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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:付論


(付論1)新型コロナウィルス感染症が祭祀・芸能・音楽芸術に及ぼす影響について

本論では<二分心>の崩壊の過程において生じると仮定される双分的発想から三分観への移行を、宮古島狩俣の村落の構造の変容プロセスや神歌の継承のあり方において確認することで、それが一度は「亡滅」を潜り抜け、存続してきたものの、前世紀末に停止してしまった経緯を辿ったが、本論の検討および執筆は、新型コロナウィルス感染症の対策として、各種の祭祀・芸能・音楽芸術の上演や公開が不可能となるという、まさに「亡滅」の危機に晒されるという状況下で行われた。そこでそうした状況に対して本論の検討から言いうることを以下に瞥見しておくことにする。

まず、新型コロナウィルス感染症における「音楽芸術」の死は二重のものに思われる。

A.「音楽芸術」が傍観者=聴衆を必要とする(制度的にも、経済的な意味においても)ように構造変容した結果、聴衆を呼べないこと=公演ができないことで破綻するという側面。この側面に対して三輪は、2020年9月にサラマンカホールで予定されている公演において、ライブストリーミングの意味を変容させることで乗り越えようとしているように見える。一方で聴衆が制度的・経済的な支配者になった地点で、<二分心>的な祭祀と結びついていた奉納の様式としての「音楽」は終わっているという見方も可能であり、その意味では音楽は、これまで数世紀に渉り、長い死(という余生)を生きてきたということになる。今回のコロナ禍は、その引き延ばされた死(という余生)の終焉となるかも知れない。

B.もう一つは舞台の上に「解釈者」が集まれなくなることでそもそも祭祀が行えなくなるという側面。祭祀自体が停止することに他ならないが、こちらについては、三輪の9月公演は、いわば正面から抵抗していることになるだろう。祭祀自体の停止は社会統制のあるモードが破壊されることに他ならない。だが、そんなことが本当に起こるのだろうか。これは身勝手な妄想だが、自粛による中止の陰で(ウヤガン禁止令の例のように)、この水準での祭祀は秘かにいつもと変わらず行われているのではなかろうか。継続実施されてきた反復の中で、偶々一回だけ例外が発生したとしても、それはいずれ新たな反復により、元の軌道に復帰するのではないか。この水準は社会システムのオートポイエティックな存続にとって基本的な回路であって、この水準での停止は、そのままシステム自体の停止、即ち「死」に繋がるのではなかろうか。

話を現実の狩俣圏に戻せば、狩俣も島尻も、継続すべき祭祀は、別の理由で既にないわけだが、狩俣の祖伸祭が生きていたら、恐らくは外部をシャットアウトした上で、いつものように祭祀は行われたのではないか。その意味では気になるのが、狩俣圏で唯一断絶したとの報告のない大神の祭祀がどうなるかだろう。狩俣の場合とは異なり、永らく外部には全く秘されてきた経緯もあり、一部の神歌などが知られるようになったとはいえ、現在でも門外不出の秘祭であり、更にこれまたコロナ禍とは別の理由で既に長きにわたり規模が縮小し、最低限のものになっていると想像されるので、寧ろコロナ禍の影響を受けにくいという側面もあるだろう。

だが上でも示唆したように、三輪はサラマンカホールの公演を音楽そのものへの追悼として捉え、コロナ禍の下で「音楽」が、単に経済的な意味合いで成立しなくなっただけでなく、本質的なレベルで不可能となったことを、まさにその公演自体によって示すとともに、ライブストリーミングの意味を変容させることで、新たな祭祀の可能性を探っているという見方も可能なように思われる。そこで本論における「極東の架空の島」としての「狩俣島」へと至る可能性の追求という観点で、三輪の試みがどのように捉えることができるかについて、以下で素描を試みたい。

