サラマンカホールでフォルマント兄弟編曲によるペルゴレージ「悲しみの聖母」を聴く
G.B.ペルゴレージ「悲しみの聖母」第1曲(ソプラノ・アルト重唱・オルガン伴奏)
MIDIアコーディオン歌唱:岡野勇仁(アルト:中音マリア)
ソプラノ:さかいれいしう
オルガン:今村初子
編曲:フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)
三輪眞弘:独唱曲「訪れよ、わが友よ」&「新しい時代」
ソプラノ:さかいれいしう
オルガン:今村初子
「電子音響音楽祭」(フェスティバル・ディレクター:三輪眞弘)
"テクノロジーと「作曲」の未来", JSSA/JSEMスペシャルコンサート
2015年9月12日
サラマンカホール(岐阜)
9月11日~13日の3日間、岐阜で開催された「電子音響音楽祭」の中で、12日の夜にサラマンカホールにて行われた コンサートにて、フォルマント兄弟が人間のソプラノとMIDIアコーディオンによる人工音声のアルトのために 「編曲」したペルゴレージ「悲しみの聖母」と三輪さんのモノローグ・オペラ「新しい時代」からの抜粋曲である 「訪れよ、わが友よ」および「新しい時代」の演奏に立ち会った感想を以下に記しておきたい。 なおMIDIアコーディオンによるペルゴレージ「悲しみの聖母」に関しては、2015年3月12日に愛知県芸術劇場小ホールにて 行われた初演の映像記録をYoutubeで視聴した折に別に詳述しているので、そこに記載した内容は繰り返さない。
ちなみに同曲の演奏はこれが3度目であり、伺ったところによれば、MIDIアコーディオンのソフトウェアは 2度目の京都大学での演奏の折にバージョン・アップされており、今回がそのバージョンでの2度目の演奏とのこと。 私個人としては京都大学での演奏は聴いていないので、バージョン・アップ後の演奏は初めてということになる。 また、今回の演奏は、サラマンカホールというクラシック音楽用のコンサートホールでの演奏であること、 サラマンカホールに備え付けられたパイプオルガンを伴奏に用いている点が、これまでの2度のピアノ伴奏による 演奏とは大きく異なっていた。
更に言えば、プログラムにおいて続けて、「悲しみの聖母」のソプラノを担当したさかいれいしうさんの歌唱により、 モノローグ・オペラ「新しい時代」からの抜粋曲が演奏された点も見逃せない。 7月12日(偶然にも3度の演奏は全て12日に行われていることになる)に京都大学で行われた演奏は、 三輪さんの講演に付加されたプレゼンテーションの体裁を採っていたが、その講演のタイトルは、 「新しい宗教音楽 - 電気文明における芸術の可能性」であったことを想起されたい。 「新しい時代」は、もう15年も前の作品ではあるけれど、インターネット上に流れる謎の旋律を神からの メッセージだと信じる仮想のカルト教団という設定を持っていたから、こちらはキリスト教の伝統の中、 300年近く前のイタリアで、修道院の委嘱により書かれた紛れもない「宗教音楽」である「悲しみの聖母」を リアルタイム人工音声に歌唱させるという企てと併せ、まさに「新しい宗教音楽」の実践を巡っての プログラム構成が「電子音響音楽祭」という枠組みの中で為されていたことになる。
尚、"テクノロジーと「作曲」の未来"というタイトルを持つコンサートでは、上記以外にも電子音楽作品が 幾つか演奏されたが、そちらについてはいつも通り、個別の作品についてのコメントは控え、その資格のある方々に 委ねることにしたい。
とは言え、コンサート全体に対して感じたことを一つだけ、敢て記しておくとするならば、それはクラシック 音楽用のコンサートホールで電子音響を用いることの難しさということになろうか。 もっともこれは、電子音響音楽祭という場には凡そ相応しからぬアナクロニックな嗜好を持つ私個人の側の 限界によるものである可能性があることを直ちに附記しておく必要があろう。
