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『母音廻し、または遠隔音響合成のための五芒星』にネットワーク越しに接して

展覧会「ファルマコン 新生への捧げもの」
2022年5月28日~6月19日 9時~18時(期間中24時間ライブストリーミング)
The Terminal KYOTO

『母音廻し、または遠隔音響合成のための五芒星』
三輪 眞弘+前田 真二郎+佐近田 展康
またりさま人形(2003) 制作:小笠原 則彰
またりさま人形 装置:おおしま たくろう
ARプログラミング:伏田 昌弘

協力: IAMAS タイムベースドメディア・プロジェクト


 The Terminal KYOTOにおいて2022年5月28日から6月19日の会期で開催されている展覧会 ファルマコン2022 「新生への捧げ物」の展示作品の一つとして、新作『母音廻し、または遠隔音響合成のための五芒星』が発表された。新型コロナウィルス感染症の蔓延の影響で、コンサートをはじめとする人が一箇所に集う催しの開催ができなくなったことを契機に追求されてきた「配信芸術」というコンセプトに正面から取り組んだこの作品については、作者の一人である三輪さんによって書かれたコンセプト・ペーパーにおいて細大漏らさず十分に語られており、その内容をここでもう一度繰り返すのは屋上屋を架することにしかならないだろう。

 他方で、これはいつものことながら、この作品の持つ意義やその射程について述べるのは私の手に余ることで、常ならば新作初演という一回性の出来事がどのようなものであったかを証言することが私の役割ということになるのだが、この作品は展覧会に出展されたメディア・アートとして、会期中、会場に「展示」されており、また同じく会期中ずっと「ライブ配信」が行われているので、寧ろ音楽作品というよりも音響を伴う美術作品という性格を帯びていて、この作品と共通のコンセプトに基づく先行二作品(2020年9月19日にサラマンカホールにおいて無観客で公演され、ライブ配信が行われた「三輪眞弘祭」にて初演された「鶏たちのための五芒星」および2021年2月23日にIAMAS2021の企画の一環としてIAMASよりライブ配信された「人形たちのための五芒星」)の場合とは些か性格を異にしているが故に同じ役割を担うことができない。そればかりか、この感想が専らネットワーク越しに接しての印象に基づいたものであって展覧会の会場に直接足を運ぶことをしていないという点についてお断りしておかなければならない。というのも演奏の場に立ち会っていないという点では同じでも、先行二作品においては新型コロナウィルス感染症の蔓延のためにその場に聴き手が入ることができなかったのに対し、この作品については既述の通り、展覧会の開催会場に赴けば「実物」に接することが可能だからだ。

 それ故、あえてこの文章の意義を探し求めるとしたら、以下のようなことになるだろう。(1)「ライブ配信=中継芸術作品」という点で共通している先行二作の初演に立ち会っていることを踏まえ、(2)新作が「配信芸術」というコンセプトにより本質的に踏み込んだ側面を有しているが故に、「配信」が「ライブ」の不完全な代補ではなく、最早「配信芸術」というコンセプトが志向的な姿勢の水準に留まらず、作品の構造そのものに及んでいることの結果として、寧ろ上演の「現場」は「作品」を構成する一部に過ぎないという逆転が起きている点を踏まえた上で、(3)展覧会場を訪れることなく前二回と同じように専らネットワーク越しで自宅のPCで作品に接した記録を残すことに一定の意義を認めることができると考えることは必ずしも不当なことではないのではなかろうか。更に付言するならば、佐近田さんとのユニット「フォルマント兄弟」名義でのそれも含め、三輪さんの活動に関心がある多くの方は、今回については展覧会場に足を運ばれたのではないかと想像される。この場合であれば、あえて展覧会場で接することなく、ネットワーク越しでだけ作品に接するという、両立不能なオプションを選択した場合の、いわば「ありえたかもしれない」体験の記録と捉えて頂けたらと思うのである。些か弁解がましいが、以下の記録をお読みになるに当たっては上記の点を踏まえて頂けるよう予めお願いする次第である。なお先行二作品の演奏に接した記録については、以下の記事の参照を頂けるようお願いしたい。


 些か皮相な指摘ととられるかも知れないが、上演の「現場」を訪れることが「作品」全体からすれば、その一部に接しているに過ぎないという逆転が最も端的に、わかりやすい仕方で現れているのは、展覧会場の入場時間が9:00~18:00というように設定されているのに対し、配信の方は24時間リアルタイムのライブストリーミングが行われているが故に、展覧会場に立ち入ることができない入場時間帯以外の時間帯については専ら「配信」によってしか知りえないという点であろう。この点は、先行する「鶏たちのための五芒星」「人形たちのための五芒星」のいずれもが「コンサート」の形態をとり、その場に集うことは禁じられていたが故にネットワーク越しのヴァーチャルな形態であれ、決められた日時に演奏者と聴き手が集って行われたのとは明確に異なっている。

 展覧会の開催期間中という制度上の制約はあるものの、本作品が「コンサート」という時間の枠組みに捉われず、寧ろそれをはみ出していく志向を備えているという点に注目するならば、三輪さんの先行作品の中では架空のカルトの儀礼として仮構された「新しい時代」の作品系列の一つとして、インターネット上で24時間いつでも「神の旋律」を聴くことができるとされる「布教放送」(もっともこちらは音響のみだが)に近いものと捉えることができるだろう。但し共通性があるのは時間の次元のみであり、それが或る特定の場所で行われているイベントのライブストリーミングであり、それゆえコンピュータ・シミュレーションには存在しない物理的な制約の中で行われ、かつ映像と音響のマルチモダリティを備えている点では性格を異にしている。映像のライブストリーミングという点だけならば、寧ろ最近ではごく当たり前のものとなった、固定されたWebカメラが撮影した映像を24時間絶え間なく流し続けるライブビューイングに近い感触を感じるのは、映像上知覚できる時間の変化が極めて緩慢なもので、本作品の場合であれば、日中は地下防空壕の入り口から差し込んでいる外部の光が薄れ、外部が闇に包まれていくにつれて地下防空壕内の照明の明るさが際立っていくといった日周期のリズムが支配的であることに拠るのかも知れない。だが展覧会の会場という場の性質が本作においてどのような変形を被っているかについては、この場では一旦目配せをするに留め、後程もう一度立ち戻ることとして、以下ではまず「配信芸術」としての本作品の構造にフォーカスすることにしたい。


 「配信」の側面に注目した時の本作品の最大の特徴は、ネットワークを流れてくる情報を手元にあるPCを介して聴取すること自体が2つの別々の経路によって実現されている点にあるだろう。つまりこの作品における配信は、Youtubeを経由した展覧会場の映像および音響と、インターネット接続環境下でMAXのクライアントを端末PCで実行することによって、サーバーから受信する情報に基づいて人工音声合成された「喘ぎ声」とガムランの楽器の音という2つのモードからなっており、あるべき作品の姿は、その2つのモードの映像および音響を聴き手が同期させることによって作品の全体が姿を現わすとされているのである。

 そこで2つの独立した経路のそれぞれで配信されるコンテンツを整理するならば、凡そ以下のようになるだろう。

(1) Youtube 側

①展覧会場の地下防空壕内部の固定カメラ映像のリアルタイム・ストリーミング:②「鈴/掛」の音響と同期するように、後出の④が五芒星の内部の星を移動してまたりさま人形の腕をかすめる時に、腕が揺れる。
②「またりさま人形」の「鈴/掛」の音響:Arduinoでソレノイド磁石を制御
③(「鶏たちのための五芒星」における)カラーパイプの音響:今回はアタックのあるサイン波によるシミュレーション。音階はカラーパイプの時と同様、IAMASにあったガムランのスレンドロ音階。
④三次元・拡張現実オブジェクト(以下、「3D・ARオブジェクト」と呼ぶ)の移動映像:「人形たちのための五芒星」におけるのと同様、色(黄・緑・青・紫・灰・赤)と形(球・立方体・正四面体)が変化する「記号」としての立体オブジェクトが五芒星の外周および星型の対角線の上を規則に従って移動するアニメーションが①にオーバーレイされる。3Dオブジェクトとは言っても①の画像の中にあたかも実在するかのように合成されるのではなく、①の画像の上に透過モードで外からアニメーションを重ねているだけであり、それが展覧会場で見ることのできる「現実」とは異なる仮想のレイヤに存在していることが示唆される結果、①+④の全体が拡張現実(AR)として配信されていることになる。