まずは「音楽芸術」が傍観者=聴衆を必要とする(制度的にも、経済的な意味においても)ように構造変容した結果、聴衆を呼べないこと=公演ができないことで破綻するという側面についてだが、聴衆がコンサートホールに集えないことに対する手段として、ライブストリーミング等によってネットワーク越しに聴き手に演奏を配信すること自体は、少なくとも現時点においては既に特段目新しいものではなく、寧ろ、真っ先に思いつく選択肢ですらあるだろう。そしてそのことは、実際にそのような形態でのコンサートが開催されていることからも窺える。

そもそもライブストリーミングのような画像・音響の配信の技術は、今回のコロナ禍への対策として新たに編み出されたものではなく、これは既に長い歴史を持つFM放送やテレヴィジョンでのコンサートの実況中継の延長線上にあると捉えることができるだろうし、更に広い文脈では、録音した音響を再生するという音楽の享受の形態を支えるテクノロジーの中に位置づけることができるだろう。三輪はそれらに関する音楽活動を「録楽」と定義し、ある特定の場所と時刻を持つ一回性の上演に関するそれと峻別してきたのは周知のことだが、それは「録楽」が、音楽を単なる音響であるという了解を生み出し、聴取を演奏の結果としての音響をパッケージ化したものの消費と同一視することを自明のこととして疑わない態度を生み出してきたことの批判であるとともに、記号論的な三分法(それ自体そのような了解の産物といった側面を持つのだが)における生産と演奏のレベルもまた、音楽が恰も自律的で、独立した価値を有するものであるという了解の下、祭祀のために用いられてきたといった歴史的文脈を離れ、コンサートホールにおいて消費されることを目的として再組織化されてしまったことへのラディカルな批判をも含むのであり、「逆シミュレーション音楽」の3つの相は、そうした問題意識から、あるべき(それは同時に「ありえたかもしれない」でもあり「ありうべき」でもあるのだが)「音楽」を、これ以上の抽象化はできない程根本的なレベルで再定義したものに他ならない。

そのような立場からすれば、今回のコロナ禍がもたらした状況が、ライブストリーミングを生演奏の単なる代理物と見做すような立場に比べて、遥かに深刻なものとして受け止められることは容易に了解できよう。だがその一方で、そのような立場に立った時、ライブストリーミングを自明の確立済みの配信手段として捉えるのではなく、寧ろ「音楽」のありうべき姿を追求するための契機として利用するという見方が可能になるように思われるのである。例えば、コロナ禍ですっかり定着したzoomのようなビデオチャットの仕掛けの上で、手元で再生した音響を送信するのではなく、音源自体を配布してリモートで再生させるといったことを考えてみることができるだろう。或いは目的は異なるが、ビジネスの領域でも、リモートからホストPCの制御を奪って遠隔操作するツールが在宅勤務用に広く用いられるようになっているが、その延長線上に、MIDIデータを送ってリモートで遠隔操作させるといったような可能性が考えられるだろう。そのようなところに単なる演奏のビデオ配信ではなく、配信そのものを演奏、上演の一部とする発想の転換の可能性が秘められているように思えるのである。今や音声にしても高画質の映像にしてもリアルタイムで 配信ができるとはいえ、単なる演奏の映像や音声の配信ではなく、リモート(聴き手のPC)でMIDIシーケンスを再生させるという遠隔操作をしようということになれば、まずもってはセキュリティ上の問題から、受信側で事前設定する必要はあるだろうから、少なくとも事前に(勿論それは直前に、その都度でもいいが)専用のアプリケーションをリモート側にインストールすることが求めされるだろう。ここでの難しさは、単にメッセージを送りつけるのではなく、リモートで操作をしようとしていることに存するのだが、ここに分界点があるという点は「自己」というのを考えるときにもヒントになるのではなかろうか。

