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「万葉集の一節を主題とする変奏曲」再演を聴いて

サントリーサマーフェスティバル2015
TRANSMUSIC特別公演
2015年8月26日サントリーホール ブルーローズ(小ホール)

西村朗<ヴィシュヌの臍>ピアノと室内オーケストラのための(2010)
ピアノ:碇山典子
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

中川俊郎「室内交響曲第1番」(2011/2015)[改訂初演]
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

伊左治直「南海の始まりへの旅」(2012/2015)[改訂初演]
ギター:鈴木大介
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

野平一郎「網目模様」アルト・サクソフォンと室内管弦楽のための(2013)
アルト・サクソフォン:井上麻子
指揮:野平一郎
東京シンフォニエッタ

三輪眞弘「万葉集の一節を主題とする変奏曲、または"海ゆかば"」MIDIアコーディオンと管弦合奏のための(2014)
MIDIアコーディオン・MIDIキーボード:岡野勇人
東京シンフォニエッタ

昨年11月に大阪で初演を聴いた三輪さんの「万葉集の一節を主題とする変奏曲」が再演されるということで、 仕事のやりくりをつけてサントリーホールに向かう。プログラムは上記の通りで、これは西村さんの企画になる これまで5年間のシリーズの委嘱作を一堂に会して演奏するというコンサートである。委嘱の際のいわば「注文」として、 「内包曲」というのを設定した作品を作るという条件がつけられ、初演の演奏会では、委嘱作自体と併せて 「内包曲」の演奏も行われ、更に「内包曲」楽譜は会場で聴き手に配布されるというのが 共通のフレームであったとの由、その総集編とでも言うべきこの日のコンサートでは5曲の内包曲を綴じた楽譜が配布され、 更に開演前に「内包曲」の演奏が行われるという構成であった。

「内包曲」と作品本体の関係は様々だが、いずれにしても、それを最初に演奏するというのは、言葉による説明なしに、 後ほど演奏される作品についての情報を事前に提示することになるのは確かであり、それは作品本体だけを聴くのとは 異なる質の経験をもたらすことになる。聴き手がどのように受け止めるにせよ、それは聴取のための文脈、地平を 形成してしまい、作品本体を聴くときに、質的には様々ではあっても、アドルノが「パルジファル」前奏曲について 言ったような未来完了的な聴取をもたらすことになるのが、このことの具体的な様相については、後ほど、この文章で 対象とする三輪さんの作品については触れることになるだろう。

まず最初に書き留めておきたいことは、このコンサートが、作品の質といい、演奏の質といい、ちょっと他に 比較すべき経験が思いつかないくらい質の高いものだったということである。並んでいる作曲者の名前を見れば 寧ろそうなって当然と、人によっては言うのかも知れないが、一つ一つの作品は、鳴り響く音のイメージが夫々 ユニークでかつ明確であり、しかもそのイメージを正確に現実の音響に定着させる技術があることが単なる聴き手にも はっきりと感じられるような充実した作品ばかりで、更にそれがこれまた非常に見通しの良い野平さんの解釈と、 東京シンフォニエッタの高度な技術によって リアライズされるのを目の当たりするのは圧倒的な経験だったと言って良い。経験豊かな聴き手であれば、 この日のコンサートについて幾らでも言葉を尽して、その素晴らしさを書き連ねることができるだろうが、 私個人に関してはその資格がないことははっきりしており、また、それに相応しい方々が数多居られるわけなので、 夫々の作品について曖昧な印象を並べることは断念し、以下では自分にとっても二度目となった、 三輪さんの作品についてのみ自分の印象や反応を記録することにする。また、作品自体に関して 初演時に記載した点については、特に今回の印象を書き留めるために必要でない限りは繰り返さない。


まず最初に、プレコンサートでの「内包曲」の演奏について。 実は三輪さんの作品に関して言えば、作品本体が3部構成になっていて、その第1部が管弦楽奏者の入場に先行して 行われる、通常のモードのアコーディオンによる信時潔の「海ゆかば」の演奏、第2部がMIDIアコーディオンと 管弦合奏による変奏曲本体で、第3部はMIDIキーボードがサンプリングされた「海ゆかば」のカラオケに合せて 「内包曲」を演奏する、という構造を持っているので、プレコンサートでの「内包曲」の演奏は、そうした 構造を更に外から包むような位置づけになる。

