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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』を読む

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ジッド『狭き門』の読解。原題「日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ」, 2013.9.15 Web公開, 2014.6.28 blogで…
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#日記

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ (26(了)・文献リスト)

26. もう一度冒頭の問いに戻ろう。文体を放棄し、自己を放棄したアリサが古典的と形容される精緻な文体によって描き出されるのは、矛盾ではないのか? アリサの或る種の自己破壊衝動には注目せずにはいられない。それは書き手のジッド自身の衝動とは相反するものである筈だから。例えば以下のアリサの日記の一部に 記された衝動が、押しとどめられることなく、そのまま実行されたなら、そもそも「アリサの日記」はなかったことになる。だが、「アリサの日記」が無ければジェロームは この文章を書いただろ

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(7)

7. 「狭き門」が何故、例外的な「成功」となったのか?ここでいう成功は、いわゆる作品としての出来といった側面からの評価を伴う。 ジッドの時代が過ぎ、時代遅れの過去の作家となり、ジッドの他の作品が(おそらく「田園交響楽」を例外として)ほぼ読まれなくなったとき、 だが、「狭き門」のみが生き延びるとしたら、「法王庁の抜け穴」や「贋金づくり」を評価し、あるいは「背徳者」「地の糧」を評価する側からすれば、 それはあまりに一面的な、歪んだ受容ということになるだろう。だが、この受容の歪み

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(1)

1. (…) ジッドの狭き門。多分読み方はかつてとは異なっている。こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる(「神ならぬ者は、、、」)。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み (これはその場を取り繕ったことばではない、 と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに築