見出し画像

「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」について

「みえないちから」
Vibrations of Entities
2010年10月30日~2011年2月27日:NTTインターコミュニケーションセンター[ICC]ギャラリーA

「フレディーの墓/インターナショナル」という作品の一部をなす「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについてのメモを記して 間もなく、新宿のICCで「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」を含む「みえないちから」という企画が開始されたことは耳にしていたにも関わらず、 色々な事情から昨年中の訪問は断念せざるを得ず、ようやく会場に赴くことが叶った日は、お化け屋敷には凡そ似つかわしからぬ雪が 都心にも舞う天候となった。もっとも西欧ではお化けの話は冬の炉辺でされるものだから、お化けとはいっても聖骸布やら心霊写真やらに 言及されるメディア・アートのそれには相応しい日和であったのかも知れない。

「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」は1回20分弱で会場の一部を仕切った部屋の中を更に幾つかの区画で区切ったところを順番に 巡っていくという仕掛けの作品である。会場の構造こそ日本の伝統的な「お化け屋敷」と類似するが、その実体は映画館よろしく 暗くした部屋の壁に映写されたフォルマント兄弟のメディアに関する「説明」を暗幕で仕切られた区画を巡りながら聞き、最後に 「フレディーの墓/インターナショナル」の「演奏」を聞かされ、厄除けの札と称する「解説書」を手渡されておしまいというもので、 これはむしろ遺跡とか美術館とかを解説付きで決められた時間で見学するツアーに近い。部屋から部屋への移動は「声」に強制されての ものだし、途中で戻ったり、あるいは途中で抜けたりというのはできない点で、音楽作品の演奏に類似しているといえなくもない。 音楽会も近年では解説付きの公演というのも珍しくはないらしいが、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」の場合とは違って、それらの多くは 公演の「前」に行われるもので聞きたくなければ席を外せばいいものの場合が多い(わざと演奏の直前に入れて、聞くことが強制される 場合もままあるようだが)のに対し、ここではそれは恐らくは作品の一部に違いなく、聞かない自由というのはそもそも想定されていない のかも知れない。

こうしたことをくだくだと書くのは、他でもない、この「作品」が「上演」される制度的空間が、インターネットでの配信でもなければ コンサートホールでの演奏会でもない、さりとていわゆる普通の美術館とも異なった「メディア・アート」なるものの展示スペースで あったからで、「みえないちから」の展示スペースの他の作品では、やはり展示スペースの一角を小部屋として独立させて用いているものも あったし、会場の空間の天井から吊るされたプロジェクターから壁に映写されるものもあり、インスタレーションもありで、共通しているのは いずれも静的なものではなく、単純な繰り返しかインタラクションかの違いはあっても時間方向の変化をもつものばかりであった中で、 だが一定時間、鑑賞者を拘束する「暴力」を行使した作品は「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」のみだった点が印象的だったからである。 勿論、音楽時計の仕掛けよろしく「上演時間」が決められた美術作品というのもないことはないだろうし、実際、「みえないちから」のギャラリーと 同じフロアーのオープンスペースに展示されていた他のメディア・アートの中にもそういった作品はあった。ヴィデオ・インスタレーションなどでは 1回数分の画像をエンドレスで流しておいて、鑑賞者は好きなところから見始めて、好きなところで立ち去って良いようになっていることが 一般的な気がするが、メディア・アートというのがどうやら時間的なものと無縁でありえないらしい点を含め、こうした点、つまりメディア・アートが 必ず含みもつらしい時間的な次元の扱いについて、だがそこに暗黙の了解があるように感じられることは、私のように通常は こうしたジャンルにはほとんど無縁な人間には興味深い。そういえば空間を仕切って、しかもその中を暗くして、というのもごくありふれた 風景なのだろうか。部屋の明るさはまちまちだが、映画館のような暗室に、だがここでは目が慣れる暇も与えられずいきなり 入ることを余儀なくされる場合も多い気がする。こうした点は勿論、個別の作品以前の問題だが、鑑賞者たる人間の側のメカニズムは そんなに急には進化しない。私などにすれば寧ろ、こうした点の方がよほど「メディア」というものをリアルに感じられ、結果として個々の作品の インパクトが薄らいでしまいがちになるのは避け難い。こうした作品に接することに慣れた人は目が暗闇に慣れてからが作品だとして頓着しない のかも知れないが、強制される闇の暴力の方が、その中で上演される作品のインパクトよりも遥かに強く感じられるのは「メディア」を問題に する以上、倒錯した状況であるように感じられてならない。商業化されて久しい「映画」なら、こうした暴力を取り除くべく制度の側が フレームを用意しているわけで、要するにメディア・アートにおいて作る側あるいは作品を提供する側のメディアの論理と受け手の側のそれには 溝があるように感じられてならないのだ。提供する側の問題はおくとしても、作る側のメディアに対する問いかけは、素材が新しいものになるほど 近視眼的で、作り手の論理に自閉し、倒錯したものになりがちであるように私には見える。特にこうして幾つもの作品を一度に体験するとその感が強い。