 映像については展覧会場で直接見ることができるのは①だけで④は見えない。それに対して音響については②と③のいずれもが展覧会場で鳴り響いているものを会場にセットされたマイクで拾ったものが配信されている。③は「鶏たちのための五芒星」における演者の代補である3D・ARオブジェクトが「手に持っている」筈で、その替わりに五芒星の頂点のスピーカーでその場所に居るオブジェクトの色と形に対応した音響を再生している点は「人形たちの五芒星」と同じである。

(2) MAXクライアント側

⑤「喘ぎ声=母音廻し」:MAXクライアント中のリアルタイム人工音声合成プログラムが、インターネット接続環境下においてネットワーク越しに受信する(1)④の3D・ARオブジェクトの位置と向きの情報を入力としてリアルタイムで人工的に合成した「喘ぎ声」。3D・ARオブジェクトの位置と向きの情報は、「喘ぎ声」のピッチと声色に反映される。これまでのフォルマント兄弟の試みにおいて一貫してそうであったように、ここでも人工音声合成はサンプリングした音声に基づくものではなく、フォルマント合成によりその場で生成されたものであるが故に、それは誰のものでもない匿名性を帯びている。一方でそれは「喘ぎ声」そのものではなく、3D・ARオブジェクトの位置と向きの情報に基づいたピッチと声色の次元を備えており、「母音廻し」と命名される「唱法」としてのパラディグマを持つ。
⑥ガムランの音響(サンプリングしたもの):MAXクライアントプログラムのパネル上で⑤「喘ぎ声=母音廻し」とは独立にON/OFF切り替え可能。「鶏たちのための五芒星」では実際にガムラン奏者が取り囲むようにして座っている舞台中央の五芒星(その中心には「鳥の精」であるダンサーがいる)の上を移動する演者(彼らはカラーパイプの演奏も同時に行っている)の位置と向き、「人形たちのための五芒星」では、演奏する会場に現実には存在せず、ガムラン奏者の目の前に譜面替わりに置かれたモニターの中の拡張現実においてだけ、「またりさま人形」が中心に置かれた五芒星の上を移動しているのが見える3D・ARオブジェクトの位置と向きとを読み取ってガムラン奏者が自分達が鳴らすべき音をリアルタイムに計算したのに対して、本作品ではガムランを演奏する奏者はそもそも存在せず、「喘ぎ声=母音廻し」とともにMAXクライアントによってガムランの音響のみが再生される。

 ⑤⑥のいずれも展覧会場では聴くことができないもので、結果として①~⑥までのすべてを同時に視聴できるのはインターネット接続をし、MAXを事前にインストールし、同様に事前にフォルマント兄弟のWebサイトで配布された専用クライアントプログラムをインストールし、起動してあるPC端末の前にいる聴き手に限られる。


 ここで前作・前々作を思い起こしてみると、「鶏たちのための五芒星」および「人形たちのための五芒星」では映像がマルチモードで切り替わった。特に後者ではカメラの中には演奏中に舞台上を自由に行き来する「悪魔」が持つハンディカムが含まれており、かつ既述の通り④3D・ARオブジェクトはガムラン奏者のモニタに映し出された拡張現実の中だけの存在なので、煩瑣を厭わずに記述に正確を期すならば、演奏会場の映像である①とガムラン奏者のモニタで見ることのできる拡張現実の映像(①+④)とに加えて「悪魔」の持つハンディカムの画像(「悪魔」のセルフィ―含む)という3種類のモードの映像の間で切り替えが行われたことになるだろう。

 また「鶏たちのための五芒星」では①のみモノクロで固定の複数カメラの間での切替が為されたのに対して、「人形たちのための五芒星」では通常のカラー映像であった。更に「鶏たちのための五芒星」では③+⑥の音響はどちらも実演であり、かつどちらも「現場」で「演奏」されていたのに対して、「人形たちのための五芒星」では、⑥のみが実演で③の方はサンプリングした音響のスピーカーからの再生ではあるものの、③⑥の両方とも「現場」で鳴っていたことになる。

 上演に関わる「人間」に注目すると、「鶏たちのための五芒星」ではガムラン奏者+「鳥の精」たるダンサー+状態遷移系列の実行に間違いがないことを監視し、間違いが発生した時に「ゴン」を打ち鳴らすという奏者としての側面も持った「悪魔」であったのが、「人形たちのための五芒星」においては、礼拝の対象であり、鶏たちを代表する「鳥の精」たるダンサーが「またりさま人形」に変わり、カラーパイプを持って五芒星上を移動する演者もまた3D・ARオブジェクトに置き換わったのに対応して、「悪魔」は最早間違えることのない3D・ARオブジェクトの移動の監視は行わない替わりに移動可能なハンディカムを手に、3D・ARを含む拡張現実のモードの映像と、それを含まない「現実」の映像の間を行き来し、更には上演会場であるIAMASの一室から出たり、窓を開けて外部の風景を映したりし、時として自分自身をハンディカムに映すことによって、メタレベルの視線を担う役割に変わったのに対し、本作では最早ガムラン奏者も「悪魔」もおらず、展覧会場は基本的に無人であり、祭祀の実行プロセスが全自動の機械仕掛けと化していること、そしてそれを補うかのように、オンライン視聴を可能とするPCで実行されるMAXのプログラムによってリアルタイム人工音声合成の「喘ぎ声=母音廻し」が「ひとのきえさり」後の「亡霊」のように端末PCに憑依するという対応を確認することができる。

 一見したところ上述の如き比較は些事拘泥に思われるかも知れないが、このような比較を通じて浮かび上がってくるのは各作品の様々な側面における差異の一つ一つが決して恣意的なものではなく、構造的に連関していることであり、その連関の中で今回の作品について際立っているのは、音楽作品として見た場合の演奏会場に相当する展覧会場の地下防空壕が(会期中、入場時間帯にそこを訪れることが①の映像で確認できる「観客」を除けば)「無人」となっていること、そしてそれに対応して付加された「喘ぎ声=母音廻し」が地下防空壕では聞こえず、これまた地下防空壕では見ることのできない3D・ARオブジェクトの位置情報をインターネットを経由してサーバーから受信する端末PC上のMAXクライアントがフォルマント合成によって端末PC上でのみリアルタイムに生成するものであって、「喘ぎ声=母音廻し」を聴くことができるのは、オンライン配信の受信者として端末PCで「上演」のライブストリーミングに立ち会っている聴き手だけであることだろう。

 繰り返しになるが、展覧会場の地下防空壕では「人間」は最早消滅しており、その場に存在するのは単なる機械仕掛けに過ぎない。そして地下防空壕の状態を決定する3D・ARオブジェクトもまた、拡張現実の空間にのみ存在しているに過ぎない。その3D・ARオブジェクトの位置と向きの情報に基づいて計算された結果として端末の前の聴き手にだけ聞こえる「喘ぎ声」は文字通り「幽霊」に過ぎず、本来は「上演」の「現場」、「ライブ」の「今・ここ(hic et nunc)」たるグラウンド・ゼロである筈の地下防空壕で響くこともなく、それでもなお一連のプロセスを「上演」と呼ぶならば、辛うじて「配信」された映像と音響とを受信する聴き手、上演の構成要素の中に残った最後の「人間」にのみ、かつて存在した「人間」の代補として、「亡霊」として聴きとることができるに過ぎないのである。

