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「59049年カウンター」世界初演を聴いて

2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者達のための「59049年カウンター」(詞:藤井貞和)

LSTチーム詠人:松平敬(バリトン・レインスティック)
MSTチーム詠人:高橋淳(テノール・レインスティック)
桁人および悪魔:横浜都市文化ラボ桁人チーム(桁人・シェイカー、悪魔・桁人移動シミュレータ)
アンサンブル(傍観者):
斎藤和志・齋藤光晴(ピッコロ・フルート)
大石将紀・江川良子・冨岡祐子(ソプラノサクソフォーン・アルトサクソフォーン・テノールサクソフォーン)
飯野和英(ヴィオラ)、宇田川元子(チェロ)、鈴木隆太・白石准・高橋ドレミ(シンセサイザー(鋸波・三角波・正弦波))
岩見怜奈(タムタム・アンヴィル)、村居勲(LSTドレミパイプ)、山本貢大(MSTドレミパイプ)

2014年8月30日 サントリーホール大ホール:「木戸敏郎がひらく」21世紀の応答

今年のサントリーホールでのサマーフェスティバルでは、木戸敏郎さんのプロデュースによるコンサートが3公演行われ、 そのうちの8月30日の公演は「21世紀の応答」というタイトルを持つ、シュトックハウゼンの「暦年」洋楽版の日本初演と 三輪眞弘さんの委嘱新作「59049年カウンター」によるプログラムであった。この公演は8月28日の「20世紀の伝言」と 題された「暦年」雅楽版の再演と一柳慧さんの雅楽のための新作の公演と対をなしている。更に8月22日には、木戸さんが 取り組まれてきた始原楽器の復元と始原楽器のための作品委嘱の活動を紹介する「始原楽器の進行形」と題された公演があり、 ここでは三輪さんの逆シミュレーション音楽の傑作「蝉の法」が西陽子さんにより演奏された。私は8月30日の公演のみ 訪れることができたので、三輪さんの作品を中心に8月30日の公演の感想をまとめておくことにする。


プログラムの前半は、「暦年」の洋楽版の日本初演。この作品がオペラ「火曜日」の第1幕となり、「火曜日」をその一部と した演奏時間30時間弱、7日に渉って演奏される構想の全7作のオペラ・ツィクルス「光」の出発点になった作品であることは 辛うじて知っているが、雅楽によるオリジナルの「暦年」が初演の際に蒙った批判のことは伝聞していても実作に接したことが ない私の耳には、その音楽はごく普通の西欧の現代音楽と聞こえた。楽器の編成からも、各パートの音形からも、オリジナルの 雅楽版の姿が見え隠れするものの、雅楽のオーケストラ編曲といったイメージから想像される違和感は殆どなく、寧ろ緻密に 書かれ、見通しの良い(途中で先がほとんど読めてしまうという点では、寧ろ良すぎるかも知れない)構成と、(電気的な 増幅のような処理も含めて)生成される音響に対するこだわりが感じられる音楽は、奏者の際立って集中力の高い演奏によって、 非常に高いクオリティでリアライズされていたと思う。それぞれ異ジャンルの4人からなる舞踊、これも強く西欧のオペラの 伝統を感じずにはいられなかったミカエル、ルシフェル、レフェリーについても同様で、作品自体の評価を云々する以前に 演奏の質に圧倒されるような高水準の上演であったと思う。

雅楽版のそれ、あるいは「シリウス」のような同時期の作品のそれと同様、物議を醸すことの多いシアトリカルな部分についていえば、 私が強く感じたのは、読み取ることはさほど困難なこととも思えない作曲者の意図といった意味内容の側面よりも、それをこういう シーンとして埋め込んでしまう作曲者自身のか、あるいは作曲者の埋め込まれた伝統のか、どちらともつかない個性であり、 それに対するどうしようもない距離感であった。