私が電子音楽の「実演」をまとめて聴いた経験は極めて貧しく、以前に一度だけ、日仏学院で、 これはそのために専用に設えられた空間で聴いたのであったが、今回経験した クラシックのホールに響く電子音響は、一言で言えば「幽霊的」とでも呼ぶ他無い所在無さを帯びていたように思える。 このコンサートに限定して言えば、ホールの大きさや形状、とりわけてもクラシックのホールの中でも 豊かな部類に属するであろう残響のようなホールの特性を考えると、明らかに大きすぎると感じられた電子音響の音量の せいもあってか、ホールの中に氾濫する音は、だけれどもホール自体が鳴るという感じよりは、異質な容器の中で 所在なく、空間を無造作に占拠しているようで、ホールとは異質の別の空間が穿たれて、そこで響いている現場に 立ち会っているかのような違和感を感じずにはいられなかった。それは仮想的な空間がホールの中に仮構され、 不可視の領域から音が響いてくる(目を閉じて視覚情報を遮断すれば、別の空間に居るように錯覚するかのような) 経験ともはっきりと異なるものであった。恐らくそれは、ほとんどの作品がその場で奏者によって演奏される楽器との 組合せという条件に由来する部分が大きいのではないかと思う。
ただし上の印象を抱いたからと言って私は、クラシック音楽用のホールで電子音響を鳴らすこと自体が無理だと結論づけようとしている訳では全くない。数えるほどしかない私の貧しい聴経験の中でさえ、 例えばサントリーホールで聴いた幾つかのコンサートでの電子音響は、全く違和感なくその場で演奏された アコースティック楽器の音響とのバランスを実現していた。他方でいわゆる電子楽器がクラシック音楽のホールに 響くことに対する違和感というのは(少なくとも私の場合には)最早すっかりなくなってしまっている訳だから、 違和の原因は、その場での音響バランスというエンジニアリングの問題であるか、さもなくば個別の作品に 起因するかのいずれかではないかと考えざるを得ない。(後者の例として、今回鮮明に想起したのは、 ラッヘンマンのAccantoの実演を聴いた時のことで、恐らくこの場合には意図的にそう仕組まれていたかも知れないとはいえ、 また作曲された時代からの隔たりのせいもあるだろうとは思ったものの、スピーカから再生される音響の 違和感は強烈なものであった。)
繰り返しになるが、いずれの作品も作曲者がその場に立ち会っていたようであり、曲によっては音響操作そのものを 作曲者がしていたようだから、単に私の慣れない耳が作曲者の狙い通りの聴取に到達できなかったに過ぎないとも思う。 素材としてみればあまりに(時として放恣なまでに過剰に、とさえ私には感じられた)豊富で多様な音響が ホールに馴染むことなく押し寄せてくる経験は、だが考えてみれば、日常接している、(これもしばしば耐え難く 感じられる)都市での音響の氾濫に近い性質のものなのかも知れず、要するに、それは私の側のアナクロニズムを 証言しているだけかも知れない訳だし。
だが、多くの作品においてその場で演奏される楽器と電子音響とが併置されていたことを考えれば、 単に電子音響に対する慣れの問題であるとも言い難いようにも思えるのである。ホールを問題にしてみたが、 ホールだって楽器の一部、控えめに言っても延長であるということはできるだろうから、問題は 寧ろ、その場で演奏する行為と、その場での調整の余地が若干残されているかも 知れないとはいえ、とりわけ時間方向に対しては事前に収録されたものを再生する他ない電子音響(従って それは電子的であるという点では共通でも、「楽器」とは区別されると私には感じられる)とを併置することに 纏わる困難に起因するようにも思われるのである。
これは「悲しみの聖母」の文脈に引き付けて言えば、 MIDIアコーディオンを岡野さんが演奏することにより、リアルタイムに「中音マリア」という「声格」が 生成され、「彼女」がさかいれいしうさんと文字通り「重唱」を行い、それをオルガンが伴奏するのを聴くのとは 根本的に異質な経験なのであり、事前に打ち込まれた設定に従って歌声を再生することでしかない ヴォーカロイドに合せて(従ってカラオケの逆を行っているということになろうか)器楽が伴奏のふりをする ことに相当するのかも知れない。ちなみに「訪れよ、わが友よ」と「新しい時代」の旋律との関係の方は、 少なくともサンプリングされた旋律が再生にされる部分については同じではないかと言われるかも知れないが、 これもまた、全く違うといわざるを得ない。何故ならば、ここでのソプラノの歌唱と旋律との関係が通常の 歌唱と伴奏の関係にはないということは明らかだからだ。(それは勿論、聴けばわかることではあるが、この場合にはこれらが抜粋された「新しい時代」の文脈に照らせば、そのことに疑問の余地はないだろう。)逆に他の曲では、あまりに律儀に奏者と電子音響との 「合奏」が企図されていたことが違和感の原因であったと考えることもできるだろうか?
いや、そうした事に拘る姿勢自体が最早アナクロニズムで、クラシック音楽の外側では、 今や「カラオケ」が通常なのだという現実はあるのだろうけれど、少なくともこの「電子音響音楽祭」 という催しが、サラマンカホールというホールで行われるというフレーム自体が、電子音楽の作曲に対する 「注文」であったという見方を採るならば、 そうした「注文」の「含意」はあっさり素通りされてしまったのではなかろうか? (ちなみに私は、このコンサートに先行するシンポジウムのサブタイトルの「鵜飼と芸術」が、 その「含意」と密接に関連しているのだと受け止めた。鵜飼とは例えば芸能における人形遣いのことかも知れず、 それがまさに岡野さんがMIDIアコーディオンで行ったことではないか?) 勿論、個別のホールの特性を計算して電子音楽を作るのというのは原理的な 矛盾を孕んでいそうだから、無いものねだりなのかも知れない(だがこれとて、クセナキスの初期のパヴィリオンや特定の場所でのインスタレーションとして企図された電子音楽の例が思い浮かぶ)が、こうした価値判断が前提としてしまっている であろうアナクロニズムを承知で言えば、ホールが「本来の」響きを発していると感じられたのは、 私がここで感想を記す作品が演奏されている瞬間に(全てではなかったけれど)ほぼ限られていたということを、 主観的な事実として記録しておきたい。
勿論そうした音響バランスや音場の問題は、 電子音響がリアルタイムに楽器奏者によって演奏される場合にも存在するわけであり、 ペルゴレージ「悲しみの聖母」の演奏においても、恐らくは限られたリハーサルの時間の制限の中で、 もしかしたら可能であった代替案をあれこれ試行する余裕がなかったのではと、 思わず想像を巡らせた点がなかったわけではない。 今回の「悲しみの聖母」の演奏は、シューボックス形式のホールの正面のバルコニーに備え付けられた オルガンのコンソールの脇にソプラノとアルトが立って歌唱するやり方をとったのだったが、 結果として、オルガン伴奏と声楽パートとの音響バランス、MIDIアコーディオンと人声とのバランスについては、 残念ながら、必ずしも理想的なものとは言い難かったように感じられたのである。 のみならず視覚的にも、バルコニーは客席から遠く、MIDIアコーディオンが「歌う」というパフォーマンスとしての 効果が制限されてしまったきらいもあるかも知れない。
にも関わらず、サラマンカホールでの今回の「悲しみの聖母」の演奏には、これまでの2度の演奏では決して望めなかった 幾つかの決定的な優位性があったと私は考えている。一つはオリジナルのペルゴレージの作品が想定しているであろう アコースティックにより近いであろう特性を備えた空間での演奏であったこと、 もう一つは、時代的にも明確にギャップがあり、 社会学的にも別のコノテーションを持ってしまっているピアノ伴奏ではなく、 これまたオリジナルの作品と様式的に齟齬のないオルガンによる伴奏であったことにより、 オリジナルの作品にとっては理想的な条件での演奏になり、 その結果として、フォルマント兄弟の意図したMIDIアコーディオンによるリアルタイム生成の人工音声による 「宗教音楽」の歌唱の効果が一層明確に感じ取れたように思われるのである。
