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「愛の賛歌 4ビット・ガムラン」東日本初演を聴いて
「アート・コンプレックス2008 第2夜 三輪眞弘プロデュース 愛の賛歌 4ビット・ガムラン」
2008年11月24日神奈川県民ホールギャラリー
三輪眞弘「愛の賛歌 4ビット・ガムラン」(東日本初演) 演奏:マルガ・サリ、美術:小金沢健人、解説:三輪眞弘
ガムラン・アンサンブルのための作品「愛の賛歌」は初演以来これまで何度か再演されているにも関わらず、その場所が私の在所からは 遠隔であったため、これまで聴く機会を得なかった。それがいよいよ横浜で演奏されるということで、神奈川県民ホールへと赴いた。 連休最後の振替休日だが催しは夜、終演後の帰途の時間が行く前から気になる上に、当日は雨も降り、些か気分は萎え気味ながら 約1時間半かけて会場に着くと、「トゥーランドット」と思しき音楽が鳴り響いているのに驚く。キエフ・オペラの公演の丁度最後の数分の タイミングで着いたということだったようだ。これからガムランを聴くのに、その前にイタリア・オペラのフィナーレにぶつかることになり、 これまた些か複雑な思いに捉われる。
厳密に言えば「トゥーランドット」を私はきちんと観たことも聴いたこともないけれど、プッチーニの 音楽は決して未知の存在ではない。一方で、三輪さんの音楽には関心をもって接してきたけれど、ガムラン音楽というは私にとって 全く未知のジャンルである。未知のジャンルといっても例えば箜篌のような復元楽器の場合とガムランとは明らかな違いがある。 前者にはない(あるいは断絶し、喪われてしまった結果、知ることのできない)伝統が、後者にはある。ここで伝統というのは通時的な 次元のみを指しているのではなく、共時的な広がりも含んでいる。伝統は単線的なものではないしマルガ・サリのみがその伝統の 継承者ではない。だがどっちにせよ私はいずれの側面についてもほとんど何も知らずに、いきなりそうした伝統の恐らくはかなり特異な一点と 接することになるのである。「西洋音楽」だって所詮異国のものではないか、という言い方は可能だし、それを否定することはきっとできないのだが、 能楽や義太夫節といった、それでも比較的接する機会の多い日本の伝統音楽ですら、「西洋音楽」に比べればはるかに皮相な知識と 経験の持ち合わせしかない。所詮は劣等比較に過ぎないとはいえ、聴取のみならず演奏の経験の有無、記譜法からはじまって、楽器の奏法やら 楽典についての情報の量と定着度において有意な差があることは否定しがたい。
その一方で三輪さんの音楽の方法論は、それが如何なる伝統に帰属するのかという点はおくとして、或る種の普遍性というか、どんな媒体にも 適用できる一般性を備えているのは確かなことだろう。アルゴリズミック・コンポジションによって生み出された作品の媒体の多様性を考えれば それは明らかなことで、「またりさま」の隣に「村松ギヤ・エンジンのためのボレロ」もあれば「蝉の法」もある、といった具合なのだ。そして勿論、 「愛の賛歌」もまたその中に位置づけることが可能だろう。
だがそれでは三輪さんの作曲というのは、例えば「フーガの技法」が少なくとも結果としてはそうなったように、特定の媒体に依存しない抽象的な 音の構築物の案出なのかといえば、決してそうではない。勿論、原理的にはそうした選択肢もありうるのだが、実際には三輪さんの作品において アルゴリズムは、演奏する「行為」に対して適用されるからだ。些か単純化して端的な言い方をすれば、それは音のシステムであるより多く、 奏法のシステムなのである。注意すべきは、あくまでもそれは「奏法」のシステム、つまり「音楽」を演奏する行為にフォーカスされていて、 より一般的な身体の動きへの向かうことはない。そしてそれと表裏をなすように、そのシステムはその行為の結果生成される音響について 無頓着であるわけではないのだ。演奏行為のシステム化は、生成される音響にもその痕跡をはっきりと残すのである。従って、音響のみを 記録して、別の文脈で再生することを可能にする「録楽」が、演奏行為を伴った狭義の「音楽」と区別されるのが当然である一方で、 「録楽」が単純に無価値なものとして否定されるわけもまたないのだ。だが、これまた当然の帰結なのだろうが、三輪さんの音楽ほど 演奏の現場に立ち会って「音楽」を経験することと、「録楽」を聴くことの違いを痛感させられることもない。多分その一部は同時代性や 実演に立ち会うことと録音を聴くことの割合といった要因に因るのだろうから、因果の転倒の懼れなしとはしないが、それでもなお、 三輪さんの方法論、「奏法」の方法化が「音楽」と「録楽」の違いを際立たせていることは間違いないように感じられる。
