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ショスタコーヴィチを巡っての15の断章(13)

13.

ショスタコーヴィチについてもう一度。今度はもっと個別の音楽に寄り添って。

ピアノ曲、室内楽、特に弦楽四重奏曲。 前奏曲とフーガの社会的機能?弦楽四重奏や室内楽の社会的機能? ニコラーエワが、ベートーヴェンカルテットのメンバーが、オイストラフが弾くという、名指しできる他者の存在。 これはある種の「親密さ」といってよいかも知れない。

(そもそも私はフーガが、対位法的な線の重ね合わせが好きなのだ。 子供の頃の作曲、訓練なしに、規則を知らずに書いた、複数の楽器のための、それぞれが独立して、でも性格は類似した線が並行する音楽。 変動する拍子。奇数拍子への嗜好と、加法的に伸縮するフレーズ、、、)

24の前奏曲とフーガ。 かすかな雨の予感。今外に降っている雨の、また、過去のこの音楽を聞き始めて以降のある日の、さらにまた、まだこの曲を知らない、かつての子供の頃の 記憶のうちの、そしてあるいは、ロシアのショスタコーヴィチが暮らしたある日の。

何か、とても具体的で個別的な経験が背景に存在するという感じ。 住んでいた部屋の広がり、あるいは外の天気。雨?雪? 空気の感じ。 そして、どこかにあるロシアの田園風景(のようなもの)。 それは、とても限定されてはいても、私もまた共有できているもの。 思い込みかも知れないが、そうした思い込みを可能にするもの。

24の前奏曲とフーガの素敵なところは、まるで日記のように、各曲の風景や空気や気分が変わっていくことだ。 多分、現代の音楽のあり方としては些か古風なことに(初期のアヴァンギャルドであった彼の音楽はおくとしても)、中期以降のショスタコーヴィチの音楽には、彼自身を聴き取ることができるし、彼も、 ほぼ疑いなく、音楽を、そのようなものとして捉えていた。 特にここで問題にしている室内楽やピアノ曲の場合は。

逆説的に、ショスタコーヴィチにおける「自然」。勿論、存在しないわけではない。 カルテットの表現の細部に立入ってみると、寧ろ、こちらの方がより「近い」もののように思われる。文脈が個人的で歴史的、社会的広がりがない分、かえって受容しやすい。 抽象的な音楽の方が好まれるのは、体験の質の伝達という点では、文脈が自由な分、容易だからに違いない。 だが、それだけではない。時代的な近さだろうか? 前世紀の、生活世界のレベルでの信仰や思想的な前提が異なる環境で生まれた音楽よりも、しっくりくることが多いように感じられるようになってきた。 より一層心理的に聴けてしまう、ということだろうか。 現代的な、ほとんど同時代(だが、実際には自分の「知っている」過去)の空気を共有できる音楽。 かつて私の友人の一人はディアベリ変奏曲にベートーヴェンの喜怒哀楽を見出し、感嘆していた。彼の聴き方の、何と正しかったことか。 今、私はかろうじてショスタコーヴィチに対してそうした接し方をする。 ショスタコーヴィチは私にとって、尊敬すべき他者だ。距離感が異なる。能力は勿論だが、気質の違いを感じる。 ずれは感じるが、それでいて、ある部分では共感できる部分がある。他者ではあるが、その他者の、人間というのを感じ取ることができる。 ここに感受の伝達が存在する。

弦楽四重奏曲や24の前奏曲とフーガ、その他の室内楽を聴くと、私は時折くつろいだ気分にさえなる。 それは、かつてロマン主義の時代の音楽が備えていた「親密さ」とは全く異なる(私は、そうした「親密さ」があまり好きではないのだろう)。 もっと不安やストレスに縁取られた、ある意味ではせせこましく、慎ましいくつろぎの時間と空間。 前世紀の音楽は寧ろ、外からは見えない他人の庭に近い。中に入ってみると、そこは「非日常」である、といった側面がある。それに対してショスタコーヴィチのカルテットの音楽は、まさに「日常」ではないか。 だから美ではない。グロテスクも、イロニーも、従来の規範から見れば逸脱であったとしても、むしろそれは「日常」の様態なのだ。 そしてショスタコーヴィチの醒めた意識は、非日常的な経験そのものを疑いの目で見る。 (機会音楽の類は除く。)超越の、形而上学的な救済のビジョンの拒否。 一方では、自然への帰依の感情の拒否。 人間であることに「とどまる」。他者の間にとどまる。 だから風景は奇跡的な輝きを帯びることはない。

ショスタコーヴィチの稀有なところは、そうした親密さを絶対視することが、結局はできないこと、「意識」にとっては仮に絶対的なものと感じられるにしても、その 「意識」の方は、実に頼りなく、はかないものであることを鋭く意識していたこと、そして音楽にそうした意識がはっきりと表れていることだ。 実際、そうした音楽というのを私は他にあまり知らない。 例えば信仰のような「意識」にとってのつっかえ棒(少なくともショスタコーヴィチはそのように考えていたようだ)を取り払ったらどうなるのか、ということに思いを巡らすことができた点で、彼と私の距離はとても近い。 (その信仰は別に、「公的な」ものでなくても良い。要するに、例えば死を浄化と捉える考え方でも良いのだ。例えばマーラーの音楽では、 そうした側面は確かに残っていて、それが聴くものにとって「救い」になっている側面があるだろう。)

だが、遺伝子の搬送体に過ぎない生物の一個体に、進化の偶然(ただしエルゴード過程を考えなくてはならないから、「偶然」の ニュアンスには注意すべきだ。)の結果生じた二次的な機能に過ぎない意識にとってのパースペクティヴは、意識がどう騒ごうとちっぽけなものに過ぎない。 ドーキンスのように、ミームがそれに対する反乱なのかも知れないが、ミームとて、意識に忠実なわけではないのは、レヴィナスの作品論をまつまでもないだろう。

もちろん、くつろぎも息抜きもないことはない。快活さだって見つけ出すこともできる。

こんなに意識的な音楽が、驚くほどの速筆で、自分でも制御できないような白熱のうちに生み出されたというのは、不思議な気がする。 だが、これは多分、「気分」の反映なのだ。ある種の構え、スタンスの反映なのだ。 「意識的」という言い方は、だから適切ではないかも知れない。

いずれにせよ、はっきりの過去の異国の音楽なのに、私の生活世界の延長として違和感無く捉えることができるようなのだ。 要するに、同時代の音楽と言っても良い。「気分」のレベルでなら。 生活世界レベルでの物の見方、感じ方のレベルでなら。

(2006.4--2008.10 / 2008.11.7/8/9, 2009.8.15, 11.15, 2024.12.20 noteにて公開)

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