「ひとのきえさり」日本初演を聴いて
「ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読」
KNMベルリン
2014年2月11日アサヒ・アートスクエア:「ハイブリッド・ミュージック」東京公演
「ハイブリッド・ミュージック」は、マーティン・リッチズのミュージック・マシンと人間の奏者の「合奏」という編成による 新作委嘱作品を中心(というのも1曲だけ、トム・ジョンソンの「24個のパーカッション・インスタレーションのために」のみは、 1995年に書かれたという点と人間の奏者は介在しないという点のいずれにおいても例外なので)としたプログラムの演奏会企画であり、 既にドイツでは昨年の11月8日にエッセンにてコンサートが行われている。 プログラムには企画のディレクターの1人である三輪さんの新作「ひとのきえさり」の初演が含まれており、日本公演は、その 日本初演ということになる。日本公演は名古屋(2月9日)と東京(2月11日)の2回で、そのうち東京公演に立ち会うことができた。
昨年来多忙を極め、例年参加することにしている催しも、極僅かな例外を除くと殆ど何も参加できなかった故、久しぶりのコンサートで あり、今回についても、そもそも行ける判断がついたのが1月末であったが、同じく盛況であったらしい名古屋公演同様、 東京公演も、開演時にはみぞれがちらつく天候の中、立ち見も出る程の盛況であり、また作品・演奏ともに非常に充実した企画であった。 主催者はじめ、企画・制作・演奏・技術のスタッフの方々に敬意を表しておきたい。色々なことを感じ、考えさせられたのではあるが、 残念ながら時間的な余裕がない状況は続いており、既にこの文章を書いている時点で1週間弱が経過しようとしている。そこで ここでは「ひとのきえさり」を中心に、ごく簡単に感想を記録しておくことにする。
全体として、ミュージック・マシンに対する日本とドイツの基本的な姿勢の違いのようなものが 感じられたのはとにかく印象的だった。いわゆるアコースティックでない電子楽器の利用はライヴ・エレクトロニクスも含めて 今や当たり前だし、その経験が逆流するように、例えばラッヘンマンの「楽器によるミュージック・コンクレート」に代表されるような 特殊奏法による音色の拡大もいわば既成事実であり、前提となっているような状況においては、マーチン・リッチズの制作した ミュージック・マシンをどう扱うかの基本的な発想自体がクローズアップされるようだ。
三輪さんの「ひとのきえさり」では、機械はいわば「最後の人」の代補、「礼拝」の対象、或る種のトーテムめいたものであるという 物語の枠が設定されているが、足立智美さんの「あんたトノはなし方のならい方」における「あんた」とはトーキング・マシンのことであり、 ここでは人間と機械との(ロシア・アヴァンギャルド張りの)身振り言語を介しての往還可能性がいわば「前提」となっている。
一方、トム・ジョンソンの作品がインスタレーションの一部を構成するものとしての音響の次元の構成と割り切って、空間的な移動の 効果を含めた音響の構成の提示に徹しているのに対し、ドイツの作曲家の新作2作品は、個別の作品の違いを超えて、 あくまでも通常の楽器と一緒に演奏=操作される音響・音声発生装置としてミュージック・マシンを扱っているように感じられた。 つまりそれはきっかけを与えれば後は勝手に音を発しはするものの、結局人間の操作する道具であり、結果として生じる音響も、 他の楽器の音と或る意味では同等なのであり、細部はいざ知らず、それ自体の演奏者としての自律性は、少なくとも表には 出てこない印象を受けた。ここでは機械を操作する人間が演奏者と協同する(いわゆる対比的な扱いを受けて、あるいはアイロニーを 込めて「協奏」するように設計されている場合も含めて)のであって、勿論、機械が合奏に加わる場所では、指揮者も含めた人間の 演奏者は否応無く機械に「合わせ」ざるを得ないのだが、それも例えば歌劇やバレエのピットのように ごく自然に行われていて、例えば三輪さんが「永遠の光、、、」でCDプレーヤーをあえて用いて浮かび上がらせたような状況は 浮かび上がって来ない。勿論、そうした状況について作曲者が無自覚であるということはないだろうし、人間と機械の関係を 対立的に扱うにしても、その具体的な様相は決して画一的なものではないし、各作品毎の差異というのも あるのだが、初演を一度聴いたきりだと、その点について主題的に扱うのは困難であり、ここではそうした大まかな共通性の 指摘に留めたい。或る程度の時間的な広がりを確保し、アイロニーも遊びの要素も含めて、その中を徹底的に隅々まで作曲し 尽した感じがあるのは、如何にもドイツ的というべきか。(プログラムにはもう1曲、イギリスの作曲家ショーン・トザーの 作品が含まれていて、これはフルート・プレイングマシーンとフルート奏者の「合奏」で演奏された。)
