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「新調性主義」を巡っての断想

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本当は「「時の逆流」および時間の「感受」のシミュレータとしての「音楽」に関するメモ」でその射程を示したコンピュータによる音楽作品のMIDIデータ分析と、そのそもそものきっかけとなった「新調性主義」との関連付け(但し両者が最初から本質的に関連していて、「新調性主義」の派性としてMIDIデータ分析が位置づけられるわけではなく、その結びつきには少なからず偶然が関与していて、寧ろそれ故に確認の必要に迫られていると言うべきなのかも知れませんが…)を改めて確認し、整理しようと思って、あれこれ準備を進めてきたのですが、なかなか方針が掴めないでいるうちに、年を越してしまいそうです。

準備の途上で三輪さんの著書『三輪眞弘音楽藝術』所収の「《虹機械》作曲ノート」を改めて読み返して見ると、三輪さんのそれまでの活動との関わりにしても、西洋の伝統的な調性音楽との関わりにしても、そこに全てが出尽くしていて、私が付け加えることなど何もないように感じます。例えば「逆シミュレーション音楽」との繋がりも三輪さん自身の言葉によって、この上もなく明確に語られていて、そこから抽出された「音楽」の定義についてもまた「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」と、この上もなく明確に示されています。

三輪さんは「新調性主義」を、直接には百年前に西洋音楽が置かれた状況に「接続」しようとしているように読めます。私自身の文脈では、ブラームスやマーラーを経て、丁度シェーンベルクやハウアー、スクリャービンやロスラヴェッツの時期ということになるでしょうか(但しお断りしておけば、この中ではハウアーの「作品」についてはそれを聴こうとは私は思いません。一方でロスラヴェッツが理論家としても作曲家としても無視され、死人に鞭打つような仕方で没後も迫害されてきたことは不当であり、彼には単なるスクリャービンのエビゴーネンではない、独立したポジションを与えて然るべきと考えます)。そして、その後の西洋音楽が20世紀前半からのおよそ100年の期間をかけて推し進めてきた「思弁の音響化」ではない、つまり無調や十二音技法でもなく、或いは、私に身近なところではクセナキスのような統計的な音響の制禦でもラッヘンマンのような特殊奏法を駆使した音響作曲法でもない「ありえたかも知れない西洋音楽」として、そうした潮流に対するアルタナティヴを提示することが、100年後の極東でようやく可能になったということで、確かに問題意識としては、「新調性主義」はまさに100年前に遡行するのだと思います。

(ちなみに三輪さんを研究対象とする未来の音楽学者であれば、アメリカの実験音楽との関係を分析して跡づけるのが一つのテーマとなるのでしょう。が、私の関心はそこにはありません。寧ろ、自分がさんざん聴いてきて、今なお聴いている「かつての音楽」が何だったのかを考える方向に向かってしまいます。他人からすればどうでもいいことなのでしょうが、自分ではそこの部分を整理しておきたい、止みがたい欲求があるようです。)

ということで、ここしばらく「新調性主義」に導かれて、それが訣別した「ロマン派の亡霊」(もっとも、当時は少なくとも今そうであるようには亡霊ではなかった訳ですが)の遺産を、ビッグデータに支配された時代状況に相応しく、コンピュータを用いてデータ分析しようとして、あれこれ方法論を探ってみたり、予備的な分析を試行したりする途上で感じたのは以下のことです。

三輪さんの意図とは別に、実際に「新調性主義」で何が保存され、何が捨てられたかを整理してみると、それは100年前ではなく、更に歴史を遡行して、長調・短調という2つの旋法(それはダマスカスの聖イオアンにアトリビュートされた「オクトエコス」には含まれず、ようやくハインリヒ・グラレアヌスが『ドデカコルドン』(1547)で追加したもので、その後ツァルリーノが『ハルモニアの証明』(1571)にて旋法の序列を変更するという経緯を経て優越性を獲得していったという歴史を辿ってみると、進化論的なアナロジーを適用するならば、生き残ったというより、教会旋法の空き間を狙って、まるで残された可能性の方が選択されたかに見えます)と機能和声、十二音平均律の確立という一連の、相互に深く関連づけられた出来事に対するアルタナティヴであるように思われます。そして「新調性主義」の作品、即ち「虹機械」の系列の作品が単旋律であることもまた、分子進化学やその言語学への応用たる言語年代学ならぬ「ありうべき」音楽進化学や音楽年代学的には、西洋音楽の歴史を深く遡行する特徴であるようにも見えてきます。

