する裡に、「鶏たちのための五芒星」と今回の「人形たちのための五芒星」の間に設定された或る種のシステマティックな変換による布置のずれの中に、その疑問を解消するヒントがあるように感じられた。だがこの点については後程もう一度取り上げることにして、今は上演の記録に立ち戻ることにしよう。


 上記の記述のみでは今回の上演の複合的な枠組みのうちの、謂わば内側のレイヤについて語っているに過ぎない。再び作者の言葉を参照すれば、それが「前作同様、ライブ配信を前提とした前田真二郎との「中継芸術」の試みである」という点について触れずして全体を語ったことにはならないのだが、「前作同様」という言葉にも関わらず、その具体的な様態は前作とは全く異なったものであり、寧ろそのことが「人形たちのための五芒星」の聴取の印象にとって支配的なものだったと私には感じられた。

 端的にその違いを述べようとした時、ポイントとなるのは「悪魔」の役割である。ラプラスの魔やマクスウェルの魔を嫌でも思い起こさせる「悪魔」が従来果たしていた役割は、メタレベルの観察者、規則通りに系が動作しているかどうかをチェックするというものであり、それは「鶏たちのための五芒星」についても該当していた。そこでの悪魔は「規則による生成」の結果である記号列が記載された「帳面」、祭祀の上演のための謂わば「アンチョコ」にあたるものと舞台上でのパフォーマンスを照合し、エラーが生じた場合にはゴン(銅鑼)を鳴らしてパフォーマンスを中断する役割を果たしていたのだった。それに対して、パフォーマーがAR上での3Dオブジェクトに置換され、実演が実演のシミュレーションに置換される「人形たちのための五芒星」において、規則の遵守を監視する役割から解放された悪魔がやることは、ハンディのARカメラを持って演奏会場を徘徊し、自身の移動を伴う視線がARカメラ越しに捕らえた光景をライブ配信される映像に付加することであった。

 ライブ配信された映像は、ARカメラの映像か通常のカメラの映像(「現実」の演奏会場を撮影したもの)のいずれかで、それぞれカメラの置かれた場所に応じた複数の視点から構成されており、それらが随時切り替えられていくのをネットワーク越しに視聴することになっていたのだが、それに加えてARカメラの映像の一つとして、但し、それだけは移動性を伴った視線として、「悪魔」が持つARカメラの映像が配信されたのである。この点で思い起こされるのは、「鶏たちのための五芒星」を含む『三輪眞弘祭』において、そのような移動性を伴った視線を担ったのは、舞台を自在に動き回りながら撮影した画像をインスタグラムにあげていった写真家だった筈だということである。筈である、という言い方をするのは、実はインスタグラムのアカウントを持っていないというごく単純な理由から、私はリアルタイムで写真家の視線を上演の際にリアルタイムで追うことができなかったからであるが、今回の上演での悪魔の視線の自在な動きに接して思い出したのは、まさにそのことであった。今回の上演の配信の総体的な印象を決定したものがあるとすれば、まさに悪魔のARカメラの映像がそれであったように思われる。上演が始まって暫らくは五芒星の脇で仰向けに寝ていたが、起き上がってからは、演奏会場である部屋を自在に動き回り、五芒星上での3Dオブジェクトの動きを追ったかと思えば、或る時にはガムラン奏者の脇に、或る時には上演を見守る作曲者や映像監督の背後に廻って上演の様子を紹介し、更には逆立ちしたり、カメラを自分自身に向け、所謂「セルフィー」を映すことによって自分自身を匿名にしておくことなく顕在化させたかと思えば、会場となった部屋の西に面した窓をあけて、外光を遮っているブラインドの向こう側にカメラを出して大垣の夕陽を映し出してみたり(部屋の中にはひとしきり外気が入って、日差しが射しこんだ)、ドアを開けて部屋を出て部屋の外部の空間を映すことによって上演が行われた場所や時間の具体性を浮かび上がらせるということを行ったりもしていた。そしてそうした「悪魔」の或る意味で饒舌な動きが、会場にセットされた通常のカメラに、或いはガムラン奏者の楽譜替わりであるディスプレイにも映し出されることは、映像の視線の複数性が否応なく際立つという点で効果的だったのではなかろうか。


 これも後で伺った話では、この「悪魔」の役割に関しては、いくつかの希望を伝えた以外それほど指示は出していなかったとのことだが、であるとしたらそれは悪魔役自身による一貫した解釈に基づく徹底したリアリゼーションであったということになるだろう。これが祭祀であることを思えば、やりそうなことを余さずきちんとやってくれたという意味において些か律儀に歩き回り過ぎたという印象を持ったのだが、こう書いたからといって、その解釈に関して全体としてネガティブに考えているわけでは決してない。その動きは或る意味でとても啓蒙的で、作品に込められた種や仕掛けをあらかたわかるように提示してくれており、見る方にとってはこの上演に込められた意図が誤解の余地なく伝わって、わかりやすかったのではなかろうか。

