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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:第3章 社会集団の構造と成員の心の構造の関係(1):狩俣における<二分心>の崩壊


1.追悼の対象である死者と祖神との関係:三分観を踏まえて

ジェインズの埋葬に関するコメント「同じ死体を二度埋葬した(二度目は、「声」が聴こえなくなってから、共同の墓に埋葬し直した)証拠がしばしば見られたりする」(『神々の沈黙』, p.174)を、狩俣を含む南西諸島における風葬と洗骨の習俗と突き合わせてみよう。上記箇所の表面的な類似を除けば、一般論としては、ジェインズの参照する文化における埋葬の習慣、死後についての考え方は東アジアのそれと異なり、従って狩俣のものとも異なるように見える。神概念についてもまた然りであって、「神」と言う言葉で指し示されている内容にずれがあるという印象を拭いがたい。前の章においてトリーの神概念の獲得という視点でのヒトの心の進化過程に関する所説をジェインズの<二分心>と対照させておいた時には、トリーの所説においては霊魂と神の間に区別が設けられ、心の進化過程の異なる段階に位置づけられていたのに対し、ジェインズにおいては、そうした区別が明らかではないことを指摘しておいたが、それでは狩俣の場合はどうであろうか?その点を、死者と祖神の区別に注目して検討してみたい。

岡本惠昭は三分観的な見地から、バイヌスマの神として、本永が挙げているニッジャカニドヌのみならず、タラマウプツカサと並んで死んだ祖神を挙げているが(『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・祭祀)』, 第5章 信仰第1節 拝所の狩俣の説明、特にp.278を参照)、一見してこれは、死者がバイヌスマに葬られ、従って死穢と結びつけられることから考えれば自然であるにも関わらず、それを直ちに「祖神」と規定してしまうと、今度は、祖神が聖なる山脈やミヤークに帰着させられるのに対しては矛盾を生じているようにも見える。ちなみに、タラマウプツカサはいわば異常死を遂げた存在(いわゆるキジムン)として祈禱の対象となっていることから、こちらはバイヌスマに位置づけられることは自然に見える。だがそうした存在と葬られた死者を同一視することには飛躍が含まれるのではなかろうか?このことをどう考えたら良いだろうか?

狩俣の三分観で不思議なのは、それに先行しえた(つまり現実に先行したかどうかは問わず、あくまでも権利上、構造上に先行することが可能であることが論理的に主張できる)双分観がどのようなものであるかが明確でない点だ。寧ろ三分観は、中心/周縁的な構造をしており、従って、ウヤガン(祖神)の三分観における北/南への配分には両義性が付き纏うということである。ニッジャカニドヌは外来の鍛冶神ないし閻魔大王に相当する地底的な存在であり、タラマウプツカサはと言えば、これは所謂漂着死した存在であり、所謂魂鎮めの対象であるのに対して、南の墓域に葬られ、従って「穢れ」と見做される死者と、北の山に定着した、村の創生神話の主人公である祖神との間には、しかし時間方向には繋がりがあるという見方も可能ではないかと思われるからである。実際、岡本は自分の著作では、「再生の方向」として、そこに或る種の循環を見る立場を採っているようであるが(岡本恵昭『宮古島の信仰と祭祀』, p.27の図:他界観と神概念の構造)、それは本来動的なプロセスの結果成立した静的な構造の中にそれ自体はその静的な構造と同時に両立しているわけではない構造を無理やり押し込めてしまっている感があり、却って三分観の実体から離れてしまっているのではないかという疑いを禁じ得ない。勿論、岡本の図式は、狩俣を離れて宮古島のそれとして整理されたものであるから、狩俣における三分観の実体から離れるのは止むを得ないばかりか、寧ろ当然のこととして許容されるべきなのかも知れないが、結果として得られた図式が、具体的な現実の記述からは遊離している点は、少なくともこの論考のアプローチには背馳するものに感じられる。

しかも、ジェインズの<二分心>に関連づけた葬制に関する説明との方向性についても検討が必要そうである。もっともそれはジェインズの説明自体が持つ難点でもあるだろう。即ち、仮に死んだばかりの死者が、親族の死という出来事に遭遇して大きなストレスを感じている個体にとって幻聴を誘発する理由になったとして、それとジェインズの言う「社会統制」のためのツールとしての「神の声」との間には機能的な懸隔があるように感じられるからである。そして狩俣の神事において、創世記の神の役をいわば「演じる」神女たちが、自分達の儀礼の力によって呼び覚まし、自分達の神歌と唱和する「声」の主は、バイヌスマの領域に属する存在とは捉えられていないように捉えられるという事実もまた、構造的には同じ懸隔を表しているように思われる。もし三分観が成立しているのだとすれば、価値的に両極にある南北の間が「再生」による循環によって接続されることはないのではなかろうか。同様に、ジェインズの社会統制としての神の声と、親族の死に際しての死者の声の単純な同一視もまた、成立しないのではなかろうか。端的に言って、祖神祭は、死者の慰霊と追悼のための儀礼ではない。慰霊され、追悼される死者は、いわば個別の存在であり、従って、少なくとも一旦は、祖神祭における祭祀の対象である、村落集団の集合的な心性に対応する祖先神とは別の存在と見做すべきように思われるのである。