三輪さんは「逆シミュレーション音楽」に辿り着く手前で、柴田南雄さんの『音楽の骸骨の話』に依拠して、いわば「ありえたかも知れない日本音楽」(=「極東の架空の島の唄」)の可能性を探られたのでしたが、「新調性主義」について改めて思いを巡らせつつ思い浮かんだのは寧ろそのことでした。まさにそれは「極東の架空の島の唄」の「西洋音楽」版(ただし、「逆シミュレーション音楽」を経ている分、よりラディカルですが)であるかのように感じられたのです。そもそも「西洋」が成立する手前まで遡行して、あり得たかも知れない「日の沈む地=黄昏の国(Abendland)の架空の半島の」音楽を仮構したしたものであるかのような。

けれども上記のようなことを掻き集めて「新調性主義」を一つの統合された展望に位置づけようとしてもなかなか纏まりません。従ってここでは、結論を探るのは一旦諦めて、なかなか纏まらない理由の方を考えてみたいと思います。

一つ留意すべきことに思えてならないのは、「新調性主義」における「うたう」側面の欠落です。単旋律であり、ポリフォニーや和声による支え(数字低音を思い浮かべて下さい)抜きに、でもそれはグレゴリオ聖歌のように人間が歌うのではない。「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」という定義の特に「身体を使って発音する」の部分は、まさにそのことを意識して、慎重に言葉が選ばれているように思われます。単旋律であるにも関わらず、人間が歌うのではなく、逆にその旋律は、十二音平均律を前提とした楽器(それは身体の「補綴」或いはパワード・スーツの如き「拡張」と位置づけられるでしょう)によってしか演奏できませんし、それを楽器で演奏するために、これまた長期間にわたって西洋音楽の歴史の中で蓄積されてきたメソッドに基づく訓練によって、限られた者のみが獲得できる高度な技巧の裏付けが求められているのです。そのことを踏まえれば、今聴くことのできる「新調性主義」の作品群は、恰も、件の「架空の年代学」においては「西洋音楽」から分岐が起きてからかなりの時代を経て、独自の進化を遂げた後のものであるという印象が呼び起こされるように思います。

もう一つには、それを「時間の感受のシミュレータ」として眺めたときに「新調性主義」の作品がどのように位置づけられるかという点を私が十分に整理できていないということがあるように思います。勿論、離散力学系を音の系列の生成規則として持つ「新調性主義」の作品もまた、「時間の感受のシミュレータ」として捉えることはできる筈ですが、そうは言ってもそれが例えば後期ロマン派の作品に対してアドルノが行ったような「小説」とのアナロジーが有効な時間の構造を持たないことは明らかです。三輪さんの言葉を借りるならば「脳の拡張」としてのコンピュータが音を選び出すにあたって用いる規則は、後期ロマン派の作品を典型とする「人間的時間」からは遠く、寧ろ自然現象の法則に近いもので、ここでは数理的アプローチに適した別の種類の時間構造が追求されているという印象を強く持ちます。そしてそのことは「逆シミュレーション音楽」を踏まえた時、以下に示すように、幾つかのラディカルな批判的意味合いを持つように思えます。

通常「音楽」においては、或る文化的伝統の中でそれを作るための「規範」が形成され、それに基づいて人間が作品を作ります。その「規範」がどの程度意識化されるかは個別の音楽的伝統に応じて様々ですが、「西洋音楽」では理論化が常に行われてきたことはご存知の通りです。そしてそれでも尚、それはあくまでも「規範」であって「制約」や「法則」ではありません。「どのような規則に従って音が選ばれたか」について自由度があり、それ故、事後的な分析の余地があります。言ってみれば、それは少なくともヴィトゲンシュタインの言う「規則随伴性」が成り立つ領域なのです(但し、「規則随伴性」を狭義に捉えた場合、それは必要条件であって十分条件ではないことに注意する必要があると考えます。それは「ゲーム」と或る種の性質を共有しますが、「ゲーム」そのものではないのです)。一方で「新調性主義」では、「逆シミュレーション音楽」を踏まえ、事前に規則が(例外も含めて)厳密に定められ、その規則に従って音が選ばれるという意味合いにおいて「決定論的」であり、そこには自由度は存在しません(そして「ゲーム」ですらないという点、寧ろ敢て「ゲーム」が成立する余地を排除している点に留意すべきと考えます)。これも「作曲ノート」に書かれていることですが、あるのは初期値の違いだけで、ここでの作曲家の作業は興味深い初期値を探索することになります(そしてその探索は実は不可欠であり、「本質的」でさえあります)。現実問題としても、どの初期値を選択するか、ということ自体についても、或る規則に従って探索をして選択をするといった自動化は可能ですし、実際に三輪さん自身、そうしたことを試みているようです。勿論ここで最終的に「何が興味深いか」を決めるのは、一先ずは人間である作曲者なのですが、AI技術の発達した今日では普通に想像できるように、それについても更に、「もし機械が嗜好を持つようになれば…」というようにアイデアを進めていくことができるでしょう。恐らくその極限には、人工生命による人工生命のための「音楽」があるでしょうが、「新調性主義」はそうした可能性を示唆するラディカリズムを孕んでいるということが言えると思います。