リアルタイム音声合成の「国際規格」によるラテン語音声の生成の明瞭さというような評価基準を置くならば、 より音響的にデッドな空間で、ピアノのような人声との分離が容易な音色を持つ楽器の伴奏によった前2回の演奏の方が、 聴き手にはより聴き取り易かったかも知れない。だが、オルガン伴奏でもそうだし、更に弦楽合奏が加わる場合もそうだが、 重唱パートの旋律線をしばしばなぞる伴奏が声と溶け合うのは、オリジナルの作品が寧ろ目指している姿であろうし、 とりわけても時として伴奏さえ人声に聴こえかねないペルゴレージのこの作品の演奏として 申し分ないものであったと私には思われるし、奉納と祈祷のための「宗教音楽」としての演奏としては、 ほぼ理想的な条件であったと考えられる。
のみならず、演奏自体も素晴らしいものであった。岡野さんのMIDIアコーディオンのアルトパートは、日本語にはない 子音の連続(今回の場合には、"Juxta"の部分で最大3つ(-kst-)連続する)の実現といった技術的な水準の 困難を感じさせることなく、その歌唱の表現の雄弁さは、れいしうさんのソプラノに比べても最早遜色の 無いレベルに到達しているように感じられたし、さかいれいしうさんの歌唱の表現の深みは、事後的に比較してしまえば 寧ろその後の「訪れよ、わが友よ」でより明瞭に発揮されたと言うべきだろうが、この作品に相応しい歌唱であったと思う。 オルガンの音栓の選択も自然なもので、何よりも合奏として素晴らしく、第1曲のみで終ってしまうのが 惜しまれる程であった。実際のところ、私は音楽に聴き入ってしまい、 もともと全12曲(最後に所謂アーメン・フーガが付く)からなるこの作品にあっては1曲目にあたる 今回の演奏が終ったところで「ああ2曲目以降はないのか」と思った程なのである。 (個人的な希望を記しておけば、終曲となる第12曲、第1曲と同じへ短調によるQuando corpus morieturは、 その歌詞(以後、fac, ut animae donetur / Paradisi gloriaと続く)を考えると、 MIDIアコーディオンによる「誰でもない声」による歌唱のインパクトは一層大きく、 しかもテンポもゆったりとしているので、技術的にも実現可能ではないかと思える。 急速であっても歌詞がAmenだけであるが故に、こちらも技術的に恐らく実現可能と思われる 最後のアーメン・フーガと併せ、是非、今後演奏されて欲しいと思っている。)
「電子音響音楽祭」という文脈に置かれると明らかに異質な、人によっては骨董品的な古色蒼然さと 感じられたかもしれない300年近くも前の作品だけれども、恐らくは今尚(そしてこれからも)、 最初に聴いた瞬間に聴き手の心を捉える力を喪わない、時代を超えた価値を備えたこの作品を聴いて、 私同様に、もっと聴いていたいと思った聴き手は少なからずいたのではないかと思う。 MIDIアコーディオンによるフォルマント兄弟の 編曲が西欧の音楽自体の死を悼むという側面を備えていることはプログラムノートにも書かれている 通りだが、数百年も前の異国の異なる宗教的伝統の中で書かれた作品が、このような形で再演され、 少なからぬ聴き手の心を未だ捉えてしまう力を備えていること自体が(これはクラシック音楽として 受容されている分には素通りされてしまいがちだが)十分に挑発的なことだし、 その声の一部は機械による「誰のものでもない声」であるにも関わらず、ここに「音楽」を、更には もしかしたら「祈り」さえ聴きとってしまうことに危うさを感じる人が居てもおかしくはなかろう。 更に言えば、 この「悲しみの聖母」の演奏が始まった途端にホール自体が呼吸を取り戻したような感覚に捉われたのであれば、 フォルマント兄弟の意図は、今回の試みに関しては技術的にも十分な支えを得て、成功したと言えるのではなかろうか。