この点に関連して注目すべき指摘を、奥濱が儀礼<スム奉納>と<敷奉納>に関して述べている。これは日本本土でも仏壇に供物を献じるというかたちで今なお自然に行われている、死者に対する食物や飲み物の奉納と同じものだが、奥濱の神女に対する聞き取りによればそれは「昔、元に関わった人の分さ」「昔、祖神女を務めていた人の分さ」というように認識されているらしい。そしてこれを奥濱は、「かつて神女を務めて死者となった者に、生者である現在の神女が供物を捧げる行為」(奥濱、前掲書、第3章集落の祭礼と寿詞 の5節繋がる生者と死者, p.110以降を参照)と把握し、フェステル・ド・クーランジュの『古代都市』を参照しつつ、それを「狩俣で死者として弔われ、地下を他界の生活領域とする「地下の神」に対し、生者が義務として行う儀礼」と村人が考えていると述べ、それを「すべての神女が退任した2003年までは、狩俣には、古代信仰の本質的な儀礼が残存していた」と述べ、ついでそれを宮古列島に見られる「根神」に同定しているように読める。そして「根神」を「各シマを創成した神、もしくはシマ建てに関与した神で、その住まいには、地底や海底を充てていると思われる。」と述べる。この認識に立てば、寧ろ岡本のループの存在を仮定せざるを得ない。かくして奥濱の推測は以下のようなものになる。

「かつて、シマ人は、シマ(現実生活)から地底(根神)や海底(竜神)につながる下方向への通路と、天上界(大きな神)へとつながる上方向の通路を想定し、水平に広がって竜宮までつながる間を生活空間とすることで、死生観を創造していたのであろうか。島は、死者も生者もまだ見ぬ者も共にあることで、ひとつの生命体として呼吸する。」

(奥濱、前掲書、p.112)

これは寧ろ岡本の図式に近く、従ってジェインズの主張にも繋がる側面を持つが、例えば<スム奉納>と<敷奉納>の区別の基準が不明であることから、一気に上記のような図式が導けるようには思えないことや、三分観的なシステムに無媒介に「根神」の信仰を接続することの妥当性に疑問なしとしない。また、<スム奉納>にせよ<敷奉納>にせよ、その対象が、過去の神女であって、死者一般ではないことも気になる点である。勿論、奥濱の指摘する、狩俣の祭祀が「自然崇拝、アミニズム、祖神など、民間信仰の概念が錯綜しながら複合的に展開する」(p.102)という或る種雑種的混淆とも見られる性格を考えれば、図式的な一元的理解はもともと成立せず、ここにも複数の層の複合と相互干渉によるシステム間の緊張や、概念的把握を妨げる歪みや軋みを見るべきなのかも知れないが、それならそれで、そうした層を可能な限り分離して構造の連関を想定すべきであり、その意味では、奥濱の説明は、岡本の説明と同様の問題を孕んでいると考えるべきかも知れない。

だが更に決定的なのは、内田がその著作の第1章「神をまつる人たち」にて、南西諸島における神役・巫者論におけるノロ/ユタの双分制から出発して、個人祭儀を蝶番にして、明示的に言及はされないものの、明らかに三分観的な区分を示す中で、個人祭儀の内部における双分制のうち、死に関わる祭儀を行う祭儀従事者として、カンカカリャを定義する点であろう。

「カンカカリャは、(…)狩俣では、死者の口寄せができる人をいう。(…)
狩俣には現在カンカカリャはいない。必要な場合は、集落外部のカンカカリャに依頼している。ムヌス・ヤーキザス・サスは、死に関わる祭儀をする能力を持たない。」

(内田、前掲書, p.44)

