「TRANSMUSIC 2014」について
サントリー芸術財団コンサート
TRANSMUSIC 2014
2014年11月8日いずみホール
クラーレンス・バルロ「ナイルの一月」室内オーケストラのための
指揮:野平一郎 管弦楽:いずみシンフォニエッタ大阪
三輪眞弘「ひとのきえさり、藤井貞和の詞による序奏と朗読」シンギング・マシン、アイントンと9人の演奏者のための(2013)
シンギング・マシン、アイントン:マーティン・リッチズ、管楽5重奏と4人のドレミパイプ奏者:いずみシンフォニエッタ大阪
フォルマント兄弟 歌謡曲「夢のワルツ」MIDIアコーディオンとオーケストラのための(2012/2014)
MIDIアコーディオン:岡野勇人、ギター:佐近田展康、指揮:野平一郎 管弦楽:いずみシンフォニエッタ大阪
三輪眞弘「万葉集の一節を主題とする変奏曲」MIDIアコーディオンと管弦合奏のための(2014)
いずみシンフォニエッタ大阪 (サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演)
三輪眞弘「海ゆかば―<万葉集の一節を主題とする変奏曲>内包曲―」MIDIキーボードとパソコンのための(2014)
MIDIキーボード:岡野勇人(サントリー芸術財団委嘱作品・世界初演)
トーク・セッション:三輪眞弘(作曲家)、マーティン・リッチズ(美術家)、伊東信宏(音楽学者)
「TRANSMUSIC 2014」が三輪さんを迎えて開催されるということで週末、土曜日に大阪に向かう。プログラムは上掲の通り、 クラーレンス・バルロの「ナイルの一月」、三輪さんの「ひとのきえさり」とフォルマント兄弟名義の佐近田展康さんとの 共作「夢のワルツ」の再演、そして最後に三輪さんの新作初演を含む非常に贅沢なもの。
一方で私はと言えば、二週前に崩した体調の恢復がいつも以上に思わしくなく万全ではない上に、 幸いにも仮にであれ一区切りがついたタイミングとなって気分的に引き摺る要素が少ない替りに、その分 溜め込んでしまった平日の疲れが抜けない儘に、新幹線に乗るべく移動すれば、その途上で人身事故での 運転見合わせに遭遇し、それでも辛うじて1本新幹線をずらすだけで開演前にはホールに辿り着くという、 万全からは程遠い状況で演奏に立ち会うことになってしまったのは残念であった。
しかも加えて、会場において、今度は新作初演の際に機器のセッティングの不備があり、演奏をやり直すという ハプニングも重なり、新作を十全に受け止められたかどうかについては全く自信がない状態なのだが、 後日の備忘のために簡単に感想を記しておきたい。
最初におかれたクラーレンス・バルロの「ナイルの一月」は、ある仕方で選択された「変容」の過程自体を音響的に定着させたと いった印象の作品。演奏が終わった後のトーク・セッションでの三輪さんの種明かしによれば、ここでの素材はドイツ語のテキストを 音響的に分析した結果とのことだが、それを知らずに聴いても、何らかの基底となるモチーフが時間の経過とともに浮かび上がり、 変容していく様は明確に聴き取ることができる。但し、微分音程を含む音響の中から旋律が出現し、調性圏のようなものが 輪郭を明確にしていく変容のプロセスは、少なくとも微視的には人間的なものではなく、明らかに幾つかのパラメータの 操作をいわば「機械的に」行うことで産み出されたものであり、題名に引き摺られてというわけでもないが、恰も河の流れのように、 人間的な秩序を超えた法則性に基づき音響が滔滔と流れつつ姿を変えていく経過に立ち会うことになる。
一方で巨視的な過程としては、途中でそれまでの流れが断ち切られ、突如として伝統的な意味での音楽が演奏される部分に切り替わり、 今度はそこからの変容のプロセスが再開され、但し再び冒頭のような混沌に戻ることなく終わるという構造は決して聴き難いものではなく、 或る種の聴き手へのサーヴィスにも怠り無い、高い完成度を備えた聴き応え充分の作品であると感じた。 野平さんが指揮するいずみシンフォニエッタのメンバーの演奏の精度は高く、作品の姿を十全に示すものであったように思う。
二曲目の三輪さんの作品「ひとのきえさり」は私にとっては二度目、再演を聴くことになる。何時の時代であっても同時代には膨大な数の作品が 産み出されて試演されはしても、その多くは再演の機会を得ることすら叶わずに、時の流れの中に消え去ってしまうものなのだろうが、 初演の際に感じた、この「ひとのきえさり」が、そうした流れの中で繰り返し演奏されるべき作品の一つであるという印象は 再演を聴いて、確信に変わったように思える。