勿論、技術的な水準では、散文的なセキュリティの問題(リモートでの実行を認める認めないの話)に過ぎないが、この場合にはそうしたレベルを離れて、リモートでMIDIコードが実行されたとき、一体「誰の身体で誰がうたっていることになるのか」ということが問題になるのではないか。すると直ちに思い浮かぶのは、まさにウィルスの伝染のような例であり、免疫系についての議論が「自己」についての議論そのものであることにも思い至る。とはいえ予め確立された「自己」が離れ離れに孤立している状況で、どのように「自己」間のコミュニケーションを回復するかという発想だとコミュニケーションの話にしかならない。現実のコロナウィルスに纏わる話も(これは音楽に限らず、より一般的な様々なレベルでの社会的・集団的活動一般についてだが)多くはその水準で論じられているが(そしてセキュリティの話というのもまた、こちらは技術的な界面での議論であるものの基本的には同じ水準の話だが)、そうではなく、ここで問題にすべきは、「自己」の(その都度の)成立に纏わる話なのではないかというように感じられるのである。

それはどんなに控えめに言っても、聴くこと、演奏会に参加することがどういうことなのかということの問い直しにはなるのではなかろうか。例えばラジオをつけてダイヤルを捻って…、或いはCDを選んでプレイヤーにかけて…、はたまた音楽を聴くアプリに聴きたい曲をダウンロードして…、etc.に対して、ここで聴き手がやっていることは何になるのか。あるいは自宅のプレイヤーズ・ピアノでダウンロードしたMIDIシーケンスを実行することと比べたらどうだろうか?ここではMIDIデータは予め存在する「私」がダウンロードするわけではないことに注意すべきであろう。そもそも「自己」というのは発生論的にも他者との関わりの中で生成し、維持されていくもの(しかもそれが維持されることは必ずしも自明なことではない)であり、エピソード記憶が持てるかどうかといったレベル辺りまでは確実に生物学的なレイヤーの話であったとしても、どこかから上は実は生物学の話ですらなく、神経回路網は文化的・社会的に調整されることを思い浮かべよう。その調整の幅は、ある社会では「病的」と呼ばれるようなレベルからそれこそ統計的な平均である「典型」までかなり幅があることを思えば、ダマシオの言う延長意識=自伝的自己というのは、ここで問題になっているネットワーク技術に類比するのであれば、例えばVPNの一部の実現方法(SSL-VPN)がそうであるように、TCP/IPにおけるアプリケーションレイヤにおいて仮想的にインプリメントされているメカニズムに基づいたソフトウェア的なものと考えた方がいいように思われる。そして実は「自己」が独我論的に孤立しているように見えるのは、「自己」が成立してから内側から眺めているからであって、「自己」に対する自己自身の表象に過ぎず、「自己」自体は外部との関わりにおいて形成されるインタフェースのようなものなのではなかろうか。些か粗雑な対比になるが、津田一郎の『心はすべて数学である』第2章「「私」はいつ生まれるのか」に出てくる「集合的な心」にあたるものは、ここでは事前にダウンロードしておく専用アプリケーションに相当するのではないか。

「何人もの他者の心が入り込んだ「集合的な心」、コミュニケーションを通じてダイナミックに変化していくもの―脳とはこういうものであると考えると、「脳の活動が心を表現している」というように現象的には見えていても、やはり順序としては逆ではないか、原因はむしろ“心”のほうにあるのではないかと考えられる。
つまり、他者の心からなる「集合的な心」のようなものがあって、それが個々の脳を通して私の心」として表現されていく、ということです。この現れ方の違いが、私たちの個性でもある。すると、「脳とは集合的な心を個々の心に落としこむための生物学的な装置である」ということになります。個々の脳が個々の心を作り出すのではなく、他者による心が私の脳を作る、脳の独特の構造によって個々の心が表現される。だから自己とは他者を表現したものだと考えられるし、集合的な心をそれぞれの脳が「自分の心」として変換している、そんな感じがするのです。」

(津田一郎『心はすべて数学である』, p.55)