そして桜井徳次郎による通常死の死者祭儀を紹介したあと、本永の三分観に登場するバイヌスマの説明をした後で、狩俣の神役が死の穢れに近づいてはならないことの事例を紹介する。(ちなみにその中で岡本恵昭さんは、寺の住職として、いわゆる忌中の神役に対する現実的な対応方法を教示する存在として登場する点は興味深い。)そして、死者祭儀に関わる祭儀従事者に纏わる価値システムに揺らぎが見られることを述べて「ブソウズについての捉え方を一元的に束ねることは。宮古においてはできそうもない。」(同書,p.46)として、図式の調停を断念しているのである。だがその一方で、対応箇所の注では、最終的には、「不浄性の問題は、「地域」ごとに、そして「人」ごとに、それぞれのコンテクストの中で考えてゆく必要がある」と結論づけながらも、奄美の祭儀従事者の例を出して、死に関わる祭儀を行うかどうかの双分制の強さが宮古で強いことを示唆してもいる。

この点についての本論の立場は明確である。内田が観察している揺らぎが、現在の狩俣においても存在するであろうことは疑いを容れない。だがそれは、恐らくは祭祀の中断や神歌の継承の断絶といった事態に関わるものであって、村落祭祀を通して社会統制を行うシステム自体に対応するのは、やはり本永の三分観であると考える。村落祭祀を支える心のシステムは、加藤敏が参照しているSowの指摘するような、水平方向には集落への帰属意識の強さ、垂直方向には祖先への繋がりの意識の強さを特徴とするものであるとするならば、揺らぎは、そこに個人の所有と自立・自律をその原理とする近代的自我が侵入してきたことによるもので、そもそも「人」ごとのコンテクストというのは、それによって生じるようになったと捉えるべきであろう。ただし、ここで揺らぎの起きる特異点となったのが死に関わる祭儀であることは極めて重要であり、死に対する認識の変化こそが、心のシステムの構造変容に強く影響していることを示唆するものであることも否定できない。つまり死にどう向き合うかの問題は、狩俣の祭祀のシステムが排除してしまった部分でもあり、それは<二分心>が、意識におけるような意味合いでは死を認識しないというところから出発して、それが<二分心>崩壊と意識の発生に本質的に関わるからこそ、<二分心>崩壊に対して社会集団の秩序を維持するための祭祀が扱えなかった側面なのであるという見方が可能ではなかろうか。言い替えれば、本永の三分観は、そうした心のシステムの構造変容の産物なのではなかろうか。三分観における三項は、決して対等で均質ではない。それは「ミヤーク」に重点を置くこと、つまり自律的で外部との区別を自覚した「自己」が確立されたことによって生じたという意味合いで、中心にフォーカスを置く一方で、個体と集団の関係においては、集団の統制を維持する観点から、後に国家や支配層が行ったのと同じような起源の神話の確立による集団への帰属、祖先への帰属に重点を置くことによって、自律的で外部との区別を自覚した「自己」が自ら引き受けるしかない「死」を外部に排除するといった動性を孕んだものなのではないかということである。

2.元と墓制

内田や奥濱におけるような、死者と祖先に関わる解釈のゆれの原因として、実は狩俣の場合には、人類学的な村落構造の分析が相対的に手薄のように見えることが関わっていて、そのことがその背後に潜む構造を見えなくさせている原因なのではないか、ということが考えられるように思われる。例えば波照間島に関する、アウエハントや住谷=クライナーのような観点での分析は、狩俣の場合、実は現時点においてもほとんど一度も為されていないのではないか。

一例として、元の存在は祭祀集団として自明のものとされ、それがどのような性格を持つかの説明がされることはほとんどないように思われる。元について、宮古島の他地域や沖縄本島との比較を行った記述というのは管見では、野口武徳「宮古島北部の社会と儀礼」(『沖縄の社会と宗教』所収))を除けば、琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第12号狩俣・熱田部落調査発表(1966)くらいである。まず前者を引用しよう。野口には別に池間島に関するモノグラフがあるが、上記論文においてもまず池間島の社会と儀礼を紹介し、それと宮古島北部の他の集落との比較を行っており、比較対象の事例の一つとして研究が行われた1960年代前半の狩俣の調査結果が報告されている。比較対照にあたって野口が注目するのは以下の点であった。

「(…)①お嶽の信仰(とくに信仰を支えるメンバーシップと司祭者の継承)、②mutuあるいはそれの該当集団、③墓制(とくに池間島に特徴的であった夫婦別墓の例について)、④親族名称を指す呼称(…)」

(野口「宮古島北部の社会と儀礼」、『沖縄の社会と宗教』所収、p.226)

そして狩俣については以下のように報告されている。時代が古く、恐らくは取材の制約から、後年の研究によって補われるべきところもあるが、寧ろここでは野口が社会と儀礼の構造的な関わりについての把握を試みている点に注目すべきであり、逆に後年の研究成果を、今一度野口が行ったようなアプローチで整理し直す必要があるのではないか。祭事費といった経済面への言及や、元が父系であるという指摘など、寧ろその後の研究が看過してしまうような点の指摘は重要に思われる。

