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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(28)

28.

共感覚自体の取り扱いについて振り返っておこう。ジッドが2月28日の手帖において持ち出すのは、「田園交響楽」における楽器の音色と色彩の対応である。

Le rôle de chaque instrument dans la symphonie me permit de revenir sur cette question des couleurs. Je fis remarquer à Gertrude les sonorités différentes des cuivres, des instruments à cordes et des bois, et que chacun d’eux à sa manière est susceptible d’offrir, avec plus ou moins d’intensité, toute l’échelle des sons, des plus graves aux plus aigus. Je l’invitai à se représenter de même, dans la nature, les colorations rouges et orangées analogues aux sonorités des cors et des trombones, les jaunes et les verts à celles des violons, des violoncelles et des basses ; les violets et les bleus rappelés ici par les flûtes, les clarinettes et les hautbois.

だが、牧師が持ち出すこの楽器の音色と色彩の対応は、その後に続く白と黒についての議論によって、単なる喩か、せいぜいが「照応」による連想の 話に過ぎないことが明らかになる。ジェルトリュードは音色=色彩語という対応のみを手がかりとするから、牧師の後付けの理屈の持つ矛盾は 連想アルゴリズムのバグとなって直ちに検出されてしまう。

– Mais alors : le blanc ? Je ne comprends plus à quoi ressemble le blanc…
Et il m’apparut aussitôt combien ma comparaison était précaire.
– Le blanc, essayai-je pourtant de lui dire, est la limite aiguë où tous les tons se confondent, comme le noir en est la limite sombre. – Mais ceci ne me satisfit pas plus qu’elle, qui me fit aussitôt remarquer que les bois, les cuivres et les violons restent distincts les uns des autres dans le plus grave aussi bien que dans le plus aigu.

そもそもこの文脈は、先天盲であるらしいジェルトリュードに「色彩」を説明する文脈で出てくるのだが、その冒頭にプリズム、虹が出てきて、 そのあと色彩と明度、色価の区別に関するジェルトリュードの混同を牧師は書きとめる。だが牧師の上記の説明は、混乱はジェルトリュードの側にあると いうよりは牧師の側にあることを告げているようである。ジェルトリュードにとって、「色」は「色彩語」に過ぎず、その限りで離散的なもので、その合成 演算もまた、そうしたものとならざるを得ない。「田園交響曲」の聴取における聴覚と色彩語の対応づけの試みは、その「色彩語」を楽器の音色の相違という 具体的な知覚印象における弁別と関連付けしようとしているのであるから、寧ろ、楽器の音色による(擬似的な)色彩のシステムを構築すべきだったのだ。 しかしそれは、後述するような、後天的に失明をした結果、聴覚と視覚の共感覚が残り、場合によっては強化されるようなケースとは区別しなければならない。 ジェルトリュードはそもそも視覚による色彩の受容の経験がないのだから、「色彩語」と音色の対応が即、視覚的な色彩の音色の対応であるとは言えない。 実際には共感覚というのは、感覚と感覚の直接的なマップであるというより、概念を媒介したもののようである(文字と色との共感覚などは、そうでなければ 説明がつかないだろう)から、共感覚とまるきり無縁というわけではないのだが、それでもこれを「共感覚」と呼ぶのは、文学的な修辞の類でなければ 許容されえないだろう。

pour ma part je commençai par lui nommer les couleurs du prisme dans l’ordre où l’arc-en-ciel nous les présente; mais aussitôt s’établit une confusion dans son esprit entre couleur et clarté ; et je me rendais compte que son imagination ne parvenait à faire aucune distinction entre la qualité de la nuance et ce que les peintres appellent, je crois, « la valeur ». Elle avait le plus grand mal à comprendre que chaque couleur à son tour pût être plus ou moins foncée, et qu’elles pussent à l’infini se mélanger entre elles. Rien ne l’intriguait davantage et elle revenait sans cesse là-dessus.

