フォルマント兄弟「フレディーの墓/インターナショナル」をめぐって
フォルマント兄弟(三輪眞弘・佐近田展康)「フレディーの墓/インターナショナル」
Prix Ars Electronica 2009 のHonorary Mention (Digital Musics部門) 受賞
2007年の逆シミュレーション音楽のゴールデン・ニカ受賞、昨年のマーチン・リッチズとの共同制作であるThinking Machineの入賞に続き、 今年は佐近田展康さんとのユニットであるフォルマント兄弟名義の「フレディーの墓/インターナショナル」の入賞の報に接して、三輪さんの活動に 格別の関心を抱いてきた人間として慶賀にたえない。「フレディーの墓/インターナショナル」はWebで公開されているので、早速作品に接し、 更にその後で作品の「由来」(と逆シミュレーション音楽なら呼ばれるだろう説明)である"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ" を読んだ。以下はその感想というよりは、「フレディーの墓/インターナショナル」を巡って私におきた出来事の報告である。
というのも、今回のケースでは私が抱いた印象などより私が置かれた状況を記述することの方が「フレディーの墓/インターナショナル」について多くを物語っている ように感じられるからである。要するに私が意図せず「誤読」をし、後で「由来」を読んでそれを認識したのだが、どうすることもできなかったし、 どうしようという気も起きなかったその状況そのものが寧ろ興味深いものに思えたのである。端的に言って、私はこの作品を受け取る「資格」を欠いていた。 だから作品そのものや作品の価値について語るのは、その資格のある人に委ねたい。けれどもそこで私に起きたことは「フレディーの墓/インターナショナル」と いう作品にとって、まるまる無意味というわけでもなさそうなのだ。私は意識せずに(人工知能における「フレーム問題」で用いられる意味での) 「フレーム」の外にいて、その結果ウィノグラード風に言えば「ブレイクダウン」が生じたと見なすことができるように思える。私のできることは、意図せずして 問いを変形させて送り返すことでしかない。だがそれは勿論、私にとってはアクチュアルな問題であり、それゆえ私は(私ですら、と言うべきか、、、) 「フレディーの墓/インターナショナル」から多くのものを受け取ったと感じている。是非、(多分ほとんどがそうだと思うのだが)「資格ある」一人でも多くの 方々に「フレディーの墓/インターナショナル」に接していただきたいと思う。
「フレディーの墓/インターナショナル」は、音声合成により生成された声が「インターナショナル」という歌を日本語で歌うという作品である。だから 「インターナショナル」の方は少なくとも表面上はそれが何であるかについて疑問の余地はないといって良い。とはいうものの、実際には私はそれがどんな歌か 「事前に」きちんと聴いたことがなかったし、誰かが歌うのに立ち会った記憶は残っていない。その歌の持つ「文脈」の方も「知識」として知るのみで、 「記憶」はない。従って歌詞もまた、字幕を見て生まれて初めて確認するも同然で、実感を伴わないこと夥しいものの、どうやら「あのかつて有名だった」歌で あるらしいということはできる。
ではフレディーとは一体何者で、これが何故彼の墓なのか。墓という題名を持つ音楽としては恐らくラヴェルの「クープランの墓」が有名だろうし、ラヴェルは 三輪さんの音楽で度々、色々なかたちで参照される存在だから、それが「クープランの墓」を意識した「命名」であるという推測は自然なものだろう。 実際ヴィデオの最後にクープランの墓のあのラヴェル自らの手になるらしい楽譜表紙が映し出されてこの作品は終わる。実は「墓」Tombeauというのは 西欧音楽における作品ジャンルの一種であり、人口に膾炙しているのが特に現代日本では専らこの作品であるがゆえに、このタイトルをラヴェルの 独創になるものと見なす向きがあるが、少なくとも文脈上はこれは脈々と書かれ続けてきた作品の系列に連なっているのだ。だとしたら、フォルマント兄弟の ものはどうなのか。