① 村の中心のお嶽の司祭は、各ムトゥ(後述)にいるuya-paと呼ばれる女の司祭者が集まって村uganをする。四つのムトゥから4人集まり、その4人の中で中心になるのはupuya-paと呼ばれ大城ムトゥ(upugu-mutu)のuyapaがなる。各ムトゥでは、uya-paをえらぶ時にはユタに吉年(干支の)をうかがい、それに該当する女性の中からくじでえらぶ。任期に制限はなく、死ぬか或いは衰弱して本人が辞退するまで行う。村全体の祈願、即ちuganはこの4人がupu-uya-paを中心にして行うのであるが、そのために部落では祭事費の予算として現在約年間60ドルを計上している。
② 仲間ムトゥ、大城ムトゥ、シダティムトゥ、仲嶺ムトゥ、カンヤームトゥと五つのムトゥがあり、それぞれ拝所を有し、カンヤームトゥ(詳細ははっきりしない)をのぞき、uya-paと呼ばれる女の司祭者がいる。
 それぞれ父系の血縁をたどることによって各人のムトゥの所属がきめられるが、嫁出した女は夫方のムトゥに属する。養子の場合縁先のムトゥに属する。分家した者は当然本家のムトゥに属する。各ムトゥにはそれぞれ、このような父系の血縁集団がいくつか集まって構成されているのであるが、大城とか仲間とかいう呼称は特別に血統とは関係なく、現在は地名化してしまっており、各人ムトゥのメンバー相互に血縁意識も有していない。ムトゥはそれぞれイス川お嶽(部落の中心のお嶽)のわかれという形を有しており、村uganはムトゥのuya-pa達によってなされるわけであるが、旧6月のトラの日から4日間行われるブーズと呼ばれる祭に戸主がムトゥに集まる。男には年齢制限はないが、同時に集まる女性は50歳以上である。ムトゥのメンバーを氏子と呼んでいる。池間島で見られるマスムイなどの行事はない。
③ 墓はpaと呼ばれ、墓のメンバーとムトゥのメンバーとは一致しない。また墓のメンバー相互は親類づきあいはしていないが、何だか先祖は親類であったような気がするという。墓を一緒にしている仲間を「門中」と称している。
 後妻は夫と一緒の墓に入れない。洗骨はしないのが普通であるが、墓を変更する時にする。結婚後、子供もできてから後、他の男と一緒になったような女性は死んでも夫と一緒の墓に入らない。また妻が子を生まずに死んだ時、一時夫の方の墓に入り、七夕の時などに洗骨して妻の実家の墓に移す。位牌も同様である。キガズンは一時他所に仮埋葬し、洗骨後本来の墓に移したが、今はキガズンも最初から本来の墓に入れる。いずれにせよ、死者があらかじめ墓をえらんでおくとか、池間島のような例はない。
④ 親族はウツザ

(同書, p.227)

更に上記論文のまとめには狩俣の村落の構造を特徴づける要約が見られるので、それを以下に引用しておきたい。

① お嶽が通常部落単位で祀られるが、親族単位で祀られることを原則とするのが出てくるのは伊良部である。
また、お嶽とmutuが融合しているのが狩俣・島尻・大浦にみられ、他に池間的なmutuはみられない。現在池間のmutuは第1次的にはお嶽とはなれた関係にあるが、狩俣・島尻・大浦にはその結合がみられ、一定のmutuから一定の神職がえらばれている。このような型こそ、池間より、時間的に一段階古い構造ではなかろうか。
② mutuは①で述べたとおり、狩俣・島尻・大浦にお嶽と深く関連して見出され、特に狩俣のお嶽とmutuの関係に古い型を感じるのである。
③ 池間島で特徴的な夫婦別入墓制は他部落では全くみられなかった。ただ狩俣・島尻で若干見出されるが、これとても池間のごとくはない。次第に父系の同一血族は同じ墓へ葬るという型がふえ、夫婦同入墓が当然という意識は疑問をさしはさむ余地もないくらいに一般的になっている。
④ 親族(cognatic kin)をharaudzuと呼ぶ例は他にはいっさい見られず、utujza, utujya, uyakuなどが一般的で、この語は宮古島南部についてもいえ、何故池間にのみ、沖縄本島北部から奄美群島にかけて見られて変化のしにくいこの単語が見られるのであろうか。

(同書,p.236)

一方、琉球大学民俗研究クラブ『沖縄民俗』第12号狩俣・熱田部落調査発表における元についての記述は、沖縄本島の門中制度との比較の観点でまとめられており、以下の通りである。