岡野さんはプレコンサートでの「内包曲」の演奏を、配布された譜面の通りに通常のピアノで演奏したのだが、 この選択自体が極めて戦略的なものであるのは、配布された楽譜の説明を読めば明らかであろう。 本来この譜面は、MIDIキーボードで、日本語音声による歌唱に変換されるべく書かれているのである。 左手は音素を生成するためのいわば「ボタン」としてキーボードを使っているだけだし、右手もまた、 本来微分音程を12音平均律楽器で可能にするための和音平均化アルゴリズムに基いて、和音を構成する音の 番号の総加平均の音を出すために書かれているのであるから、それを普通のピアノで弾くのは、いわば 楽器の演奏モードの選択エラーを意図的にやっているようなもので、「正しい」モードで演奏されたものとは 懸け離れた音響が実現されることになる。

実際には、これは後で演奏される作品本体の第3部で、今後はMIDIキーボードにより最初は「正しく」 「歌唱」が始まるものの、途中からは、このプレコンサート同様のモードに切り替わっていくことの いわば予告のようなものになっているのである。勿論、プレコンサートでの音を意識的に覚えていて、 それの再現を確認せよと聴き手に謎かけをしている訳ではなく、 作品本体では聴き手に対して表面的には隠されている仕掛を、この日のコンサートのプログラムの構成を 利用して、種明かししてみせたものと受け止めるべきであろう。仮にそれに意識的には気づかなくても、 知覚の或るレベル(概ね閾域下)での印象の沈殿が、(他の作品の聴取を途中に挟んで、2時間近くもの時間の隔たりは あるのだが)第3部の聴取に無意識的に影響しないとは言い切れまい。


この日のコンサートにおいて作品本体についてまず強く印象に残った点は、それまで演奏された4作品において、 それぞれ方向性を異にしながらも、楽器の特性を存分に使いきった精緻を極めたオーケストレーションが、 非常に高い精度でリアライズされていくのを聴いてきた耳にとってはなお一層、この曲における管弦楽パートが 如何に伝統的な意味合いでの「合奏」に背を向けたものであるかが、視覚的にも音響的にも一層鮮明に感じ取れたことであろうか。

まず、岡野さんが(まるで舞台のセッティングの続きのように)一人で舞台に入ってきて、MIDIアコーディオンを 試し弾きするかのように、舞台上に座り込んで「海ゆかば」を普通に弾き始めると、それがもう第1部の開始である。 演奏中に管弦楽奏者が入場して席に着き、その後登場すべき指揮者もおらず、舞台上でのチューニングもないから、 開演前の拍手をする場所がないのだが、恐らくこれは意図的にそのように仕組まれており、この作品が、 通常のコンサートにおける作品の演奏・享受ではなく、或る種の儀礼の実現とそれへの立会いという性格を 担うべく意図されていることに照応していると考えるべきだろう。

連想されるのは能の上演で、終演後には拍手をする人もいないことはない能楽も、開演前の拍手は存在しない。 というのも、最初にチューニングにあたるお調べが(ただしこちらはいわば舞台裏で)始まり、それが 開演の合図となり、その後囃子方が橋掛かりを通って、地謡が切り戸口から、それぞれ舞台に入って所定の位置につくと、 直ちに笛が演奏を開始してしまうから、こちらも拍手をすることは想定されていないのである。 アコーディオンがお調べよろしく「海ゆかば」を舞台上で座ったまま弾くのは、オーケストラのコンサートではチューニングを 舞台上でするという慣習に対応しているから、構造上の変換による対応はより一層明確なものと思われる。

更に能楽とのアナロジーを続ければ、三輪さんの作品において能管(笛)の役割を果すのは、「打楽器」風鈴である。 能管はピッチが厳密に定められておらず、寧ろ打楽器的にリズムとテンポを決める、いわばアンサンブルリーダーの 役割を果すのだが、こちらでは文字通り打楽器に属するが、西欧音楽の伝統中では「非楽音」と見做されるであろう 風鈴を、但し厳密にピッチを指定して(E)用いることで、管弦楽奏者の「非合奏」の先導役としての位置づけを 与えていると考えられる。そして風鈴を団扇であおいで音を出すのは、能管の一声がそうであるように、 招魂の儀式でなくて何だろうか。実演におけるその効果は視覚的にも鮮烈なものがあるが、 実際にその音に呼び寄せられたようにして岡野さんのMIDIアコーディオンが響きを発して 第2部が始まるのである。MIDIアコーディオンが能におけるシテの「幽霊」としての役割を担っているのは 最早明らかなことだろう。