もう一点、そうした制度上の水準で見逃せないのが、スペースの都合からか、会場に着くと整理券が配られていて、私は凡そ40分後の 「上演」を待つべく、他の作品を見るなどして待つことを余儀なくされた点である。勿論、一度に鑑賞できる人数に制限があるのは 美術展も同じで、幸い私は経験したことがないが、動物園での人気者の珍獣よろしく、有名な作品の前に人垣が出来て会場への入場を 制限するといったことも発生することもあるらしい。そうしたケースとの比較でいけば、せいぜい1回待ちくらいの混雑だったから、特にそれが 必須だと感じたわけではないけれど、最先端のメディアを用いたインタラクションが売りの作品にもことかかないメディア・アートの企画であるのに その場に行って、係員が配る紙の整理券を貰わなければ何時の「上演」が見れるのかすらわからないことに、どことなくちぐはぐさを感じずには いられない。シンポジウムのライブストリーミングはやっても、個別の作品の「上演」までは、ということかも知れないが、どうやらその日の最後の回 までの整理券を配り終えたら、その日の受付は終わってしまうらしく、当然のことながらそれが何時かなど事前に知ることはできまい。音楽会なら さしずめ、当日券をしかも会場でしか販売しないようなものだから、そう考えればこれは随分な状況という気もする。心配なら早めに来いという ことなのかも知れないが、待ち時間の予測はできないだろう。20分弱のためにその何倍もの時間を無駄にすることだってある確率では起きるだろう。 お望みなら待ち行列のモデルを作って解いてみるのも、メディア・アートに似つかわしいということなのかも知れない。

だが、そうしたことはひとまずおいて「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」そのものから受けた印象を記すことにしよう。もっとも、その印象の端的な 表現は、既に述べた作品の紹介の仕方で言い尽くされているといっても過言ではない。 私は「フレディーの墓/インターナショナル」について、あるいは「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブについて語るときに、 そこに作者の或る種「啓蒙的」な意図を感じずにはいられないことを繰り返し記してきた。だが、ここではもっと極端な事態が起きている。 タイトルにも関わらず、そして多少はそうした意図を持って撮影されたに違いない撮影上の効果や演出にも関わらず、「”お化け屋敷”」という 名は体を些かも表さない。通常「”お化け屋敷”」に対して人が期待するものをここで人は得ることはできない。ここでは幽霊について語られることは あっても、幽霊は出現しないと言ってしまえば、恐らく作者の意図を忖度すれば言いすぎになってしまうのだろうが、現実にこの「”お化け屋敷”」で 恐怖にかられる人はいないだろう。寧ろここで行われているのは、作者が「幽霊」と呼ぶものをそうとは受け止めないことに対する摘発であり、 ここでは恐怖は自ずと喚起されるものではなく、寧ろ強制されるもののようだ。勿論、最後の「演奏」以外の小部屋での「上映」の内容は プレトーク、解説、あるいは或る種の講義なのだ、啓蒙なのだという理解の仕方もなくはないだろう。だが、作者自らそれを否定し、全体を 一つのシステムと見做すように命じているのみならず、そこだけは映像を壁に写す必要がないからなのか、明るい部屋で自動演奏される 「フレディーの墓/インターナショナル」そのものも、ここでもやはり「幽霊」を喚起するようには思えない。音声合成の結果は不充分で 聴き取りがたく、外国人が下手な日本語で歌ったというフィクションすら可能にするかどうか疑わしい。