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それでは「愛の賛歌」についてはどうだったろうか。演奏会場は「トゥーランドット」が演奏された大ホールではなく、小金沢健人さんの 展覧会が行われている地下のギャラリーで、中央にガムラン楽団が座る雛壇が設けられ、それを三方から取り囲むように 聴衆が取り囲むかたちで行われた。椅子は用意されず、クッションのようなものが床に置かれ、そこに座るのである。実はこれには理由が あって、この催しでは「愛の賛歌」が演奏されると同時に、男女各1名の舞踊が行われ、さらに四方の壁に小金沢さんの作品が映写 されるため、床に座った方が都合が良いわけである。クセナキスの「ポリトープ」が上演されたとき、観客が床に寝そべって空間を飛びかう 光線を眺めていたのが記録として残っているが、そうした例を思い浮かべていただければ良い。聴衆の数はきちんと数えたわけではないが、 少なくとも100人程度はいたのではなかろうか。
プログラム構成は、最初に10分程度三輪さんの解説があり、その後「愛の賛歌」の演奏が行われた。演奏時間は約50分ほどで、 私がこれまで実演に立ち会った三輪さんの作品の中では物理的には最長の作品である。全体としては19:30開始で20:40終了 だから1時間10分ほどの催しだった。
最初の三輪さんの解説の内容について簡単にまとめておくと、まず最初に天候、即ち雨の話があった。大切なイベントには雨が降る といった話で、当然のことながら昨年の三宅島の「手順派合同祭」のことに言及されていた。ついで三輪さんの「プロデュース」についての 説明。他の作家の作品の紹介をするなど別の可能性も考慮のうえ、「愛の賛歌」の東日本初演を選択したと述べられ、また、 アート・コンプレックスのコンセプトとして、現代音楽、アートといった各領域それぞれにとっての外部との関わりをテーマに据えるという点から、 ガムランがそうした外部として位置づけるという主旨が説明され、「愛の賛歌」は、譜面を持たないことなどに端的に窺えるように異なった 伝統を持っているガムランで演奏されるが、「現代音楽」として作曲されているという点に言及され、詳細はプログラムノートに記載されている旨、 説明があった。
その上で特に(1)「4ビット・ガムラン」について、(2)「愛の賛歌」というタイトルについて、(3)コラボレーションについての3点に ついて以下のようにコメントされた。
(1)「4ビット・ガムラン」について:西洋の音律に従わないガムランのための作品をどのように作曲するか考えて、奏法、様式にアルゴリズミック・ コンポジションを適用することにした。つまりこのように演奏せよという奏法の指定にアルゴリズムを適用した。4ビットによる状態表現を4人の 奏者の演奏指示とし、ビットが立っているときに音を奏することとする。4人の奏者は2人で1組でそれぞれ向かい合って演奏するが、 一方は数え上げ、一方は数え下げをする結果、同時には音を出さず、同時に休むことも無い音の系列が得られることになる。 結果として、演奏される音は次々と変化をしていくことになり、同じパターンは出現しないので、伝統的なガムランやミニマル・ミュージックなど の反復による楽曲構成とは異なった構成法である。また舞踊は音楽とは独立のものだが、「4ビット・ガムラン」の奏法の展開である。
(2)「愛の賛歌」というタイトルについて:2人1組の2組が4ビットの系列の遷移を奏していくことに、遺伝子の二重螺旋のイメージを重ね合わせた。 規則による計算の物質化という点で共通している。またペアであることから「愛」への連想がはたらく。一方「愛」はポップスをはじめとする 多くの音楽がテーマとしているが、それは神も宗教もない今日において日常の合理性を超えた経験であるからではないか。恋に「落ちる」 という言い方が適当なように、それは努力して得られるものではない。そしてそうした経験は音楽経験の持つ超越性に関係すると考える。 4人の奏者もまた偶然もなく、即興もなく決められた系列を音にしていくが、にも関わらずそこには感情の作用があるし、音楽は感情の起源たりうる。
(3)コラボレーションについて:伝統的なガムランが舞踊や影絵芝居と組み合わせて演奏される一種の「総合芸術」であることから、この催しも 同様に開かれたものであって欲しいと考えた。小金沢さんの映像については、旧作を再編集したものを用いた。色鉛筆の二本の線がゆっくりと 動き続けるもので、線の同一性、連続性、色の持つ固有性の表現など、映像でしか実現できない極限が示されていると考える。また、映像が ひたすら動き続けることが生命のメタファーになっているように感じられる。止まることは死を意味する。線の存在、動きと生身の人間の演奏が 一体のものになっている。