津田は脳という生物学的装置について語っているが、ジョゼフ・ヘンリックが『文化がヒトを進化させた』で述べているような文化と心の共進化を考えるならば、更にはベルナール・スティグレールが『技術と時間』で、或いはまたアンディ・クラークが『生まれながらのサイボーグ』で述べている通り、文化の中でもとりわけテクノロジーが身体を補綴し、延長することで我々の「意識」が構造化され、「心」が形作られているとするならば、ここでの専用アプリケーションはそうしたテクノロジーによる補綴装置の一つとして一般に「心」と呼ばれるものを構成する部品であり、それはまさにインタフェースに過ぎないという見方ができるのではなかろうか。そこで演奏するのは「私」ではない、他の誰かなのだ。この観点では、三輪が『流星礼拝』において用いた電気刺激で鈴を鳴らす仕掛け(「新しい時代の《流星礼拝》」を参照。 『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998-2010』所収, p.56~58)は、「誰が演奏しているのか」という点で興味深く、また、これまた原理的にネットワーク越しである(インターネット・ストリーミングが前提とされている)点も注目される。ここでは仕掛け(=楽器、ただしこの場合、それは自分の器官の延長とさえ言えない、自己にとって不随意な反応を惹き起こすものだ)が「自己」の生成の起点になって、「神の旋律」という他者からの呼び掛けに受動的に応答するという仕方で「自己」が立ち上がっているようだ。これは受容と排除の違いを措けば、予め存在する「自己」が反応するのではなく、反応によって「自己」が立ち上がるという点において、ウィルスの侵入に対する抗体反応というかたちで自己が立ち上がるという点にも通じるものがある。

しかしながら考えてみれば、そもそも三輪が考えている「儀礼」としての演奏会においては、実は仮想的な形でこうしたことが常に起きていて、そこでは「自己」の(その都度の)成立が問われているのではないだろうか。今回のコロナ禍では、コンサートホールでの演奏会が不可能であるということによって、聴き手の前で演奏が行われることが音楽にとって必須の契機であることが逆説的に明らかになったと捉えるべきで、三輪の「逆シミュレーション音楽」の定義がそのことを非常にラディカルな形で明らかにしていることを思えば、今回のコンサートが、音楽の成立の不可能性を、死を宣告しているということの持つ意味合いが了解できるであろう。けれどもその一方で、コンサートという場が「自己」のその都度の成立の場であることを踏まえ、三輪が単なるコンテンツのストリーミングではない形態に拘っていることを考えあわせると、今回の試みは、コンサートホールでの演奏を前提とした伝統的な音楽の喪である反面で、通常の演奏会での「上演」が不可能であることを逆手にとって、その仕組みを一旦解体した上で、そのからくりを明示的に実行してみせる試みではないか、「自己」の生成=蘇生を試みる、壮大な「逆シミュレーション」として捉えることができるのではないかと思われるのである。

引き続いて冒頭に述べた2つ目の観点、即ち舞台の上に「解釈者」が集まれなくなることでそもそも祭祀が行えなくなることに対して、三輪の方法論がどのように対応しうるかを検討してみよう。

場の共有に関し、奏者と聴き手の間ではなく、奏者間でのそれについて考えてみると、直ちに想起されるのは『万葉集の一節を主題とする変奏曲または“海ゆかば”』における「非合奏」 のことである。そこでは室内管弦楽の奏者は舞台上にいるのだが、通常のような指揮者を取り巻くような配置を取らず、楽譜で指示されているように「ソリスト以外の(オーケストラの)演奏家はステージ上の任意の場所に、任意の方向を向いて演奏する」(スコア記載の指示による)。そして「メトロノームの代わりに、それぞれに異なるテンポを奏者のスマートフォン画面に表示する」(同じくスコア記載の解説による)IAMASメトロノームサーバーの指示するテンポに従って別々に演奏するので、そこにはクラシック音楽におけるような間合いも呼吸も存在しないのである。

この場合「非合奏」は状況に強いられたものではなく、その作品の意図に応じて意図的に選択されたものだが、今回問われているのは舞台の上に居ながらにしての「非合奏」ではなく、そもそも聴き手のみならず奏者もまた上演の場に集まれないという状況への対応であることを思い、コロナ禍にあってビジネスに携わっている人間が、状況の変化に合わせ、自分の組織、協業者と顧客の安全衛生と事業継続のバランスに配慮しつつ、「現場の対策」のようなものを立案して実施し続けているような視点で演奏会に纏わる現実的な側面への対応に思いを致したとき、今回の上演におけるガムラン楽団の配置や舞台上のパフォーマーに対する指示といった「芸術上の演出」もまた、同時にソーシャル・ディスタンスの確保や、飛沫接触の防止といった別の現実的な意味合いを持っているのではということを考えずにはいられない。