今回は舞台に向かって左側にシンギング・マシンを中心としたドレミパイプ奏者、右側に管楽五重奏、そして中央に3つのパイプよりなる アイントンが配置されての演奏。作品は「序奏と朗読」というタイトルの通り、管楽五重奏が中心となり、音を発しない シンギングマシン(但し「調音」は行われている)とドレミパイプ奏者の演奏と囁きの交替が影となる前半部分、管楽奏者が退場してしまった 後、非常に低いEsの音を鳴らす3本のアイントンが折々呻りを発して基底の響きを作り出す中で、シンギングマシンが子音の代替となるピッチを 持った母音を発声することにより藤井貞和さんの詞を「朗読する」のに対して、ドレミパイプ奏者が「伴奏」する後半部分とに分かれているのだが、 実は前半も5本の管楽器のそれぞれが母音を担当し、子音にあたるピッチを奏していくことによって、いわば器楽による藤井さんの詞の「朗読」を 行っているのであれば、この作品も「ひとのきえさり」の詞に基づく(序奏と朗読の2つの部分からなる)変奏曲と見做すこともできるだろう。
シンギング・マシンのすぐ近くで聴いた前回とは異なり、舞台から離れ、どちらかというと管楽五重奏の正面で聴くことになった今回は、 そのせいもあってか、前回よりも前半の管楽五重奏の部分の印象が強く、それゆえ変奏曲という印象を強く持ったのかも知れない。 何よりも印象的だったのが、管楽五重奏の序奏がそれ自体、楽器という発声機構を持つ「装置」による「朗読」に他ならないことが 明瞭に感じ取れたことであった。各楽器に母音が割当てられ、子音がピッチに変換されることにより、藤井さんの詩が、 意味は勿論のこと、ヒトの発声器官の特性さえ剥奪され、楽器の音色の交替として実現される母音の変化と、 ピッチの変化として実現される子音の移り変わりという構造に還元され、抽象化されて提示されている印象を抱いたのである。 こう書くと如何にも分析的な聴取の仕方ととられるかも知れないが、実際には全く反対で、藤井さんの詩の持つ音響的な変化と 多様性の美しさが、いわばエッセンスのようなかたちで提示されているように感じられたということなのである。 アイントンのEsを基音としていることもあり、管楽器による「朗読」は非常な困難と伴うのではないかと思われるのだが、 まるで一つの装置が「発声」するような自然さでのリアライズが行われていたことも、上記のような印象に 与っていることは間違いないだろう。
後半の「朗読」の冒頭、リッチズさん製作のシンギングマシンが朗読を始めた時、ピッチと母音のみしか音響的には実現されていない筈なのに 確かに「ひとのきえさり」と発声されているようにしか聴こえなかったのもまた、単なる偶然とは思えなかった。それだけではなく、 この曲を繰り返し聴いている裡に、母音とピッチだけで藤井さんの詩が本当に聴き取れるようになるに違いないとさえ感じられたのである。 それはひとまずは、一見したところ全く異なるシステムの言語であっても、繰り返し聴くことの「暴力」により、いずれそのシステムに 馴致されてしまうということなのであろうが、一方で、半ば無意識的にその中に埋め込まれている「通常の」システムもまた、 実は同じような仕方で、それに適合するように学習されたものに過ぎないのだ、ということに対する認識の方が、私にはより鮮明に感じられた。
再演を聴くというこちら側の条件と、コンサートホールでの舞台上での演奏ということも相俟って、前回に比べると儀礼性よりも 音楽作品の高精度のリアライズといった側面がより強く感じられたが、この作品が機械と人間によるアンサンブルという 三輪さんの作品のコンセプトの一つの最高度の実現の一つであるという認識は一層揺ぎ無いものとなった。 演奏後のトーク・セッションで進行役の伊東さんが、自分が作った楽器を「礼拝」したリッチズさんに対して、「どちらが主人なのか?」と いう質問をしていたが、消え去って既にいない人間の記憶を、断絶を乗り越えて継承するテクノロジーとしての装置は、 ここでは人間が世代を超えて、忘れてはならない記憶を継承するための不可欠の契機、「文化」の拠り所であり、 寧ろそちらの方が優越するという認識すらありえるのだということが示されているのだろう。シンギングマシンというのは、 もしかしたら、調音機構自体も含めて、最早亡き者の過去の記憶自体であり、MIDIアコーディオンを用いてしか発声する ことができなくなり、固有の「声」を喪ってしまった未来の人間にとって、或る種の聖遺物として、礼拝の対象と すらなりえるのかも知れない。