最後に演奏時間が約50分であること、ガムランの持つ独特の非日常的な時間性を経験できることを願っていることを述べて、スピーチが終わり、 続けて演奏になった。
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演奏に接しての印象は、これまでの三輪さんのどの作品よりも、能を観たときの感覚に近い、しかも能の中でも「翁」のような祭祀性の強い能を 非常に優れたシテが舞うのを観たときの身体感覚に近い、ということだった。といってもこの感覚は舞踊によるものではなく、寧ろ音楽のリズムと 経過によるものであった。「翁」における囃子のリズムは他の能とは些か異なっており、呪術的といってもいいような強度を持っている。かつて 喜多流の初会で香川靖嗣さんが「翁」を舞ったときの経験は強烈で、身体が内側から温まるような感覚になったのを覚えているが、 それに近い感覚を今回も感じることができた。
50分というのは作品の時間方向の構造を規定する規則から想像すれば、些か長過ぎるのではと思われそうだが、実際に聴けば そんなことはない。作品の中の時間の流れは一種独特のものであり、その外部に基準を持つ時計による計量はほとんど意味を持たない。 最後の部分ではっきりと音が疎になり、収束するのが知覚されて音楽が間もなく停止することがわかるが、それまでの時間の流れ方の 方向感覚は独特で、その音楽は映像と舞踏とのコラボレーションがあったにも関わらず、それとは別にもう一つ別の風景の次元を 備えていたと私には感じられた。途中で中列の楽器や最前列の擦弦楽器と声のパートが何度か加わることによる時間の分節が 生じるが、それは全体としてどこかに向かうというのではなく、寧ろその場で日常は折りたたまれて見えない別の次元をその中でだけ 仮想的に展開して提示するようなものであったと思う。
作品の構造については幾つか気になる点もあった。背景となる4ビットの軌道を辿る後列の4人の奏者が、定期的に挿入される銅鑼に よって区切られるように4拍サイクルの系列を奏していくのに対して、前列の2人のパートは3拍1サイクルで重なっていくのだが、 その重ね合わせの規則や、更にその上に加わる擦弦楽器や声のパートの入りや演奏される音形がどのような規則に基づくものかは はっきりとわからなかった。また、演奏時間はほぼ予告どおりだったようだが、演奏中に計算ミスが生じれば、軌道は予定されたものから 逸れていくと考えられる。そうしたハプニングの可能性、別の初期値による演奏の可能性など、興味は尽きないが、これらについては 三輪さんにお話を伺わなくてはわからないだろう。また、私の座った位置からは演奏中に中列の奏者が床におかれたおはじきのようなものの 位置を定期的に移動させていたのが見えたが、その目的なども伺ってみたいところである。
というわけで、全体としては三輪さんが意図されたであろう音楽の祭祀的な側面は非常に顕著な水準で実現されていたと思う。 伝統的なガムラン音楽を全く知らない私にとって、そうした伝統の中にある人なら持ちうるであろうような、言い換えれば、西洋の音楽の 文脈でなら無意識のうちに自分がしてしまうであろうような距離の測定は、今回はなすべくもない。だが、そうした伝統の文脈を超えた部分で その音楽は確実に力を備えていたと感じられたし、三輪さんの方法論はここでも大きな成果をあげていたように思えた。残念なことに、 私は音を聴き出すと視覚の方が疎かになってしまう(そのかわり、音が描き出す風景ははっきり見える方なのだが)ために、コラボレーションの 成果について述べることはできないが、それはそれに相応しい他の方に委ねることとして、私は自分が聴いた音から受け取ったものに ついて語るに留めようと思う。最後に一つだけ、これは三輪さんの作品の演奏に立ち会う時にいつも感じることなのだが、今回もまた、 その「音楽」に接して、とても元気づけられるような気持ちになった。少なくとも私にとって三輪さんの音楽は、自分もまた何かをしなくてはならない、 あるいは何かとにかくしてみようという気持ちにさせられる類のものなのだ。それは(拙くても、無価値であっても)私自らの「実践」への誘いである ように私には感じられるのである。
(2008.11.27初稿, 11.29修正・加筆, 2024.6.24 noteにて公開)