一方で、規則によって生成された音の系列によって実現される音楽的時間の方について言えば、それは既に述べたように、通常の音楽の持つそれとは一見して隔たった異質なものであるように見えます。けれども「新調性主義」においては、五度圏上で音の選択が行われることで十二音平均律における協和音程の原理に基づいた音の系列が実現し、そのことによって聴き手は、調的重心の推移を感じ、調が固定したり変化する、或いは明確化したり曖昧化したりを感じることになり、それによって或る種の雰囲気の変化を感じとり、情動が生じるといったことが起きてしまうように仕組まれてもいます。結果としてそれは、一見したところは異質に感じられても、「人間的時間」が生じる基礎の少なくとも一部を明らかにしているには違いない、少なくとも「新調性主義」においてそうした方向性を三輪さんが志向しているのは明らかです。勿論、その目的を達成するためだけなら、西洋音楽の遺産の上に成り立っている出来合い手段を駆使する方が簡単であり、実際に商業音楽ではそうしたことが行われているわけですが、それでは(事後的に分析されるべき)「魔法」が残ってしまいます。それに対して「新調性主義」では、音の系列の生成規則は分析により発見されるまでもなく明示的ですから、これに何を加えれば、より「人間的時間」に近付くことができるのか、といったアプローチを潜在的に含み持つことになります。しかしその行き着く先は、最悪の場合、特定の情緒を喚起したり、「癒し」(或いは目的によっては「恐怖」や「不安」さえ)をもたらすといった目的を持った「音楽もどき」の自動生成でしょう。そして今や現実にこうしたアプローチが商業ベースで実際に行われていることもまた事実で、そこには「逆シミュレーション音楽」に対して或る種の人々が嗅ぎ付けたのと同じ種類の暴力の危険が存在するでしょう。その意味で「逆シミュレーション音楽」が敢てリスクを冒して剔抉してみせた現実に対する批判的姿勢(それは、超越者に対する儀礼という側面を忘却し、儀礼の社会的機能、即ちそれに参加する人間に対する働きかけといった側面のみが残ったことにより「西洋音楽」が孕むことになった、テクノロジーとしての側面、感情とか情緒といった次元を「操作」し、そのことによって「支配」するという方向性に対する批判でもあります)というものを「新調性主義」が共有しているという見方ができるのではないかと思います。「逆シミュレーション音楽」においてそれは明らかなことですが、この方向性についてなら、「西洋音楽」をどこまで遡行するかについて言えば、やはり100年前ではなく、少なくとも啓蒙主義を背景とし、フランス革命を契機とした音楽の世俗化にまで遡ることになるでしょう。三輪さんによれば、その後「西洋音楽」が経た華々しい発展と進化のプロセスと見えるものは、寧ろ緩慢な「音楽の死」の過程に他ならないことになります。

けれども上に挙げた2つの方向性は(私は敢てそれをやや単純化して誇張して強調しましたが)、いずれにしても「新調性主義」が含み持つ側面であるとはいえ、目指す方向ではないことは「《虹機械》作曲ノート」を読む者にとっては明らかなことではないでしょうか?それは寧ろ、100年前に「西洋音楽」が誤って踏み込んだ進化上の行き止まりによって喪われてしまった可能性を今一度探る試み、新たな「音楽」を産み出す挑戦なのではないでしょうか?そうであるとして、それではどんな可能性が示唆されているのでしょうか?それは単純な(かつての)「人間的時間」の復権ではないにせよ、新たな「人間的時間」を今日の状況の下で探求する試みではないのでしょうか?もしそうであるとしたならば「人間的時間」からは遠く、寧ろ自然現象の法則性に近い、数理的アプローチに適した別の種類の時間構造が採用されていることを(上で述べたような批判的な契機は別として)どのように考えたらいいのでしょうか?