ただその一方で、役割上仕方ない面もあることを思えば無い物ねだりの側面があることを否定することはできないことを認めつつも尚、悪魔だけが或る種治外法権的な、メタ的な位置にいるように見えてしまうことが、これを人形供養の祭祀としてみた時に或る種の異質性を感じさせるものになっていたこともまた否めない。謂わば「…という夢を見た」という操作を余りに徹底してやり過ぎてしまった結果、見る側に夢見る隙を残してくれなかった点を憾みとするとでも言うべきだろうか?深夜に無観客のコンサートホールで行われた『三輪眞弘祭』の画像があえてモノクロであったのに対して、今回の上演の画像は、日中の、或る意味では日常的なごくありふれたビルの一室を、それとわかる加工を施すことなく映し出したものであり、劇中劇が舞台と舞台裏を同時に提示するのに通じるような、醒めた意識的な視線を感じさせるものであったが、それが姉妹作の「妹」たる「人形たちのための五芒星」という作品に課せられたミッションだったと思えば、啓蒙的な悪魔の振る舞いともども、その意図は余すところなく達成されたと考えるべきなのだろう。

一方で、逆説的に、遡行的に、「姉」たる「鶏たちのための五芒星」におけるコンサートホールという場所の持つ力、モノクロの画像の持つ力、上演の時間帯の持つ効果を想起させ、最初に述べた来るべき「解釈」のシミュレーションのようなものとして感じられてしまう拡張現実の中の多面体や球体たちの動きは、これもまたネガのような形で、人間による上演の持つ意味を浮かび上がらせずにはおかない。例えばだが、撮影上の工夫によってガムラン奏者が見ているAR画像を配信しないことも可能な筈で、その時には、床に描かれた五芒星の中央には(鶏の精とは異なって、白い粉をかけられない替わりに、自ら動くこともしない)「またりさま人形」が置かれ、五芒星の頂点のスピーカーからカラーパイプの音が聞こえてくるだけの動きのない風景の中で、ガムランによる演奏が繰り広げられる、ということになったであろう。だがもしそうだとして、(これは大変な難事だろうが)奏者の脳内のシミュレーションによってパフォーマンスがシミュレートされ、いわば「暗譜」での演奏が行われていたのだという可能性はどうだろうか。

思えば『三輪眞弘祭』において移動性の視線を備えていたのは、写真家だけではなかった。それが自分達のための儀礼であることを知る由もなく、演奏会場を動き回る六羽の鶏たちの視線もまた含まれていた筈なのだ。自らが作り出した人形を供養する儀礼(妹)の中で、「姉」の上演の際にはメタ的に行為の遂行を監視していた「悪魔」が移動性の視線を獲得し、自らを被写体としつつ、「音楽」が立ち上がる空間がそれによって成り立っている複数の視線を浮かび上がらせるのだとしたら、一見したところ此処では不在であるように見えた人形たちの視線について問うこともまた、可能ではなかろうか。それは端的に不在なのだろうか、それとも単に不可視なだけで多重世界のどこかの層には含まれるのだろうか…

いずれにせよ、ライブ配信を前提とした「中継芸術」という制約を逆手にとって、ここでは「逆シミュレーション音楽」の定義の最も根本的な部分である人間によるパフォーマンスという規定さえが分裂させられ、「音楽」の総体が「生の」現実だけでも拡張現実だけでも完結することなく、その両者に跨った形でしか存在しえないという状況が提示されている訳だが、そのことによって気付かされるのは、そもそも「音楽」というものは「生の」現実だけではなく、必然的に想像力の領域にも広がっている筈のものであること、それは人間の持つ「いまここ」を離れたシミュレーションを行う能力によって可能になっているのだということに他ならない。一見してそのように思いなされたとしても、そしてそれが「音楽」にとって不可欠な次元であるとしても尚、「音楽」は複数の身体が同期して共鳴を惹き起こす共同的な空間のみからなるのではないのだ。それが命名され、世代を超えて継承されるためには、「いまここ」を離れ、現実と仮想の両方の空間を貫き、時間の中を貫いて存在する「自己」がその中から立ち上げってくるということが必要とされるのである。


16時ちょうどに開始された演奏が終わったのは16時27分頃だったろうか。ほぼ30分程度の長さを持つ作品の全体は、これまた「鶏たちのための五芒星」でもそうであったように「規則によって生成」された数列の対称性を持つ周期性により四つの部分に分割されている。ブロック単位でテンポが変動する点も「鶏たちのための五芒星」と同様である。これは私に固有の事情だが、実はライブ中、何度かは画面が固まって、そのうちの一、二回は音も飛んだりして、受信状態は必ずしも良くなかったのだが、出だしと後半では、音響のバランスがはっきり変わったように私には感じられたのであった。だがそれは特に意図されたものではなく、またそのように編集・加工された訳でもなく、実際に、自然と、全体的にガムランの音は最後には大きくなったようで、結果として、最初はカラーパイプの音の方が優越していてガムランの音響は寧ろ後景だったのが、一旦カラーパイプが休止する部分を経た後は、ガムランの音響が前景に出るよう感じられたものらしい。