それを民族性の相違のようなもので説明してしまっていいものか、とは思うのだが、私が共感するのは三輪さんや足立さんの 機械に対するスタンスであるのは間違いない。そして恐らくその点と決して無関係ではないと思うのだが、三輪さんにあっては 「子音パイプ」と名付けられた、調律されてはいるけれど、それで膝を叩くことで音を出す筒の利用、足立さんの場合には身振りを 含めた身体的な所作と声の利用と、いわば限定された素材を介在させることによって人間と機械との距離を浮かび上がらせるとともに、 マーチン・リッチズの、こちらはこちらで手作り感があってローテクな趣のある機械の肌触りのようなものに触れることに 成功しているように感じられた点も印象的である。会場の聴衆にはドイツ人も少なからず混じっていたようだが、一体どのような 感想を抱いたのか、聞いてみたい気もする。
「ひとのきえさり」は、藤井貞和さんの7音7行で1連の7連からなる詩をシンギング・マシンが朗読することを中核とする作品である。 編成はピッチを持った母音を発声できる機械であるシンギング・マシン、Esの超低音のみを出すことができるアイントン、フルート、 オーボエ、クラリネット、バス・クラリネット、トロンボーンの管楽5重奏、「子音パイプ」という調律された音高を持つ7本の パイプを交換しながら膝で叩いて音を出す4人の奏者からなる。配置は、舞台中央に輪になった管楽5重奏に対し、シンギング・マシンを 囲むように輪になった4人の「子音パイプ」奏者の背後にアイントンが置かれるというもの。奏者は9人だが、音楽機械の操作をする マーチン・リッチズもまた、パフォーマンスの中で重要な役割を果たす。
作品の構成は、タイトルに示される通り、序奏と朗読の2つの部分に分かれている。序奏は管楽5重奏によって演奏されるが、 その脇で、無声でピッチだけを取り続けるシンギングマシンのピッチの変化に合わせてパイプを交換する奏者が交替で パイプでリズムを刻んでいく。序奏が済むと管楽5重奏は退場してしまい、今度は有声でピッチを持った母音を発声する シンギングマシンによる「朗読」が、シンギングマシンを囲む奏者が、7音一サイクルのパターンを、パイプを交換しながら 反復して演奏することにより、機械の「朗読」を「伴奏」する中で行われる。全体を通してアイントンの超低音の唸りが 基底の響きをなす。
「子音パイプ」の奏者はこれも周期的に、タイトルを交替で囁くが、「朗読」が進んでいくうち伴奏のパターンが尽きると、こちらもまた 退場してしまう。タイトルの通りの「ひとのきえさり」の後、残されたシンギングマシンの「朗読」は続けられるが、 それも終わりに辿り着くとアイントンの唸りも止み、静寂の中にマーチン・リッチズが現れて、まずはシンギングマシンに一礼し、 その後舞台中央で客席に向かって一礼して終曲となる。
自らがディレクターをつとめる「ハイブリッド・ミュージック」というタイトルの催しに相応しく、この作品はこれまでの三輪さんの 創作の様々な側面が複合的に組み合わされているように思われる。全体は「逆シミュレーション音楽」の規定に従って創られている。 カバーストーリーは、「村松ギヤ・エンジンによるボレロ」でも登場したギヤック族が登場し、「子音パイプ」を交換しながら、 規則に従ったパターンを反復していくのは、「村松ギヤ」や「またりさま」と同様の「逆シミュレーション音楽」における 「架空の儀礼」の一部を為している。 マーチン・リッチズの音楽機械と人間との合奏は、かつて東大で演奏されたThinking Machine(思考する機械)と箜篌による 「逆コンピュータ音楽「箜篌蛇居拳」公案番号十七」を思い出させる。七色に塗り分けられた七本の「子音パイプ」は、 それがパイプであるという点で、「算命楽」でのレイン・スティック、「村松ギヤ」のザーメン棒を思い起こさせる一方で、 7色の虹の色から「369」や「虹の技法」といった新調性主義系列の作品にも繋がっていく。正確には同じ編成ではないが、 管楽5重奏ということでは、架空木管五重奏のための「BQMOVM1E」を、序奏と朗読という2部形式は、前奏曲とリートという 2部からなる「夢のガラクタ市」のことを思い出ささずにはいないだろう。
