妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉
妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)
この言葉のみをこの手紙から抜き出すのは危険なことかも知れない。手紙というのは、極めて局所的で限定的な、だがその限りでは大変に明確な 目的を持って書かれることがあって(いや、正確には、普通はそういうものか、、、)、従って、こういう言葉を取り出してきて、そうした手紙の意図を 抜きにして云々することは、原理的に言って、全く見当違いの結論にすら結びつきかねない。
だが、かつてこの本を繰り返し繰り返し読んでいた頃の私にとって、この言葉は衝撃的な力を持つものであった。そして、実際にはその力は今の 私にとってもやはり大きなものであり続けている。歳をとって、多少は受け止め方も変わってきてはいるけれど。
それにしても、この言葉は、本気で―つまり「方便」としてでなく―言われているのだろうか?
実は、この手紙の前の方で、こうした「作品」についての考え方をアルマはすでに良く知っていると 思う、というくだりがあって、だとしたら、やはりこれは、少なくともその当時のマーラーの考え方だったのだ、とするのが適当なのかも知れない。 私のような、自分では何も生み出せない人間が言うのであれば、別にどうということもない―負け惜しみくらいに取られるのが落ちだろう―が、 言っているのがマーラーであれば、話は別ではないだろうか。あるいは寧ろ、天才であればこそ、こうしたことが言えるのだろうか。
もう一つの可能性がある。つまりマーラーは第2交響曲や第8交響曲を支えている「不滅性」についての考え方を、比喩としてではなく、「文字通り」 信じている、という可能性が。それならば、それに比べれば「作品」が取るに足らないというのも、きっと筋が通っているのであろう。 だが、現実にはこの時期のマーラーは、大地の歌から第9交響曲へと歩みを進めていた筈なのである。
あるいはまた、ここで言っている「作品」は、それを出発点として、作者の「精神」へと辿ることができる媒体といったほどの意味合いで使われている のかも知れない。作品を産み出す精神の働きの方が尊いのだ、というのであれば、これは納得がいく。だが、よく読むとそれは少し都合の良すぎる 読み方ではなかろうか。マーラーは「われわれの肉体」と「作品」とを対比しているのだ。するとやはり、最初に書いた通り、結局この手紙が書かれた ごくローカルな「意図」に立ち返るべきなのか、、、
いずれにしても、この言葉は私にとって「躓きの石」であり、今後も、この言葉を巡ってあれこれ考え続けることになりそうである。
だが、作品が抜け殻に過ぎないということばを理解するための手がかりとして、一つだけ、ある情報の「深さ」に関する近年の考え方に目くばせしておくことにしよう。それはマーラーの同時代から始まった(例えばポワンカレやマクスウェルを思い浮かべて頂きたい)複雑性や情報についてのアプローチが大きな進展を示し、深化を続けている21世紀に生きる者が拾い上げた壜の中味を解読するための重要な手がかりの一つなのではないかと思えるからである。
ある作品の持つ「深さ」はどのようにして測る事ができるのか。伝記主義的な実証はそれが生み出された背景をなす 環境を指し示しはするが、作品を、作品から受け取ることができるものを何ら明らかにしない一方で、形式的な分析もまた、 それ自体「痕跡」であるメッセージの、情報伝達の形態のみを問題にし、ノーレットランダーシュが『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』(柴田裕之訳, 紀伊国屋書店, 2002)で述べるところのexformation、 メッセージが生み出される際に処分され、捨てられた情報(更にはベネットの「論理深度」とか、 セス・ロイドの「熱力学深度としての複雑性」もまた思い浮かべていただきたい)を扱うことができない。 勿論、形態の美しさ自体が、その深さと密接に関係するということもあるだろう。マクスウェル方程式にたいしてボルツマンが 発したことば、ゲーテのファウストの引用、更にはマクスウェル自身の言葉「私自身と呼ばれているものによって成されたことは、 私の中の私自身よりも大いなる何者かによって成されたような気がする」ということばを思い浮かべるべきだろう。そしてまた、マーラー自身もまた、それに類する発言をしていること、「…が私に語ること」により作品を創り上げたことを思い起こすべきであろう。 そのとき差出人たる幽霊とは一体何者だろうか。ダイモーンの声、ジュリアン・ジェインズの二院制の心の「別の部屋」からの声。 情報を捨てるプロセスそのものを事後的に物象化したものを幽霊と呼んでいるのだろうか。「抜け殻」としての作品。 そして捨てられた情報の大きさは、受け取るものがそこから引き出すことができる情報の豊かさに対応しているに違いない。
人の一生を超える時間の隔たりと、地球を半周の場所の隔たりを乗り越えて、 だが、実際にはそうした距離の測定を無効にする印刷技術が可能にした記譜法のシステムと 録音・再生のテクノロジーに支えられて、ふとした偶然によって耳にすることによって、マーラーの音楽を私は拾いあげ、それらに耳を澄ませる。それらは事後的に差出人を指示するが、それは常に痕跡としてでしかない。 私の裡にこだまするのは常に既に幽霊の声なのだし、作品は「抜け殻」に過ぎないのではなかろうか?
かくして21世紀に生きる私は、マーラーの言葉を、上述のような情報についての考え方に照らして了解すべきなのではないか。そして更にこの考え方は、意識は「抑制」であり、「引き算」で引く部分にあたる(津田一郎、松岡正剛『科学と生命と言語の秘密』, 文春新書, 2023, p.287)という考え方を接続することが可能ではなかろうか。かくして一見したところ謎めいたマーラーの言葉は、「意識の音楽」たるマーラーの音楽の秘密に迫るための鍵であるようにも思えてくるのである。
(2007.5.17, 2024.11.25 加筆更新して noteにて公開, 12.5 加筆更新)