だが、三輪の方法論が今回のような状況にどのように対応しうるかに関しては、上記のような或る特定の作品を指摘できるに留まらない。三輪の「逆シミュレーション音楽」の具体的な構成を見ると、それは今回のような事態にたいしても、或る種のロバストネスを備えているように思われるからだ。

これは所謂記譜法の問題とも関わるが、三輪の作品の中でも「逆シミュレーション音楽」の系列では、奏法の指示(「解釈」)のみがあって実現される音響がどうあるべきかを直接指定しない。もちろんそうであっても上演するときには奏者の間に「周期」についての引き込みが生じ、「同期」が起きることによってリズムが生じ、一定の テンポでの演奏が行われることになるのだが、それは西洋の音楽の記譜法が求める同期性、アンサンブルとは異なるものである。それに対し、三輪の「逆シミュレーション音楽」の「解釈」においては、あくまでも「原理的には」というレベルかもしれなくとも、例えばネットワークによって結ばれた離れ離れの奏者の間で、音がホケトゥス的に受け渡されるといったリアリゼーションの可能性があることが思い浮かぶ。(別途確認すべき点だが、三輪がガムランを非常に重視し、今回も新作においてガムランアンサンブルを用いるのも、ガムランが西洋の音楽とは大きく異なった時間の組織化を行うことと関わりがあるのではなかろうか。) 

これは伝聞だが、緊急事態宣言の最中においては、ネットワーク上でビデオチャットのようなツールにより接続した奏者達が、その場で「合奏」を試みるといったことも試みられたらしい。だがそれは概ね「合奏」というものが持つ本質にそぐわないものとならざるを得なかったと聞く。恐らくそこで本来的に求められていたのは、常には当然のように成り立っている「合奏」のための基本的な条件を充足させることの妨げとなる、ネットワークでの接続に伴う様々な技術的な問題を一つ一つクリアしていくような緻密で綿密な作業を通して、あるべき「合奏」の姿から「逆算」した上で演奏を作り上げていくといった作業であったり、「合奏」自体の定義の見直しに基づくありうべき新たな演奏の仕掛けを試みるといったことである筈で、だから即興的にその場に集まったからといってどうなるものでもなかったのではなかろうか。

そうしたことを考えたとき、三輪は既にこれまでも、西欧音楽にとってはデッドロックであるような状況に対する応答を色々と試みてきたし、今回の企画もまたそうなのではないかという思いを強くする。それは、西欧の伝統の延長線上にある「音楽」の成立の不可能性と、死を宣告していると同時に、異なる原理と方法論によって「極東の架空の島」における、ありうべき祭祀を復活させる試みでもあるように思われるのである。

(付論2)順序と周期性について

本論では神歌の旋律やテキストの構造にフォーカスした具体的な分析には到達できず、それらは残された課題であるが、ここではその課題に向けての第一歩として、狩俣の神歌の旋律の持つ構造に関して、順序と周期性の観点から、三輪作品の中でも特に「逆シミュレーション音楽」との比較対照を試みた結果を以下に記載し、順序と周期性とを区別して検討を行うことの持つ意味と射程を示したい。

その旋律の巨視的構造について力学系としての把握をすれば、三輪の力学系は、長い周期を辿って、やっと最初に戻る軌道を描き、アトラクタとしてはリミットサイクルであるのに対し、狩俣の神歌は同一のパターンの単純な繰り返しで、アトラクタとしては点ということになる。狩俣風には、「ひとのきえさり」を最初から最後まで順番に、同じ旋律で延々と繰り返すだけということになる。歌詞が何十番もあるような唱歌に近いという見方もあるだろう。狩俣の神歌にあっては、歌詞は変わるが節回しは変わらず反復される。しかも、先唱・唱和の反復が埋め込まれる。二周で一組。勿論、更にそうしたブロックがテンポや旋律を変えて継起するような二元的構造を持つこともあるが、総じてそれは双分的発想をその起源に持つものと言えるだろう。それに対して「逆シミュレーション音楽」はリミットサイクルであり、極めて長周期の軌道を、一度だけ、或いは何度か繰り返して踏破することが求められている。軌道発展の基本単位はあり、基本単位を繰り返していくのだが、軌道は少しずつ変わっていく。そしてこの水準には歌詞がない(どちらかというと身振りのシークエンス)。