シアトリカルなシーンは時間を進めようとするミカエルと時間を止めようとするルシフェルの抗争の場面のようだが、効果音や 効果音的なBGMを含めた演劇的時間の面で、止めようとする側と進めようとする側のコントラストはないから、予断ない目と 耳で聞いたとき、シアトリカルなパートが音楽と舞踏による持続のパートに対する或る種の中断、介入であることはわかっても、 それが時間自体の進行と停止に関する抗争であることを読み取ることは困難であろう。同様に明確な発展・ 展開の弁証法を持つわけではない音楽は、ストップウオッチでカウントするというシアトリカルな身振りで端無くも 露呈されていたように、時間の進行というのを、生成し、発展していくものではなく、計測し、比較することができる時間表象に よって捉えようとしているが故に、ミカエルがというよりは寧ろレフェリーが仕組んだ各桁間の意味不明の競争の時間の持続に対して、 ルシフェルの試みる介入こそが出来事としての時間の発展の契機となるという、恐らくは作曲者の意図にとっては皮肉な (だが時間論的にはある意味では当然の)結果となっているように感じられた。そうした意図の水準を括弧に入れてしまえば、 ここでは(ミクロに見れば、例えばバレエ等でもそうであるように、舞踊を基準にテンポが設定され、舞踊を見ながら、それに 合わせるように器楽の演奏が行われたとしても尚、決して舞踊から音楽が引きだされるのではなく、) 音楽が時間経過を支配しており、舞踊は音楽に随伴し、そして演劇的時間の方は音楽的時間とは無関係(つまり、有機的な 重層性を形作る関係にはない)であるように見受けられる。

だがそれらよりも印象的であったのが、そのことの是非は別にして、この作品の音楽的構造が作曲者の設計により1977年という時点をいわば 「ラベル」の如きものとして抱え込んでいる点である。カウンタの1と10の桁は実際には7進法によっており、7の2乗が更に 9回という全体構造は、10進法システムである筈の西暦を数えることよりも、1×9×7×7という、4つの数の組合せを優先している ように見える。実は7進法でカウントアップしていく下2桁を見て、全てが7進法で支配されていて1700年代以降の 時代がショートカットされるというコンセプトを思いついてしまったが、それでは肝心の1977年が飛ばされてしまう。 勿論、舞台の上には2014と大書されていて、各桁の舞踊は(作曲者の指示通り)その数字に応じて1977年の時とは 異なった動きをするようになっているのだが、舞踊自体も結局のところそれに従属している音楽的な構造は「1977」という文字列に支配されていて、 実際に演奏はカウンタが1977年に到達したときに終わるし、その後とってつけたようにカウンタを2014年に(何の音楽的・舞踏的・ 演劇的イベントもなく)飛躍させることで、辛うじて上演する現在との結びつきを保持することになる。

作曲者自身はこの作品は毎年上演されることを希望していたらしいが、私が感じ取ったのは、この曲が作曲された1977年と いう年号の記憶の方なのであり、洋楽版の方はこれが日本初演であり、1回目の演奏であったにも関わらず、それは1977年を 反復することで記念する儀礼の如きものであるかのような印象を受けたのである。 勿論、そうしたコンセプト的な側面は作品の一面に過ぎないし、この作品の音楽的質と独立に論じることができるものであるけれど、 それでもなお、1977年から2014年までの時間がいわば「盗まれた」ような感覚に囚われるのは避け難いし、上述のように、 実際の上演の時間の流れと作曲者の意図、更には意図を実現すべく、そこにあてがわれた時間表象との間に懸隔を感じずに いることもまた、避け難い。結果として、この公演のタイトルにかけて言えば、初演の時の批判は最早過去のものであるとしても、 作品自体が自ら1977年という時点に留まっているのに対して、2014年のこちら側から、新たな演出・演奏をもって応答していると いった印象を強く持ったのであった。


20分の休憩を挟んだ後の三輪さんの新作は、シュトックハウゼン作品のコンセプトのうち「年を数える」というコンセプトに対し、 三輪さんが逆シミュレーション音楽を通じて可能性を追求してきたアルゴリズミック・コンポジションによる「応答」を試みた ものといえるだろう。以下、三輪さんの近年の他の作品との対比をしつつ、作品の構造の特徴の概要を記しておくことにする。 実際には他の逆シミュレーション音楽の系列の作品と同様に、厳密に演奏の手順が定められていて、それが通常の西欧音楽における楽譜の替りを しているのだが、ここでは厳密さは犠牲にして、コンセプトとリアリゼーションの両面において、「応答」の射程を理解する上で 重要と私が感じた点を中心に記述することにしたい。

