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備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (0)

 今やマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。ゲーテはそれを「現象から身を退く」と定義したのだったが、後に個別に見るように、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラーおよびベートーヴェンという具体的な作曲家を対象として論じている。


 ゲーテ=ジンメルにおける「老年」。特に重視すべきは「無限」との関わりだろう。人間以外には「無限」を認識できる生き物はいない。

 手始めにジンメルのゲーテ論(邦訳:ジムメル『ゲーテ』, 木村謹治訳, 1949, 桜井書店)の中で「後期様式」に関連する箇所の同定をしておこう。

青年期にあつては主観的無形式は、歴史的乃至理念的に豫存する形式内に収容さるゝ必要がある。主観的無形式は此の形式に依って一客観相たるべく発展されるのである。けれども、老齢に於ては、偉大な創造的人物は―予は茲で勿論純粋の原理、理想に就いて述べるが―自己内に、自己自らに形式を具へてゐる。即ち、今や<絶対に彼自らのものである形式>を所有する。彼の主観は、時間空間に於ける規定が内外共に我々に添加する一切を無視すると共に、謂はゞ彼の主観性を離脱し了つたのである。-即ち、已に述べたゲーテの老齢の定義にいふ「現象からの漸次の退去」である。

第8章 発展 p.383~384

In ihr bedarf die subjektivische Formlosigkeit der Aufnahme in eine historisch oder ideell vorbestehende Form, durch die sie zugunsten einer Objektivität entwickelt wird. Im Alter aber hat der große gestaltende Mensch – ich spreche hier natürlich von dem reinen Prinzip und Ideal – die Form in sich und an sich, die Form, die jetzt schlechthin nur seine eigene ist; mit der Vergleichgültigung alles dessen, was die Bestimmtheiten in Zeit und Raum uns innerlich und äußerlich anhängen, hat sein Subjekt sozusagen seine Subjektivität abgestreift – das »stufenweise Zurücktreten aus der Erscheinung«, Goethes schon einmal angeführte Definition des Alters.

ここで「已に述べた」とあるので、前で言及がある筈。どこか?

ゲーテは曾て言ふ、「老齢とは一段一段現象から退去する謂である」と。―而して此の言葉は、本質が外皮を剥落するとも解し得るし、同様に本質が一切のあかるみから究極の秘密へ退去するとも解釈し得る。

第6章 釈明と克服 p.277

»Alter«, sagt Goethe einmal, »ist stufenweises Zurücktreten aus der Erscheinung« – und das kann ebenso bedeuten, daß das Wesen die Hülle fallen läßt, wie daß es sich aus allem Offenbarsein in ein letztes Geheimnis zurückzieht;

 ゲーテ=ジンメルにおける「後期様式」とは、それに先行する「初期様式」なり「中期様式」なりとの、その現われにおける差異のみについて言われているのではなく、その「様式」の由って来るところのものの違いが問題になっていて、謂わばメタ的な視点での区別であることに注意すべきだろう。青年期は、自己固有のものとしては寧ろその無形式によって特徴づけられるのであって、形式は外部からあてがわれた支え、外皮であり、「借り物」であるのに対して、老年期のそれは自己固有のものであり、最早外皮を必要とせず、そうであるが故に主観・客観の対立図式から解放されるという運動が思い描かれているのである。

 であるとすると、これをアドルノのマーラー・モノグラフの文脈に持ち帰った時に直ちに思い当たるのは、「唯名論的」性格だろう。もっともマーラーの作品における「唯名論的」な性格は晩年・後期固有のものではなく、寧ろ初期から一貫していると捉えられているのではあるが、一方でそうした「唯名論的」性格があればこそ、借り物の様式から離脱して、自己固有の形式の中での自由を獲得するというプロセスが可能となっているとは考えられないだろうか。マーラーの形式に対するアプローチにおける、その都度内側からボトムアップに形式を造り上げていくという「唯名論的」な傾向は、いわばマーラーが発展的作曲家であることの動因なのである。

 だがその点についての詳細は後に論じることとして、ここでは一旦、「老い」の側にフォーカスして、マーラーという「個別の場合」を扱うための予備作業、謂わば「地均し」をすることにしよう。

(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿, 2024.12.1 更新してnoteにて公開)

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