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女流義太夫2004年1月公演

昨年の正月は、喜多流職分会自主公演の初会と文楽の大阪公演に出向いたが、 今年は女流義太夫1月公演が鑑賞始めとなった。とはいうものの最近の多忙で、 当日その時刻になってみるまで行けるかどうかわからなかったのだが、 何とか時間の都合がついての鑑賞となった。
演目は「摂州合邦辻」合邦庵室の後半と、「明烏六花曙」の山名屋。初めて聴く後者 に対する楽しみもさることながら、何より、朝重さん、綾之助さん、駒之助さんの 揃い踏みということで期待して出かけたのだが、期待通りの素晴らしい演奏だった。

前半は合邦庵室の奥。この曲は不思議とめぐり合わせがよく、これまで聴いた二度の演奏は いずれも甲乙付け難い圧倒的なものだった。今回の演奏は、それらとは全く違った タイプの演奏で、一見すると荒唐無稽なこの作品の奥の深さのようなものを認識させられる ことになった。
その演奏上の特徴とは、この物語が何より玉手御前の、そして彼女と両親の物語として 立ち現われたことに尽きる。これまで聴いた二度の演奏は、音楽としての完成度の高さと ともに、いずれも合邦その人に焦点があたっているという点において共通点があった。 (勿論、その解釈は随分と異なったもので、従って、合邦の造形も異なったものであった し、俊徳丸の物語としての構成の点では違いがあったように思えたのだが。) 一方で、今回の朝重さんの語りでは、玉手御前がようやく主人公として現われたように 思われたのである。寛也さんの三味線も、とりわけ玉手の語りを支える音色に説得力を 感じた。
朝重さんの語りは、構成的な頂点を明らかにし、物語を淀みなく展開していくもので、 徒にある場面を強調したり、ある言葉のみを取り出して聴かせる類の演奏ではなく、 寧ろ、玉手が息絶えていく過程が物語のリズムとなっている感があり、特に玉手の 独白があって以降の物語の運びに独特のものがあったと思える。全体として、前二回に おけるような、巨大さや、神々しい浄化の達成よりは、玉手御前という一人の人間の 物語としてのリアリティを感じさせる演奏だったと思う。

後半の「明烏六花曙」山名屋は、綾之助さん、駒之助さんそれぞれの持ち味が前半・ 後半で良く発揮された、素晴らしい演奏だったと思う。津賀寿さんの三味線も マクラから雰囲気に富んでいて、音の美しさにおいても、音色の多様さにおいても 出色の演奏だった。
前半は、綾之助さんによる三人の女性の語りわけがとにかく見事。綾之助さんなら、 傾城はぴったりなのだが、それ以上におたつの語りの部分が素晴らしい。単に 場面が目に浮かぶというのではない、おたつの心栄えのようなものが伝わってくる、 感動的な語りだった。
後半は、昨年の河連館に続いて、駒之助さんの語りのうまさにとにかく圧倒された。 私は素人だから、勿論、技術的にどうというのはわからないが、わからないなりに、 その発声、節回し、間合いが、「完璧」である、という揺るぎのない印象を受けた。 マクラを聴き、そしておかやの語りが始まるのを聴いて、思わず涙が出そうに なった程である。こうした圧倒的な経験というのは、なかなか繰り返しできる ものではなく、駒之助さんの語りの力に只々恐れ入るばかりである。おまけに これはやはり実演を聴くにしくはなく、こうした演奏の実演に立ち会えたのは 我ながら幸運だと思う。
この演奏については、細部のどこが凄いというのを書き連ねても始まらない。 とにかく、最初から最後まで、どこを切り取っても素晴らしいのだ。登場人物の 語りわけ、情景の描写、そして巨視的な構成感のいずれをとっても、これまで 聴いた演奏のうちで最も優れたものの一つだと思う。今後も駒之助さんの語りは 聞き逃すことができなさそうだ。勿論、駒之助さんが素晴らしいのは今に始まった 話ではないだろうし、今さら私のようなものが何か付け加えることも無いとは 思うが、それでも一言、ここに書きとめておきたいと思う。

(2003.1.20 公開, 2025.1.XX noteにて公開)

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