ラヴェルの「クープランの墓」についてはしかし、もう一つの側面、つまりこれが第一次世界大戦にて前線で命を落とした友人に捧げられているという側面もまた 忘れてはならないだろう。ラヴェル自身も生きて前線から還らない可能性を念頭にかの「トリオ」を書き上げて、そうした友人達と行動を共にすることを 望んだ。徴兵されたわけでもないのに希望して貨物自動車の運転手になり、赤痢にかかって前線を去って、、、という経緯は今更ここで繰り返すまでも あるまい。そのラヴェルが一方で、ドイツ音楽を禁止する作曲者たちの声明文に対して断固とした拒絶の手紙を送っていることも、ここに記しておくべきだろうか。 喪の作業は優れて「人間」の、控え目にいっても「生ける者」の営みであると言えるだろう。では、「インターナショナル」をコンピュータで合成された音声に 「歌わせる」ことがどうして「墓」たりえるのだろうか。
既に"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ"を読まれた方は、何をうだうだ言っているのだとお感じかも知れない。あるいは「フレディーの墓/ インターナショナル」を既にご存知の方の中にも、「そんなの聴けばすぐにわかるじゃないか」とお考えの方がいらっしゃるに違いない。実際、この作品は 「あの」フレディー、ロックバンド「クィーン」の「彼」の声のシミュレーションによって、しかも日本語で「インターナショナル」を歌わせるという試みなのであれば、 フレディーが誰であるかは明らかな「はず」だったのだ。事実、作曲者(達)もそのように「由来」の中で書いているわけだし。それは「架空の歴史」を いわば捏造する試みであり、一般にメディアに記録された音楽=「録楽」が過去の事実の痕跡、不完全で色褪せたコピーであるのに対し、これは まさに「逆シミュレーション音楽」の提唱者ならではの極めて興味深い試行なのである。SendMail(これは三輪さんの単独作だが)や「兄弟deピザ注文」の ような作品をこれまで発表してきたフォルマント兄弟ならではの「声」と「メディア」に関する独創的なアイデアに満ちた試みだと私も結局は納得することになるが、 それはもう少し後でのことだ。
とはいえ私にとって、フォルマント兄弟名義の試みは三輪さんの活動の中でも最も「わかりづらい」部分であることは認めなくてはならない。「わかりづらい」のは コンセプトの方ではなく(それはいつも極めて平明なものだと思う)、それにより実現されたものを自分がどのように受け止めればいいのか、自分の側の モードが決めにくいという意味でのわかりづらさだ。例えば私はそこにいわゆる「美的なもの」(それを私は例えばラッヘンマンやクセナキスの「音楽」にさえ 見出すことができるし、三輪さんの「音楽」でも例えば「新調性主義」の系列の作品になら確実に見出すことができる、というかそういうスタンスをとることが できるのだが)を見出すことができないけれど、「だからどうした、それが何か問題あるのか」と言われてしまえば、そうした意見への反論は難しい。 その一方で、それではこれは「芸術」よりは何か「実験」に近いものと考えればいいのかとも思うのだが、そしてSendMailや「兄弟deピザ注文」には確かに そうした見方を許容する側面があるものの、今回の「フレディーの墓/インターナショナル」では明らかに視点の移動が行われていて、端的に一つの「作品」、 少なくとも「音楽」のミメーシス(定義上、あらかじめ「録楽」であるそれは三輪さんの定義では「音楽」そのものではありえないので)であろうとしているかにも見える。
もっとも音楽活動を聴き手の聴取や聴取後の反応まで含めたプロセスと見なせば、これはこれで壮大な(何しろWebで公開されているのだから 原理的には全世界規模である)実験、あるいはもっと言えば「チューリングテスト」のようなテストなのかも知れないと私には思える。 思い切り勘繰って考えれば、フォルマント兄弟の真意は聴き手がどのような反応を示すかを聞き取りして 集計・分析することにあるのではないか、実はArs Electronicaへのエントリさえも、サンプル数を増やすための戦略の一部なのではないかなどと想像を 逞しくすることも出来よう。