 だがその「喘ぎ声」の主は誰なのか?それがライブ配信の対象となる誰かが「現場」において発したものの谺などではありえないことは最早明らかなことだろう。のみならず、本作品のための専用MAXクライアントプログラムでは「喘ぎ声」の生成にあたって乱数を用いることによって、プログラムが実行される端末毎に微妙な声色の差異が生じるようにプログラムされており、結果として「幽霊」の発する「喘ぎ声」は最早聴き手の間で共有される何かですらなく、寧ろ聴き手一人一人が上演に対峙した結果として聴き手毎に異なったかたちで見出すものなのである。

 ここには決められた日時に決められた場所に演奏者たちが集まって実施される上演を、それに立ち会うためにその場に集った聴き手たちが場所と時を同じくし、共有するという「コンサート=ライブ」の特権性を支えていた筈の基盤は最早存在しない。その替わりにここで新たに立ち上がるのは、聴き手の生活のリズムや展覧会場の開場時間帯にはお構いなしに機械仕掛けで作動し続ける儀礼の映像と音響が、こちらもまた聴き手が実際にいようがいまいがお構いなしに24時間オンラインでライブ配信され続けるのに対して、展覧会場を訪れることができるかどうかに拠らず、必ずしも誰か他の聴き手と示し合わせることもなしに、ネットワーク越しに単独者としてコミットする聴き手の「構え」としての志向姿勢である。それは行きそびれたコンサートの不完全な代補ではないし、配信されるコンテンツもまた、「生演奏」の劣化したコピーであるわけではなく、寧ろ配信そのものがネットワークのこちらと向こうで行われる儀礼を支える基盤であり、地下防空壕での機械仕掛けを「儀礼」として意味づけるのは、結局のところ配信を視聴するためにMAXを事前インストールし、専用プログラムをダウンロードして実行し、Youtube経由で別途配信されるライブ映像と音響と同期させる聴き手としての構えに他ならない。寧ろ上演の「現場」は「作品」を構成する一部に過ぎず、誰かがネットワーク越しに視聴を企てたその時だけ、だが、その端末数=人数分だけ異なった「ライブ」があり、そうした「配信」が葉層構造のように積み重なることで「作品」の「現実」がリアライズされるというのが今回の作品の構造がもたらす結果なのではなかろうか。


 ここまでの内容を整理すると、この作品においては「展覧会場」である地下防空壕の一室で起っていることが「オリジナル」で、それを幾つかの映像や音響をネットワーク越しに配信することによって、ライブの会場で起きている出来事の劣化したコピーがばらまかれているわけではなく、寧ろ(A)「展覧会場」である地下防空壕の一室で起っていることは、作品の「現実」という総体の一部に過ぎず、部分的であることがわかる。

 (B)Youtubeで配信される情報<地下防空壕の映像(五芒星の中心にあるまたりさま人形が時折腕を揺らす)+カラーパイプ(実際はサイン波)+「鈴/掛」+3D・ARオブジェクトの映像>は既に地下防空壕の一室で起っていることを伝えているわけではなく、3D・ARオブジェクトの映像を除外した部分が「展覧会場」である地下防空壕の一室で起っている部分に該当している。その一方で、(この点は重要な意味を持つと思うが)ネットワーク越しに上演に接する視聴者は、3D・ARオブジェクトの移動が重ね合わされた形でしか地下防空壕の映像を見ることができない。

 それに加えて(C)MAXクライアントにより生成される<喘ぎ声+ガムラン>の組が存在する。こちらの層は、それ単独で聴く分には、PCが「喘ぎ声=母音廻し」とガムランの音響をローカルに生成しているようにしか聴こえないが、聴き手は作品全体を体験するにあたってYoutube経由の情報とMAXクライアントの情報と同時に受け取り、かつ両者の同期を行うことが要請されている。

 だがYoutubeの系列とMAXクライアントの系列は事実上独立であり、作者の意図は別にあったとしても、実際上どちらかだけを動かすことも可能だし、同期するかどうかは結局のところ聴き手に委ねられている。そして実際、私は些かの経緯があって、最初はYoutubeの映像・音響のモードなしで、MAXのクライアントのみを実行することで、作品の一部のみに接した後、その後でYoutubeの配信に接して両者の同期をとるという手順を踏んだ。そこで以下では一旦時系列を遡行して、このプロセスにおいて感じたことについても記録として残しておくことにしたい。これは「非本来的」な聴取のあり方であって、そこで何を感じたかは、作者の意図した作品の総体とは関係がないのだから不要である、或いは寧ろ邪魔ですらある、という立場もあろうが、私としては、意図的であれ、あるいは偶然にであれ、事実上そうすることができてしまうという点で、そうした聴取のあり方も潜在的にはこの作品に含まれうると考えたいのと、事実として自分がそのような仕方で作品に接したが故に、その事実をなかったことにして感想を書くことができないという二つの理由がら、あえてこの側面についても触れることにしたい。

 一方で最初に述べたように、私は本作品の上演に専らネットワーク越しに接しているだけなので、現場で実際にどのような経験が可能かについて自己の経験に基づく記録はできないが、Youtube経由で見ることのできる映像は、3D・ARオブジェクトの移動なしで見ることができず、逆に現場では3D・ARオブジェクトを見ることができないであろうことを知っている。そこから「現場」にPCを持ち込めば、(A)(B)(C)の全てを経験することができるのではないか、更には「人形たちのための五芒星」における「悪魔」のように自分を映り込ませることも可能ではないかという発想に辿り着くのは極めて容易なことだろう。そこで教えて頂いた情報に基づいて、現場を訪れた場合の可能性についても以下で簡単に触れておきたい。

 その上でようやく、この作品にとって最も重要な側面である「喘ぎ声=母音廻し」について、それがYoutube経由の画像・音響とは別のモードで実現されることに関して感じたことや考えたことをまとめることにする。

 最後にこの作品の来歴に立ち返り、三輪さんの過去の作品との比較を交えつつ、今回の作品における配信の意義について考えたことを記したい。


 まず実際の経験の時系列に従い、MAXクライアントのβ版のWindowsPCでの動作テストという名目で、Youtubeの映像・音響のモードなしで、MAXのクライアントのみを実行した際に感じたことについて記載する。

 MAXクライアントだけ聴いてみての印象は、当たり前のことかも知れないが、それが別の場所の状況に対応したものだという前提知識がなければ、ある規則に従った音声合成がローカルの環境で行われていると感じるだろうということである。勿論そのことには、事前にMAXを手元のPCにインストールし、ついでクライアントプログラムをダウンロードするという作業をしたことも関わっているに違いない。それはプレインストールされている謂わば「生得」の器官ではなく、もしそうだったならば意識の表面に浮かび上がることなく、予め無意識の裡に身体化されてしまっているが故に、ことによったら或る日突然PCが勝手に「喘ぐ」ようになったことを、コンピュータ・ウィルスへの感染の結果ではないかと懸念するようなことも起こり得たかも知れない。そして実際この認識は、リモートのサーバーからネットワーク越しに届く情報によって手元のPCのプログラムが操作されると捉えれば決して不当なものではなく、その結果だけ見ればコンピュータ・ウィルスへの感染との区別はつかないだろう。もっとも近年ネットワークに常時接続されていることが当たり前になり、クラウド上の環境との同期その他の遣り取りが―例えばOSのセキュリティ対策パッチが配信され、ユーザーが明示的に実行することなく自動的に実行されるような場合も含めて―ますます利用者の目に触れないところで自動的に行われるようになっていることを思えば、それらとの区別もまた付き難いと感じる向きもあるだろう。