一方、例えば「59049カウンター」における詠唱は、同じ旋律の繰り返しであり、7音節でかつ厳密な音韻の制約に従って書かれた詩「ひとのきえさり」の詩節を一節ずつ詠唱していく。そのタイミングは力学系の発展規則により厳密に制御されているが、詠唱のみについて言えば、狩俣の神歌と大きく変わらない。違いは、彼らはそのタイミングも、詠唱する詩節も、それらを記憶しているわけではなく、身振りのシークエンス(蛇居拳舞楽:与次兵衛流)をリアライズする「桁人」からキューと詩節を指定されて詠唱される点にある。原理的にはキューは決定論的なので、そのタイミングを記憶し、対応する詩節を記憶しての演奏も可能な筈だが、仮にそうしたとしても2人いる詠唱者どうしは先唱・唱和といった関係にはなく、別の周期で、独立に「ひとのきえさり」の異なる箇所の詠唱を、同じ旋律で反復して行うことになる。総じて三輪の作品は、その原型的とでもいうべき原理の単純さにも関わらず、複数の層の関わり合いに関して、直観的ではあれ、極めて意識的な操作を介したものになっており、狩俣の神歌において、概ね自然発生的に双分的な構造が重畳していく発展形態をとっているのに比べると、その「芸術」としての「作者」の意識の介入は明らかであると言えるだろう。勿論それは、楽曲の構造の次元のみならず、用いられるテキストの構造についても同様に言いうる。「ひとのきえさり」に見られるアクロバティックと形容したくなる厳しい制約の下での創作が、複数の層の間に立った調整という、際立って高度で集中的な意識の介在の結果が凝集された結果であることは明らかであり、まさに詩の作者である藤井貞和が『<うた>起源考』の冒頭において「懸け詞」に詩の成立を見る際に指摘する以下のような心の働きが、実践されたものと受け止めることができる。

「(…)懸け詞なら懸け詞をつよく意識するとは、そういう中間集中によって起きる何ごとかではなかったか。詩は技巧か、それとも技巧によってもう一つ高めた位置から自由に出入りできる精神的な行為であるか、問いかけることになる。きわめて意図的な言語の凝縮性に根ざした営為としてそれらはあろう。詩の成立を、そのような集中型の行為から導き出すことができるのではないか。」

(同書, p.19~20)

ところで、ごく断片的なものであれ、このような水準での比較分析がそもそも可能になるのには構造的な根拠があり、三輪がアルゴリズミック・コンポジションの様々な手法の中で、特にオートマトン的な離散力学系を選択したことによる。それは「逆シミュレーション音楽」においては「規則の生成」と呼ばれる相に関わる。重要なのは、ここで論じられているのは具体的な音響的な実現の様相ではなく、それを可能にする規則の構造から直接導かれる「順序」の構造が問題になっているという点である。これは現在「音楽」ということでまず思い浮かべる、西洋音楽の伝統に属するものを含め、多くの音楽の構造が、小さな動機や楽節を単位にして再帰的に木構造を階層的に組み上げていく方法を採用していることに対し異質な側面を持つ。

