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「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」再演を聴いて

「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」
秋山和慶指揮東京交響楽団
2010年8月27日サントリーホール・大ホール

芥川作曲賞20周年記念のガラ・コンサートは8月27日夜の管弦楽のコンサートと、8月28日の2部よりなる室内楽のコンサートより構成され、 室内楽のコンサートではこれまでの19回20人の受賞者全員の作品が1曲ずつ演奏されるのに対し、管弦楽の方はどのような選定基準によるものかは 杳として知れないが、受賞者への委嘱作の4曲が演奏されると予告されていた。三輪さんは管弦楽のコンサートで委嘱作が再演される4人のうちの1人、 これは個人的な事情だが、私にとっては初めて三輪さんの作品を実演で接することになった「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」を、4年後の同じ日に 聴くことができるということで、何とか都合をつけてサントリーホールに赴く。

実に三輪さんの作品の実演に接するのは昨年12月以来8ヶ月振り、そればかりか 今年はこの半年というものの、何であれ催事に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余裕がなく、自分の内面が干上がってしまったような感じを 持っていて、コンサートホールに行く事が億劫になりはしまいか、着いても居たたまれなくなったりはしないか懸念していたのだが、その点は杞憂に終わり、 無事にホールに着き、席を確かめると、舞台は4年前にも見たのと同じように、中央の指揮台を同心円状に取り囲むように椅子がセッティングされ、 最も外側に六角形の頂点を構成するように、コントラバス奏者のあの高い椅子が6つ、これも中央の指揮者に向いておかれている。6角形の頂点の 1つは、普通なら指揮台が置かれている場所にあって、だからコントラバス奏者の1人は正面側の客席に対して完全に背を向けて演奏をすることになるのである。

ところが、開演を待っているとアナウンスが入り、プログラムに予定されていた4曲のうち、夏田昌和さんの作品の演奏がキャンセルになったこと、チケットの払い戻しが 可能であることが告げられる。キャンセルの理由はなく「事情により」とだけアナウンスされる。実は私は、その「事情」というのを、翌朝、あることをきっかけに 調べるまでは知らなかったので、大いに戸惑った。もっとも、他のコンサートの感想でも書いている通り、企画側が決めた曲を順番に、原則として最後まで 椅子に座って聴かなくてはならないコンサートの約束事は、私のような関心の範囲が狭く、体力にも余裕がなく、時間に追われている人間にとっては 必ずしも好ましいものではないので、自分がそのために足を運んでいる当の作品が演奏されないという事態にでもならない限りはあまりがっかりはしない。 それにしても、理由も告げられずにプログラムが変更されるのは決して快いものではない。翌日に事後的に「事情」なるものを知った時にも、「それならそうと はっきりと言うべきではないか」というように私には思われた。

演奏をやる、やらないについては議論が分かれるところだろうし、私自身も意見はあるが、それと一致する、しないに関わらず主催者の判断は理解できなくもない。 昨今の日本の世相を慮るに、この判断はある意味では無難な選択だと私には思われる。公演数日前になってこのようなトラブルに巻き込まれてしまった 主催者の立場を我が事として想像してみれば、これは随分と厄介な状況であることは容易に想像がつき、お気の毒という他ない。だがその一方で、理由を明確にせずに 結果だけアナウンスするのは、「事情はおわかりでしょう?」という暗黙のメッセージが添えられているのだということなのだろうが、そのことを含めて、私は些かの違和感を 感じずにはいられない。寧ろ、なぜそういう判断をしたのかを明確にして開示すべきなのではないか、と私には思われる。今回は自分がチケットを買った聴衆という クライアントの立場に居るからではなく、寧ろ、自分だったらお客様に対して何故そうするのかを説明することを選んだだろうということである。もっとも組織の論理というのは、 組織の中にいる個人の判断を超える場合がままあるから、立場が変わったとして、どこまで自分が頑張れるかについて仮定の話をするのは慎みたい。

上記のようなことは作品の演奏とは関係ないかと言えば、決してそんなことはあるまい。どのようにそれが影響したかは自分でも分析はできないが、コンサートというのが 社会の中で営まれる制度の一つであるからには、無関係ではありえないし、恐らくはどこかで当日の自分の音楽の聴き方に影響していたに違いない。それをこの文章の 冒頭に記したような、より個人的な文脈よりも優位に置くかどうかはまた別の問題であるにせよ、全く影響がない筈はないのである。