実を言えば私は、ペルゴレージの「悲しみの聖母」は これまで専ら、録音と楽譜を通してのみ接してきていて、実演に接するのはこれが初めてなのであったが、 最初に接した実演のアルトパートがリアルタイム合成の人声であるというのは、遠からず300年になろうとする この作品の受容史上、際立った出来事なのかも知れない。そしてその程度は、録音でこの作品に接することに慣れ、 やろうと思えばヴォーカロイドにこの曲を歌わせることだって可能になってしまっている現在の人間ではなく、 寧ろ、例えばペルゴレージ自身にとって、寧ろ大きなものでありえたかも知れないのではなかろうか。 テクノロジーが可能にした電子音響の無限に見える可能性のプレゼンテーションの只中に穿たれたこの試みは、 テクノロジーの「音楽」に対する全く別の関わり方を提示することによって、「電子音響音楽祭」が 成立する基盤を指し示しているかのようにさえ感じられた。
そうした或る種パラドクシカルとも言える状況は、さかいれいしうさんがバルコニーから客席の手前の舞台に降りて、 最初は無伴奏で歌い始める「訪れよ、わが友よ」で一層増幅されることになる。この作品は、それだけをとれば 「電子音響音楽祭」としてはルール違反であるということになろう。(ペルゴレージの「悲しみの聖母」が 普通に人間のソプラノとアルトとオルガン伴奏によって歌われた状況を考えてみればよい。)実際にはその後、最初は オルガンによって奏される「新しい時代」が、ほどなくサンプリングされた音響に基く再生に切り替わり、 更に進むにつれて音響的に変調が施され、最後はサイン波になってしまうという点で、 辛うじて「電子音楽」たりえているのだが、 にも関わらず、最もショッキングなのは、れいしうさんによる「訪れよ、わが友よ」を聴いた途端に、 更にホールが表情を変え、その本来の姿を顕したかのように思えた点であった。擬似カルト宗教のための 作品であるにも関わらず、あたかもそれが演奏されるために用意されたかの如くホールが響くのは、 圧倒的であると同時に、「音楽」の、わけても「宗教音楽」の持つ危うさ、但しここでの宗教は非常に広義にとって、 例えば、三輪さんが「万葉集の一節に基く変奏曲」で取り上げた「海ゆかば」のような作品にも通じるような 危うさを認識させられる経験であった。
このことは、三輪さん自らがフェスティバル・ディレクターを務めている「電子音響音楽祭」を、 こうしたアコースティックを備えたホールで開催することの内在的な批判となってしまい、 意義自体を問いに付してしまうような側面すら備えていると考える人がいるかも知れない。 (私はそこに、寧ろ「音楽とは何か」という問いかけのラディカリズムを読み取る立場に与したいと考えているが。) だが私にとって一層興味深く思われたのは、事後的に種明かしされた「新しい時代」の仕掛けに関して、 勿論、5音目以降オルガン自体が鳴っているのではないことには聴いている最中に、最初は幽かな違和感とともに、 しばらくしてからそうと気づいたとしても、だからといってその後の音響が (少なくとも他の作品におけるようには)「幽霊的」に響いたようには必ずしも感じられなかったという点である。 これは或る種の騙し絵的な馴化の効果ということになるのかも知れないが、恐らく演奏を聴いた人は、 最大限批判的に聴いたとして、仮想であるとはいえ(或は、仮想であるにも関わらず)カルト宗教の 「宗教音楽」がこのホールで斯くも自然に響き、人の心を捉えてしまい得ることの危うさを 強く感じとったのではなかろうか?