休憩を挟んでの後半は、最初にMIDIアコーディオンが歌う「夢のワルツ」の管弦楽伴奏版。MIDIアコーディオンが今日の姿になる プロセスに立ち会うことができた私にとって、「夢のワルツ」はすっかり馴染みの曲になってしまったが、 野平さんの指揮するいずみシンフォニエッタの名手達が、MIDIアコーディオンが「歌唱」する演歌のフェイクの伴奏をすることによって 惹き起こされる、或る種の眩暈のような感覚が印象的だった。勿論、(「現代音楽」というジャンルを含めた)いわゆる 「クラシック音楽」を演奏することを目的としているオーケストラによる演奏で、同じ目的のためのコンサートホールにおいて、 本来そうした場での演奏を想定されていない音楽が響くこと自体は、現代においてはそんなに稀なことでもなく、 そのこと自体の異化効果のようなものはとっくに消滅しているし、他方で例えば和楽器が用いられるかと思えば、電子楽器が用いられ、 音響が増幅されたり、加工されたりすることもまた「見慣れた」風景となっているのであれば、管弦楽伴奏によりMIDIアコーディオンを 用いて演歌が演奏されること自体にも違和感などありはしない。従って眩暈のような感覚というのも、寧ろこれまで専らMIDIアコーディオンを 用いた人工音声による歌唱の実証実験のサンプルの感のあった「夢のワルツ」が、超絶技巧を要求される現代音楽をものともしない 名手達の指揮と演奏により、余りにも普通の音楽としてリアライズされてしまったことに対する驚きに由来するものであったかも知れない。
そのことは同時に、実際には岡野さんの超絶技巧によって成立している「誰のものでもない声」による筈の「歌唱」が、 「誰でもない」ことの不気味さよりも、どちらかというと「人声」と同じ音色と音程を持つ新しい「楽器」を「表情豊かに」 弾きこなしているという、寧ろ「当たり前」で「自然」な状況、他の楽器であればごく当たり前の状況を産み出しているように 感じられた側面に通じているに違いなく、人間と機械の関係の微妙さを感じることができる非常に興味深い経験であった。 非常に単純化した言い方をしてしまえば、MIDIアコーディオンの「匿名性」はこの方向性では喪われてしまい、 本来は奏者の人格に対して外的で中立である筈の楽器があたかも奏者固有の「声」に喩えられるような状況が一般的に生じるのと 同じように、MIDIアコーディオンの「声」が、(第二の、補綴されたものであれ)奏者である岡野さん固有の「声」に なってしまうように感じられたのである。
それは恐らく、休憩前の演奏におけるリッチズさんのシンギング・マシンが、ウニカートであり、誰のものでもない声を発するという点では 音声合成によって声を発するMIDIアコーディオンと共通していている一方で、実際には機械仕掛けでプログラムされた手順で「朗読」して いくのであるとはいえ、結果として「自動的に」「朗読」を行っていたのに対し、ここでは岡野さんがアコーディオンを操作することで 「歌唱」が行われるというリアルタイム性に関する差異が(或る意味では逆説的な仕方で、というのもその点こそがこの試みを、例えば 「初音ミク」に代表されるヴォーカロイドとの差別化のポイントであったのだから)惹き起こしたものではなかったかと思う。 アバターが音楽に合わせて動く画像が捏造する擬似的な人格との違いは勿論歴然としてあるのだが、ここではリアルタイム性が、 「匿名性」を消去する別の経路となっている感があって、いずれにしてもMIDIアコーディオンを用いた人工音声による歌唱の試みの 可能性は、決して「人間」(現在においては、そこには初音ミクのようなキャラクターをも含めるべきなのかも知れないが)の 真似をする方向には決して存在しないという、実際には「フレディーの墓」の時点で既に明らかになりつつあった点を改めて 確認させられたように感じられた。そしてMIDIアコーディオンのあるべき方向性はと言えば、次に演奏された三輪さんの新作に よってこそ明確に提示されているように思われたのである。