古典的な力学系は準静的過程を扱います。つまり熱力学的平衡が成り立っている系の変化を記述することができます。そしてそれは可逆過程でもあります。けれどもそれは「音楽」で起きる出来事の半分しか扱っていないのではないでしょうか?非常に粗雑なアナロジーですが、伝統的な調性音楽の分析に基づく理論化の一つであるシェンカー理論におけるウアリーニエやウアザッツを思い浮かべてみましょう。音が下降することは「自然」なこと、緊張が解決することは「自然」なことであり、そうした「自然」が規則に反映されているようにも思えます。けれどもそれならば逆に緊張が生じる過程の方はどうでしょうか?どのように終わるかは説明できたとして、ではそもそもなぜ音楽は始まるのでしょうか?理論的には可逆であったとしても、音楽的時間は非可逆過程として扱われるべきではないのでしょうか?更に言えば、不可逆過程のモデルとしても、例えば「振り子」の減衰の物理的過程をモデルにするのは不適切ではないでしょうか?音楽を「時計」のような「機械」のメタファーで捉える試みは広くなされてきましたが、それはバロック期の音楽のメタファーとしてさえ不十分で、ミスリーディングなものではないでしょうか?一方で音楽を「有機体」に喩えることもまた、西洋音楽の歴史の中では行われてきましたが、それもまた複雑系の理論が整備される近年までは非常に粗雑なメタファーでしかなかったように見えます。もし本当に音楽を有機体に擬えるのであれば、メタファーとしてではなく、最低でもそれを実際に散逸過程として扱う必要があるのではないでしょうか?もし音楽が「時間の感受のシミュレータ」であり、そこで「人間的時間」を扱おうとしたならば、生命を、意識を扱う数理的なモデルこそが必要だということにならないでしょうか?

そして、これもまたあくまでも潜在的な可能性に過ぎず、それゆえ「新調性主義」が目指すところではないと思われますが、「新調性主義」は、そうした方向性に対しても、或る種の「マトリックス(母型)」を提示していると言えるように思います。例えば「虹機械」には「七つの照射」という副題を持つ作品がありますが、そこでは力学系に基づく遷移過程が安定状態に陥ってしまうと、それを検知してノイズを発生させて新たな軌道に脱出させるメカニズムが備わっており、それが放射線による突然変異に喩えられています。些か強引な飛躍であることを承知で言えば、それは音楽が始まるためには、外部からの、他者からの働きかけが必要であることを示唆してはいないでしょうか?なぜ人は「うたう」のかについての、生命以前に遡行する萌芽がここにあって「ありうべき音楽」の条件を示しているのではないでしょうか。

ただし、繰り返しになりますが、それを一気に「人間的時間」に短絡させることはできませんし、特にかつての「人間的時間」の復権が目指されているわけではないのは明らかです。そしてそれは「人間的時間」というのが「ロマン派の亡霊」と分ち難く結びついたもので、三輪さんが「人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってはそれはいまのところこの論理的宇宙なのである」と記していることに対応していることを思えば当然のことでしょう。しかしこのことが、先に触れた「新調性主義」における「うたう」ことの欠落および「楽器」による「補綴」「拡張」と裏腹の関係にあり、その背後にはテクノロジーの発達が介在しているように私には思えるのです。レイ・カーツワイルの主張する技術的特異点(シンギュラリティ)は、どうやらすっかり人口に膾炙してしまったようですが、ドイッチュの言う「無限の始まり」を、ダマシオの言う「反逆」を可能にするテクノロジーが、同時に「人間」を「終焉」へと追いやり、現実をますますアミューズメントパーク化する「魔法」でもあるという両義性への認識故に「うたう」ことの欠落が意図的に選択されたものであるという点まで思い至っても、どこからか突如としてそうした「現在」の状況への切迫した「応答」であるという契機が露わになる、その繋ぎ目のところがうまく解きほぐせないでいるという感覚があります。

あえて予感めいたことを幾つか付け加えるならば、まず「うたう」ことの欠落は、しかし「音楽」の不在を意味してはいないということで、最初の方で述べた通り、「規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」という「音楽」の定義が揺らぐことはない。つまり「うたう」ことの欠落は実際には「見かけ」に過ぎず、それは音を選ぶ規則のみを見る抽象の結果であるということをまず認識すべきかと思います。「うたう」ことは、要求されている超絶技巧の名人芸的側面に隠れて、こちらも見てとりにくくなっているものの、「身体をつかって発音すること」の側には存在するし、規則を選択し、初期値を選択する作曲者にも、そしてその総体を受け止める聴き手にも存在しているのは間違いなく、寧ろそのことが「音楽」を成立させているのだという消息を確かめておくべきでしょう。同じ事の言い替えになりますが、ここでは意図して「音の選び方の規則」だけを抽象すれば単純な離散力学系で記述できるように仕組まれているのであって、そこだけを切り取っても「音楽」は立ち現れない、そして本当の意味での作曲の過程、演奏の過程、聴取の過程の全てを含むプロセスの総体としての「音楽」を記述しようとしたら、やはり複雑系的な描像にならざるを得ないのではないでしょうか?

