「団子売」と「イエスの生涯と十字架」
「イエスの生涯と十字架」を聴くのはこれが3回目。最初は公演ではなく、パーティか 何かの席で、ほんの一部だけ英大夫さんがやったのを聴いたのだった。
最初に聴いた時にまず思い浮かんだのが、いわゆる「受難曲」というジャンル、それも オペラよりも様式的には多様性に富んだバッハの受難曲だった。義太夫でキリストの生涯と いうのは、私には非常に自然な発想に思えたのだ。義太夫自体も霊験記や縁起譚といった ジャンルを持っているし、義太夫以外にも範囲を広げてよければ、能は多くの作品が、 宗教的なプロパガンダとしての成立事情を持っている。また、キリスト教との関係で 考えても、土岐善麿・喜多実による新作能があったと聴いている(残念ながら、私は 観る機会を持てずにいるが)。語る英大夫さんのごく間近で聴いたのだが、その声の 力に圧倒され、一部とはいえ大変に感動した。
2度目は教会での素浄瑠璃。そして今回は人形付きで、しかもかなり場面を追加しての 上演とのこと。人形付きで観たのは初めてだが、少なくとも私が観た回は、今年観た 文楽の公演の中でも特に印象深いものの一つになった。
イエスは勿論なのだが、ペテロを始めとする弟子達が素晴らしく、最後まで緊張感の ある上演だった。ペテロの否認のところのペテロとイエスの動き(これはルカ伝の 叙述に基づくものと思われる)は忘れがたい。また、終幕の導入を行う弟子の詰め人形も 印象的だった。(もっとも初期の福音は、直接イエスに接した弟子の語り伝えであった ことが想起された。特にそう意図されていたわけではないと思われるが、私は「福音史家」 という役をたててもいいのでは、とそのときに感じた。)
全体として、小人数での上演だけれどもそれを感じさせず、簡潔な舞台装置とあいまって 緊密な舞台になっていたと思う。
疑問に思えたのは音響の扱い。特に湖の場面は、個人的には三味線と囃子での演奏が より好ましいと思える。あと、これはやむを得ない部分もあるとは思うが、場面転換が 暗転になっていて、床も演奏を止めてしまうのだが、一つ一つの場面があまり長くないこと もあって、緊張の持続を妨げるように感じられた。どちらが良い、ということはできないが、 暗転にせず、道具を動かして場面転換しても、不自然だとは私には思えない。文楽は 写実的な演出からは自由でありうるのだから、その条件をもっと利用しても良いように 思える。とりわけ音響効果については、文楽が音楽劇であることを思えば、むしろ 通常の演劇におけるような効果との併置はかなり実験的な試みにならざるを得ないのでは なかろうか?もっとも私は、能のように舞台装置もほとんどなく、音響効果はおろか、 照明すら使わないスタイルにむしろ慣れているし、演劇一般の演出上もそうした簡略化への 嗜好を持っているので、これは極論であるかも知れないが。
いずれにせよ新作の文楽としても成功していると思われるし、福音書に含まれる他の物語も 是非追加していって欲しいと思う。実際上は人数の制約などがあり困難だとは思うが、 例えば裁判の場面、また、マリアとイエスが登場する話としては、例えばカナの婚礼、 弟子とイエスの物語では例えばエマオでの晩餐など、個人的に観てみたい場面は数多くある。
しかし、この日の上演で私にとって最も印象的だったのは「団子売」のお臼だった。
残念なことに私は景事を観る機会にあまり恵まれず、観てもこれまではがっかりすることが 多かったのだが、この日の「団子売」は全く違っていた。どう表現したらいいのか いまだに言葉が見つからないのだが、特にお福の首に変わってからの人形の動きは、 人間の踊り以上というべきか。(以前、人間のやった「団子売」をみたことがあるが、 残念なことに、これは何の感興も呼び起こさない退屈なものだった。) 考えてみれば、人形が更にお福のお面をかけての踊るという重層性がそこにはあるのだが、 とにかくあまりの踊りのうまさに、客席は唖然となっていたと思う。能にしても、あるいは クラシックを聴く時でも、とにかくそのうまさに圧倒されてしまうということが稀に起きるが、 そうした圧倒的な経験の一つであった。こういう場合、景事は劇的な脈絡から自由な(仮に あるにしても、それはむしろ口実に過ぎないことが多い)ので、そうしたうまさが 一人歩きをしてしまうこともない。能でも、名人が舞うと、かえって軽い曲の方が、その 素晴らしさを味わえるという話を聞いたことがあるが、それに近いものがあったようにも 思える。
(2002.12 執筆,公開, 2024.11.24 noteにて公開)