プログラムの掉尾を飾る新作、MIDIアコーディオンと管弦楽奏者達による「万葉集の一節を主題とする変奏曲」とその内包曲とされる信時潔の 「海ゆかば」のMIDIキーボードによる「歌唱」は、演奏上は一続きのものとして演奏された。MIDIアコーディオンは、通常のアコーディオンと 人工音声発生装置の2つのモードを切り替えて演奏されることが意図されていたにも関わらず、冒頭にも述べたように、セッティングの ミスにより切替が行われずに、三輪さんの判断により一旦演奏を中断し、セッティングをし直し(といっても実際には抜けていた端子を きちんとつなぎ込むだけのことだったようだが)もう一度最初から演奏をしなおすというハプニングがあった。これによってホール 全体の緊張感が途切れてしまったのは、仕方ないこととはいえ、残念なことであったが、MIDIアコーディオンの朗詠の不気味なまでの 雄弁さとともに、その後に続けて今度はMIDIキーボードで「普通に」歌われた「海ゆかば」の逆説的な不気味さ、更にその末尾で、 意図的にキーボードを音声を発生するモードから通常のモードに戻し、間違って、音素に変換されるべき指遣いでの演奏を、通常の モードで演奏させることにより、いわば舞台裏を垣間見せることによって、メカニズムが露呈される部分の凄味などには尚、 圧倒的な印象を受けた。また例えば風鈴をうちわであおいで音を出すのに導かれて演奏が始まるという着想も、霊魂が音に導かれて 到来するという伝統的な「鎮魂」の儀礼的な手段を自然な形で取り込んだものであり、効果的であった。
ここでのMIDIアコーディオンは、「夢のワルツ」を歌うそれとは異なって、ある時には通常のアコーディオンという楽器であり、 ある時には「海ゆかば」を読み上げる匿名の声である。しかもそれは歌唱を目的に設えられたヴォーカロイドとは異なって、 呼吸をし、喘ぎ、囁き、絶叫する存在である。意図的に聴き取れないように管弦楽奏者達によって唱えられる特攻隊員の辞世の歌も そうだが、ここでは「歌」はほとんど解体されてしまい、何者かに向けての祈りや訴えしか残っていないかのようだ。 ここでの変奏というのは、伝統的なそれのように歌を装飾していくプロセスでも、歌の骨組みに当たる要素に基づく変容の 可能性を追求するプロセスでもなく、寧ろ演奏行為も含めた「歌」の背後にあるものを暴き出し、アンサンブルの中では 調和的に回収され、馴致され、或いは美化さえされたかも知れない異質な要素を浮かび上がらせる機能を担っているかのようだ。
これは何の予断も前提知識もなく音響に接した聴き手にとっては知りえない事柄ではあり、だがアッタッカで演奏された 信時版「海ゆかば」の「歌唱」の末尾の「仕掛」によって実は遡行的にヒントが与えられていたようなのだが、 ここでの変奏は、注意深く、文字通り読み取れば作品の題名が正確に指示している通り、信時版の「音楽」に対する それではなく、万葉集の大伴家持の歌の一節である詞に対するそれ、しかも、音素を鍵盤で弾くための規格に従いつつ、(勿論意図的に) 間違えて、通常のモードで、つまり音素を生成するためのアコーディオンのボタンの組合せを、そのまま変換せずに音響化して しまった時に生成される音響によるそれであったようなのである。もっとも私はそのことを自分の耳で聴き取ることができず、 作曲者に問い合わせて教示されて始めて、その「照応」に気付いたに過ぎないのだが。
そうであってみれば、変奏曲に引き続いてMIDIキーボードが「歌唱」した「海ゆかば」が、始めこそサンプルされた 伴奏に合わせて普通に歌われるものの、聴くに耐えないようなおぞましさを帯びて聴こえてきたのは、私が個人的にこの曲に 結び付けている連想が惹き起こす情緒的な反応によるものばかりではなく、変奏曲が浮かび上がらせたものが無意識的に働きかけた 効果によるものではなかったか。実際には、こちらはその場で気付いた、信時版「海ゆかば」の演奏の末尾の意図的な「間違い」に 照応する「万葉集の一節を主題とする変奏曲」の変奏の側で仕組まれた変換モードの「誤り」(ハプニングは、この誤った状態から MIDIアコーディオンが抜け出せなくなってしまっていた点に存しているわけである)は音素への変換の誤りという点では同一であっても、 一方はアコーディオンのボタンの割付、他方はキーボードの左手部分のキーの割付という異なった機構の上でのものであり、 従って、聴き手が受け取る音響は、仮令同一の詞に対する誤りであっても異なったものでありうるのであれば、両者の間に存在する 対応関係は、両方の規則を身体化した奏者(岡野さんは確かにそこに含まれるだろう)以外には隠されたままで留まることになる。 