第36回二代目竹本朝重リサイタル(2003.11.1)
11/1、銀座のガスホールに第36回二代目竹本朝重リサイタルを聴きに出かけた。
お目当ては、朝重さん・友路さんの「御殿」である。今年は当日が土曜日にあたって いたせいか、昨年以上の入りであったような印象がある。開場してまもなくの入場にも 関わらず、客席はすでにほぼ満席で、席を探すのに苦労したほどだった。
リサイタルの前半は小泉八雲の「鈴の墓」の朗読。昨年の「耳無し芳一」の話とは 異なり、全く知らない、初めて耳にする話だった。
率直に言えば、「耳無し芳一」などと比べたときに、まず物語そのものが説得力を ひどく欠いていて、朝重さんの語りの巧みさに最後まで聴き通しはしたものの、 純粋に朝重さんの話芸を楽しむことに終始したように思える。
小道具の鈴が導入される過程も含め、最初の状況設定がいかにもとってつけたようだし、 クライマックスでの二人の見張りの物語上の機能も不明瞭に思え、何より怪談特有の 頂点が過ぎたあとの終結の部分のトポスの定位が曖昧で、話全体が「作られた」感じが して楽しめない。不勉強で、この話がどの程度ハーンの創作で、原型が存在するか、 もしあったとして、その成立時期がいつか、そしてハーンはそれをどのように 変えたのかなどは知らないのだが、いずれにせよ普段親しんでいる物語の世界とは 異質でうまくなじむことができなかった。
「音の演出」として「鈴の音」の効果音が使われたのは、まあ自然な発想だとは思うが、 個人的には不要に思える。朝重さんの語りで充分、鈴の音は「聞こえる」。 そもそも、鈴の音が響くのは、怪異に立ち会うひとの意識の裡なのだから、現実に 響く必要はないのではなかろうか。
後半の「御殿」は、文楽の公演で1回だけ観たことがあるのだが、その時の印象では この作品が片外し物の頂点と呼ばれる由縁がどこにあるのか、今ひとつよく わからない、寧ろ江戸系の浄瑠璃にありそうな図式的で単純な人物の造形が強く 感じられてあまり感心しなかった。あまり本が良くないのではなかろうか、という ように思っていたのである。
しかしこちらに関しては、今回の朝重さん、友路さんの演奏で、認識を改めざるを 得なかった。
朝重さんならではの緊密な構成感と巧みな設計で、場合によっては 長いと感じられるかもしれないご飯が炊けるまでの時間があっという間に過ぎる。 文楽では、大夫の造形と人形がしばしば乖離してしまい、そうではないと頭では 理解しているつもりでも、単にご飯ができるのを待ちきれない我儘な子供の甘えに 対して、政岡は政岡で、懲らしめの気持ちもこめてか、「じらして」いるような 錯覚すら覚えたのだが、そうした印象が全くの間違いで、この三人が措かれている 状況が極限的なものであり、しかもその状況は今始まったものではなく、われわれは そのほんの一断面(実際にはそのほとんど終わりに近い部分)に立ち会っているのだ ということ、そして、二人は今のこの時間だけでなく、これまでもずっと、自分達の 措かれた状況、政岡の立場を自分なりに理解して、気丈なところを見せてきた聡明な 若者たちなのだし、政岡にとってもご飯が炊けるまでの時間の質は、単にご飯が 炊けるのを待つのとは全く異なるものであることがはっきりと感じられたのである。
そして、そうした極限状況における三人の心情の通い合いは、友路さんの 三味線によって、曖昧さのないかたちではっきりと提示される。政岡の、最初には うわべの態度やことばと押さえ込んだ心情との二重性が、とうとうあの泣き笑いと して、そのまま表面に出てしまうその過程の凄みが、ありありと感じ取られるのだ。 頂点の泣き笑いのところでは、政岡の姿をそこに見たようにすら感じられた。 その泣き笑いを見て、その意味をやはり理解してしまう二人の表情もまた。
細部については、うまく語ることができそうにないし、また、その必要もないだろう。 今回の演奏を聴く前とは違って、聴き終えてみると、物語に詰め込まれている 心理の襞の細かさと深さに、こちらの能力と容量が追いつけず、うまく印象を定着 できないように感じられるのだ。この作品が片外し物の頂点であるというのも、今なら 納得がいく。確かに政岡を演じるのは、人形にせよ、人間がやるにせよ、至難なこと、 それゆえ人形遣いの方にとっては、やりがいのある役なのだろう。いずれもう一度、 文楽の舞台でこれを観てみたいと思う。そのときにはもう少し良く、理解ができる のではないかと思っている。
(2003.11.8 公開, 2024.12.29 noteにて公開)