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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(32)
32.
ここで扱われるべきであったはずの、だがジッドが扱うことができなかった、あるいは意識的に、無意識に扱うことを拒絶した一連の巨大な問題系。 視覚の補綴器官としての触覚、指の問題。更には補綴のための道具としての杖の問題。楽譜と演奏。書物とその朗読(いずれも点字による 補綴が可能だが)。視覚のハンディキャップを利用(悪用)した情報統制、情報隠蔽。「鏡」という装置。鏡で自分の姿を見ること (牧師が、ジェルトリュードの「視線」を意識した折の日記の記述。だが、では以前には、ジェルトリュードの視線は気にならなかったのか、 それ以前に、アメリーをはじめとする他者の視線についてはどうなのか?自己意識、反省の欺瞞性。)そして眠り、夢。眠っている閉じた目が見る夢と、 視覚を持たないジェルトリュードの見る(?)幻。
元雅の能「弱法師」とその父の物語(父=牧師の側の盲目性の問題も含めて)およびその典拠たる信徳丸の伝説。更には「弱法師」における壮大な日想観と、 この作品における、田園交響曲と聖書のテキストに基づくジェルトリュードが語る架空の風景との対照。自然の光と超自然の、啓示の、 恩寵の光。こちらでは、だがジェルトリュードが祈る描写が排除されていることにも注目しよう。元雅の能もまた、本当の意味でのワキがいない。 (ワキの位置を父親が占めているのだが、その父は、ジェルトリュードであれば牧師その人であろう。) あるいはそれはアイの役割にずらされてしまい、従って、シテを回向し、弔い、あるいは救うことは構造的にできなくなっている。 「弱法師」は溺れ死ななかった、だが、開眼手術によって視覚を恢復することもまたなかったジェルトリュードが牧師の下を離れた、 いわば後日譚であると考えることはできないだろうか?あるいは琵琶法師の祖形である「蝉丸」、日向に落ちのび、平家語りをする芸能者と なった能の「景清」(ただし彼は中途失明者だが)と比べたらどうだろうか?オルガンは持って歩けないから、琵琶の替りにアコーディオンでも 持つことになったであろうか?更にはアコーディオンでは、声(音)を出すために「息を吹き込む」作業も自分でやらなくてはならない。 (かつての教会には、そのために雇われていた人間がいた。大オルガニストでもあったブルックナーの弟は、兄が演奏する楽器に空気を 送り込む勤めを永らく果たし、それに纏わるアネクドットが残っている。だが、今ならそれは電力が代替してしまうだろう。 生のオーケストラの演奏は、三輪眞弘の言う「録楽」で代替され、教会のパイプオルガンも電気仕掛けになるだろう。)