のみならず、「講義」において、ここでも「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ同様のカテゴリー・ミステイクのようなものが 見受けられるのにも当惑せずにはいられない。特にフォルマント弟の語る部分の論理は、私には全く説得力を感じることができない。 写真の持つ力を説明するのに、聖骸布を持ち出すのはアナロジーとして全く粗雑にしか感じられないし、それに加えて心霊写真を 持ち出すのはこれまた「幽霊」の定義を曖昧にするだけに感じられる。怪談を「合理化」による逃避・抑圧とする見方も、それ自体議論の 余地があることをおいたとしても、機械のメカニズムが理解できることによって機械の「幽霊」性が忘却された結果、人はそれに気付かないと いった説明とは論理的に噛み合っていない。「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ同様の貧弱で茫洋としたアナロジーによる 論理もどきが繰り広げられる「講義」を退屈と感じたり、あるいはそれに強制的に付き合わされることに苦痛を覚える人がいても不思議はない。

上でマルチ・メディア作品の上演において宙ぶらりんな状態に放置されているかに見える暴力として言及した部屋の明るさの問題にしても、 講義なら最初の闇は余計であり、「”お化け屋敷”」を期待する向きにとっては肩透かしである。それならば、闇に馴れた生理にとって 最早「闇」ではない2つ目の部屋以降は(人数制限を考えれば不可能ではないのだし)、「講義」に相応しく、仮設の椅子でも設けたらどうなのか、 兄弟がかわるがわる語るだけのサスペンスも何もない小部屋の移動など止めてしまった方が、「裏切り」のインパクトは一層大きいのでは、 などと思ってしまいもする。

勿論、技術的な到達レベルが意図したフィクションを腐蝕するケースは「フレディーの墓/インターナショナル」の音声合成に限られない。 例えばICCのオープンスペースの展示の中で、ビオイ・カサーレスが1940年に書いた「モレルの発明」にちなんだマルチ・メディア作品が あったが、これまた「モレルの発明」との関連が鑑賞者にとっては些かも明らかでない。まさか、読まれているのが偶々「モレルの発明」だから ということはないはずだが、部屋の中央に置かれたパノラマを撮影する装置が映写した像を、円筒状に壁に映し出すだけの作品と 「モレルの発明」で仮想されたテクノロジーとの間のどこに関連があるのか私には理解できない。既に鬼籍に入ったビオイ・カサーレスが 自作を(勿論アルゼンチンのスペイン語で)朗読する映像・音声でも重ね合わせられればまだしも、この作品の作者が翻訳を朗読する 映像・音声を重ねるのが、「モレルの発明」という作品の実質とどう関わるのかについては、私には全く理解できない。 1940年に仮構されたテクノロジーと現実のそれとの間の懸隔は今なお大きい。(ビオイ・カサーレスには「脱獄計画」という、これまた今日的な テクノロジーを仮構した作品があるが、こちらについても同様だ。)勿論、そのことをもって「モレルの発明」を取り上げたメディア・ アートが端的に不可能だと言いたいわけではない。だが、ここで作品として実現されているのは、70年も前に書かれた作品に対し、 これまた半世紀も前に既に記された批評的言説のほんの一部の素材をマテリアライズしているようにしか見えないのである。 (ちなみに、この作品がいわば軒を借りている「モレルの発明」の翻訳自体は、1990年に清水徹・牛島信明訳で出版されている。 私が持っているのは1996年の第2版、まだ出版社は今日の水声社がまだ前身の書肆風の薔薇であった時代のものだ。 ただちに入手したスペイン語原書もやはり1996年刊行のEl Libro de Bolsilloの第9版である。)