楽器の音色というのは、差しあたってその楽器固有の波形で近似的に特徴づけられるが、その波形はフーリエ解析によりスペクトル分解することができる。 その操作は例えば人間の音声の母音の区別にあたって行われる操作と変わらない。つまり(有名なところではランボーが語ったとされる)母音と色彩の対応と、 ここで論じられている楽器の音色と色彩の対応との距離はそんなに遠いわけではない。(ただし、ランボーの述べた母音と色彩は、書記素と色彩の対応であり、 母音音声のフォルマント構造と色彩の対応づけではない可能性が高いし、ランボーが実際に示している対応付けそのものは恣意性が高いもののようであり、 (サイトウィックとイーグルマンは、バーリンとケイの色彩類型論にさえ従っていない点を指摘している)かつまたランボーが共感覚の持ち主であった可能性は低いようだ。 だから、寧ろここでは、仮にランボーが「自分は母音の色を発明した」と発言しており、自覚的であったことを踏まえたとしてもなお、彼への言及は意図的に 外すべきかも知れないほどなのである。)

だが何より注意すべきは、ここで「共感覚」の問題というのは、実際には極めて不均衡な形で設定されているということだろう。既に引用した若林も含め、 ジッドの作品での記述が共感覚やら(ボードレールの言う)照応による神秘的世界の描写であるという言い方は、おしなべて先天盲であり、聾者ではないものの、 言語習得も(従って、概念の形成も)遅滞していたという設定を作者自身が一方で行っているジェルトリュードの「現実」に対して無頓着なのだ。 (それはボードレール自身が大麻吸引等によって、共感覚の「神秘的な」経験を有しているかどうかという問題とも当然、独立である。) 彼女自身には、(少なくとも第一の手帖に記載された時点においては)共感覚というのは端的にないのだ。あるのは聴覚を通じて構築された色彩の観念の体系であり、 それは開眼手術後の色彩の経験とはとりあえずは区別されるべきだし、開眼手術後の彼女が、聴覚による色彩の観念のシステムと視覚的に獲られた色彩との 間をどう調停したかについては、そもそも開眼手術後にジェルトリュードに起きたに違いない経験についての経験的事実を、芸術上の判断によってか、あるいは 単なる無知によってか無視した出鱈目に基づいて物語を構築しているジッドの関心の埒外のようであり、何の記述もない。いずれにしても、「共感覚」を議論できるのは せいぜい牧師と作者ジッドの側のみであって、ジェルトリュードの側ではない。しかも牧師のそれはいわゆる真性の共感覚者のそれではなく、せいぜいが比喩・連想の類に 過ぎず、自分でそれを経験しているわけではないのはほぼ明らかである。かくいう私は、別の仕方でだが、音から色彩への共感覚、いわゆる「色聴」を持っているので、 若林のような恐らくは文学的には許容されるのであろう比喩的な「共感覚」という言葉の使用法には、率直にいってかなり強い抵抗がある。いわば共感覚の経験が ない人間が、先天盲の人間に対して、概念上区別されてしかるべき現象を誤って適用しているように感じられて、危うさを感じずにはいられないのである。

真性の「共感覚」については、例えばラマチャンドランの「脳の中の幽霊」と、ほぼ同じ内容の講演、特に音楽に焦点を絞ったものとしては、 オリヴァー・サックスの『音楽嗜好性(ミュージコフィリア) 脳神経科医と音楽に憑かれた人々』 の第14章、「鮮やかなグリーンの調 - 共感覚と音楽」に出てくる例が 興味深い。 後者では、後天性の共感覚を惹き起こす有意な唯一の原因として、「失明」があげられ、「とくに幼少期に視力をなくすと、逆説的な話だが、 視覚的心像を描く力や、あらゆる種類の感覚間の接続と共感覚が強まる場合がある。」という記述があるのが、ここでの問題にとっては注目される。ただし、 いずれにせよ、ジッド、牧師、若林を支持するような事実はなく、「失明してすぐに共感覚が起こるので、脳のなかに構造的な新しい接続ができるのではなく、 ふつうなら完全に機能にする視覚システムに抑制されているものが、解放される現象が起こるようだ。」として、ジャック・リュセランのケースが紹介されている。 勿論、ジェルトリュードの場合というのが、共感覚が問題になる条件のすぐ近くにあることは確かなのだが、現実に対するごく僅かな想像力すら欠如しているがゆえに、 「共感覚」という極めて(恐らく芸術にとっても間違いなく)興味深い事象を適切に扱うことが出来ていないと判断せざるを得ない。 (ちなみに私自身の色聴は、オリヴァー・サックスが紹介している別の例、作曲家マイケル・トーキーの例と同じで、調性と色彩が結びついたものである。 ただし色と調性との対応付けはトーキーのものと私のものは一致しないが。)