三輪さんの近年の作品は、蛇居拳算と名付けられたアルゴリズムをいわば共通のマトリクス(母型)として用い、一つ一つの 作品がまるで共通のDNAを持ち、異なるゲノムを備えた生物であるかのような様相を呈しているが、更に「みんなが好きな給食のおまんじゅう」 「火の鎌鼬」といった作品と「59049年カウンター」は、アルゴリズムのシミュレーションのリアライズにあたってサミュエル・ ベケットのQUADに基づいている点でも共通していて、それに付与される物語(逆シミュレーション音楽における「由来」)が 異なっているという点で、見かけは多様な神話物語が共通した構造を持っていることを思わせる。「59049年カウンター」では2組のQUADが用いられるが、 各QUADでは、方形の4つの辺と対角線を桁人が移動でき、5人の桁人のうち4人が常に4つの頂点を占め、一人は頂点から頂点への移動を行い、 蛇居拳算は移動している桁人と移動先に居る桁人との間で行われて状態が更新される。2組10人の桁人の状態が10桁の3進数の各桁に対応し、 10人の桁人の状態が暦年を表すようになっている。

その一方で、「ひとのきえさり」「火の鎌鼬」と「59049年カウンター」は、藤井貞和さんの詩「ひとのきえさり」を素材としている点で共通しているが、 その実現の仕方は作品により異なっている。「ひとのきえさり」では7種のピッチを持った母音の調音のみができるマーチン・リッチズの音楽機械が 絶滅したギヤック族の儀礼を反復するという物語の下で詩の朗読を行うのに対し、「59049年カウンター」では、桁人の形作る2つのQUADの図式の各々の 中央、「ドラマ化されたタブー」と名付けられた位置に居る2人の詠人が、定められた旋律 (ただし、バリトンの側は2種類の旋律のいずれかを選択できる)によって朗唱する。 朗唱する節は、桁人同士の演算の結果、対角線方向への移動が生じて自分に向かってくる桁人から手渡される札によって決められている。

「ひとのきえさり」では朗読にあたって子音音素に割当てられていた音名組織は、ここでは5人1組で2組10人よりなる桁人のいる位置のIDとなっている。 10人の各桁人に対応してまず10種の楽器(音色)とビート(持続)が割当てられ、更に桁人の状態に応じた音域が定められて いるので、各楽器奏者は、自分が割当てられた桁人のいる位置と状態(その位置に到達する際の移動方向)によって自分の演奏する音名・音域を 選んでいくことになる。更に桁人が対角線方向への移動を行う際には、ドレミパイプの奏者が移動元と移動先の地点によって定まる音名のパイプを 奏することになっている。

一方で、桁人自身もQUADの頂点に居る間にマラカスを奏することで、自分の状態を他の奏者に伝達するし、タムタムとアンヴィルの奏者は 詠人に桁人から札が渡されるタイミングやある桁が特定の状態になったことを告知するように、指定された楽器を指定された奏法で演奏する。 アンヴィルの演奏は、楽器奏者の演奏の中断のキューとなっており、結果として、特定の暦年に達したときには桁人のマラカスの音と 詠人のレインスティックの音のみが残るようになっている。このようにして桁人の舞台上での動きによって音響体の音色・音高・リズム(ビート)が 変容していくプロセスが展開されていくことになるのである。