「講義」の中で掘り下げる価値のあると思われる主題系が提示されていないというわけではない。例えば人間が機械のシステムの一部である といった認識はシステム論的には正鵠を射たものに違いないし、従来、人間をその一部とする生物間の相互作用を記述、モデル化してきた 生態系的アプローチを人工物を含めた環境に拡張すべきだろうし、生物としての人間の感覚器官や運動器官を前提としてきた認識論や 行為論は、機械と人間とを複合的な有機体と見做す立場から見直されるべきなのだろう。あるいはまた法学のような実用的な学問の運用において も既に無形物たる情報やアルゴリズムの扱いが問題になって久しいが、「機械」というのを実体的に捉えるのではなく、情報の構造や挙動の方向から 従来、基体を為すと考えられてきた有形物中心の存在論を組み替える作業が必要になりつつあるのだろう。

だが上記のような視点も、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」の文脈で語られても、単なるついでにしかなりえない。そうした視点が「幽霊」と どう関わるのかは「講義」でも些かも明らかにされるわけではないし、「フレディーの墓/インターナショナル」をどのように位置づけるかが把握されて いるわけでもない。作品研究が作品の背景や前提を明らかにしても、その作品の特異性を言い当てることに失敗するのは珍しいことではないが、 あろうことか、それを作品の作り手が自らやってしまっているのでは、という危惧を抱きかねないのは、「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブ の場合と変わらないようだ。作者が自らの作品を把握しきれないのは人間が自ら作った機械を把握しきれないのと同型なのだろうが、 「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」自体を一つの作品として、あるいは単にシステムとして見た場合(それは作者の注文していることでもあるらしいのだが)、 このシステムが「うまく動作している」とは私には感じられないのである。

私はメディア・アートに関しては全くの門外漢で、だから近年の流行の主題や素材がどういったものであるかといった文脈を ほとんど欠いている。同時代の活動に接する場合、実は文脈の共有は理解のための寧ろ必須の要件に近いに違いなく、 だから私はメディア・アートの展示会について批評する言葉を持たない。その一方で、それらが用いているテクノロジーの方に ついては職業柄、一定の理解はあると思っているし、フレディが誰かについて勘違いした一方で、アドルフォ・ビオイ・カサーレスの 作品については既に自分なりの展望の中に位置づけていたりもする。こうした前提での発言を許してもらえば、メディア・アートと いうのは、メディアの持つ凄まじい力を意識してかせずか囲い込み、馴化して提示するものであるかに感じられる。例えば ビオイ・カサーレスの「モレルの発明」が提示したパースペクティブ、古典的な小説の形式、際立って高い完成度で提示される メディアと人間との関係、人間の側の反応を「現実」のものとして再構するだけのテクノロジーは、もう少しで手が届くところまで 近づいたとはいえ、まだ未達であるかも知れない。だが、「現実」に達成されているレベルは、間違いなく、メディア・アートとして 提示されているものとは比較にならないほど危険な水準にあるに違いない。だから、ここで私のような人間が否応なく突きつけられて いるように感じるのはメディア・アートのうちの「アート」の部分の「制度」なのだ。

そういう意味合いでは、「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」はそうした「制度」を身をもって提示することに「成功」している、 という皮肉な見方ができるのかも知れない。メディアの幽霊性についての啓蒙を行う、音声合成技術を用いた事例つきの マルチ・メディア教材。「”お化け屋敷”」につきものの恐怖はここでは去勢され、人は「幽霊」であるはずのものを些かの恐怖もなく、 ここでもまた、普段の生活でいつもしているように受容する。違いは、そうして受容しているものが実は幽霊かも知れないという 批評的な言説の存在だが、幽霊の遍在に馴化してしまい、もはやそれを驚異として受容することができない状況を 「事例」たる「フレディーの墓/インターナショナル」も、どうすることもできない。ビデオカメラの向こうで作者の一人が語るように、 それは「当たり前」のことでしかなく、だから「それがどうした」と苛立つ人がいたとしても不思議はない。