ムトゥ(元)とムンチュー(門中)
 狩俣部落には、本島各地にみられる血縁集団(門中制度、マキ集団)がなく、ムトゥ、ムンチューという言葉が別の意味に用いられている。それを本島のものと比較しながら、調査したものを記してみる。

ムトゥ
本島
血縁集団の本家(元屋、大元)あるいは村の先占開拓者の家のことであり、祭祀行事の中心をなす
狩俣
単にムトゥというと各組織の拝所を指し、
    大城(ウプグフ)ムトゥ…村立の神
    仲間(ナーマ)ムトゥ…旅の神
    志(尻)立(シダティ)ムトゥ…五穀の神
    仲嶺(ナーンミ)ムトゥ…水の神
    大城ムトゥの別れ…ニスニャームトゥ…不詳
             マイニャームトゥ…不詳
             カニャームトゥ…不詳
の七つのムトゥがある。そこには昔この部落に徳を与えたものを神として祀っていて、本島の単なる祖先神とは異なっている。この中で、大城、仲間、志立(尻立)、仲嶺ムトゥを四ムトゥ(ユムトゥ)といい、カニャ、ニスニャー、マイニャームトゥについては調べることができなかった。
 各ムトゥは数名のファーマー(氏子)を有し、神人(女)を中心に今なお盛んに神行事を行い、部落の年中行事の主部をなしているようである。

(中略)

狩俣のムトゥと本島のムトゥとの比較
狩俣部落のムトゥを血縁集団と考えた場合、本島の血縁集団である門中との共通点、相違点を記してみると、

相違点
本島…① 一門中は何代かをさかのぼれば一つの親元からなっている。
② 直系が常に上になり、神事の中心をなす。
③ 盛大な「門中清明」を行う。
④ 門中墓を有する。
⑤ 祖先崇拝の信仰が強い。
⑥ 門中内の連帯性が非常に強い。
狩俣…①いくつかの小さい親族集団が集まって一つのムトゥを成している
②前記したようにムトゥないで、特に中心となる家がない。
③清明祭なし。
④仏壇等、本島より簡素である事から、本島程、祖先崇拝の念が薄いのではないか。
⑤ムトゥは神行事のためのもので他の事(相互扶助)には近親者で行っていて、ムトゥ内の連帯性は薄い。 

共通点
①ある年月日を決めて、各所属者が同じ場所を拝む。
②男系血縁である。
③神人を有する。

ムンチュー
 狩俣部落では墓を単位とする組織のことをムンチューといっている。(くわしくは墓制を参照。)

(『沖縄民俗』第12号, p.16以降)

以下、墓制の該当箇所を引用する。

 墓のことをパー、ボチ、ムトなどといっており、部落の北西の方向に二つ、他は殆ど南側に位置している。(中略)
 狩俣部落には門中墓と称する墓が殆どで家族墓がひとつあり、その他にヤラビパー(子供墓)及びパナンミヤといって洞窟を利用して骨を置いている所がある。門中の大きな墓は全部で十五ほどあり、その墓の名称や特徴は後記する。
 この部落でいうところの門中という言葉は沖縄本島の門中制度とはニュアンスが異っている。つまり、ここでは墓を単位として、その墓に出入りする人たちを門中と称している。沖縄本島のように必ずしも血縁があるとは限らないのである。(後略)

(『沖縄民俗』第12号, p.52)

両者の記述は、時期の近さもあってほとんど一致していることがわかる。そしてここで特筆すべきは、一つには祭祀組織と墓制の分離であり、もう一つには、祭祀組織が、沖縄本島の門中のような単一の血縁集団ではなく、複数の血縁集団の集合体であり、従って、村立ておよび村の歴史に関わる神が祖先神と単純に同一視できないことであり、この両者に相関があるのは明らかであろう。つまり狩俣の祭祀は、単純に祖先崇拝そのものであるわけではなく、あくまでも村落の起源に関わるものとして位置づけられるべきであり、必ずしも血縁関係にない複数の集団からなる村落の統制を目的としたものとして、狩俣の「祖神」は、まさにジェインズの<二分心>のおける神の対応物と見做すことができるという点である。

しかし、それとともにここで見逃すことができないのは、ビキリ・ブナリの双分制や、祭祀における女性神役の圧倒的な優位性にも関わらず、祭祀組織そのものは基本的には男系であるという点であろう。実際、琉球弧の近辺には母系社会の例もあり、著名なものは台湾のアミ族であろう。アミ族では家長は女性で相続も女系であり、家庭内について女性が主導権を持つのに対し、村落の運営は男性によって行われるといった分担がなされているのに対し、狩俣では、女性中心の祭祀が、男系の祭祀集団によって運営されていることになる。従って祭祀の継承については、野口が既に指摘している通り、婚姻の機能が重要であり、例えば、奥濱「琉球弧宮古諸島に視る古層の環世界」においてはより詳細に、神衣装等の祭祀に纏わる財産の「嫁継ぎ」についての言及が見られる。