木構造的な構成方法は、その発展の末において、規則的な楽段の構造に基づいた長大な持続の上に起承転結を持った壮麗な楽曲を生み出すとともに、その構造を複雑化し不規則化して、文学における小説に喩えられるような物語的・散文的な楽曲をも生み出すことになった。このような音楽の構造は、それを生み出す「心」の構造の相関物であって、まさに<二分心>崩壊後に発生した、比喩による内的な空間を持ち、アナログな自己の表象を持ち、自己と世界について絶えず物語を構築して自己をその中の主人公とすることで世界について視点を持ち、ゲシュタルト化に抽象的な認識を「世界の直接的な認識」であると思いなす、反省的で自伝的な自己を備えた意識の構造の反映と見做すことができるだろう。そしてそれは、音楽の構造に「感じ」を引き起こすシステムの構造のある部分がマップされており、総じて音楽を時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータとして捉える発想に導く。(この点に関しては、拙論「「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ」https://masahiromiwa-yojibee.blogspot.com/2019/09/blog-post.html を参照されたい。)

それに対して同じく再帰的な構造を持ってはいても、オートマトン的な離散力学系は明らかに異質であり、寧ろ物理現象、化学的過程のような自然現象のモデルとして用いられることが多かった。一方でデジタルコンピュータの原理がチューリングマシンとして定式化できることから、コンピュータとの親和性が高いということもでき、コンピュータを用いた自動作曲の手法の一つとして、コンピュータでの処理に対する親和性という観点から論じられるのが一般的な了解だろう。だが、その選択が結果として、儀礼に用いられる神歌のような音楽の起源に近い、古代的な音楽との構造的な比較を可能にすること自体、まず極めて興味深く、検討に値することに思われる。

三輪の作品における順序の重要性は明らかであり、それは更に「解釈」における記譜法の問題とも関わって、「逆シミュレーション音楽」において「解釈」は奏法の指示として示され、実現される音響がどうあるべきかを直接指定しないことから、実現される音響の具体的な実現に関して大きな自由度を可能にしている。もちろんそうであっても上演するときには奏者の間に 「周期」についての引き込みが生じ、「同期」が起きることによってリズムが生じ、一定の テンポでの演奏が行われることになるが、そこで求められるのは、西洋の音楽の記譜法が求める同期性、アンサンブルとは異なったものでありうるのである。この点においても、狩俣の神歌のような対象を分析するにあたり、三輪の方法論から示唆されるものは大きい。

勿論、「逆シミュレーション音楽」が音楽の必要十分条件として3つの相を定義していることからも直ちに帰結するように、順序のみ、規則の生成のみで「音楽」を論じることはできない。ニューラルネットワークの再帰性とそれが生み出すダイナミクス が、時間の「感覚」を産み出し、「意識」を産み出し、ひいては「音楽」を生み出していくプロセスにフォーカスした時、「音楽」が「感じ」に、クオリアに関わるものである限りにおいて、離散力学系が実装される媒体の性質というのは決定的であって、媒体が異なれば生じるクオリアが異なり、結果として、例えばシリコンチップで同じ離散力学系を実装してもその結果は決して人間の聴く「音楽」になることはないであろう。そしてこのことは「逆シミュレーション音楽」においては「解釈」の相に関わるのである。私見では、「自己」や「意識」の問題における機能主義的モデルを巡る議論の混乱は、ここでの「解釈」の相を見損じていることに起因しており、また三輪が本論著者とのロームシアター京都での対談『AI(人工知能)と音楽の未来』において、AIによる音楽は不可能だと主張する点にも関わる。(この最後の点については、上記対談の抄録を含む『ASEEMBLY 02』の該当箇所, p.32および拙論「人工知能と音楽の未来・梗概と補遺」https://masahiromiwa-yojibee.blogspot.com/2018/12/blog-post.html を参照されたい。)

「音楽」は「媒体」(身体も、楽器も、コンサートホールも、それが放送されるなら、その通信の環境も含まれるし、録音・再生されるなら記録媒体・再生装置を含む。まさに「システム」そのものである)を必要とし、上演されることを必要条件とする。「順序」だけでいいなら「逆シミュレーション音楽」の3つの相は不要ということになり、「周期」は「順序」に基づくとは言え、それを同一視するのは肌理が粗すぎるのである。 順序は持続を前提としないが、周期は有限の持続を前提とする。同期・非同期もまた然りであって、順序から「リズム」が出てくることはないが、そもそもリズムなしの音楽というのはありえないだろう。(ちなみに「録楽」と「音楽」の対立も広く取れば「媒体」の違いの問題であり、「時間」の質の問題であり、「順序」に抽象してしまえば、対立はなくなると思われる。)