 生成される「音声」について言えば、声だけではなく音が一緒に聞こえてしまうことで、声が音に同期していることがわかってしまうからか、声が「喘ぎ声」にはあまり聞こえず、或る種の「唱法」であるように感じられてしまう気がしたために、最終的にそれが「喘ぎ」ではなく「母音廻し」という歌唱法として捉えられたことに対しては納得感があった。

 そしてその時点において、未見であった展覧会場のリモートの映像を見ながら「母音廻し」を聴いたなら…というのを想像すると、会場で聞こえる「喘ぎ声」=「母音廻し」が(例えば今やありふれた日常となった、zoomのようなリモート会議システムと同じようにローカルで再生されることで)聞こえている、というふうに思ってしまうかも知れない。もしかしたら音源の移動まで実装されているのも、そうした印象に与かっているのかも知れない。但しこの最後の「想像」について言えば、実際に後日Youtubeの配信に含まれる展覧会場の地下防空壕の中に響いている音をマイクで拾ったものと同時に聞いて見ると、必ずしもそうとは言えないことに気づかされることになる。より正確に言うならば、複数のモードに知覚の異なるモダリティが分配されるのではなく、2種類の音響の分裂、一方のMAXクライアント側では音場の移動があり、しかもそれが恰も自分を取り巻くように移動しているのに対して、Youtubeの配信に含まれるカラーパイプ音のシミュレーションと「鈴/掛」の音の方は異なる音場を持っていて、その2種類が同時に聞こえることで仮想の現場に没入することが寧ろやりにくくなっている印象すら覚えることになるのだが、この点には最後に戻ることになるだろう。

 本当はこの喘ぎ声は(「三輪眞弘祭」において「鶏たちのための五芒星」とともに演奏された「霊界ラヂオ」同様)固有の場所というのを持っていない、誰のものでもないし、どこかで響いているのでもないのだと思うが、(これまた「霊界ラヂオ」がそうであるように)普段、当たり前に使っているテクノロジーによる辻褄合わせによって構成されている「現実」に浸かっているせいで、無意識の裡に辻褄合わせを勝手にやってしまうので、本当は乗っ取られていることに気付かず、もっともらしい「現実」を仮構してしまう、という状況の方が露呈される(とはいうものの、そのことに実際には気づいていないのだが)のかも知れないということを思った。更にコンセプト・ペーパーの記述によれば、今回は単に乱数を使用しているということで、ローカルな聴き手が一人一人持っていて一つとして同じものがない「固有性」に応じてという点については現時点では未だ潜在的な可能性の水準に留まるのかも知れないけれども、それでもなお乱数によって実現される音響が変容することによって、実は、聴き手が聴く喘ぎ声は一つとして同一ではなく、向こう側に「展覧会場である地下防空壕の内部」という客観的な唯一の「現実」があって、その「現実」をリモートで覗き込んでいるのではなく、「現実」というのは自他の関係性のうちに顕れるものに過ぎないということもまた露呈されているように感じられる。

 もっともテクノロジーの手前の知覚のレベルで既に、もっともらしく編集され、辻褄合わせが行われた結果を「現実」と受け取っているに過ぎないということは、様々な認知実験によって明らかになっているので、上記のような思いなしもまた(寧ろそれこそが)「現実」に他ならないと言うべきなのだろう。更にテクノロジーの介在によって構成された「現実」に当たり前のように浸かっていることで、実際にはローカルに再構成されているものを聴いているのに、それを会場に響いている音声「そのもの」をリモートで聴いていると思ってしまうこと、しかもそれが「現実」の一部になってしまっているということに気付かされる。更に言えば、本作品におけるYoutubeとMAXの2つのモードへの分裂にしても、「本物」の知覚もまたマルチモードの統合と同期の問題を抱えていることや、リアルな知覚自体が或る種の無意識的な編集の結果であることに気付かされるのである。


 次いで自分自身の経験の外部である、展覧会場での体験の可能性について、作者にご教示頂いた情報を元に考えたことを以下に記録しておきたい。

 展覧会場1階の展示場所には上で述べた本作品の配信の構成要素である①~⑥のすべてが同時にモニターされているマシンが置かれ、ディスプレイの前にはヘッドフォンが2つ置かれているとのことだが、それは配信において想定されている視聴環境が偶々会場(厳密に言えば、儀礼が行われている地下防空壕のごく近傍)にもあるというだけで、トポロジカルにはネットワーク経由で作品を体験することを可能にする自宅のPC端末の一つと変わるところがない。強いていうならば、今回の作品に接するためはMacOS乃至Windowsが動くPCとインターネット接続が可能な通信環境が必要であり、そのうちいずれかを持っていない人は聴き手から排除されてしまうことになるが、その場合でも会場まで来れば作品本来の形が体験できるようにとの配慮が為されているということであり、近年デジタル・デバイドの問題が様々な領域で指摘されていることを思えばこの問題は決して瑣末なものではないけれども、それは本作品の持っている「配信」に関する構造には影響しないが故に、「展覧会場」に特権的な何かを付加したり発生させたりする類のものではない。

 だがそれを踏まえた上でなら、例えば一体そのマシンが「誰のもの」なのか?という問いは設定可能であろう。繰り返しになるが、「グラウンド・ゼロ」が特権化されることはなく(サーバーとの距離は通常のユークリッド的な測地系とは別の尺度で測られるので)、サイバースペース独自の測地系ではそれは単なる一つの端末に過ぎない。PCは文字通りパーソナルなもので、だから私の目の前にあって、今まさにこの文章を書くために用いているそれは「私の」身体の延長と見做しうるわけだったのだが、それでは会場におかれたPCはどうなのか?それを見るときだけ、見ている私のものになるのか?更なる問いとして、それを一人で見るのか、集団で見るのかという水準もまたあるだろう。後者は映画館とかパブリックビューイングの状況に類比できるだろうか。

 一方で会場の地下防空壕には現場での鑑賞者用にiPadが置いてあり、それを手にとってかざすと3D・ARオブジェクトが人形の周囲で移動している様子が見えるとのことのようだ。ただしこの場合には、Youtubeで配信されている側の情報についてはようやくにして揃ったとしても、MAXクライアント経由でしかアクセスできない「喘ぎ声=母音廻し」やガムランの音響は聞こえない。それ故こちらについても「作品本来の姿」には程遠いのだが、それでもなお、意図されていない(意図としては「見えるはずの」映像を見えるようにしている)ながら、3D・ARオブジェクトが存在しない時空と存在する時空の両方を同時に眺めることが可能であることには留意されて良いだろう。(「人形たちのための五芒星」ではこれが「標準」の視覚モードだったことを思い起こしてもいいだろう。)ただそれが「現場」の特権的な視点であるかというとそうではない。寧ろここでは「現場」というのは、作品にとっての「現実」を実現するための素材の一部にすぎないというべきだろう。結局のところ「現実」すら素材の一部であるというメタ性が、「芸術」ないし「人文工学」の必要条件なのだという点がここにおいて示されているようには受け止められないだろうか?