思えば、既にプラトンは音楽のそうした性格をその危険性も含めて正確に捉えていたし、 かつてペルゴレージの「悲しみの聖母」もまた、その様式が過度に甘美であり「宗教音楽」に相応しくないと 批判されたのであった。同様に、「新しい時代」が発表された当時は、 オウム真理教の記憶がまだ生々しい時期であり、擬似カルト的な装いはミイラ取りがミイラになるのでは という懸念を生じさせるような危うさを孕んでいたのであった。
かつて書かれた伝統的な「宗教音楽」が人間とMIDIアコーディオン演奏によってリアルタイムに合成される 「誰でもない声」で演奏され、仮想のカルト宗教という外枠を備えた「非電子音楽」(「教義」の方は電力と テクノロジーに全面的に依存しているにも関わらず、そこだけとれば「非電力芸術」ですらある)を 提示することで垣間見ることができたのは、「音楽」そのものが、「電子音響」の利用に代表されるような、 狭義においてテクノロジーに依存することが明白になる遥か以前から、根源的にテクノロジカルであることの 具体的な開示、つまり、音楽がもしかしたら初めから備えていたかも知れない、人間の感覚や身体に 働きかけて「魔法をかける」という呪術的な側面が持つ、根源的な暴力性であり、音楽はその起源から、 知覚を介して意識の奥底にある無意識のレベルに容易に浸透しうる、いわば「魔法をかける道具」として、 原初からテクノロジカルなものであるという事実ではないか。そしてそれは、一例を挙げれば、アンディ・クラークが (少なくとも言語を持つようになって以来の)人間を「サイボーグ」であると捉えるような見方や、 こちらはフォルマント兄弟が以前より参照しているベルナール・スティグレールの時間論における 技術の介在といった主題に通じるものがあるだろう。
勿論、「電子音響音楽祭」という枠組みの中に、電子的な技術によって開かれる可能性を追求する方向性が 含まれることは構わない。だが、既にそうした電子的な環境に組み込まれて、結線され、埋め込まれている訳ではなくても、 「人間」が権利上のみならず、実質的にもサイボーグ化しつつあると見做す方が寧ろ適切かもしれないような現実の中で、 だが同時に、ある時期には「阿片」の如きものであると言われた「宗教」的なものが、 不要なものとして消滅していくどころか、その正当性はおくとして、少なくとも「宗教」の装いの下に、夥しい暴力が ますます猛威を振るうかに見える現実の中において、「音楽」とは何かを 問おうとするならば、技術的な可能性の追及の一方で、フォルマント兄弟の活動や、三輪さんの活動の方向性は 不可欠のものに感じられるのである。
そしてその上で、今此処で議論を進めることは残念ながらできないが、再びフォルマント兄弟によるペルゴレージの 「悲しみの聖母」の今回の演奏に立ち戻って、そのテクノロジカルな側面 (必ずしも電子的なそれに限定されない)に注目したとき、分析すべきものが膨大に含まれているように思われる。
例えば、「悲しみの聖母」の演奏に用いられた3種類の演奏媒体(メディア)=「楽器」を改めて見直してみよう。 サラマンカホールに据え付けられたオルガン(名称が「器官」という意味を持つ点、様々な音色を生成可能な 点に留意されたい)とポータブルなリアルタイム人工音声「器官」であるMIDIアコーディオン、 そして楽器としての人間の声というメディアの対比というのは、これだけを独立して取り上げるに足る テーマであろう。残念ながらここでは考察そのものを行うための予備的な分析の準備を行うだけの時間的余裕さえ無く、 後日を期して備忘のために幾つか気づいた点を書き留めておくことで良しとせざるを得ない。
1.まずはオルガン。近年の多くのオルガンとは異なって、サラマンカホールのオルガンは電子的な制御を全く行わず、 完全にメカニックに動作するよう構築されているのである(但し、パイプへの送風については、 さすがに人力というわけにはいかず、電力を用いているとのこと)。 つまり他のMIDIインタフェースを備えたオルガンであれば原理的には可能な筈なのだが、このオルガンに関しては、 リアルタイム人工音声合成エンジンを「プラグイン」し、歌唱させることができないのである。 ちなみにMIDIキーボードの規格における右手・左手の所謂「スプリテッィング」について言えば、 「音栓分割」という形態で寧ろ古いオルガンには共通の発想が見られるのだが、このサラマンカホールの オルガンの3段の鍵盤の内、一段は古いスペインの様式のオルガンのコピーであり、音栓分割も取り入れられている。 更にオルガンというのは建築の一部として据え付けられ、それゆえ1台1台全く異なるという点でも特異な楽器である。