曲の開始と終了を定める状態は、桁人の状態により表現される3進数を10進変換して得られる暦年が2014の状態から開始され、 再び2014年が回帰したときに音楽が終了するように設計されている。その間に蛇居拳算によって変化する桁人の状態を変換して得られる 暦年は、標題である59049年(10桁の3進数で表現できる最大値を10進表記したもの)を最大として、過去・未来を往来することになるが、 その出現順序は蛇居拳算による状態遷移規則によって厳密に定められているのである。従って、今回演奏された初期条件・終了条件を 1つのヴァージョンと見做せば、このヴァージョンにおいては2014年という年がいわば「記念」され、「記憶」されていることになるが、 ここではシュトックハウゼンの場合と異なって、年を経る毎に初期条件・終了条件を変えた異なるヴァージョンを演奏することもまた、 原理的に可能なのだ。もっとも実現される状態遷移過程が音楽的に興味深いものであるかどうかは別問題だし、どれくらいの長さで 周期ができるのかもシミュレーションしてみなければわからない。にも関わらず、原理的に開かれた構造を持っていることは、 コンセプトの徹底という観点から好ましいことであることは確かだろう。


上記の概略的な説明だけからでも、シュトックハウゼン作品のコンセプトから抽出された、「暦」の「年を数える」という機能が、 アルゴリズミック・コンポジションにおける系の時間的発展によってより徹底した形で音楽化されていることがわかる。 更に三輪さんの作品で特徴的なのは、音楽的な時間発展が、時間発展の実現主体である桁人間のインタラクション、 更に桁人、詠人、傍観者といった3層の奏者間のインタラクションによって、身体性を伴って自律分散的に進行していくことであるが、 特に従来の三輪さんの作品と比較したとき、一連の逆シミュレーション音楽における音楽的時間の構築の試みが、これまでにない重層性と 多様性を持って為されていることが大きな特徴であると思われる。

記譜された楽譜を演奏するのではなくして、いわゆる手順書に従って、自分の演奏のキューとなる他の奏者と呼吸を合わせ、 それ自体が他の奏者へのメッセージとなる音響を実現していくインタラクションを、ほとんど極限的と感じられる程に複合的に 重ね合わせることにより、かくも豊饒な音楽的時間をリアライズした奏者の集中力に、まずは敬意を表したい。 何よりも強く感じられたのが、奏者間のインタラクションによって音楽が生み出されていくことの結果としての、時間の流れの 有機性であり、単に音楽的と形容するだけでは足りない、何か生命体の活動を目の当たりにし、客席も同じ生命を持つ存在として、 それに同期していくような、緊張感に満ちていながらも、比喩でなく、文字通りに血の通った音楽的時間の出現を体験できたのは稀有な経験だった。

一方で、決定論的な規則に従うことを奏者に強制するこの作品に、各奏者の役割が独立していても、あるいはそれゆえに 一見して自主性や自律性を尊重しているかに見える、巧妙に偽装された全体主義の戯画を感じる人がいるかも知れない。 あるいはまた、三輪さん自身のプログラムノートによって示唆されているように、原発事故によって個体としての寿命を遥かに 超えるばかりか、種としての存続すら自明でないようなスケールの時間に対する責任を問われることになった現代の 技術文明のおかれている状況に対する暗示を読み取ることができるのかも知れない。

だが、少なくとも私が感じたのは、例えばゲノムによる個体発生のプロセスが、やはり同じようにプログラムされた手順に従って、 正確なタイミングで系が動作することによって可能になるのであり、そこでのエラーはしばしば個体にとって致命的なものとなると いった事実であり、エントロピーの増大という時間の矢に抗して秩序が形成される「時の逆流」のプロセスとして、生物学的な発生の過程も、 情報論的な音楽作品の発生の過程も、同じように常に危険と隣り合わせなのだというようなことであった。あるいはまた、 原子炉の内部で起きているプロセスの制御についても同じことが言えるのかも知れない。社会の、文明の維持と発展についても 同じことが言えるのかも知れない。自分には制御できない力に曝され、それを受容しつつ、秩序を維持し、豊饒さと多様性を維持することは、 カオスの縁を辿る綱渡りに他ならず、それが生起し、維持される確率を計算すれば、或る種の人間原理を想定したくなる程の偶然に見えてくるような 軌道を、今こうしているうちにも我々は辿っているのだ、ということを思わずにはいられない。藤井さんの詩はギヤック族という、 既に消滅した架空の民族の詩という仮構に基づいて書かれているが、それはまさに一つの民族におきた個別の出来事ではなく、神話的な 普遍性を帯びたプロトタイプの如きものとしての「ひとのきえさり」を物語っているとも受け止められるし、種としての「ひとのきえさり」を 物語っているとも受け止められるだろう。