繰り返しを厭わず言えば、今回は、仮想現実でのパフォーマンス(カラーパイプの「演奏」も含む)の「傍観者」として位置づけられた奏者たちが奏でるガムランの音響だけが、複数の人間が同期して織り上げていく生の現実の音として響き渡ったのだが、結果的には単なる思い込みに過ぎなかったのであるけれど、私にはそうした音響バランスの変化が、人間の営みに如何にも相応しいものであるように思われたのである。ここでは人の声は用いられないけれど、最初は演奏する映像ばかりで、ほとんど聞こえなかったルバブの音が、予め定められた数列に基づいた音響系列のリアライズを終えた後、最後にガムランの高音のパートとともに残った時に、余りに人間的な息遣いに満ちたものに感じられたのだった。これは自慢ではなく寧ろ不明を愧ずべき事柄だと思うが、印象を正直に述べるならば、『三輪眞弘祭』での「姉」の上演の折、ルバブが人間の声の代補であるという説明があったと記憶するが、私にとってようやくそのことが腑に落ちたのは、凡そ半年の遅延を経て、今回の「妹」の上演に接することによってであった。

今回の「妹」の上演は、大仕掛けで、まさに「祭」と呼ぶに相応しい「姉」の上演と比べた時、一見したところシンプルに見えるが、実際にはAR技術を駆使した今回の上演には、前回とは異なるタイプの様々な技術的な困難があったことと想像される。それを乗り越えての上演の成功に対して、まず祝意と敬意を表したい。勿論、こと受容サイドについて言えば、新型コロナ禍の中でネット配信によって接することができたに過ぎないという点は、厳然たる事実として決して軽視されるべきことではないだろう。だが繰り返しになるが、ライブ配信を前提とした「中継芸術」という制約があればこそ、それを逆手にとるようにして「逆シミュレーション音楽」の定義の最も根本的な部分である「人間によるパフォーマンス」という契機さえが分裂させられるに至ったこと(但し、それを実現するためには、それ自体が解釈であるパフォーマンスを更にジャワ・ガムランの持つシステムにマップするという作曲者の企みに富んだ「力業」が必要であったことを忘れるべきでないだろう)、その結果として「音楽」の総体が、「生の」現実だけでも拡張現実だけでも完結することなく、その両者に跨った形でしか存在しえないことが示されたこともまた強調されて然るべきことではなかろうか。少なくとも私個人としては、「音楽」が成立するために必要な多層の領域が技術的な手段によって実践的な形で具体的に開示され、複数の視線や声ならぬ声が交錯する中から人間の「うた」が立ち上がってくるという消息を実際に目の当たりにすることができたことに対して、心からのお礼を申し上げたい。

更に言えば、「規則による生成」を解釈し、音響的に実現するガムラン奏者たちがなぜ殊更に「傍観者」と呼ばれるかというのも、その点に関連付けて理解することができるように思われるのである。「またりさま」のような「逆シミュレーション音楽」においては、解釈者たるパフォーマー自身が音響的実現の主体でもあったのに対し、既述のように「鶏たちのための五芒星」では、数列の解釈であるパフォーマーの動きが、更にガムラン奏者によってジャワ・ガムランのシステムに解釈されて音響的実現を得るというような重層的な構造が実現したのであった。その点を作曲者は作品解説で「その場で生成される楽譜として読み替え」ることと規定しているが、そうした規定は、まさに今回、読み替えの対象となるパフォーマンスがARによって実現された仮想的な世界に分節化されていること、更にはパフォーマーがアバターのようなイコン的な似姿を持たない「非物質化された記号」であることによって裏打ちされているとは言えないだろうか。それは記号の成立の、記譜法の確立の現場そのものではないだろうか。それは複数の身体が同期して共鳴を惹き起こす共同的な空間の中に無媒介に融即した状態から一旦身を引き離して距離をとり、時間のずれを伴って、改めて「自己」の「うた」としてうたい返すプロセスに他ならない。それはまさにシグナル的な記号からシンボル的な記号への移行のプロセスそのものであり、同時にまた他者の声が交響し、リズムが交錯する空間の中から「自己」が立ち上がっていくプロセスそのものでもあるのではなかろうか。

逆説的なことではあるけれど、まさにこれこそが「音楽」なのではないか、「うたうこと」の困難さ、時として不可能性とさえ感じられるような状況の桎梏の中において、それこそが三輪さんが目指してきたことなのではないか、だとしたらこれこそが優れて「音楽」と名付けられるに相応しいのではないかとさえ思えるのである。

思えば昨年、新型コロナ禍をうけて『三輪眞弘祭』がオンライン配信を前提として企画されることを知った時、そのことが新しい自己の立ち上げの可能性を秘めているのではないかということを考え、そのように発言もしたのであるが、今回の上演に接し、「鶏たちのための五芒星」を「人形たちのための五芒星」から眺めることによって、それらがまさに新しい自己の立ち上げのシミュレーションに他ならないことを認識できたように思うのである。このような状況においてさえ、なお「音楽」は可能だし、逆説的に、このような状況であるからこそ聴き取ることができる「声」がある、ということを認識することができたことに対して、重ねて感謝の気持ちを表しつつ、この拙い記録を閉じることとしたい。

(2021.2.27初稿公開, 3.2更新, 2025.1.7 noteにて更新)

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