だが狩俣に関する近年の記述は、まさに本永のいう「神話・儀礼・神歌」の相に集中しており、しかも記述は現象論的であり、その機能や意味についての関心は払われず、構造主義的とは言い難い。本論はそれに対し若干の構造的な検討を試みたものであるが、より本格的な構造分析を行うためには、第1年度の成果をも統合して、祭祀を村落の全体的な構造の中に位置づけ直す作業が必要であるように思われる。

<二分心>的心性を特徴づけるとき、垂直方向には祖先崇拝、水平方向には村落集団への帰属がその特徴であるとして、祖先とは何か、村落の集団の内部構造はどうなっているのかは実は自明ではない。特に注目すべきは墓制における「門中」とムトゥが別である点をどう考えるかが恐らく重要で、この分裂が、本永の「三分観」における北・南の方位への価値づけと相関していることは恐らく間違いないだろう。またそれは村落の祖先の村建てと、それ以降に村落に到来した渡来者との区別にも繋がり、本永「三分観」ではミヤークの神と位置づけられる神の一部が、村落に対して南から到来し、より後に成立した志立元・仲嶺元によって祀られていることとも関わるであろう。

3.占いの役割

ところで、野口が特に注目していることに司祭役の選定と任期の問題があった。これについても内田や奥濱の報告が詳しいが、注目されるのは、そこで「くじ」が用いられたり、外部から巫者を呼んでその意見を聞いている点である。もともと元が男系親族に基いた集団であるにも関わらず、必ずしも系統的に単一ではなく、複数の親族集団の集合体であることとも恐らくは関連するが、いわゆる宗家による世襲が行われる訳でもなく、祭祀に内在的な方法で指名がなされるような形態とも異なって、男の神役が管理する暦にも関係する干支のシステムを含め、いわば異なる秩序を介在させることは、それが古い起源を有するものではなく、少なくとも「傍観者」が祭祀の要素として加わって以降のものであることを示しているように思える。つまりくじや外部の巫者による干支による選定は、実は近代的であり、古層ではない筈なのである。そしてそれは、時代の経過とともに、神役の交代の意味を変容させてしまうことになる。特に、狩俣においてはまだ任期の制限がなかったものが、決まった年数だけ勤めるという任期制が導入されてしまえば、神役というものが、共同体を運営していく際の役割の一つとして世俗化されてしまい、神役としての本来の役割の遂行の背後にあった「意味」が喪失されることに繋がっていくのは否めない。実はそうした仕組みもまた、「隠れたる神」が「神の死」に至り、祭祀自体が無意味となり村落の統制の手段としての機能を喪失していく流れと軌を一にしているのではないかと思われるのである。

一方で、内田は神役選出の方法として、①神籤によるもの、②ウヤパーの依頼によるもの、③姑から嫁に継承されたものを挙げており(内田『宮古島狩俣の神歌』、第一章 神をまつる人たち、三 神役選出の方法、p.37以降)、その最後のケースに該当する「根家の嫁継ぎ祖神女」については奥濱の記述もあって(奥濱『祖神物語』,p.158)、この例は一見すると上記の野口の調査結果や内田、或いは奥濱自身の報告する籤引きによる神役の選定過程と矛盾するが、奥濱が推測するように、これは祭礼の変容のプロセスにおける古層の残滓として捉えることができるように思われる。実際、時代を遡って1920年代の田村浩の調査報告には、「大司ノ死去又ハ其ノ他ニヨリ後継者ヲ定ムル場合ハ神人二於テ選定シ、其ノ他ノ司、神人ハ女子世襲トス。」(田村浩『琉球共産村落之研究』,1927, p.137)とあり、世襲制がベースであったことが窺える。