 それでは会場の地下防空壕で、iPadをかざすことなくその場で起きている出来事に接した場合にはどういうことが起きているのだろうか。恐らくその焦点は、3D・ARオブジェクトと「またりさま人形」の間の作用に存することになるだろう。3D・ARオブジェクトが星型の辺を辿って「またりさま人形」の近くを通過するとき、まるで白い粉をかけられたことに反応する「鳥の精」のように「またりさま人形」の腕が揺れる。だが展覧会場に3D・ARオブジェクトは存在しないから、その場の「現実」を眺めている人は、何か不可視の作用で腕の揺れが生起しているように見えることだろう。五芒星の頂点に置かれたスピーカーから響いてくるカラーパイプの音と人形の動き、更には「鈴/掛」の音の生起との間に関連があることには気づくかも知れないが、だとしたら本当は変換・翻訳の結果である音が、その元である五芒星上の不可視の運動の代理として「またりさま人形」を動かしているということになるのだろう。そのようにして「現場」と作品の固有の「場」との間に捩れが存在するように仕組まれており、ここでの「現実」はその背後にあるアルゴリズムの実行の結果の部分的な反映だということになるのではなかろうか。


 繰り返しになるが、今回の作品において最も重要なのはMAXクライアントとして実装され、聴き手のPCへのインストールによって配布される「喘ぎ声=母音廻し」のリアルタイム人工音声合成プログラムであるが、その結果として配信がYoutubeとMAXクライアントの2つのモードに分裂している点は、それが聴取にもたらす効果の大きさ故にこの作品の性格を決定する因子となっているように思われる。まずもって最初に感じることは、そのことによって、そうしなければ起きなかった技術的な問題を抱え込むことになってしまっているということである。繰り返しにあるが、2つのモードに分割して、ネットワーク上の異なる経路を通って情報を送信することによって、それぞれが持つ固有の遅延幅のために、その両者がある端末で合流した時に、その端末上で同期をとる必要が生じるのだ。

 先行作との比較で行けば「人形たちのための五芒星」ではここでのようなモードの分裂はなかったのに対して、「鶏たちのための五芒星」においては、映像および音響とは独立に、電子メールを用いたテキストの配信と、インスタグラムへの写真のアップロードが行われたが、それらのモードの間の同期は問題にされることはなかった。特に前者のメールシステムを用いて配信される「詩」は一定の間隔で発信されることで時を告げることが意図されていたにも関わらず、配信に数時間レベルの大幅な遅延が生じたり、時として着信の順序が入れ替わり、順序さえ保存されないという事態が生じることで、コンサートホールのステージを、そこで繰り広げられる儀礼の進行とは全く独立のリズムで気儘に動き回る鶏たちが異なる時間を生きていたように、儀礼自体も複数の時間に分岐するといった様相を呈していたのであった。

 一方で今回の作品においてはMAXクライアントが自動生成する「喘ぎ=母音廻し」は、それ到着した3D・ARオブジェクトの位置情報に基づいている限りでYoutubeで配信される3D・ARオブジェクトの映像と、それと同期するカラーパイプの音および「鈴/掛」の音との同期していることが構造的に要請されるのであり、そしてその解決は端末としてのPCの前にいる聴き手に委ねられているのであり、MAXクライアントがダウンロードできるフォルマント兄弟のWebサイトにはタイムラグ調整の方法についての解説ビデオが用意されていたりもするのである。

 だがそうした同期の問題は全てをMAX上でやってしまえば解消可能な筈であり、そうするための技術的な問題の有無について速断はできないものの、なぜ全てをMAX上で配信するという方法と取らなかったのかが素朴な疑問として出てくるように思われるのである。

([2022.6.13追記]なお、本稿の初期稿では、MAXクライアントがウェブブラウザーとして画像を表示できることを以って技術的な問題がないかのような書き方をしたが、それがYoutubeの画面をMAXクライアントに埋め込むことを意味するのであれば、配信に2つの経路があることには変わらないので問題の解決にはなっていない。残念ながら私はMAXについては技術的な詳細を把握しているわけではないため、現時点では配信のモードを一本化して、同期の問題を解消できるかどうかについて判断することはできない。もしかしたらMAXで全てを処理するにしても、画像と音響のデータと3D・ARオブジェクトの位置と向きの情報とを同期させる問題は、私がここで考えている以上に根本的で、技術的に容易に解決できる方法がないかも知れないことをお断りしておくとともに、この点に関して指摘して下さった佐近田展康さんには感謝の意を表したく、追記させて頂きます。)

 この点について作者に問い合わせたところ、単に思い至らなかっただけであるとの回答を頂いた―そして実装してテストをした時になって初めて、特にYoutube側配信の遅延が著しく(何とその幅は20秒程度雄にも及ぶの事)同期の問題があることがわかったが、既に後戻りが効かないタイミングであったというように伺って、それならば仕方ないと納得した―が、それとともに、もし思い至ったとしても、それを前提として、つまりMAXをインストールしなくては何も始められないような状況は避けただろうとのコメントもまた同時に頂いたのだが、これは単なるアクセスのし易さ、聴取のハードルを下げることを目的としているのではない。そうではなくて「気付かれずに乗っ取られている」という狙いを背景にして理解すべきだろう。これはセキュリティ上の問題とも関わるので、現実問題としてはMAXのインストールがセキュリティ上の「許可」に該当することを思えば、回避は困難ではないかと思われる。

 一方で、生物としての人間の知覚の異なるモード間には、同じような同期の問題がある筈で、それが自動的に解消された(か、ごまかされた)ものを、意識のレベルでは受け取っているのであろうから、敢えてマルチモーダルの相互同期の問題の所在を顕在化させているというように捉えることも可能だろう。

 関連して、YoutubeとMAXへの分配の仕方として、知覚のモダリティ毎に配分するのではなく、聴覚の中でもカラーパイプの音のシミュレートおよび「鈴/掛」の音と「喘ぎ声=母音廻し」とが別のモードに配分されていること(前者は3D・ARオブジェクトの画像と一緒にYoutube側に分配されている)、更に「喘ぎ声=母音廻し」が3D・ARオブジェクトの移動に伴う音場の移動を伴っているのに対して、その場では五芒星の頂点に置かれたスピーカーから再生されるカラーハイプの音のシミュレーション音はそうでないことも注目される。

 実際には、リモートの自分の目の前のPCが、受信した情報に基づいて「生成」しているのに、あえてそれを3D・ARオブジェクトに帰属させようとしているという点は前提として、敢えて喘ぎ声の「主体」として帰属するべき3D・ARオブジェクトの映像は、だが「喘ぎ声=母音廻し」の音場が、五芒星の中央にある「またりさま人形」が聞いたらどのように聞こえるかという条件で作り出されているのに、それに対応する視点からの3D・ARオブジェクトの移動の画像というのは用意されていないようだ。その結果として「喘ぎ声=母音廻し」は、展覧会場とは別の時空で鳴り響いているかの如き様相を呈する。そしてそれは仮にYoutubeの画像の動きとMAXクライアントの自動音声合成の間の同期が取れたとしても解消されることはないように感じられる。これはかなり奇妙な感覚で、もしモードが統合されていて、音場についてもどちらかに合わせてあるならば、恰も全てが展覧会場で鳴り響いているものをネットワーク越しに視聴しているかの如き錯覚が生じるべきところ、寧ろ複数のモダリティを備えたYoutube側の方がフェイクなのではないかという気がする程なのである。恐らくはYoutubeの画像が、現場を写したカメラの映像に、3D・ARオブジェクトが「重ね合わされて」いて、3D・ARオブジェクトが展覧会場で動いているという勘違いをすることはないだろうが、その一方で背景となる五芒星と、その中央にある「またりさま人形」が、「鈴/掛」の音に同期した天秤棒の揺れ(3D・ARオブジェクトが五芒星の外周ではなく、内側の星型部分を移動して、中央の「またりさま人形」の脇を通過して、丁度「鶏たちのための五芒星」であれば「鳥の精」に「白い粉」をかけるところで、「鈴/掛」の音がなるのが確認できる)以外には全く動きのない固定カメラの画像であるためか、それ自体フェイクのような気がしてしまうのかも知れない。