けれども私が「59049年カウンター」という作品の初演に立ち会った際に感じ取ったことは、作品に托されているであろう 鋭い批判意識や悲劇的な状況に対するプロテスト、やり場のない怒りにも関わらず、何よりもまず、複数の人間の自律的な同期によって 構築される時間の流れの、有機的な温もりのようなものであり、そこで立ち上がり、姿を時々刻々変えながら交響しつつ広がっていく、 様々な長さと音高と音色を持ったパルスの豊饒さであり、それは狭隘な私の知覚・認知のチャネルには到底納まりきらない複雑さを備えており、 私はそこに或る種の生命のようなものを感じずにはいられなかったのである。 一つ一つは単純で機械的に見える動作が、これまた決定的で単純なアルゴリズムに従って展開していくことが、多層に重なって 相互に同調しあうことで、かくも豊かな秩序を形成しうるのだという事実を目の当たりにして、私は単純に圧倒されてしまったのである。 そうした私にとっては、三輪さんのプログラムノートの記載のうち、とりわけても以下の部分が、作品として圧倒的な説得力を持って 実現されていることが最も印象的であった。

今では太陽系惑星の運行をコンピュータによって「算出」できるし、何千年後のその位置関係をシミュレートすることもたやすい事だろうが、 逆に、宇宙空間の物質の方こそがそれらの「情報」を算出している、つまり人間による演算と物理現象との間に本質的な違いなどはないと 考えてみるのはおかしな考えだろうか。人類とはこの宇宙が、素粒子の次元で、生命体レベルで、 そしてその名の通り宇宙的規模で「数えている」ことの意味を理解する奇跡的な存在である。 そのような人類の「直感」をぼくは古い伝統を持つ雅楽にも、また「リヒト」をはじめとするシュトックハウゼンの作品の多くにも感じるのだ。

ここでもまた、桁人が移動し、エネルギーが消費されることにより情報の伝達が行われ、それに随伴するかのように、あたかも(天球の音楽が惑星の運動の それであるのと同様に)副産物であるかのように音楽が紡ぎ出され、詞が朗詠される。 だが系が状態遷移の過程の遍歴を終えて初期の状態に戻り、動作が停止したとき、それまでに生じた 出来事の記憶はどこに行ってしまうのか?それは喪われてしまうのか?それは一方では「音楽が何の役に立つのか」という、 古くて新しい人生相渉論争の音楽版の、今日における問いかけであるが、他方ではゲノムのプログラムに従って生きて、老い、死んで いくことを運命づけられている運搬体としての生物の個体一つ一つの運命に対する問いかけでもあるだろう。更にはそれは生成し消滅していく 無数の民族の文化や文明のそれでもあるだろう。そうした問いかけの根底に、物理的な現実のプロセスも、音楽作品の演奏のような、現実に 場を持ちながら架空の世界を構築するプロセスも、等しく情報処理プロセスと見做すことができるという認識(それは例えば、デイヴィッド・ドイッチュや セス・ロイドといった研究者の認識と共鳴しあうものであると私には感じられる)が存在しているのであり、 そうした認識のもと、アルゴリズミック・コンポジションの持つポテンシャルがこれまでにないほど徹底的に追求されたのが 「59049年カウンター」という作品ではなかろうか。

その他、幾つか演出上の細部で気付いたこと、感じたことを記しておくことにしたい。

1.三輪作品においても「悪魔」が登場するが、シュトックハウゼン作品においてとは異なって、ここでの悪魔はプログラムに従って 動作する系の傍らに桁人移動シミュレータを持って座り、系がシミュレートした通りに作動しているかどうかを観察する役割を 果たしている。彼の役割は例えば能楽における後見のようなもので、桁人と同じチームに属し、桁人の演奏中におきる ハプニング、例えば小道具を落とすような出来事に対して対処する役割を課せられている。系の外にいて、複雑ではあっても 決定論的な系の挙動を知っているという点で、ラプラスの魔のようでもあり、系の動作が異常を起さないように観察していると いう点で、マクスウエルの魔を思わせなくもなく、神話的な原理の一つとしてのイメージから、熱力学的=情報論的世界観における それへと役割の移動が起きているのは、応答のあり方として興味深く感じられた。

