ヴァルターの「マーラー」より(原書1981年Noetzel Taschenbuch版p.85, 邦訳pp.149-150):その「作品」についての回想
ここでのヴァルターの言葉の説得力もまた、その作品は勿論のこと、マーラーその人を非常に良く知っていて、その人と音楽との関係をまさに 目の当りにした経験に根差しているのであろう。音楽一般がどうかとか、当時のヨーロッパの音楽の傾向がどうだとかいうのは、登ったら外す梯子の はずであって、最後はマーラーの個別の場合が問題なのだ。そしてマーラーの音楽に虚心坦懐に体を浸せば、このヴァルターの発言が的確であることは まさに身をもって感じられるのではないかと思う。(少なくとも私はそうだ。)
ところで、この部分の邦訳は好意的に見てもかなりの意訳になっている。最後の文章に至っては、ちょっと読むと全く違った意味に取りかねないように 思われるので注意が必要であるから、参考まで以下に邦訳を掲げておく。
おわかりの通り、ワルターが「標題楽」をどう捉えているかについて、これでは全く異なる理解をしてしまうだろう。 素直に訳せば「音楽外のプロセスの音楽的表現」だろうし、これで十分だと思われるのに、どうして上記のような訳となったのか杳として知れない。
一般にこの邦訳は基本的に戦前から戦争直後のもの(最初は「音楽評論」という雑誌に連載されたらしい)のようであり、 当時のマーラーに関する情報の量を考えれば、具体的な部分について知っていさえすれば間違えないような誤訳があるのは止むを得ないのかも知れないが、 そうしたものとは違って、こうした抽象的な部分での間違いはそれとはすぐにわからないことも多いから厄介である。もっとも最後の文章については、 前後の文脈からして、何かおかしいということはわかるとは思うが。それゆえ1960年の再版にあたっても、そうした誤りについて全くそのままなのは 些か遺憾に思われる。(訳者がこだわっているらしい文体については、私の語学力では判断しようがないが、それとは別のレベルの問題である。)
比較のために、手元にあるJames Galstonの英訳の最後のパラグラフを参照すると、以下の通りである。
こちらは邦訳に比べれば少なくとも意味をとる上では忠実なようだが、それでもやはり 翻訳全体としてみた場合には全く間違いがないわけではないようだ。ともあれ、特に邦訳は非常に貴重なものであり、かつ個人的にはこの部分はこの回想の中でも印象的な部分と感じているので、残念なことである。
(2007.6.23初稿, 2023.7.2邦訳、英訳を比較対象のために参照しつつ補記. 2024.7.28 引用前半の邦訳を追加。noteにて公開)