第1章の末尾において、<二分心>を狩俣の村落の世界観や祭祀において見ようとした際に、三分観の確立が、クバラパーズによる城壁の構築の時期に編年的に位置づけられることを確認したが、その時、クバラパーズが占術を能くし、暦や文字記録を理解できたことである事はほぼ確実であることを指摘した。上記の神役の選択における暦(干支)に基づく占いや籤は、さらにより後年に成立したものであるが、構造的には、より新しい、祭祀自体が自覚的に自らの作動を変化させること(勿論、当事者達である村落の構成員がそのことについて自覚的である必要はない)によって存続しようとする動きであると捉えることができるだろう。籤が含み持つ偶然性は、もともとの規範が備えていた決定性に対して、非決定性を持ち込むことになる。そしてその非決定性は、神役を引き受ける個人が祭祀に対して自覚的に向き合うことを可能にするだけのギャップをもたらすことになる。言い方としては、そのギャップが村落への無意識的な帰属からの分離をもたらすことで個人が成立するという方がより適切かも知れないが。それはまた「個人の神」が生じる余地を生み出していくことにもなるであろう。

4.個人の心・個人の神の先行性は遠近法的倒錯がもたらした錯誤である

『平良市史 第7巻 資料編5(民俗・歌謡)』民俗の部の第5章で、執筆を担当している岡本恵昭は、狩俣などの伝統的な祭祀と並んで、マウ神、カンカカリャ・ムヌス(ユタ)にも大きなスペースを割いているし、内田も『宮古島狩俣の神歌』の第1章 神をまつる人たち において狩俣の神役を位置づけるにあたり、祭祀の神役ではないカンカカリャ・ムヌス(ユタ)にも言及を行っているように、現在においてマウ神、カンカカリャ・ムヌス(ユタ)が信仰に占める位置は大きなものがあるが、カンカカリャ・ムヌス(ユタ)にせよ個人の神という位置づけのマウ神にせよ、決して村落の集団的祭祀に先行する形態ではなく、より新しい形態であることに留意する必要があるだろう。寧ろそれは、<二分心>的な側面の残滓が少なくなるにつれて相補的に出現したものと捉えるべきなのであろう。ジェインズの定義に従うならば、集合的な神、統制方式としての神が優越するのであって、個人毎の神というのは、個人の自律性、自己表象の確立と相関する、基本的にはより新しい要素と考えるべきなのである。

従って、民間の巫者の伝承がより先の形態を示すという保証もない。勿論、生きている化石のように、村落の祭祀以前に存在していた特徴や傾向の残滓として捉えられる側面も原理的にはありうることにはなるが、現実には、村落などの社会集団によって、祭祀における神歌の形態で維持・継承されてきた伝承を無意識の備給源とし、個人的な経験によって加工・変形を受け、派生したものである可能性の方が高いことは、定義上、個人の神話というのが孤立した事象であり、世代を超えた伝承の可能性がアプリオリに排除されていることから論理的に帰結することと言って良い。

そして狩俣の歴史を俯瞰した時、そうした個人的な神話の可能性を拓いたという点においても、クバラパアズは始祖であると言えるだろう。何よりも彼は三分観自体の確立の原因となった存在であるが、そのことと占術、呪術を能くすることは無縁ではありえない。そうした方法によって個人の運命を予見することは、三分観の確立、意識の成立以降、<二分心>に替る社会統制の方式の力が強まったために求められるようになったと言えるだろう。<二分心>はあくまでも集合的な心性を可能にするための個人レベルでのインタフェースであって、神が個人のものとなる過程については、ジェインズもヒュポスタシスの最終段階に関連して以下のように言及している。

 そして、最終的に個々のヒュポスタシスが第四期の統一された意識へと統合される過程も、他の過程とは異なっている。「thumos」や「phrenes」などの用語の第三期・主観的段階の意味が確立するにつれて、体内の様々な感覚における当初の解剖学的根拠が崩れ、そのため、内面の感覚が混同され、たとえば「器」や「人間」のような、共有の<比喩語>を基盤にして統合が起こると私は考える。だが、このような意識の統合が進んだ要因として、紀元前七世紀にいわゆる「興味関心の世俗化」が起き、その結果、個人差を意識するようになったことも挙げられるかもしれない。この過程の結果、自己という新しい概念が誕生するに至ったからだ。」

(ジェインズ『神々の沈黙』, p,312)

しかしその一方でジェインズは、「シュメールやバビロンの個人の神」 (同書, p.221以降)についても述べており、逆に典型的な<二分心>が支配的であった時代における個人と社会の関係がそこに反映され、或る種の媒介項として機能していることが窺えるが、メソポタミアの神々が所有者としての性格を帯びており(同書, p.214以下)、それが近代的自我において頂点に達する、所有概念を媒介とした自己概念とは相容れないものであること(これについては加藤敏「統合失調症の現在 進化論に注目して」を参照)を踏まえれば、「個人の神」を適切に位置づけることが、社会統制装置としての<二分心>を了解するための鍵鑰をなすことが想定される。