 かくして実際に2つのモードを同期させた上で同時に視聴を行った経験は、少なくとも私の場合に限って言えば些か意外なものであった。端的な言い方をすれば、全て向こうで行われているかのような錯覚に対して「現場」そのものがフェイクであるという錯覚の可能性の方に思い当たり、或る種のゲシュタルト知覚による知覚パターンの反転のように、そう思い当たると寧ろ後者の方が勝っているようにも感じられたのである。通常のコンサートのライブのリモート配信を視聴する場合には、ここでのように、一方では自分を取り囲むようにして音場が移動しつつ、他方では自分が目にしている映像の視点が固定しているのに対応するように、恰も映像の内部から聞こえてくる音に耳を澄ますというような矛盾したモードの知覚が同居することはない。

 それでは音響における音場の移動と固定、画像における視点の移動の固定について、どれが本物でどれが偽物であるかを判定することは可能だろうか。「鳥の精」、「またりさま人形」の位置にあなたが立つことはないが、喘ぎ声が「鳥の精」、「またりさま人形」の位置にいるあなたに聴こえるように移動するように聴こえるのは、実はYoutubeからの画像とは一致しない。カラーパイプの音響、「鈴/掛」の音響は移動しないことは勿論だが、だからといって空間上に固定的な座標を持っている感じがするわけではなく、寧ろ現実に場所を持っていない感じさえ受ける。コンセプト・ペーパーには「今回の配信は、自他を区別し、異物を排除する免疫系の壁を突破し、ネットワーク上の仮想空間で視聴者の身体を延長し、仮想空間の中における身体の一部としてその機能を補綴するPCに寄生し、オーディオデバイスの乗っ取りを企てる。」との記載があるが、それを読んだときに思い当たるのは幻聴(あるいはモードに拘らないならより一般に幻覚)との比較である。幻聴においては、その知覚を他の知覚が用意した脈絡にうまく嵌め込むことができないからこそ、聞こえない筈の声が聞こえるという感じが生じるのだが、それを思えば、2つの異なる経路で届いた2種類の音響の間に生じる不和は、幻聴の経験に近いような気もする。

 一方で、この点について考えてみるために、通常のコンサートホールでの聴取やライブ演奏の配信を聴く場合を思い浮かべて気付くことは、異なる知覚モダリティの間に存在するギャップが気になることはないということであった。コンサートホールのある場所に座って演奏を聴く時、音響のバランスはどこの場所に居るかで決定される。だがコンサートホールの音響は、必ずしも指向性の強い直接音だけではなく、いわばホール全体が鳴るように設計されていることから、舞台裏で、とか離れたところで、といった指示によってあえて音源の違いを際立たせる場合でなければ、音がどこで鳴っているのかについて気にすることはあまりなく、実際には特に視覚の情報に依存する部分が非常に多い。それとは別に、ある固定した場所に居る場合でも視線の方は必ずしも固定されない。視野は限定されるが、フォーカスしたり、パンしたり、舞台の上のどこを見るか、あるいは舞台を見ない、目を瞑っても瞑らなくても、その場で見えているものに注意を向けずに仮想の何かを眺めるということもありえるだろう。それに対してライブ配信の映像では固定されたWebカメラの映像が延々流れることは一般的でなく、寧ろ複数用意されたカメラを切り替えて変化をつけることの方が普通だが、カメラが切り替わるからといって鳴っている音がそれに追随して変化することはない。考えてみれば自然な状態であればこれは奇妙なことかも知れないのだが、そうしたカメラワークに慣らされてしまっているからか、現実には経験できないような視点の切り替えが起きても、それによって違和感や不自然さを感じることはなく、寧ろそうした人工的な映像の編集結果を「自然」なものとして受容するようになってしまっているのかも知れないということに思い当たるのである。


 そうした印象の由来として更に考えられる点を挙げるならば、防空壕の内部というのは屋外とは異なって、昼夜の循環とか時間の経過の感覚を持ちにくいのではないか。(奥にある階段つきの入り口から差し込む外光が、夜になると暗くなるようなので、全く変化がないわけではなさそうだが。)更に今回は、2時間(「鶏たちのための五芒星」)とか30分(「人形たちのための五芒星」)とかといった決められた持続を持つ「作品」の上演というよりは、何日にもわたって継続される儀礼の様子をライブカメラで覗き込むといった感覚が強く、前の2作とは異なって儀礼自体に立ち会うという感覚を持ちにくいことも影響しているかもしれない。

 ましてや今回は「悪魔」がおらず、機械の故障のようなトラブルがなければ、間違えるということもなければ「夢」の枠組みを相対化するようなことも起こらない。その替わりに「喘ぎ声」だけが仮構された空間の中を亡霊的に行き来し続けるのが唯一「人間的」といえば「人間的」な契機で、しかもそれは実は「現場」では不在で、端末側での音声合成の結果に過ぎないわけで、「現場」の現実の方は機械仕掛けでしかなく、私がMAXをインストールしたPCでクライアントを起動しない限りは、作品は未生の状態に留まるかのようなのである。

 この作品は、岡田暁生さんの言葉を借りるならば「時間をパッケージ化した」商品である通常の「コンサート」とは異なって、24時間エンドレスで中継されることになっている。現実には会期中に限定されるとは言え、24時間エンドレスでの中継にずっと立会続けることは生身の人間には不可能なことであろう。今回の作品のリアリゼーションの「現場」から人間が排除され、全てが機械仕掛けで自動的に動くようになっていることは、もしかしたら「三輪眞弘祭」の上演の折に可能性としては手探りされたに違いなく、その結果としてコンサートとしてあり得ない公演時間帯を持つことになった背後にあった動機が、今回の作品のコンセプトを生みだしたというようにも考えられる。そしてこのことは作品の時間方向の構造にも影響をもたらさずにはおかないだろう。聴き手の側からすれば、単に上演に立ち会っただけだと演奏が非常に長周期の系列のある部分であり(冥王星のように人間の一生の間に太陽の周りを一周することがない天体の軌道が思い起こされるが)、それを聴くことが二度とないのか、実は何時間か何日かで1周期となる同じ音響・画像の系列がループして繰り返されているのかを区別することは事実上不可能だろう。実際に上演時間について異なる制約を持っていた「三輪眞弘祭」における「鶏たちのための五芒星」と「人形たちのための五芒星」では異なった初期値を持つ異なった系列が用いたられたと記憶する。では今回はどうだったのだろうか?この点に作者に確認したところ、「鶏たちのための五芒星」の時と同じ初期値を使用したとの回答を頂いた。であるとすれば状態遷移の系列は132回の移動を15回繰り返して2時間で一周し、その後は同じ系列を繰り返し辿る反復が会期中繰り返されることになる。だが人間の知覚の水準では、今聴いている箇所が2時間と同一の遷移過程の繰り返しであることに気づくことは不可能に近いだろう。一方で今回は132回の周期毎に20秒の休止が入り、ゴンが鳴るようにMAXクライアントプログラムが作成されていたようで、8分程度あれば休止には気づくだろうが、MAXクライアントでガムランの音響をONにした状態でないとゴンには気付かないだろう(なお、ONにしている場合でもPCによってはゴンの音が鳴らないケースもあるとの説明を頂いたが、私の場合がどちらに相当するのかは現時点ではわからない)。これが通常のコンサートであれば、日時が事前に決定されていることに対して時として息苦しさを覚えつつも、コンサートの時間中は集中して作品に向かい合うのが、24時間いつでも聴けるとなると、雑事の合間を縫ってほぼ毎日覗きに行きはしても、その度に2時間聴取に集中することは事実上できていないこと、つまるところパッケージ化されたコンサートの時間、或いはCDのような記憶媒体毎に定まる1枚分の時間といったものに過剰に馴化してしまっている現実を突きつけられることとなってしまっていることを恥ずかしながら認めざるを得ない。