リチャード・E.サイトウィック、デイヴィッド・M.イーグルマン、「脳のなかの万華鏡:「共感覚」のめくるめく世界」の「色聴」の部分ではより包括的な紹介があるが、 特にここでの議論に関連して注目すべきは、ディズニーの映画「ファンタジア」についての言及、および絶対音感との関係である。後者については私自身の 保持している「色聴」との関係から、絶対音感もはっきりしたものではないが持っている私の場合の音高と色との結びつきと類似した事例を含んでおり、個人的には 非常に興味深い。例えば、ベートーヴェンの田園交響曲の録音のうち、バロック・ピッチを採用している幾つかのもの(手持ちのものからフランス・ブリュッヘン指揮、 18世紀オーケストラの演奏とジョン・エリオット・ガーディナー指揮、オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクの演奏をあげておこう)を聞いたときの 転調による色彩の変化の印象が、現在の標準的なコンサート・ピッチに概ね拠っている他の演奏のものとは異なるのである。楽器による違いもあり、 平均律で調律されたピアノでは調性と色彩の対応は希薄なのに対して、管弦楽曲で、概ねロマン派までの調性システムに依拠した作品の場合には 比較的明確に色彩を感じ取れる。調律の仕方からすれば寧ろ色彩の変化がはっきりと聞こえることが期待できるピリオド・スタイルの演奏は、さぞかし 色彩の変化がヴィヴィッドだろうと思ったのだが、実際にはどうやらバロック・ピッチのせいで、それが妨げられているようなのである。勿論、「色聴」の経験は 個人差が非常に大きく、特に音と色との対応はかなりばらつきがあるようなので、これはあくまでも私自身の事例に過ぎないのだが、いずれにしても 自分が「共感覚」を持っているだけに、(それを文学的に曖昧に適用し、先天盲の登場人物の物語に誤って適用するという文学研究者の態度を含め) 「田園交響楽」の作品とその周辺での共感覚の扱いの或る種の無神経さには無関心ではいられないのである。

更に共感覚を持っていたか、あるいはそうでなくても色彩と音楽との対応を意識した音楽を創作した作曲家は枚挙に暇がない。ベートーヴェンの田園交響曲を 持ち出すのは寧ろ見当はずれであって(なぜ、それを選択したかは杳として知れないが)、既に言及したオリヴィエ・メシアンの音楽は色彩と音との対応に 満ちているだけではなく、(その全てが陽に宗教的なテーマに基づくものではないにしても、)カトリックではあるけれどもキリスト教信仰に基づく音楽でもある。 ジッドは牧師を介して、福音書には色彩に関する言及がない、と述べているが、メシアンもしばしば参照するように、例えば黙示録のように色彩の散乱と いってよい部分もまた存在していることに対しては、どうして言及しないのか。メシアン以外でも、キリスト教ではないが、或る種の神秘主義への傾斜とともに、 色光ピアノを用いたマルチメディア・アートの先蹤を為す試みをしたスクリャービン、スクリャービンと交流があり、調性に対する色彩の共感覚について、 スクリャービンとの比較をしたことでも知られるリムスキー=コルサコフ、自分が指揮者をしたプローベにおいてオーケストラに対して色彩を用いた指示を したことで著名なリスト、私自身の聴経験から、色彩の共感覚を持っていたことを知ったときに頗る納得感のあったシベリウス、アメリカの女性で最初の 職業的作曲家として著名なエイミー・ビーチ、更には著作で明示的に共感覚について語り、創作においてその経験を用いていることを述べている リゲティといった人たちを挙げることができるだろう。

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