ジェインズが現代における<二分心>の残滓として注目するアフリカ系ブラジル人の宗教であるウンバンダにおいて観察される様々な種類の憑依霊は、より高次の存在との間に立って、とりなしをしてくれる存在として「個人の神」との共通性があるとのことであるが、寧ろこちらは、近年の狩俣においては「カンカカリャ」や「ムヌス」に祭祀の継承を担う重要な役割が割り当てられていることなど、祭祀の継続が困難になっている状況の背後にある、村落への帰属意識や祖先崇拝に基づく家への帰属意識が希薄になり、集団に属して、そこで役割を担うこととは異なった仕方での自己規定が為されるようになった事情との間に相関を見てとることができそうであるだけに、ジェインズがシュメールやバビロンに見出した「個人の神」というのが、今日の意識の様態からの或る種の投射の産物ではないかと疑ってみることもできそうである。というのも、それに「私」とは独立の人格を認める点を括弧入れしてしまえば、「個人の神」というのは、ほとんど「私」と外部とのインタフェース機構そのもの、つまり「自己」そのもの一部が外化されたものと言えそうだからである。

このような錯誤が生じる原因の一つとして考えられるのが、ジェインズの「自己」についての把握が、自閉したオートポイエティックなシステムとしての近代的な自我のそれからの展望のバイアスを余りにも蒙り過ぎていることではなかろうか。本論第1章において、最初にジェインズの<二分心>の規定を確認した際、それが社会統制のための機構であるという点に注目した。次に<二分心>をトリーのヒトの心の進化の仮説との照合を試みた時、<二分心>があったとして、その崩壊の後の地点から振り返って見る他ないという展望の制約に由来する混乱の結果、<二分心>そのものか、<二分心>の崩壊に関わるのかという点においてジェインズの仮説に混淆が発生している可能性に言及した。またその後、ミズンの「認知的流動」の仮説との対照を行った。ここで振り返ってみると、第1章でその可能性を指摘した混淆の原因は、ジェインズが<二分心>を基本的に社会的なものとして捉え、自伝的意識に相関する自己に先行するものと位置付けながら、そこに、まだ存在しない筈の自己表象に由来する自己の構造を投影してしまったことに存するのではなかろうか。だが、問題はそこに留まらない、今度は逆に、反省的・自伝的意識が成立した以降の心について、極端に認知的な側面を強調してしまった結果、自伝的意識の背後に、残滓や退化した姿ではなく、いわば認知的なモジュールを統合するような形で存在している心の社会的な側面が稍もすると見過ごされがちであるようにも見える。この点は、後続の章において、特に現代音楽やメディアアートの最前線において祭祀や音楽の在り方をラディカルに問い直す三輪眞弘の試みとの比較を、狩俣の祭祀を通して行うことによって主題的に取り上げることになるだろう。

やや誇張した言い方であることを承知で言えば、「個人の神」が意識されるような状況というのは、寧ろ外部との間に断絶が生じ、主観が孤立して自閉していることの徴候なのではなかろうか?(まさにジェインズの参照するウンバンダはそうした状況に対する「慰め(カリダージ)」を与えるものとされていることに注意したい。)もともと自己表象そのものが、他者とのインタフェースそのものであり、やまだの『ことばの前のことば』を初めとする発達過程の観察による知見に基けば、心はその起源からして対他的・集団的な側面を備えていた筈であることを思えば、ジェインズの指摘にも関わらず、ここで焦点化されているのは、かつての社会統制のツールとしての<二分心>とは異なった状況、<二分心>が崩壊して後、意識が確立した地点からの病理的な退行現象として、偶々表面的な現象レベルにおいて類似点があるだけであって、機能しているメカニズム自体は全く異なるものではなかったかというように問うこともできるのではなかろうか。

現在における病理的状態が、かつては正常な状態であるという言い方には、心のような可塑的で流動的な対象については危険が伴う。そもそも心というのは、それが本質的に社会的な側面を持つ以上、何を正常とし、何を異常とするという規範そのものをその根拠の一つとして成立するものであって、社会的な規範が動けば、心の側も同じままではありえない。言語を獲得する以前の自己の在り方と、言語を獲得して以降の言語の在り方は、後者がまさに言語を媒介にした自己認識をする自己として再構成されたものであるから、同じものとは言えないというのと構造的にはパラレルな事態が、ここでは自伝的意識の獲得前と獲得後について生じていると考えるべきなのではなかろうか。要するに、単純な後戻りは最早不可能であるが故に、無媒介なかつての<二分心>の状態と、意識に媒介された<二分心>に類似した状態は似て非なるものだという点についての了解が必要なのではないか。その区別を徹底することによってこそ、かつての心の様態としての<二分心>に正確にアプローチすることができるのではないかと思われるのである。

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