要するにフォルマント兄弟の活動は狭義の「作品」の制作ではなく、聴き手や評価者を含めた一連のプロセスを起動する試み なのだと考えればいいのかも知れない。これはだから「コンセプチュアル・アート」ではないし、「インタラクティブ・アート」に一層近いのだろうが、それともまた 異なる。寧ろ或る種の社会的な「運動」に近いのかも知れない。この作品が言及している「共産主義運動」のように。あるいはまた宗教的な、もしくは 代理宗教的なそれのように。そのあり方そのものが非常にユニークで、これもまたThinking Machineがそうであるように、作曲者も聴き手もその部品の一部であるような ウニカートな「機械」なのだ、と言えるのかも知れない。(ただしここには「超越性」がない、と私は小声で言ってみたい気がしている。だが、この点に ついては後で稿を改めてまた触れる機会があるだろう。)
実際、「チューリングテスト」との比較は見かけよりも奥行きがあるようだ。「チューリングテスト」では、相手がコンピュータであるか人間であるかを判定する 「メディア」として、言語記号のリアルタイムなやり取り、しかも音声ではなく文字によるやり取りが想定されていた。これをテスト考案当時のテクノロジーの 制約のせいとするのは明らかに言いすぎで、もしそれを言うなら「人工知能」という研究分野が「記号主義」の立場をとったことに対してはその制約はどう 関係していたのかが問題にされなくては片手落ちだろう。チューリングがそのような「メディア」を選択してテストを定義したのは、チューリングが「知性」を どう考えていたか「そのもの」であるといってよいのではないか。一方、フォルマント兄弟はここで文字ではなく「声」を、言語記号ではなく「歌」を、リアルタイム性に対して 媒体への記録の問題を提起しているのである。だがこの点について主題的に論じるのは別の機会に譲ることにして、ここでは聴き手の一人である私の 「事例」の報告に戻りたい。なお以下では"「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ"を「由来」と言い換えさせていただくことをお許しいただきたい。
フォルマント兄弟は「由来」の中で、随伴性と事後性を人間の痕跡たる「声」の特性として挙げている。だがそれはそもそも何の「音」(あえてまずは 「声」とすら呼ばないで置こう)なのか。それは何に随伴し、何の事後なのか。そこにあったはずの「事実」とは、それ自体一体どのようなものなのか。 それを聴き手たる私が直接体験したのか、それとも同時代には生きていたが、伝聞によって知っただけなのか、あるいはまた、それは本当に過去の 事象であって私が直接体験する手段は最早なく、知識として「それがかつてあった」ことを知っているだけなのか。どうやらフォルマント兄弟は、フレディーが 何者かはいわゆる「公知の事実」であると考えていたようだが、それは些かも自明ではないのではないか。50年後、半世紀の年月を経た後このヴィデオを 見た人間は一体そこに何を聴き出すのだろうか。
要するに、あの「フレディー」を音声合成によって再現するという、恐らくは技術的に最も困難であったに違いない点が、私見ではこの作品の最大の アキレス腱であり、致命的な弱点に転化するように思えるのだ。いや半世紀も待つことはない。そもそもあの「フレディー」の「声」を知らない人間、私のような人間が 聴いた場合には、作者の意図はまともに機能することができないのである。更に悪いことには私は「声」を知らないどころか、あの「フレディー」そのものを知らなかった。 だから「声」の主が誰であるかを知らなかったし、「フレディー」と「声」とを結びつけることすら頼りない推論の糸によってしか行えず、「由来」を読むまでは 別の可能性すら考えていたのである。言ってみれば私はゲームのルールを知らず、「フレーム」の外に居たし、今なお居続けている。「由来」を読んで、いわば 「種明かし」をされたところで随伴性も事後性もあったものではない。先にヴィデオを視聴した私にとって、それは単なる合成音声による歌に過ぎなかったし、 それを後から訂正することは「もはや不可能」なのである。勿論「死者なき幽霊」は現われなかった。少なくともこのケースでは実験は失敗したのである。 ただしそれは「ゲーム」の「ルール」を知らない人間である私が被験者であったがためであり、だからサンプルにならないとして除外しても良いのかも知れないが。