2.次いでMIDIアコーディオンの方はと言えば、これはアコースティックなアコーディオンとは全く異なった 物理的機構を備えた電子楽器であり、例えば蛇腹の開閉は、実際に空気を送ることによって音量を 調節するわけではない。それを逆用して、フォルマント兄弟のインプリメントでは、蛇腹の開閉のみを行うと、 楽器が「呼吸」するように設定されている。一方この楽器は量産される工業製品であるが故に、 製造中止になり、部品交換できなくなり、残存する楽器が故障して動かなくなれば、 楽器自体が「絶滅」してしまうという危険に晒されている。楽器としての寿命は、修理をしながら 使うことができるアコースティックの楽器に比べて寧ろ短いかも知れないのだ。こうした側面は 「電子音楽」が抱えている機種依存性の問題に寧ろ繋がっていくものだろう。
3.最後に人間の声について言えば、同じさかいれいしうさんが「訪れよ、わが友よ」を歌っても、 初演以来、既に15年の歳月が経過があるのであれば両者は決して同じものではありえない。 また、比較が可能な「訪れよ、わが友よ」において明らかなように、ソプラノの歌唱についても はっきりと感じ取れることだが、必ずしも声に限定されず、MIDIアコーディオンの演奏、 オルガンの演奏についても同様に言えることとして、人間が演奏する前提に立つ限り、 習熟や奏法の継承の問題が存在するのは当然の事であろう。 特にMIDIアコーディオンによるリアルタイム人工音声合成は、 通常のアコーディオン演奏とは全く異なった困難さを備えていて、今のところは岡野さんの アクロバティックとさえ形容できるような名人芸に支えられているのである。それゆえ伝統芸能のように、 「岡野勇人」がMIDIアコーディオンによるリアルタイム人工音声合成の奏者の「名跡」となることを 想像することもまた、決して突飛なことではないだろう。
上記のような3種の演奏媒体それぞれの特性に加えて、更に、演奏の前提として、 汎用性の高いMIDIインタフェースを前提とした「規格」があり、更にそれに基く自動音声合成エンジンの 個別の実装がある。実装に関して言えば、最初に述べた通り、今回の演奏は、 少なくとも一度のバージョンアップを経たものである。 しかもそのバージョンアップは、奏者の演奏技術の向上との相互作用と無縁でいることはできない。 これは楽器のメカニックが奏法の発達と所謂「共進化」を行っていくプロセスと同じであり、潜在的には、 それが更に「作品」として定着された「編曲」自体にフィードバックされる可能性すらあることに留意すべきだろう。
そしてその上に「作品」が成立する。記譜法のシステム、奏法、歌唱法の伝承を前提として、譜面に固定されることにより、 再演可能な「作品」というものが存在する。「音楽」を再現するための指示としての記譜法というのは 決して「作品」にとって外部的なものではなく、寧ろ記譜法は「作品」とは何かを端的に定義してしまうものであり、 記譜されたものの外に「作品」が存在する訳ではない。より正確には、世代を超えた継承を考えれば、 作品「本体」についての説明、注意書き、「由来」としてのカバー・ストーリーや、音響を生成する為の アルゴリズムの記述も含めて、記録・記譜されたものが全てなのだ。 現代であれば演奏を録音・録画した記録が伝承の補助にはなりうるが、 一部の「電子音楽」を除けば、それはあくまでも或る実現の記録に過ぎず、 「作品」はあくまでも演奏のための指示書として存在すると言えるだろう。 (ここでは継承を前提としない即興演奏はとりあえず考慮の外に置くことにする。)