2.シュトックハウゼン作品で用いられたカウントアップしていく暦年を表示するプロジェクタは、三輪作品の演奏中、 2011を指して止まったままであった。より正確に言えば、1の桁は1/5程上にずれた状態で止まっており、否応なく2011年の3月11日を 指して止まっていることに気付かざるを得ない。勿論これは、狭義では作品の外部における演出に過ぎないが、事前に公開されている プログラムノートを読めば、シュトックハウゼン作品のような歌手による科白の朗唱も、シアトリカルな物語も含まれないこの作品が、 際立って同時代的な問題意識によって提示されていることがわかるだろう。暦を数えることは、ここでも決して消し去ることの 出来ない過去の出来事を記録し、記憶することである。だがここでの時間意識は過去から始まって現時点に到達して終わるわけではない。 原子力発電所の災害への対策は、まさにこの作品の持つ有効桁数が溢れてしまう程遠い未来に対する配慮を必要としてしまっているのだから。

3.傍観者について。この作品において音楽的に音高と音色の次元を提供し、あるいは暦年の経巡りがあるエポックに達したことを 告知するのは13人の楽器奏者なのだが、彼らは「傍観者」と呼ばれている。「傍観者」もまた、最近の三輪さんの作品の幾つかに 横断的に出現しているコンセプトだが、音響的な実現の主体である筈の奏者を「傍観者」と呼ぶことに関して、私は震災直後に 同じサントリーホールで初演された「永遠の光、、、」において、ラジカセで再生された音響にあわせて演奏をする指揮者と 打楽器奏者を楽器をもったまま、舞台の上でまさに傍観することを強いられたオーケストラの奏者のことを思い浮かべすにいられない。 私が上で、音楽を桁人の運動の随伴事象、副作用といった書き方をしたのは、音楽を実現する奏者が「傍観者」と規定されていることを 意識してのことだが、シュトックハウゼン作品における音楽と舞踊や演劇的なパートとの関係と対比したとき、作品の構造における こうした布置関係とそれに対応した奏者の規定は、それ自体三輪作品の「応答」をなしているに違いないことに留意すべきだろう。 そしてこの規定の背後には、音楽が現実に対して果たしうる機能や役割の限界についての作曲者の率直な認識(それはたとえば、 「レクイエムなんか書けない」ということばに端的に表れているだろう)と、無力であることによって逆説的に現実に 寄与することができること、規則に従って虚構の世界を構築することがそのまま、自己再帰的な現実の豊かさの実現でありうる という信念の両方を物語るものであるように私には感じられる。この観点の射程は広大なものに違いないが、それを探求するためには 機会を改める必要があるだろう。


上記のようなことから「59049年カウンター」は、プロデューサーである木戸さんの期待に違わず、 「トランスフォーメイション」としても成功していたし、まさにシュトックハウゼンの「暦年」のコンセプトに対する「21世紀からの応答」に 相応しい作品であり、なおかつ三輪さんのこれまでの試みの集大成であるだけではなく、その可能性の豊かさを示した点で画期的であり、 三輪さんの作品中の頂点を為す作品であると感じられた。そしてこの作品の持つポテンシャルが、この日の初演の演奏によって充分に 解き放たれていたのは間違いなく、演奏者の方々をはじめとして、何よりも作曲者の三輪さん、まさにこの作品の産み親である木戸さん、 超絶的な技巧を秘めた素晴らしいテキストを編み出された藤井さん、そしてこの作品の制作と演奏の実演に関わった全ての方々に対して 御礼を申し上げて感想の結びとしたい。

(2014.8.31初稿, 9.1,2加筆修正, 2024.8.16 noteにて公開)

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