それでもなお、それを「幽霊」だ、と言い募ることは、いわば王様の耳はロバの耳だと言い続けることであって、「アート」という 制度の中に無自覚にあるいは確信犯的に自覚的に馴化されるのではない点に留意すること、あえて矮小化され、消毒された 驚異を差し出すことを拒絶したと考えることはできるかも知れない。だが、もしそうだとしたら、「フレディーの墓/インターナショナル」 という作品そのものはどうなるのだろうか。私は、「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブという文章の内部にある 飛躍や混乱(と私には少なくとも感じられるもの)、文脈を明らかにするどころか、寧ろ蒙昧化する役割しかしていないような 固有名の参照などといった側面を確認する作業をした際に、その文章が奇妙に浮き上がってしまい、皮肉なことにパースペクティブを攪乱し、 もしかしたら「作品」を裏切っているかも知れないと感じたのだったが、ここでは(依然として、上に指摘したような疑わしい類比に基づく 説得力を欠くと感じられる「解説」があるものの)「啓蒙」の意図の下に、「フレディーの墓/インターナショナル」の、恐らくは技術的な 限界に由来するのであろうフェイクとしての不徹底ぶりもひっくるめて回収されているかのようだ。「アート」の批評的な機能は手放されて いないが、それは技術的なレベルも含めて現実を矮小化することで「安全」に「幽霊」の存在を「指示」しているかのようだ。

ここには例えば「逆シミュレーション音楽」の持つ、ミイラ取りがミイラになる危険と引き換えの緊張もなければ不気味さもない。 「不気味さ」も御祓の御札を模擬した解説の中で、これまた「指示」されるばかりであるかのようだ。更にもう一ひねりして、そこにこそ 「湾岸戦争」の現場をお茶の間で見るといった現実とのアナロジーを見出し、そこにいる「幽霊」に気付き、恐怖せよと告げている のだろうか。この「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」のつまらなさの背後に、「幽霊」を作品で出現させることではなく、言葉によって 指し示す作品しか作れないという現実に恐怖せよということなのか。またもやデリダ風に、それが「アート」の終焉=目的というわけか。 仮にそうであるとしても、ある水準ではもしかしたら一貫しているにしても、だからといって「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」はやはり 「うまくいっている」というようには私には感じられない。「デジタル・ミュージック」における6つのパースペクティブがそうであるように、 ここでも存在する(と私には少なくとも感じられる)飛躍や混乱が、「フレディーの墓/インターナショナル」の退屈さがそうした理解すら 妨げるのだ。そしてその退屈さは、当日同時に展示されていたメディア・アートに付き纏っていたそれと共通しているように 思えてならなかった。メディア・アートそのものが、作者の現実に対する関わりの希薄さを開示することによって、逆説的に批評性を 持ちうるかのような展望に「フォルマント兄弟の”お化け屋敷”」はあっさり回収されてしまうかのようだ。だが、もしそうなら、それは 少なくとも私にとって不要なもの、わざわざ「時間を与える」(デリダがお好きなようなので、、、)までもない、到達不可能という意味での 同時性を持つ事象に過ぎないのかも知れない。「啓蒙」を目的とするなら、お金を払って啓蒙を求める客を人数制限などで排除すべきではない。 確率的には発生するに違いない、2時間待ちで諦めた人の証言をもって注目度の高さを誇るのは見当違いだろう。 その場に行ってお金を払わなければ見れない、係員が配る紙の整理券を持って待たなければ見れないといった部分でのみアナクロニックな暴力を行使するのではなく (三輪さんの単独作品であれば、こうした暴力は意図されたものとして抵抗なく受け入れることができるのだが、この場合については)、 寧ろライブストリーミングか何かによって、雪の降りしきる真冬のエアコンの効いた暖かい室内で、いつ再生するも自由、 途中で止めるも何回見るも自由といった環境の方が「マルチ・メディアによる怪談」、説明すること、物語することで幽霊を無力化するという 「物語」によって自ら幽霊を無力化することに頓着しないかに見える「啓蒙的な」”お化け屋敷”には一層相応しいということはないのだろうか、、、

(2011.2.13初稿, 2024.6.29 noteにて公開)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?