だが恐らくは、注意深い聴き手が「変奏曲」で、音声のモードに切り替わった瞬間に気付いたということはありえるだろう。 そもそも私もまた、MIDIキーボードの変換規則を身体化しているわけでもないのに、「海ゆかば」のケースについては 気付いたのだし、最初に主題が提示されるのではなく、最後に主題が提示されるようなタイプの変奏曲は伝統的な クラシック音楽にも存在すること、或いはバッハの対位法作品に見られるような謎解きが含まれる音楽を思い浮かべても良い。 そしていずれの場合でも、聴き手が無意識的に受け取るものは、規則を見破り、謎を解く事ができるかどうかとはまた 別の次元に属している筈なのだ。
管弦楽奏者達が奏していたのは、変換ミスにより「歌」になりそこねた結果としての音響であり、それはアンサンブルの拒否と いうよりは寧ろ、間違ったアンサンブルの(強制された)実現と言う方が適切だろう。勿論のこと、音素変換の規格におけるボタンの割当は、 それが変換されずに音響として実現された時のことに配慮してなどいないから、その結果は通常の意味において「音楽」と呼べる ものではないし、従ってそこには「表現」が成立する余地など存在しようがない。それ故、それは直接的な怒りや絶望の表現では ありえないのだが、にも関わらず、詞にできず、歌として口ずさむことができない何かを、その意図に相応しく、未成の「音楽」、 「音楽」の幽霊とでもいうべきものとして、それでもなお音楽作品として定着させようとする作曲者の意志の凄まじさのようなものを 感じずにはいられなかった。勿論、人によっては、ここで織り込まれた意図的な変換エラーの結果を音響化してしまうという姿勢を、 最早「音楽」ではないものに突入してしまっているとして拒絶することだってありえるのだろうが、にも関わらず、私個人については、 この作品のこの側面に限って言えば、わからないなりに、無意識的にであれ、その仕掛から何かを受け取ったということは事実として証言できるし、 それが伝統的な意味合いでの音楽であるかどうかなど、受け取ったものの重みの前では副次的な問題に感じられる。最早「音楽」が 不可能であることが最後の音楽の条件であるような地点に私はいるのではなかったか。
だがその一方で、例えば、管弦楽の奏者各自の形態端末に配信されるテンポの指示に従い、 ずれたテンポで楽器が演奏するアイデアなどは、全体としては指揮者をおかず、各奏者がアコーディオンの音に反応して演奏をしているかの ような自律協調的な見かけとの重ね合わせのせいか、作曲者の意図が充分にリアライズされているのかどうか、率直に言って良くわからない面もあった。 勿論これは、演奏によるリアライズが不充分であったのでは、という意味合いではなく(その点については申し分なかったようなので)、 あくまでも聴き手たる私にとって、手に余る状況であったということを述べているに過ぎないのだが。
ここでの器楽が通常の意味での「アンサンブル」ではないことが目指されているのは明確なのだが、その先にあるものが、 「アンサンブル」の拒絶としての系のエントロピーの単なる増大(つまり無秩序への崩壊)への志向なのか、例えば「59040年カウンター」 においては見事に達成され、圧倒的な効果を上げていた、自律的協調による新たな秩序の構築への志向なのかが判然としないように 思われたのである。しかもその前提として、そこで奏される音群が、いわば誤変換の結果であるという条件が予め課せられているとき、 更にその上にかかるテンポの条件が与えられたことの音響的な結果の帰趨を見定めるのは、私の個人的な能力の限界を最早超えているようにも 感じられるし、それを更に人間の奏者が演奏する(誤った音を、決して揃わないテンポで奏することになる)ことがどういうことなのかもまた、 見極め難いように思われる。 例えば、全く異なる理由でしばしば現実に行われているように、奏者は耳栓をして、他の音を聴かずに演奏をすべきなのか? にも関わらず、同じステージで演奏することの奏者にとっての意味は、そしてその演奏に立ち会う聴き手にとっての意味は何か?