だが、演奏そのものがどうであったか、再演という文脈で自分がどのように聴いたかについてもまた、一言記録しておくべきであろう。困難なのは、どこまでが自分の側の 状況に由来するもので、どこからが演奏そのものに由来するのかの判別であるが、前回の演奏に比べて、ずっと精度の高い、演奏者の手の内に入った感じのある 演奏のように思われた。三輪さんが狙っている倍音の効果に関しては、フラジオレット奏法の精度の高さもあって今回は見事にリアライズされていて、 特に後半の「虹」のパートにおいては、いわゆる「七色の虹」ではないにしても、はっきりと色彩の散乱を感じることができた。 前回も書いたとおり、私は弱いながらも音と色の共感覚があるので、実際に色彩が交替するさまを「見る」ことができたし、 曲の末尾に至ってはっきりと母音と色の対応が感じられ、実際に奏者が母音を発する前の段階で、楽音そのものから既に母音がはっきりと 聴き取れ、それとともに色が交替するのが「見え」たのは印象的であった。総じて実現された音響は作曲者の狙いを充分に実現したものと感じられ、非常に 完成度の高い、素晴らしい演奏であったと思う。

勿論、そうした完成度の高さと引き換えのように前回に比べて後退したと感じられた側面もあることは否定できない。例えば前回非常に強く感じられた儀礼性、 そこがコンサートホールであることを一瞬忘れてしまうような雰囲気はずっと希薄になり、コンサートという場にずっと自然に馴染んだ演奏、もっと言えば数ある 「現代音楽」の1曲として演奏されたような印象は否定できない。これについてはそもそもが両立が困難であるようなジレンマを作品自体が抱えているといった 見方もあり得る。更に言えば、先に述べたコンサートプログラムの変更というハプニングとか、三輪さんの作品に限らずもっと一般に音楽から比較的疎遠な生活を この半年ばかり自分がしてきたといったより個人的な文脈が、いわば「ただの音楽」として作品を聴いたことに影響している可能性も否定できない。 芥川作曲賞の20周年記念ガラといったコンサートの位置づけだって、それ自体は祝祭的な意味合いがあるのだろうが、この作品の展望する儀礼性とは 些かベクトルは異なるだろうし、何よりも受賞時の委嘱に応じて書かれた複数の作曲家の作品をいわば「並べて」演奏するというのは、曲自体の持つ 異質性を中和してしまうだろう。加えてハプニングにより、コンサートが置かれている様々な現実的な社会的文脈を強く意識させられたとあっては、 なおさら作品固有の文脈に入り込むのは困難になる。

その一方で、自分がこの作品を初演を聴いてからの4年間の三輪さんの活動をある程度知っていて、特に最近の活動からの展望でこの作品をいわば 「振り返る」ような立ち位置にいること、この作品については楽譜も見ていて、作品についてもその全体が自分の中にある程度入っているという点の方が 実は本質的ではないかという気もする。そういう観点で行けば、三輪さんの近年の作品系列の中に位置づけたときに、この作品を「新調性主義」の 先駆なり原点として見做すのであれば(そしてこの見方は決して突飛でもなければ、強引な読み替えを要求するようなものでもないと私には思われる)今回の演奏は、 その方向での理想的な実現の一つであったという見方も可能ではなかろうか。 ただしこうなれば今度は、儀礼性と直結する架空のカバーストーリーの方が宙に浮いた感じになるのは否めないだろう。 だがそうはいっても、作品の儀礼性が揮発してしまう懸念がある訳ではない。寧ろ実現された音響そのものの持つ時間の流れや色彩の移ろい自体がはっきりと 儀礼性を孕んでいると感じれたし、一見すると儀礼性とはかけ離れたものに見えるかもしれないフォルマント合成といったテクノロジーとの関連といった 側面こそが、ここでは儀礼性を直接支えているように私には思われてならない。

あえてここで更にもう一つ別のストーリー(ただしこれは架空ではないが)を呼び起してみれば、よく知られているようにヘブライ文字では子音のみが 表記され、読み方がわからなくなるのを防ぐために、聖書(マソラ)の伝承の過程でマソラ学者たちによりニグダーという母音符号が発明されはしたが、 今日においても一般にはニグダーは省略される。だが、そうした表記法は偶然の産物ではなく、細部の不正確さを懼れずに単純化してしまえば、 ヘブライ語を含んだセム語においては子音の組がいわば意味の核をなしており、母音の入替や接辞の付加によって品詞が派生し、あるいはこれまた 独特のアスペクトシステムを備えていた(現代ヘブライ語は必ずしもそうでないので過去形にしている)動詞の相が変化するといったシステムに なっていることに基づいているのである。