そればかりではない。声調言語ならぬ、ピッチが子音に対応するという音声体系を持つ架空の民族の歌を、ピッチを持った 母音のみが発声できる機械に歌わせるのは、フォルマント兄弟名義での音声キーボード・音声アコーディオンによる歌唱の試み との直接的な関連を持っているだろう。かくしてこの作品は、三輪さんのこれまでの活動の「ハイブリッド」であり、或る意味での 総合となっていると考えられる。
しかしこの作品において最も意表をつき、インパクトがあるのは、タイトルの通り、文字通り人が消え去っていき、機械のみが 残るというプロセスが作曲されているという点であろう。三輪さんの作品の中には、既に上で触れた「369」や「虹の技法」の 系列の作品、あるいはそれに先行する「言葉の影、またはアレルヤ」のように、作品の終わり近くになって、楽器を 演奏している奏者に発声をさせるものがある。だが、この作品は管楽5重奏の奏者も、4人の「子音パイプ」奏者も、最初こそ 発声をしながら演奏をするが、じきに舞台を去ってしまい、残るのは機械の声だけなのだ。東日本大震災の後に作曲され、 初演された「永遠の光、、、」もまた「虹の技法」同様、新調性主義の系列の作品だが、この作品すら、前半で打楽器奏者と 指揮者がラジカセで再生されるオーケストラのシミュレーションと「合奏」するのを沈黙して楽器を演奏しないオーケストラ 奏者がひたすら聴き続けた後、後半にはオーケストラが自ら演奏を行うのに対し、ここでは誰もいなくなった後に機械による 朗読だけが残るという或る種の逆転が生じている。カバーストーリーに重ね合わせれば、 それはギヤック民族の絶滅を象徴しているのだろうが、そうしたプロセスが更に何を意味しているのかについて、 聴き手は様々に考えることができるだろうし、そのように誘われているのだろう。これまた近年、特にフォルマント兄弟名義での 活動で追求されている問題系の一つである「幽霊性」との関連を考えることもできるだろう。
だが、それらとは別に、会場で「ひとのきえさり」に立ち会った私が感じたのは、そこで見たもののどこまでが「夢」の内容 なのかが曖昧になってゆく感覚であり、「音楽」そのものの「きえさり」に立ち会ってしまったかのような感覚であり、 人間が消滅した後、もともとは人間のためのものであった何かを、誰に聞かせるためでもなく、電力が枯渇するまで永遠に 機械が反復し続けるという状況の持つ生々しさであった。実際には私は子音とピッチの対応規則を事前に教わっているわけでもなく、 だから初めから朗読の意味を聴きとっていたわけでは決してないけれど、それでもなお何かが損なわれ、喪われていく過程、 「逆シミュレーション」によって辛うじてまだ成立していた何かが解体する風景の予感の如きものを感じずにはいられなかった。 と同時に、機械が止まり、アイントンの基底の響きが止み、沈黙が支配する中で、黙り込んでしまった機械に対して一礼し、 最後に聴衆に向いて(だが、それは本当は聴衆に向けられたものではないのではないか?)一礼した、機械の作者の挙措の 意味を図りかねていた。それはカバーストーリーに書き込まれていた夢の続きなのか、夢の外側なのか、それに立ち会っている 私は一体、どこにいるのか。
もちろんそれは、コンサートの中での出来事であり、拍手とともに奏者が現れ、三輪さんが呼び出され、皆が退場して 拍手が止めば、休憩時間となって、私はコンサートという制度の中にいる自分を見出すことになる。コンサートが終われば 帰途を急ぎ、翌日の仕事の準備をしなくてはならなかった。だがその一方で、「ひとのきえさり」が展開して見せた ヴァーチャルな時空は自分の内側に確固たる場を占めてしまい、リアリティに対して作用を及ぼしつつあることに気付かざるを得ない。 残念ながら私の能力の限界のせいで、一回聴いただけでは作品の全てが把握できたわけではなく、これ以上、書き留めるに 値する何かを持っているわけではない。しかも基本的にはウニカートな音楽機械を必要とし、「子音パイプ」という 「特殊楽器」の奏法の習得を奏者に強いるこの作品の再演の至難さは容易に想像できる。けれど、そうであれば尚更、 その作品から受けた印象という点では圧倒的な経験であったことは、それがたとえ自分のためだけで あったとしても、記録に留めておきたい。少なくとも私にとってのそれは、コンサートでの音楽作品の演奏と いうよりは、寧ろ「夢の中」におけるような儀礼に近い質を持っていたこととともに。
(2014.2.16初稿, 2024.8.8 noteにて公開)