「心中天網島」河庄・紙屋内・大和屋 (2002年)
心中天網島の初日を観た。
床が素晴らしい。英大夫さん・喜左衛門さんから、綱大夫さん・清二郎さんへと引き継がれた 河庄は、これまでにテレビで観たり、CDで聴いたりした演奏のどれにも増して説得力が あった。この段、非常に優れていて傑作だとは思うのだが、これまでちょっと聴き通すのが しんどい感じがあったのだが、それが全くなく、語りの構成の巧みさを感じた。
特に印象に残ったのは孫右衛門・治兵衛兄弟の性格の対比で、やり方によっては、分別のある 叔父が真実が全くなく、へらへらしたどうしようもない甥に説教するみたいな感じになるのだが、 今回は、兄弟としての心のやりとり、孫右衛門のおかれた立場の奇妙さ、欠点を曝け出しながら、 しかし真実のないわけでもない治兵衛の反応が描き出されて、共感できる話になっていた。
孫右衛門のおかれた立場の奇妙さは、滑稽さの一歩手前にあり、大根役者よろしく身に付かない 二本差しで変装をしなければならないことに対する自嘲すら感じさせ、立派一方でもないし、 かといって情けないばかりでもない、感情の複雑さ、奥行きが感じられて説得力を感じた。 人形では玉男さんの治兵衛が分別のなさと感情の真実の共存を感じさせ、素晴らしかった。 治兵衛の裏切られたと感じた怒りそのものは真正のものなのだ。また、孫右衛門・治兵衛の やりとりは、必ずしもすれ違いに終わるのでもない。そうでなければ、紙屋内が説得力を 喪ってしまう。そういう意味でようやく納得がいった気がする。
誰かに焦点を当ててしまうわけでもない、距離を置いて突き放していて、けれども共感のある という、如何にも近松らしい感覚という点では際立っていたように思える。もっとも孫右衛門・ 治兵衛兄弟のやりとりに気がいった分、小春が一歩ひいた感じになるのはやむを得ないと思う。 綱大夫さんの語りでは、封印切もそうで、これは緊張感の高まり、忠兵衛と八右衛門のやりとり の凄みに梅川がひいた感じになっていたように思えるが、私にはこうしたやり方の方が好ましく 感じられる。
紙屋内は、おさんの文雀さんが素晴らしかった。今回の人形ではとにかく際立っていた。 人形が体温を持っているかのような錯覚に囚われることがまれにあるのだが、それが 起こった。出からしてすでに尋常ではない。更に有名なクドキの部分。ここの部分は よくわからない部分だったのだが、人形の型の一つ一つにおさんの感情が漲っていて、 思わずぞっとした。別のところでも書いているが、これは能のあの抑制された型を 上手なシテがする時に受ける印象に非常に近い。これが人形で起きてしまうのである。 おさんは人形ではなかった。生身の女性が動いていたようだった。
咲大夫さんの語り、清介さんの三味線、玉男さんの治兵衛、玉也さんの五左衛門も 素晴らしく、三人が言葉を交わす場面の緊迫感は物凄く、思わず身を乗り出して、 固唾をのんで成り行きを見つめるような感じになってしまった。
特に五左衛門に向かっておさんが去り状を受取る気はない、と言い切る場面は 印象に残っている。この親にしてこの娘あり、というような感慨すら抱いた。 (おさんは父親似ではなかろうか?これは今回の床と人形に限ったことなの だろうか?)
段切は、この段がおさんの悲劇であるということを印象づける、悲痛な雰囲気に 満たされる。おさんの心情が秋の夜の寒々とした風景と同化するのだ。そしてこの おさんの影が、道行きの最後に至るまで話を覆っていくのだ。
大和屋は、これこそ映像詩と言って良い。津駒大夫さんの語りはマクラから雰囲気を 湛えて、闇の深さ、空気の冷たさが感じられる。ここでは様々な登場人物が入れ替わり 立ちかわり、現れては消えていくが、まるで主人公は「模様」そのもののようで、 ちょっとした明るさや音響の変化が鮮烈に印象に残る。火の用心の夜回りの拍子木の 音が現れては遠のいていき、門行灯が消えて、月夜の闇の中に蜆川が残る、そうした 変化が、小春を連れ出しに来る治兵衛や、心中を予見してやってくる孫右衛門よりも 鮮やかにすら思える。まるで夢の中の経過のように登場人物は皆、影のようにたより ない。月があるとはいえ、闇の中ではお杉の持つ提灯の光の移動の方が、人間たちより も存在感があるのだ。実際、中断なしに場面が切り替わって開始する効果からも、 場面全体がおさんの心象であるかのような印象が強まる。
こうした闇の効果はたとえば堀川波の鼓の例にあるように、近松のトレードマークだが、 ここまで人物と風景の主客が入れ替わった例は知らない。
津駒さんの浄瑠璃にあわせて燕二郎さんの三味線の音色も神秘的な深さを湛えていて 素晴らしかった。
段切に、場所の移動が語られるのは重要に思える。どちらに行こうか迷った挙げ句、 治兵衛と小春は東へ向かう。西にある月に背を向け、闇の中へと入っていくのだ。 冥途への道、孫右衛門の「仏はおろか地獄へも温かにふたりづれでは落ちられぬ。」 預言の成就。この場所の移動が非常に気になったのだが、後程、原作の道行の頂点に 差し掛かったところで「西へ西へと行く月を如来と拝み目を放さず、ただ西方を 忘りやるな。」とのことばがあるのを教えていただいた。近松の意図は明らかである。 ちなみに、道行の橋尽くしは、そうしたトポスの移動を描いていくのであって、 上記のことばともども省略してしまっては印象が薄れる。現行の道行きは改作との ことだが、原作をやるのでなければ、私にとっては大和屋の段切の「心のはや瀬 蜆川流るる月に逆らいて足をはかりに」で充分であった。
(2002 公開, 2024.10.21 noteにて公開)