聴き手たる私に課された問いがあまりに重く錯綜としていることは明らかだし、ハプニングを含めた色々な条件が重なった一度きりの 聴取で判断を下すことは私にはできないことを告白せざるをえない。少なくとも、単に私に聴き取れなかった部分があり、その結果として 理解できなかった部分があることは疑いないわけだから、性急な判断をして総括する愚を冒すことは控え、再演の機会があれば是非、 この点についてもう一度確認し、更に考えてみたいように思う。
だがそれでもなお、この作品の射程と意義について私なりに感じたことを後日のために書き留めておくならば、それは以下のようなものに なるだろうか。三輪さんには「永遠の光…」のような、祈りを音楽化することの不可能性を出発点にとった作品がある。ここでもまた、 鎮魂を、追悼を「心を合わせて」集団で行うことへの深い懐疑があり、そのことによる「内面化」の作用に関し、そこで音楽が 持ってしまう力に対する作曲家としての拒絶があるように思われる。勿論それは、分析的な思弁の産物などではなく、それ自体が 強い情動を伴った判断であり、それゆえそれは、屈折を経た上で、それでもなお、もう一度「音楽」として作品化されることを欲するものなのだ。 しかもそれは、最早信じることのできない自分の固有の声を通してではなく、社会的集団の匿名の声でもなく、誰でもない他者の声を 介してしか語ることができないような性質のものであるに違いない。こうした点においてこの作品は、少なくとも大きな枠組みにおいては、 まさにそうでしかありえないような必然性を帯びたものであるように私には感じられる。この作品の場合、作品のかたちで定着され、 記憶されることを望まれている状況は、あえて破綻を意図的に作品の構造に組み入れなければならない程、限界的なものなのだ。 技術的な細部はおくとしても、私はその必然性を感じることができたし、その重みを感じることもできたように思える。 私のあまり狭く鈍ってしまった受容能力で、それを十全に受け止められたかどうかについては甚だ心もとないものがあるし、 受け止めたものに相応しい応答を、何か明確な形で、直ちにすることはできなくとも。
私の最近の音楽との接点は誠に貧しいものであって、今年はこのコンサート以前には、辛うじて三輪さんの作品も僅かに2作の演奏を聴いたのみに 過ぎず、己の感性の摩滅が、聴取の不全となって作品の理解を妨げていはしまいかという疑念は拭い難い。一方で三輪さんの活動の方は、 「ひとのきえさり」がドイツで初演されたのが丁度1年前のことだったが、その後の1年間で 「みんなが好きな給食のおまんじゅう」「お母さんがねたので」「火の鎌鼬」「59049年カウンター」に続いての新作ということになる。 そればかりか大学教授としての職務は勿論、芸術賞の審査員、「ひとのきえさり」の日本初演を含むコンサート企画、三輪さんが音楽を 担当しているイェリネクの「光のない」の再演等の活動と並行してのことであり、この1年間の三輪さんの作曲のペースは驚異的という他ない。 のみならず今回の新作は、フォルマント兄弟名義での近年の活動の一つの到達点と位置づけられる作品であり、なおかつ三輪さんの 他の作品の系列との融合が試みされた第一歩でもあり、今後の発展、展開が期待される。それ故、一方では同時代に生きる者の務めとして、だが 何よりも自分が生き続けるための糧として、引き続いて可能な限り三輪さんの活動を追って行きたいと私は思う。なぜならば、ブレヒトの「セチュアンの 善人」の中で歌われるように、Der muß vor Nacht gerodet sein / Und Nacht ist jetzt schon bald! と嗾けられ、その挙句に落伍し、 踏みつけにされ、見捨てられ、あまつさえ断罪され、有責とさえされかねない状況、真理がファンタズマゴリーとしてしか経験できない状況は 過去のものであるどころか、今日まさに、我が身にふりかかっている現実に他ならず、そうした人間にとって三輪さんの音楽は、その音楽の 破綻自体すら真理に他ならず、常に誰にも聞いてもらえず、否定され、却下されてしまう、声を奪われた自己の代弁者なのだから。
(2014.11.9初稿、10加筆・公開, 11修正, 2024.8.21 noteにて公開)