 今回の企画のいわば核心を為すリモート環境でのリアルタイム人工音声合成の試みについては、実は2年前に新型コロナウィルス感染症の蔓延によって「三輪眞弘祭」が無観客で上演され、オンライン配信される方針が示されたのと前後して、禁止された「ライブ」の代補としてのオンライン配信ではなく、予めオンライン配信されることを前提としたものにするための具体的な手段の一つとして提示したコンセプトであったのだが、その目的に関してはいずれも達成された「三輪眞弘祭」でも、その姉妹版である「人形たちのための五芒星」の公演でも実現できなかったアイデアがいよいよ実現したという経緯があって、その経緯を知る者にとってはひときわ感慨が深いものであったのだが、実際に実現されたものの肌触りは、その時に漠然とイメージしていたものとはかなり異なったものになったように感じる。そして間違いなくそれに最も大きく寄与しているのは、リモートで生成されるものが「喘ぎ声」であることだろう。ただそれだけのことを契機として、膜の表裏、壺の内部と外部が反転してしまったという感じがあるが故に、その理由を色々と詮索してみたくなることには避け難いものがあった。

 五芒星のシリーズに留まらず、三輪さんの創作活動の全体を改めて見直して見たときに、「喘ぎ声」が非常に強いインパクトを持った作品という点でまず思い浮かぶのは、日仏学院のアクスモニウムで「上演」された「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」であろう。あちらは事前に編集され録音された音響の再生で、作品をミュージック・コンクレートのようなテープ音楽の一種と見做すならば喘ぎ声は素材の一つに過ぎず、さらにそれはサンプリングされたものであって人工的に音声合成されたものではなかったと記憶するが、その他幾らでも枚挙することができるであろう差異を越えて、人間の身体を媒介しない作品において「喘ぎ声」が決定的な役割を果たすという点で今回の作品と共通していることに不思議な符合を感じずにはいられない。

 それにしても、「現場」で全てが起きていると思い込んでしまうであろうとMAXクライアント単独の動作テストの際に感じた筈の私が実際に2つのモードを同時に、同期させて接してみると、それとは正反対の印象、つまり実は「現場」の方がフェイクで、まるでテープ音楽の再生を聴くように提供された複数の映像と音響の重ね合わせに接した結果、ライブストリーミングよりも寧ろ「録楽」の再生に似たものとしても聴けてしまう(し、実際に映像を録画しておいて後で再生しても多分その違いに気付くことが原理的にできない)ことに些か狼狽しているというのは、我が事ながら皮肉めいて感じられる。但し初めからそうとわかっていたわけではなく、上記のような狼狽を通じて、でもこの点だけは2年前に発言した際に想定していた状況に他ならないことにようやく気付いたということなのだが。

 今回は展覧会場を訪問することはできていないし、今後もできそうにない訳だが、例え現地に行けたとしても、そこで経験できる「現実」は作品の総体からすれば一部でしかなく、寧ろ仮想的なサイバー空間の中にしか「作品」は存在しないという状況に接することができたことについては、2年前に企図したことの異論の余地ない実現として感謝の気持ちをもって受け止めたく思う。まさにコンセプト・ペーパーの言うように、「ライブ配信と各視聴者のPCが生成する電子音響が一体となった、この作品本来の表現」は「現場」である展示会場、地下防空壕の一室にはないのである。

 繰り返しになるが、「現場」の現実の方は機械仕掛けでしかない。私がMAXをインストールしたPCでクライアントを起動しない限りは、「作品」は未生の状態に留まる。その意味でこの作品は「ライブ」の意味を反転させることに成功している。否、実はコンサートだってそうなのだが、私が聴かなければ「作品」は存在しない。そして、(ここからは当初は想定外だったのだが、)聴いた途端に「亡霊」の喘ぎ声が聴こえてしまう。最初からそれが憑依されているかのように。

 手元のPCが合成する喘ぎ声は移動するが、ライブストリーミングされる画像の側の音響は同じ音場を移動しはしない。移動しないけれど、その音響の推移の過程はライブストリーミングされた「現場」の映像にオーバーレイされた3D・ARオブジェクトの動きには同期していて、音響は明らかに意図的にチープにされることで「記号」たる身分を明らかにした3D・ARオブジェクトと同じく、寧ろオーバーレイされたレイヤに属するかのようで、言ってみればインタビュー映像にオーバーレイされる「字幕」の如きもののようだ。

 けれども思い出してみるに、「人形たちのための五芒星」で「悪魔」のハンディカムの移動に伴ってガムランの音響のバランスが変わったり遠のいたり近づいたりしたかと言えば、そんなことはなかった。オーケストラのコンサートのライブストリーミングは、時として指揮者に、ソロをとる奏者に、歌手にフォーカスし、或いは引いて舞台の全体を映し出しても、それが音響に影響することはない。寧ろそうした変化は音響に関しては積極的に回避されることだろう。セッション録音かライブ録音かによらず、結局のところ音響は調整された上で、あたかも或る種の「理念的」な聴き手にそう聴こえるかのように再生され、それと映像の切替とは無関係であろう。

 要するに、視覚情報と聴覚情報の同期というのも、或る文化的な習慣や制度の閉域の内部で定義されるものに過ぎない。コンサートホールの中を動き回って音楽を聴く人はいない。ましてや、亡霊の呻き声が自分の周囲を移動するという経験は「現場」たる地下防空壕の一室では端的に不可能だ。なぜならそこには既に、またりさま人形がいるから。だが作品にとっての「現実」は、ここでも「ライブ」の「今、ここ」からはずれていく。「三輪眞弘祭」であなたは「鳥の精」ではなかった。「人形たちのための五芒星」であなたは「またりさま人形」ではなかった。あなたは外部にいる「聴衆」だった。

 だがここでは、あなたは外部に居続けることはできない。寧ろ「現場」たる地下防空壕の一室の方が、不完全なコピー、再現であるかのように、画像の中央に見えるまたりさま人形の一部はあなたによって代行されるとはいえないだろうか?それは「現場」たる地下防空壕の一室からネットワーク越しに届いた、もしその場に(聴衆という立場で)いたら聞こえていたかも知れない音響ではない。寧ろそれはあなたがまたりさま人形だったら、鳥の精だったら聞こえたかもしれないものを聞いているということではないだろうか?作品の鳴り響く「場所」は、ここでは「現場」たる地下防空壕の一室ではない、ネットワーク上の仮想的な空間だとも言えるし、仕組みの上ではクライアントを実行する、地下防空壕の一室から遠く隔たったあなたの部屋に置かれたPCこそがそうだとも言えるだろう。

 勿論、あなたはそれに関わらないでいる権利がある。いやならクライアントを実行しなければいい。そう考えれば、遅延の補正が聴き手に委ねられていることさえ、同じように考えることができるかも知れない。

 そしてもう一度、もし現場にあなたが居て、地下防空壕の内部を眺める時のことを考えてみる。それは概ねMAXクライアント側がないモードなのだが、その場で生成される音響の構造を決定する3D・ARの動きは、現場ではみることができず、その結果としてカラーパイプの音が響き、五芒星の中央の「またりさま人形」が時折腕を揺らして「鈴/掛」の音色が響くという解釈の結果の一部しか見ることができない。


 今回の作品独自の印象として、「人形たちのための五芒星」においてメタ性がそうであった位置に作品の「現実」が来ていること、そしてその「現実」は、実際には複数の層の重ね合わせで、それを恰も一つのものであるかように調整した結果が「私」にとっての「現実」であるという点が際立つように感じられる。そう感じた時、仮想の知覚のモードがYoutubeとMAXで分裂していること、同期を聴き手に委ねたことは、それがもともとは技術的な制約によるものだったとしても、今回の作品の本質的な部分であるように思えるのである。「三輪眞弘祭」においてこの側面は、「鶏たちのための五芒星」という作品の外部で、但し祭祀の一部を構成するものとしての詩・テキストの電子メール配信のレイヤ、写真のインスタグラムへの配信のレイヤの存在によって明瞭だった。そこでは配信の遅延は制御されることなく、祭祀の持つ多重の時間の層を聴き手は受け止める他なかった。今回の作品では、作品自体が複数の分散したモダリティで配信されるが、そのいずれもが旧来の「ライブ」の定義には当て嵌まらず、配信のプロセスの中で3D・ARオブジェクトの移動や「現場」のどこにも場所を持たない「喘ぎ声=母音廻し」が追加され、それらを聴き手が受け取って同期させることが求められているが、このことは音楽の聴取に纏わる危険と可能性の両方を示唆するという意味合いでまさに「ファルマコン」であると同時に、音楽のみに留まらない認識と行動の姿勢に関わっているのではないかと思えてならない。