一方の「インターナショナル」については既述の通り、私の場合にはこちらも徹底的にコノテーションというのが欠如した状態にあった。そして私にとってその歌詞は 何の共感も呼ばないし、その一方で「知識」として知っているだけの負の側面は、単純にその音楽自体への関心を阻害するばかりだ。残念ながら、私は 自発的にもう一度あの曲を聴く気にはならない。もしそうした「記憶」を問題にするなら、例えばの話、私ならショスタコーヴィチの作品を聴くだろう。 勿論私はショスタコーヴィチについては(あくまで相対的にだが)遙かに大量の文脈を既に持っているから、比較自体が不当だという謗りを受けそうだが、 それ以前に、ショスタコーヴィチの作品そのものが持つ力によって、自分が実際に体験したわけではない「記憶」の伝達が可能であるという少なくとも 「感じ」を起こすことが可能になっている。それが思い込みであるかどうかは今は問わないが、それが「虚像」に過ぎなくても、何かが私の裡に起きた事実は なくならないのである。残念ながらこの点ではコンピュータを用いた音声合成による「インターナショナル」を同列に論じる気には私にはなれないというのが偽らざる気持ちだ。
だが、そんなことは想定済みではなかったのだろうか。「インターナショナル」が一時期、パンデミックと呼ぶのが適切な強大な伝播力を持ちながら、あっという間に 忘れ去られたという認識が「由来」にも書かれている。まるで三葉虫やアンモナイトのように、あるいは恐竜のように、或る地質学的年代に爆発的な勢力拡大をして その後、同じように急速に絶滅してしまった生物と類比的に、こちらは或る文化史的年代に爆発的な流行と衰滅を起こした「ミーム」としてそれを捉えることが できるのかも知れない。化石や考古学的発見の偽造・捏造の例は多いし、美術史や音楽史を紐解けば、悪意のないものも、あるものも含めてパスティッシュや 贋作の記録を辿ることもできよう。それでは「死者なき幽霊」による歴史の捏造というのは、そうした胡散臭い事例と一体どう違うのか。もうお気づきのことと思うが、 これは逆シミュレーション音楽における「由来」や架空のカルトと構造的には非常に類似している。だとしたら、私のような事例における失敗も含め、全ては計算済みで、 批判的機能を強調するためにわざと「インターナショナル」を選び、テクノロジーによる記憶の捏造を「演出」したと捉えるべきなのだろうか。それは例えば しばしばおきる「歴史的録音」の偽造への警鐘なのだろうか。要するに、これは非常に手の込んだものではあるが最終的には芝居であって、しかもその機能は 啓蒙的かつ教育的なものであることが意図されているのだろうか。これはいわば「ソーカル事件」の「録楽」版(ただしこちらはあらかじめ「由来」によって種明かしは されているのだが)を狙っているのだろうか。
そうなのかも知れない。だが、私はそうした見方にはどこと無く居心地の悪さを、違和感を抱いている。例えば「記憶」を、世代を超えて甦り続ける「幽霊」を 問題にするのであれば、特性上もう一方の端点にある「ミーム」、流行のロングテールの末端にある、流行の程度はとるに足らない、限られたものではあるけれど 時間方向に対しては極めて「しぶとい」伝播力を備えているような「音楽」こそ適切な範例ではないかという気がしてならないし、三輪さんの活動の凄みは、総じて 「音楽」の持つ両義性、時に暴力に転化しうる危険な力を撓めてしまうことなく示すことにあったはずだと思う。ここでは「録楽」におけるテクノロジーの力が「悪夢」を 見させる可能性があることが問題なのだとすれば、「フレディーの墓/インターナショナル」はその端緒を示すものに過ぎず、今後の展開に注目すべきなのかも知れない。 実際、「録楽」における「幽霊」の問題についてはまだまだ検討したいことは尽きないのだが、それはまた稿を改めることにして、ここでは最後に私が犯した もう一つの勘違いを報告することで、「フレディーの墓/インターナショナル」の問題系の別の方向への展開の可能性に触れてみたい。