ここではそれを裏返すように、母音だけが楽器により奏せられ、奏者により発せられ、子音は省略される。一方で母音と色彩との対応はランボーのソネット 「母音」をはじめとして、これまた幾度となく言及が行われてきたし、共感覚は特殊な知覚現象ということになっているが、その器質的な根拠を探れば 脳の機能分化の来歴を垣間見させるような一般的なものに行き当たる可能性だってあるだろう。ここで音楽が儀礼性を帯びるのは、「現代音楽」において も相変わらずしばしばそうであるように、宗教的なテキストに付曲されているからでもなく、宗教的な経験「についての」音楽であるからでもない。 強固な伝統の上に立つ弦楽合奏という形態の上で、倍音の効果という楽器の構造上極めて基本的な側面にフォーカスし、一旦通常の奏法を廃し、 更にフォルマントを模したピークを意図的に弾かせることによって、もともと「人の声に近い楽器」と言われてきた楽器に別の仕方で母音を演奏させると いった際立って意識的・批判的な「方法」により、「音楽」をもう一度シミュレートすることにより、儀礼性もまた結晶化するのである。儀礼性は作品の構造に 由来しており、従って作品の技術的に精度の高い実現こそが儀礼性を呼び起す条件となろう。そうした意味において、「人間ならば誰もが心の奥底に 宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を起させるための儀式のようなもの」「そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」といった側面は、今回の演奏によっても充分に実現されていたと私には感じられた。

終演後、拍手が続く中、指揮者の秋山さんが客席を向いて指差す先には三輪さんの姿はなかったし、次に演奏された作品の作者である山本裕之さんのように 三輪さんが舞台に上がることもなかった。その理由はその必要があればご本人が開示されるであろうから、ここでは臆測を逞しくするのを控えるべきだろうし、 何も書かないでおく。だが、三輪さんがご自分の作品の演奏の場にいらっしゃらなかったことは、私が三輪さんの作品の実演に接して以降だけに限れば、 ほとんどなかったことだし、このコンサートの趣旨を考えれば必ずや立ち会われたに違いない。理由は何であれ、自分の作品の演奏に立ち会うことができないのは 非常にお気の毒なことだと私には感じられる。この記録が代わりになるということはあり得ないのだ(否、何だってそうで、原理的に「身代り」は不可能なのだ)が、 それでもなお、その現場に居合わせたものとして、その事実を記録することには何某かの意義があるものと信じたい。

身柄を拘束されておられるだろう夏田さんは、仮に作品が演奏されてもその場には居られるはずはないから不在なのは勿論として、夏田さんの 作品がキャンセルされたために休憩後にそれのみ演奏された3曲目の作品の作者である江村哲二さんは更に別の理由で拍手に応えるべく舞台に上がることはなかった。 私もまた「事情はわかるでしょう」であるのは一貫しないし、実は「弦楽のための369 B氏へのオマージュ」の初演の場に、江村さんが、今回、夏田さんが翌々日の29日に 予定されていたようにその年の作曲賞を選考する審査員として会場に居られたのを拝見していただけに、その後、その知らせを聞いたときには大変に驚いたし、今回も また何とも言えない気分になったので記しておくが、江村哲二さんは2007年6月11日に膵臓癌で逝去されたのである。同じ時期に自分がお世話になった上司が その少し前に同じ病気でやはり逝去していることもあり、江村さんの死は私の記憶に深く刻み込まれている。勿論、江村さんの不在については事前に知っているから、 これまた作品を聴くに際して、そのことを意識して聴かないでいることはできなかった。普段、過去の音楽、ミーム間の生存競争を勝ち残った音楽が鳴り響くことの方が 多いコンサートホールではある意味では当たり前の状況(のはず)だが、同時代の音楽が演奏される場としては、この日のコンサートは色々な意味で異様な 状況だったことをしっかりと記録しておきたいと思う。

(2010.8.29初稿, 9.2加筆修正, 2024.6.26 noteにて公開)

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