 ところで今回の作品が前二作と異なって、「鶏たちのための」、或いは「人形たちのための」供養としての「ファルマコン=祭儀」として命名されず、それらの作品名においては供養の対象の位置に来たのが今回の作品では「遠隔音響合成」であることは、前二作の後にこの作品を位置づけようとした時に、或る種の戸惑いを惹き起こすかも知れない。そこで再び気が付くのは、今回の作品のタイトルが、この作品の来歴を辿った際に言及した「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」のそれと構造的にパラレルであるということだ。そしてそこで構造上「喘ぎ声=母音廻し」の位置にあるのは「再現芸術における幽霊」であり、それは一見しただけでは「喘ぎ声」が「現場」で起ったという出来事をネットワーク越しに再現しているかに見えて、実はその「配信」こそが「幽霊」を呼び起こしているのだという、今回の作品において生起している出来事の構造に対応している。それでは「遠隔音響合成」と「ラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステム」との対応についてはどうなのか?ここで思い起こされるのは、「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」においては、単なる再生装置であるマルチチャンネル・スピーカーシステムだけではなく、ラジオ(三輪さんが会場に持ち込んだポータブルラジカセ)が作品の構造的な急所の位置を占めていたことであろう。そして本作品に先行する「鶏たちのための五芒星」とともに「三輪眞弘祭」には「霊界ラヂオ」の上演が含まれていたこともまた思い出される。そして「霊界ラヂオ」は、一見したところ遠く離れたどこかで特定の誰かが喋っているのを遠く離れた場所で受信しているかの如き錯覚が、ラジオを装ったフォルマント合成に基づく人工音声合成装置をその場で操作することによって惹き起こされることを示したものであった。前者のラジオは、同一の記憶の反復でしかないテープ音楽の再生の閉域に穿たれた外部への通路であったのに対し、後者のラジオは外部に思えたものが実は虚構に過ぎず、外部で鳴り響いている筈の声が実は自己の中の別の部屋から響いてくるに過ぎないことを暴き立てるのを、目の前にあるスピーカーを通してではなく、それ自体ネットワーク越しに配信される映像と音声によって経験するという捩れの運動の中に聴き手は巻き込まれることになった。それに対して今回はラジオは「現場」に存在するかに見えて、実は自分の目の前にあるPCが「霊界ラヂオ」であって、だがその喘ぎは、外部から送信される「供養」の軌道を受信した結果生じるもので、外部なしには成り立たない。しかも私にはそれが自己の内部でのシミュレーションなのか、他者との対面によって生じる「反応」なのかを区別することができない。と、ここで思い起こされるのは、「再現芸術における幽霊、またはラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための、新しい時代」において、喘ぎ声の後、最後に響いた音が鈴の音であったことだ。だが「三輪眞弘祭」でも、「もんじゅはかたる」でゴーグルを装着してその場にないものを見ながら奏し歌った奏者に対して、その場で扇風機の風によって鳴り響いていたのは(風)鈴の音ではなかったか?そして今回「現場」で実際に物理的に「奏されて」その場で響いたのは、「またりさま人形」の「鈴/掛」の鈴ではなかったか。あたかもその場で「またりさま人形」が鳴らす鈴の音に、ネットワークの向こう側のPCの喘ぎ声が応答しているかのように。その鈴の音が「現場」の彼方、ネットワーク空間の末端に出来する「亡霊」を呼びさましているかのように。だが、時折youtubeで配信される画像に映り込む、その場を訪れた人は、そこで響く鈴の音がその場限りの単なる機械仕掛け、機械人形に仕込まれた絡繰りの「効果」に留まらず、鈴を鳴らす力学とネットワーク越しに出現する「亡霊」たる喘ぎ声の力学が、元を質せば同じアルゴリズムに支えられていることを(コンセプト・ペーパーの記載内容によって理解することはできたとて)感覚的に了解することはほぼ不可能であるように私には思われる。

 ここで本作品のコンセプト・ペーパーにおいて「今回の配信は、自他を区別し、異物を排除する免疫系の壁を突破し、ネットワーク上の仮想空間で視聴者の身体を延長し、仮想空間の中における身体の一部としてその機能を補綴するPCに寄生し、オーディオデバイスの乗っ取りを企てる。」と記されていることを改めて思い起こそう。するとまさにその時同時に、ウィルスを予防するワクチンが「ファルマコン」の両義性をそっくり引き受けるものであることに気付くことになるのではなかろうか。「配信」は情報統制の下で、事実を歪曲し、あたかも真実であるかの如き装いでフェイクを流布させる可能性があり、それに対応するように受け取り手の側もフェイクを真実と信憑してしまう危険が付き纏う。今回、インターネット接続の環境にあることのみならず、MAXをインストールしMAXクライアントをダウンロードした端末PCにおいてのみ作品の総体が姿を現したということは、ネットワークに接続された自宅のPCで「ひとりで」作品に対して自己を曝す姿勢が持つ可能性と危険とを示唆しているように思われる。それは防音室の如きコンサートホールの中で行われ、あたかも集団感染のように共有され、クラスターを構成する「コンサート」における一体感がもたらす熱狂を「ライブ」の範例とするのではない、且つまたネットワークを介した配信や媒体に記録された演奏の記録を「ライブ」の劣化した頽落態と捉えるのでもない、新たな「ライブ」の定義し直しの可能性を示唆するものと捉えることができるのではなかろうか。(2022.6.12暫定版公開、6.13遅延と同期の問題についての指摘を受けて該当箇所の記述を修正、更に全般にわたり字句の調整をした上で初稿として公開、6.16末尾部分に対して加筆、6.30作品の構造の説明における誤記の訂正および意味を明確にするための若干の加筆、先行二作品の演奏記録へのリンクの追加)

[謝辞]まず最初に、リモート環境でのリアルタイム人工音声合成の実行というアイデアに拘ってその実現を根気良く追求して下さり、本作品において「配信芸術」の核心部分をなすMAXクライアントのパッチを完成して下さったことに対して、佐近田展康さんに最大限の敬意と感謝の気持ちを表明したく思います。また「三輪眞弘祭」、「人形たちのための五芒星」公演に引き続き、視聴する我々に対して強い働きかけ持つライブ映像の配信を実現して下さり、今回についても作品の本質を踏まえた映像を配信して下さった前田真二郎さんに御礼を申し上げます。更に、作品のコンセプトと構造についてこれ以上のものはないと感じさせる充実したコンセプト・ペーパーを我々に提供してくださり、更には本稿執筆にあたって新作に関する私の様々な質問に丁寧に答えて下さった三輪眞弘さんに感謝します。また本稿は「三輪眞弘祭」の共催団体でもある京都大学人文科学研究所における研究会での発表、発言、討議の副産物としての性格を持ちます。本稿のみならず、先行二作「鶏たちのための五芒星」を含む「三輪眞弘祭」の上演に接した記録、「人形たちのための五芒星」の上演に接した記録も同様であり、研究会で岡田暁生先生を始めとする諸先生方から頂いた様々なコメント、助言に対して、この場を借りて御礼申し上げます。

(2025.1.10 noteにて公開)

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