「フレディーって誰だ」と疑問に思った私はしばらく考えて、これまた人工知能研究の黎明期のある事実を思い浮かべたのだった。1967年に エディンバラ大学に人工知能・知覚学部というのが創設された。創設には視覚研究で著名なリチャード・グレゴリーが関わっているのだが、 彼等がそこで研究したのは、認知ロボット研究のいわば先駆けとでも言うべきものであり、そこで初めて、単なる入出力を持つだけの、いわば行動主義的な パラダイムとは異なった、内的モデルを備えたロボットが作成されたのである。その後の人工知能の歴史を知るものにとっては、今や過去の歴史の 一齣になってしまったかのようなこの事実に遠近法的な歪みを感じるかも知れない。その後人工知能研究における「記号主義」 「表象主義」に対する批判がなされ、ブルックスの昆虫型ロボットのような「内的モデル」を持たないロボット研究が主流となり、「表象」に 替わるモデルとして、まずはニューラルネットが、さらにはそれを理論上包含するようなものとして「力学系」によるモデル化が提唱され、 といった経過を辿ったのだから。今や内的モデルを備えた認知ロボットの時代は終わってしまったかのようですらある。(私は個人的には 必ずしもそうは思っていないのだが。)
だとしたらかつて研究された内的モデルを備えた認知ロボットの「墓」こそ、現在には相応しいのではないかと私には思えたのだ。 彼の名は「フレディー」。だから「フレディーの墓」とはロボットの墓であり、定義上、それは自己撞着を起こしている。ロボットが対象の「喪」の作業には どこか倒錯したものがないだろうか。だが、これには実は伏線があるのだ。私は昨年秋の「虹機械」(今やそれは第1番と呼ぶのが適当だろうが)の初演時に、 開演前にスピーカから流れていた西陽子さんの演奏する「蝉の法」の「録音」を聴きながら、奇妙な感覚に囚われていた。そのことは既に書いたのでここでは 繰り返さないが、その時に「自動演奏機械が演奏したものを録音したらそこには幽霊が現われるだろうか」という疑問を持ち、感想にもそれを書き付けたのだった。 であれば私にとって「フレディー」は言ってみればはじめからロボットでなくてはならなかったというわけである。
私は間違っていたのだろうか。勿論そうだ。だが、全くの見当外れというわけでもなさそうだとも思っている。なぜなら、事実上、私は 上記の疑問に対する答えをこのようにして受け取ったのだから。「フレディーの墓/インターナショナル」は文字通り、「自動演奏機械が演奏したものを録音したら そこには幽霊が現われるだろうか」という問いそのものとはいえなくても、その問いを巡っての実践ではないか。 (「問いそのものではない」というのは、厳密には音声は合成されたものであっても、演奏自体は「自動」ではないという点に注意されるべきかも知れないし、 わざわざ演奏をする映像が収められていることが、「死者なき幽霊」の出現にどう関わるか、あるいは関わらないかを問題にすることもできるかも知れないからである。 だが残念ながら「予選落ち」した私はそれを論じるための出発点に立てていないので、この点についての追求は断念せざるを得ない。)
勿論「フレディーの墓/インターナショナル」の持つ射程は私の問いなど問題にならないほど大きなものだろう。 そして何より私は「ゲーム」に、「テスト」に参加する資格すら持てなかったのだ。だがそれでもなお、 同時代に生きるものとして、自分が疑問に感じていることの答えをこのようなかたちで提示されることは何にも替え難い喜びだし、 それがPrix Ars Electronica 2009 のHonorary Mention (Digital Musics部門) を受賞したとあれば、その喜びは弥増す。だから 最後にあらためて、フォルマント兄弟に心からのお祝いと、同時代に生きる人間に対するアクチュアルな発信を続けてくださっていることへの 感謝の言葉を述べてこの奇妙な報告を終え、一旦の結びとしたい。おめでとうございます。これからの活動にも期待しています。
(2009.6.13初稿、6.14加筆, 6.15加筆修正, 2024.6.24 noteにて公開)
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