それは再現にあたり、演奏会場に応じてオルガンが変わり、ある製品が製造中止になった結果、使用するMIDIアコーディオンがMIDI規格を持つ別の製品に変わり、プラグインされるソフトウェアについても別の音声合成エンジンに変わり、さらには3つの演奏媒体それぞれの奏者が変わる可能性を前提としている(もちろん、そうでない可能性を原理的に否定するものはないし、しばしば特定の奏者を想定して「作品」が作られるという経緯と相容れない訳でもない)。 それらはあたかも「作品」の規定の外側にあるかのようだが、一方で、それが「音楽」として成立し、 聴き手を感動させることに関しては、そうした外部が持つ、アナログ的なその都度の演奏行為に依存しているし、 演奏による上演なしで「音楽」が成立しているわけでは決してない。「指示」自体は意識を持つ演奏主体が 読み取るものだが、実際の上演の過程は、演奏のみならず聴取も含め、ほとんどが無意識的なプロセスであり、 それは意識よりも寧ろ無意識の層にこそ働きかけるものであり、それなくしては「音楽」は成立しないのだ。 だから指示書としての「作品」は「音楽」が成立するための制約条件の記述ではあっても、それ自体は「音楽」ではない。 一方で、「作品」はそれを支える様々なレベルのテクノロジーと全く独立に「理念」として存在する何かでもない。 こうした条件のもとで「音楽」はベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」たりえているのではなかろうか。
このような様々なテクノロジカルなファクターとその間の関係は決して自明なものではないのだが、そうした関係を自明の所与として「忘却」し、自分が生きる時代のテクノロジーが提供する手段を、あたかも無色透明かつ自明な「道具」として 利用して事足れりとしてしまうことがしばしば起きる。だがフォルマント兄弟の活動、三輪さんの活動は、 関係を自明なものとせずにその具体的様相を浮かび上がらせることによって「音楽」が成立する条件を探求しているということが できるように思われるのである。勿論、そうした態度は、だからといって単なる認知実験に還元されてしまう訳でもない。 寧ろ上述の「忘却」が認知実験の変わるところのない技術的なプレゼンテーションと通じることはあっても、、ことフォルマント兄弟の活動、三輪さんの活動に おいてもとりわけ今回のケースについては、それは「新しい宗教音楽」足りえていたし、ベイトソンの言う 「無意識のエクササイズ」たりえていた。そして、ここではごく簡単で断片的な素描をしたに過ぎないが、 それでも上記のような3種類の演奏媒体(メディア)=「楽器」それぞれの状況を考えれば、 今回の演奏の持つ一回性の重みを感じずにはいられず、それだけに一層、その一回限りの「無意識のエクササイズ」と しての成功を感じつつ、その演奏に聴き手として立ち会えたことの幸運を思わずにはいられないのである。
以上をもって、極めて不完全ではあるが、"テクノロジーと「作曲」の未来"と題されたコンサートで演奏された フォルマント兄弟および三輪さんの作品の演奏についての感想としたい。実を言えば、「電子音響音楽祭」の イヴェントとしては、上述の内容は、コンサートで演奏された他の曲よりも寧ろ、(「鵜飼と芸術」に関連して 既に触れたが)コンサート前に聴講できたリチャード・バレットさんと足立智美さんをゲストとしたシンポジウム で取り上げられた幾つかのテーマと響き合うものがより多くあったように思う。 (司会は上記のコンサートでも進行役と作曲者へのインタビューをされた沼野雄司さんで、三輪さんも参加された。) 残念ながら時間の制約から、翌日13日の夜のリチャード・バレットさんと足立智美さんのコンサートは 聴けなかったし、シンポジウムそのものについても、それを正面から評価するだけの持ち合わせが私にはないことを 認めざるを得ないが、その中で取り上げられた幾つかのテーマについては、上記の感想に関連付けて展開させることが 可能と考えている。実際、当初は感想の中に含める予定であったのだが、残念ながらこちらもまた、 時間的な制約から現時点では断念せざるを得なくなってしまった。 いずれ上記の備忘を取り上げて、更に考察を進める機会があれば、その際にシンポジウムでの発言についても是非とも言及したいと考えている。
(2015.9.22初稿公開, 23,24加筆修正, 2024.9.19 noteにて公開)