「新調性主義」は、単に調性を喪った「西洋音楽」に対するアンチテーゼに留まりません。それは既存の「調的システム」への回帰ではありません。それは「心から心へ」のモデルへの批判でもあり、それが意図するとしないとに関わらず含意する「心」の操作と支配とは異なったものの探求なのであり、それ自体「心」が産み出した独我論的な観念の恣意としての「調性の否定」への批判でもあるに違いありません。三輪さんの活動の全体を見れば、そこにはそもそも「調性」そのものと無縁なシステムを用いた例もあり(例えば「またりさま」)、「西洋音楽」を含む多くの「音楽」が基礎においている協和音程を前提としていないシステムを用いたケース(ガムランが三輪さんの活動の中に占める或る種特権的な地位を思い浮かべ、ガムランが十二音平均律は勿論のこと、五度音程すら基礎としない「例外的」なシステムであることを確認してみましょう)もあることを考えれば、ここでいう「調性」は最大限に広い意味合いで捉えるべきなのではないかと思います。総じて「新調性主義」では、伝統的な「西洋音楽」が恰もその範例であると見做されることによって生じている様々な予断を、謂わば「括弧入れ」すべく、「調性」に纏わる様々な予断を遮断した上で、別の、未知の可能性を探っているように思えます。あえて言うならば、そこで「調性」とは、未知の領域を切り開く際に、稍もすると「心」が暴走したり、迷走したりして恣意的な「規則」を産み出し、剰えそれに支配される「暴力」をもたらしてしまう不毛に陥ることを防ぐために支えとする法則性の謂ではないでしょうか?法則は規則とは異なって、恣意的にでっちあげることができるものではありません。「心」と「心」の間には何もないと考えるのは或る種のヒュブリスであって、「新調性主義」はそうした姿勢を批判しつつ、自分達を支える法則性に目を向けることを促しているように思えるのです。

なかなか纏まらない理由の方を考えて辿り着いたのは上記のような事柄ですが、この上自分が多言を弄するよりも、そちらの方が余程意義あることであるという感覚に従い、「《虹機械》作曲ノート」の末尾で三輪さんが書かれていることを引用し、確認することで、一旦の結びとしたいと思います。

元々の目的であったコンピュータによるデータ分析との関わりは一旦措いても(何しろそちらは単なる私の個人的な事情に基づくものかも知れないですし…)、恐らくは「人文工学」の課題の幾ばくかは、ここに極めて凝縮されて提示されているに違いなく、以下の一節を徹底的に展開することこそが求められていることは確かだと思うのです。「反抗」によって切り開かれた可能性が提示する音楽的時間はどのようなポテンシャルを孕んだものなのか。それは「うたう」ことや他者との「共感」という、「音楽」の基本的な次元とどう関わるのか。ここで私が思い出すのは、2年前に再演されたモノローグ・オペラ『新しい時代』の、あの末尾で起きた「逆転」、全てがそこに賭けられたと言っても良い「逆転」がどのようにして三輪さんによって用意されたかです。「うたう」ことがそこでは最早不可能であり、かつ最後の可能性でもあることが示されていた、そのことと「新調性主義」との関わりを解きほぐすことこそ、同時代の受容者たる私に課せられた課題であるという点を確認しつつ、そのための準備が未だ整っていないことを正直に告白せざるを得ない状況です。

「…「新調性主義」は、音楽においてもまた、徹底的に普遍化し規格化した現代社会の中で、常に唯一の出来事=音楽=美を成立させるための試みであり、西洋音楽の「伝統」という死亡宣告に対するはっきりとした反抗である。十二平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン派の亡霊」が消え去るまでには百年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じたい。」

(三輪眞弘「《虹機械》作曲ノート」,『三輪眞弘音楽藝術』所収)

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(2019.12.30 未定稿のまま公開, 2020.1.3加筆)

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