一方、管弦楽奏者は全体として、サーバにより制御され、WiFi接続の 無線LANで譜面台に載せられた端末に配信されるテンポに従って、定められた音のパルスを刻むことしか許されていない。 (譜面上は弦楽奏者は弓を使うことを禁止されていて、初演時にはその通りに演奏されたのだが、今回は弓を使った 演奏が行われたように記憶していて、記憶違いか、はたまた何か事情があってのことか判然とせず、混乱していたのだが、 リハーサルにて今回は弓を使うことにしたとのことご指摘を頂いたので、ご指摘への謝意とともに、その旨付記しておくことにする。) 指揮者は不在だが、かといって室内オーケストラでしばしばあるようにお互いの間を計り、 聴き合うことで自律的にアンサンブルを形成するのではない。奏者に配信されるテンポがあえて揃わないように、 速度と入るタイミングがメトロノームサーバーにより指定されていて、丁度リゲティがポエム・サンフォニックでやってみたような 異なるパルスの組合せによる効果を、あえて人間が実現するように求められているのである。 ポエム・サンフォニックを例に出したが、音響的な結果だけなら、奏者ではなく、サーバーとLANで接続された 端末そのものが、メトロノームよろしく自ら音を出すようにすれば事足りるわけで、だからここでの狙いは、 実現される音響の側にあるのではなく、その音響が生成するプロセスの側にあることは明らかだ。 序でに言えば、非合奏の側面は、舞台上で奏者がランダムな方向を向いてバラバラに配置されることによって、 視覚的にも強調されている。

そうした管弦(非)合奏の中を、MIDIアコーディオンが、最初は通常のアコーディオンの音を発し、 しばらくすると突然、音声を発するモードに切り替わって(「屍」「死なめ」が繰り返される)、 何度かのモードの交替を経て、その後は「海ゆかば」の歌詞である万葉集所収の大伴家持の長歌の一部、 「海ゆかば水漬く屍/山ゆかば草生す屍/大君の辺にこそ死なめ/顧みはせじ」の歌唱となる。 勿論歌唱とはいうものの、途中で囁きや喘ぎが混じり、最後は叫びに達するというそれは、 今度は人間がやるヴォイス・パフォーマンスを思い起こさせるが、それを音響的に実現するのは、 岡野さん自身の声ではなく、岡野さんが演奏するMIDIアコーディオンによってなのであり、 フォルマント合成によってリアルタイムに生成されるその声は、サンプリングに基づく ヴォーカロイドとは異なって、誰の声でもない=誰でもないものの声なのである。

その後第2部は、家持の歌の引用に続いて、ある特攻隊員の辞世の歌である、 「悠久の/大義に生きん/みたて我れ/みことかしこみ/大空に征く」を、まずはアコーディオンが呟き、その末尾で 風鈴の響きを奏者が風鈴をつかんで止めることで、シテの幽霊が舞台から去ったことが告げられると、 後は管弦楽奏者が、今度は楽器ではなく、自分の声で囁き、そのまま最初に述べた第3部のMIDIキーボードによる 「海ゆかば」の演奏に繋がってゆくのである。囁きと書いたが、音素は非常に明晰に調音される(この点は、 初演時よりも更に徹底されていたように感じられた)ので、 事前に何を読み上げているのかわからなくても、上記の歌に含まれる単語の幾つかは認識できるであろう。

一方第3部の「海ゆかば」の「カラオケ」は恐らく1941年に録音され、実際に大本営発表のラジオ放送の イントロに用いられたと言われるレコード録音をベースにしたものであろうが、これもまた、恰もそうした文脈の 想起を求めるかのように変調が施され、恰もラジオから聴こえてくる伴奏に合せてMIDIキーボードが、 「海ゆかば」を口ずさむかのような効果を持つ。それは第1部のアコーディオンによる演奏の再現だが、 寧ろ、第3部にいたって本来の提示がようやく行われるような、未来完了的な時間構造を感じさせるもので、 ただしそれが徐々にモードエラーを起こし、最後には第0部とでも言うべき、プレコンサートで演奏されたような 「舞台裏の仕掛」を露呈して終るのは、最初に述べた通りである。 初演の時はほとんど最後の節に至ってそのエラーが起きて、圧倒的な驚きを惹き起こしていたが、今回の再演では、 もっと早くから切替が徐々に進むように変えられていて、プレコンサートでの演奏との呼応が図られているように 思われた。