そして三輪の「逆シミュレーション音楽」の「解釈」において、原理的には、例えばネットワークによって結ばれた離れ離れの奏者の間で音がホケトゥス的に受け渡されるといったリアリゼーションも可能な筈である。仮にその結果がケージのOrgan2/ASLAPのように、人間の知覚では最早音楽的持続としてゲシュタルト化できないようなものであったとして、通常の人間が聞き、消費する音楽としては成立しなくても、それが「礼拝」であり、何者かに対する奉納であるとするならば、その何者かに固有のリズムへの同調として捉えることが可能ではなかろうか。つまりここでは「解釈」によって実現する持続やリズム、周期に関して、誰に対する「奉納」なのかが問われているのだ。その「誰」は、その「誰」の主体がそこで成立している媒体に制約された固有のリズムと周期を備えている筈なのである。ここで問われているのは、恐らく久保田晃弘が『遥かなる他者のためのデザイン』の「第5章 人間からの離脱」、特にその中の「計算アミニズムと人工知能」(同書, p.424)以降で想定しているような他者なのだ。もっとも狩俣の神歌に関して言えば、「遥かなる」は寧ろ過去への遡行を意味するのかも知れないが。

そう考えると、神歌の演唱における様々な所作、手拍子や杖によって拍子をとることといった側面もまた、「解釈」の相における周期の持続やリズムを決定する要素として、極めて重要であることが確認できる。そしてそれはジェインズが<二分心>の一般的パラダイムで提示する「誘導」であることは、本論においてそれが「逆シミュレーション音楽」における「解釈」に対応することを示したことからも明らかであろう。ジェインズが「トランス」ということで捉えようとしたのは、奉納の対象をいわばアトラクタとして、祭祀固有のリズムと持続の中で、祭祀に関わる者(神役だけではなく、傍観者も、より広くは祭祀に立ち会う外部の人間もそこには含まれる筈である)の間に同期を確立することが求められているということに他ならない。かくして狩俣の神歌の旋律に関して三輪作品との比較対照を周期性の観点から試みることは、音楽の抽象的な構造の中において、<二分心>から意識へ、あるいは双分的発想から三分観へというプロセスを辿る可能性に通じていることになりそうである。

そしてそれが具体的な音響として実現された持続のレベルではなく、それを生み出す、いわば「モナド」の世界の秩序としてのオートマトン的な順序関係のレベルで論じうる点もまた、三輪の「逆シミュレーション音楽」の3つの相が明らかにした点ではあろう。言い替えれば、内井惣七が『ライプニッツの情報物理学』で明らかにしたライプニッツ的な実体と現象の関係として、特に時間的関係における順序と持続の関係として三輪の「逆シミュレーション音楽」を捉えることができるのではないかということである。(なお、内井自身、上掲書において「モナドロジーと音楽」という章を設け、モナドと楽曲の声部のアナロジーを論じていることを指摘しておきたい。上掲書p.195以降、特にp.203の表6を参照のこと。ここで注目すべきは、表6の「状態変化」の比較において、ライプニッツのモナドが「規則(プログラム)に従った順序」であるのに対し、楽曲の声部は「規則(プログラム)に従った順序(状態の長さの比率を含む)」とされている点に対し、三輪の「逆シミュレーション音楽」には、内井が指摘する差異を含まず、ライプニッツのモナドロジーとのより厳密な類比が実現されている点である。)だが、この点についての詳論は、具体的に狩俣の神歌を順序と周期性の観点から分析することを通して音楽の構造にマップされている「感じ」を引き起こすシステムの構造を読み取り、そこに見出されるであろう<二分心>から意識へ、あるいは双分的発想から三分観へというプロセスの痕跡を辿ることで時間の「感じ」(feeling)についてのシミュレータとしての「音楽」の始原的な形態を垣間見る作業同様、後日を期することにしたい。


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