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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(1)

1.

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ジッドの狭き門。多分読み方はかつてとは異なっている。こうして他が何も残らない、廃墟のような状態だとよくわかる(「神ならぬ者は、、、」)。 そして、アリサの心持ちに多分に曲解に近い共感を覚える。「私は年老いたのだ。」というアリサのことばの重み (これはその場を取り繕ったことばではない、 と今では思える)があまりに直裁に胸をつく。書棚を整理し、キリストにならいてを読む、という心情にも、ずっと身近なものを感じる。 書棚を、CDを、楽譜を処分して、一旦自分の周りに築き上げた世界を崩して、その価値を自明のものとは見做さない姿勢をとること。 アリサがパスカルの偉大さに対して感じる苛立ちが、今の私には我がことのように思えてならない。例えばマーラーの音楽の偉大さは、 その壮大な身振りは、まさにパスカルのそれにアリサが苛立ったように、今や私を苛立たせるのだ。ジッドは狭き門において、 アリサのような生き方に対する批判を試みたと言っているらしいが、もしかしたら、ジッドが恐れたのは、それが芸術の、 彼が他の全てを犠牲にした文体の放棄に繋がるからではなかったか。文体を放棄し、自己を放棄したアリサが古典的と 形容される精緻な文体によって描き出されるのは、矛盾ではないのか?

ジャック・リヴィエールがこの作品をジッドの制御を受けることの最も少なかったものであると評したようだが、 これは全く正しいようだ。ここにはジッドの自意識の醜悪さ、自尊心の病はない。ジッドはそこから解き放たれることを望んだ当の領域の中でこそ、 もっとも自由であるようにすら見えてくる。私がジッドの他の作品を読めない理由は、恐らくそこにある。ジッドはこの作品を書かずにはいられなかっただろう。 だが、この作品を書いてしまえば、後は自意識の楼閣を、様々な意匠を借りて築いては壊すことを繰り返す他ない。行き止まりに見えたものが実は 通路であって、自由な空間に見えたものが、実は堂々巡りに過ぎなかったのだ。それは10年後の「田園交響楽」に明確に現れている。彼はそこで どこにもいけず、「背徳者」の砂漠を彷徨うしかないことを認めている。しばしば「狭き門」は「背徳者」のネガであると言われるが、ここではベクトルの向きの 逆転は決定的だ。他者を犠牲にすることと、自らが犠牲になることは全く異なることを忘れてはならない。

「狭き門」はジッドのいわば特異点だ。だが後世の読み手は、その「特異点」のみに 注目して、そこからどこに辿り着けるかを問うことができるし、100年後にジッドのその後も含めた20世紀の不毛がいよいよ明らかになったかに見えるだけに、 もう一度そこから出発してみるべきなのではないか。


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