今回の再演においては、プレコンサートでの「内包曲」の演奏も含めて、パフォーマンスとしての構成が 明確に為されていて、何が起きているのかを感じとることができるようになっているように感じられた。 それ故ここで変奏が、通常の意味での音楽的素材、つまり旋律なりベースラインと和声の進行のそれではなく、 実は題名が注意深くそう告げているように家持の歌詞の歌唱に関する、テクノロジカルな変換プロセスにおける (意図的なミステイクも含めた)それであることも明確になったように感じられる。 一見すると必ずしも必然的は見えないかも知れない特攻隊員の辞世の歌もまた、既に天皇警護の家柄であった 大伴氏という集団の歌謡の引用に過ぎず、そこだけを採れば「家持」の作者性は存在しない「海ゆかば」の 歌詞に対して、あえて殆ど「自分の言葉」が含まれない、個人の声が剥奪された歌を辞世に詠むことを社会的に 強制されたいう状況をも含めて、「変奏」なのだというように理解することができるのではないか。

特攻隊員の歌は色々と伝えられていて、もっと自分の言葉が出ているものもあるし、この歌についても、 この歌をいわば「内包」している母親への手紙が遺されていて、そちらはもう少し、こういう「割り切り」を 強いられている状況のようなものがにじみでていて、読んでいて肺腑を抉られるような気持になったことを 記憶している。硫黄島の司令官であった栗林忠道さんの辞世の歌が大本営の玉砕の発表(そこでも 「海ゆかば」が流れたはずである)において「改竄」されたことは、近年、梯久美子さんの本により随分と 知られるようになったが、当時は手紙さえも当然検閲されていたわけだし、それこそ逃亡兵になって ドロップアウトすることを覚悟でもしなければ(しかもそのことによって、親子供や親戚も巻き添えに することになるので、それも含めて覚悟する必要がある)書けないこともあったと思われる。 結局、この辞世の歌の本当の作者は一体誰なのか、寧ろこの歌の背後の沈黙の方にこそ「主体」が 潜んでいるのではないかとさえ思えるのだが、そうした歌はまさにこの文脈における「海ゆかば」の 変奏に相応しいものに感じられてならない。


勿論、私個人については、初演を聴いた上での再演の聴取であり、仕掛が或る程度わかった上でのそれであるから、 いわばブラインドで聴取したらどうであるかについては逆に知るべくもない。聴取の経験もまた、リセットして 初期化して恰も初演を聴くかのように聴いて双方を比較することなど出来はしないのである。 けれども聴き手が仕掛に気づき意識できるかは、この作品の意図する「儀式の上演」にとっては 副次的な問題ではないだろうか。

初演の時に判然とせず、感想においても率直にそのように書き留めた管弦楽合奏についてもまた、 「録楽」であればそちらにどうしてもフォーカスしてしまう結果としての音響上の効果のみを 論じることの抽象性を強く認識させられた点が寧ろ重要に思えるのである。 このコンサートは収録されていて、後日FMでラジオ放送されるそうだが、 少なくともこの作品に関しては、それは単なるドキュメントに過ぎず、演奏の「再現」ではないことは 最早明確なことの思われるのである。既に上で一例としてリゲティを参照したが、それも含めて 他にも先行する試みがないわけではない、相互に単純な比例関係にないテンポの重ね合わせの 音響上の効果自体を追及するなら、人間の奏者は不要であり、今日ならメトロノームや プレイヤーズ・ピアノ以外の技術的な実現手段は幾らでも存在するのだから、 ここでは結果としての音響よりも、その実現の方法の側にフォーカスがあるというよりも、 そちら側にしか「音楽」はないのだということは明確なのである。

単純な比例関係にならないテンポの重ねあわせによって実現される音響が、 指揮者を頂点とする伝統的な管弦楽ような組織構造によるものか、指揮者はいなくても「窓」と「交通」がある、 室内アンサンブルにあるような組織構造の産物なのか、「窓と交通」のない機械を頂点とする組織構造の 産物なのかを「聞き分ける」のは、充分に敏感で繊細であれば可能かも知れないが、寧ろそれは人間ではなくて、 それを検出する「機械」が必要となるようなレベルの精度が要求されるものだろうし、ここではそうした 判定を行う認知実験をしようとしているわけではないのは明らかである。

そして実はそのことは聴き手にとっては、初めから副次的なものなのだ。なぜなら、実際に眼前で 「窓がなく、交通がない」奏者がスマートフォンを相手に音を奏しているのだし、その結果 として実現される音響の総体を聴いてしまっているから。当惑は勿論、そうした状況全体に対する反応であって、 実現される音響のみ取り出すのは抽象に過ぎないのである。

ただ、可能性として、そうした状況で実現される音響そのものも、それを非音楽的な音響として受け止めるべき なのか、それとも、そこにも音楽があると受け止めるべきなのか、という選択はあり得るわけで、勿論、作曲者に どういう意図なんですか?と聞いても仕方ないのかもしれないが、どっちなんですか?と聞いてみたくなって しまったというのが初演の時の経験だったということなのだと思う。そして再演に接してみると今度は、 人間のような複雑な系では強力なフィードバックが働いて認知は簡単に「歪め」られてしまう、というか、 常に何らかの「歪み」を介してしか認知はできないのだということを感じずにはいられない。


あるアルゴリズムに従って複数の人間が音響の生成を伴う動作をすることが 「合奏」であるとすれば、三輪さんの作品の中においては、逆シュミレーション音楽の系列の作品 例えば「またりさま」もそうだし、「59049年カウンター」のようにそれ自体が生物のような 複雑で自律的な圧倒的な豊かさを獲得したケースも含めて「合奏」であると言いうるであろう。 が、ここではそういう意味では、(もちろん、音高自体は、MIDIアコーディオンのそれと 関係づけられてはいても)「合奏ではないもの」が問題になっているのである。

一方通常の合奏では、少なくとも聴き合う、あるいはそれだけではなく、アイコンタクトやジェスチュア などによる「交通」がある筈である。だが、ここにはそれもない。「窓」はなく、「交通」はない。 その結果は何か。しかも厳密に記譜はされていて、その通りに演奏するしかない。窓がなく、交通がない状態で、 勝手に音響の各種のパラメータを選択するわけではない。しかも作曲者と聴き手は全体を知ることができるけれど、 奏者はそうでない、という状況を、そこにある不均衡をどう受け止めたらいいのか?

例えて言えば、都市の夜景の灯りの明滅のような効果を、人工的な設定を介してあえて実現しようとしている のだと考えられる。それは近傍との相互作用によりマクロな挙動が創発する生物の群れの振る舞いですらなく、 一つ一つの灯りは基本的には、他の灯りとは交通を持たず、窓を持っていない。結果その明滅は独立しているのだ。 しかもそれが、見る者にとっては不可視である、或る種の統制を受けているかも知れないという点でも、 この比較は興味深い。ラジオ等のテクノロジーを介した統制により、例えば灯火管制が敷かれた状況において 灯火が徐々に消えて暗闇になっていくのを考えてみたらよいだろう。

勿論、演奏は認知実験ではないけれど、フォルマント合成が母音を産み出して、そこに主体の「幽霊」を浮かび上がらせる ように、ここでも音楽の極限によって実現された音響が、何かを浮かび上がらせるということがあっても良いわけで、 ピッチは既に拘束条件の下に置かれているけれど、速度だけではなく、音色のパラメータもあり、 そこに何かが浮かび上がってくるのを聴いてみたいというように思ってしまうのかも知れない。 そんなところにさえ「意味」を読み取ろうとしてしまうのもまた、生き物としての人間、 ある文化の拘束の下にいる「人間」が持っている傾向には違いなかろう。

そしてそうした「人間」の反応を正直に書き留めておくならば、三輪さんが機械に支配された状況において、 音楽が不可能になる限界を見極めるために、更に加えて「非合奏」を設定したこと自体に、逆説的な 可能性の萌芽があるように感じられたのである。適切な喩えとは言い難いが、見えない力の強制によって、 蝉の羽化の周期が素数の重ね合せになることで、成虫の大発生の周期がずれるように。更にここで、それでもまだ 奏者がいて、演奏行為があり、表面的にはその自由がなくても、他の楽器の音を聴き、あるいは客席の反応を 感じることによって。蝉の場合とは異なって、個体がそれに対して全く受動的でしかない自然淘汰の結果ではなく、 自律的な人間が成員であるが故に、カタストロフへの累進的な加速の危険の傍らに、決定論に対するエピジェネティックな 反逆の可能性があるのではないか。そして更には、現実の強制ではなく、強制の「儀式」の上演に参加することで、 奏者は勿論、一見受身な存在でしかない聴き手でさえも協同して、仮想的な場を確保すること自体の中にその可能性が 潜んでいるのではないか。このような言い方しか出来ないこと自体、そうした可能性をきちんと捕まえることが 出来ていないことの証であることを自覚しつつ、だが、後日に備えてそのことは記録しておこうと思う。

最後に、これは聴き手たる自分の限界故に漠然としたものであっても、そうした可能性が感じ取れたことが、 岡野さんや東京シンフォニエッタの方々の素晴らしい演奏あってのことであることを改めて思い起こし、 そのことへの感謝の気持ちを述べて感想の結びとしたい。

(2015.8.29初稿, 2024.9.11 noteにて公開)

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